(仮)耽奇館主人の日記
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2005年12月16日(金) |
ナジャの思い出のこと。 |
私が可愛がってる少年少女たちの中の、魔女ヴィイという一番(色々な意味で)特殊な女の子が、アンドレ・ブルトンの「ナジャ」を読み始めたと報告してきた。 その前は、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を読了しているそうなのだが、あの熱っぽい恋愛ものの次に、「ナジャ」というのには、正直、ミスマッチというか、それ以上のシュールさを感じてしまった。 だが、オスカー・ワイルドが言うように、本とは運命的な出会いで読み進めるものだから、彼女にとって、キャシーの次にナジャが現れるのも、運命的なのだろう。 私が「ナジャ」を読んだのは、中学二年の冬だったと記憶している。 確か、ほとんど一人でやっていた、美術部の中で、ダリから興味を持ったシュルレアリスムを独学で勉強していた一環で、ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んだ次だった。 当時の私のブルトンに対する印象は、はっきり言って、過激な、暴力沙汰も辞さない政治家かぶれという感じで、それは今もあまり変わらないが、小説だけはほんとうに「詩的な美しさ」に満ちていたので、彼の二面性、多面性にひどく混乱させられたものだ。 何しろ、「シュルレアリスム宣言」に引用されたエピソードによると、批判的な出版社か何かを仲間とともに襲い、殴り合いを展開したとあるし、そもそもブルトンが、ダリやアルトーとうまくいかなかったのは、政治的にも力をつけようとした「親分肌」なところがあったからだと想像に難くない逸話でてんこ盛りである。 そんなブルトンが唯一の純粋な魂で書き上げたと思しき「ナジャ」。 当時の家庭教師は、哲学に詳しい人で、ニーチェとか難しいぞーと連呼していたのだが、「ナジャ」に触れると、難しいなんてもんじゃない、オレにはさっぱりわけがわからんと言って口をつぐんでいた。 このように、何でもかんでも、難しい、わけがわからんと言うような人は、所詮、ほんとうに読んだとはいえないと私は思っている。 先入観念を抱いたままでは、著者その人個人の内部風景を追体験出来るわけがないからだ。 「ナジャ」は、まさしく、追体験する小説である。 連続するイメージ、エピソード、ランドスケープ、自己幻像などなどを、自分自身も「体験」する。 そのためには、先入観念も含めた自己というものを、きれいさっぱり忘れてしまう必要がある。 私は幸い、お寺で座禅をやっていたので、無我の境地で読むと著者の霊魂が体内に宿って、様々な事柄を教えてくれるという風に「分かっていた」。
・・・・・・
今。 私自身の人生で「追体験」されたナジャを思い出す度に、私はブルトンが目の当たりにしたであろう、パリの街を思い浮かべる。 残っている当時のパリの写真はどれも色あせているが、ブルトンの頭の中では、すでに当時のパリは色あせていたのだ。 輝くほどに美しい色を放っているもの、それがブルトンの中のナジャだった。 そういう意味で、小説としての「ナジャ」は、自己確立に未熟な少年少女には道標として、いい読み物になるはずだ。 昔も今も、自己というものを見つめて、現実を忘れてしまうほどに、自己と向き合っていると、現実はほんとうに色あせ、代わりに自己の内側から生まれ出たものが、眩しいくらいに輝くのだ。 輝けば輝くほど、それはもはや現実でしかなくなる。 そこから、自己を再構築していけば、少なくとも、人生に謎がまたひとつ増えるだろう。 それでいいのだ。 謎めいてこそ、人生は美しいのだから。 今日はここまで。
「そこにいるのは誰だ。ナジャ、君なのか?彼岸が、彼岸の全てが、この人生の中にあるというのは本当なのか?私には君の言うことが聞こえない。そこにいるのは誰だ。私一人しかいないのか?それはつまり、私自身なのだろうか?」
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