(仮)耽奇館主人の日記
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2005年12月12日(月) 生きながら、死を想え。

檀家の子供たち、若い男の子、女の子たちの話を聞いていると、「霊感がある」と告白する手は、コミュニケーションを取るいい手なのだそうだ。
例えば。
男の子が女の子に、「オレって霊感あるんだぜ」と囁くとか。
女の子が男の子に、「あたしには天使がついてんのよ」とのたまうとか。
私は低く笑って、ほんとうに、霊感がある人ってのはな、他人に自慢しない人なんだ。または、出来ない人でもあると言った。
「何故ならばだ、マジに霊感なんてもんがあってみろ、人生は果たしてバラ色に輝くと思うか?見えなくていいものが見えてしまうことの辛さを想像してみろよ」
「じゃあ、テレビに出てくる霊能者とかはみんな偽物なの?」
「そう、偽物だね。大体、テレビの放送コードに引っかからない程度の霊能者を用意する時点で、本物を呼ぶわけねえんだ」
「本物って、そんなに危ないの?」
「危険さ。まず、その人個人の人生は地獄なんだからな。オレは不幸にもそういう人を小さい頃から見て育ったからね」
ここで。
私自身の見てきた霊能者について語るのは野暮なので、フィクションを例に取り上げよう。
九十年代に流行った、「Xファイルシリーズ」のサードシーズンの中の、「休息」という話がそれである。
これは、死を予知する霊能者クライド・ブルックマンが自らの死を予知して、モルダーやスカリーに捜査の協力をしながら、死に近づいていくという内容なのだが、見ていて、ほんとうにブルックマンが気の毒で涙を流したくらいだ。
特に、同じ夢を見るというくだりが強烈だった。
チューリップ畑の中で、徐々に腐って、骨だけになり、土に還るという・・・。
望んでもいない「力」が備わってしまったことは、それだけで大いなる悲劇なのである。
鋭敏な感覚として、芸術にも仕事にも昇華しようがないなら、なおさら悲劇だ。
自分自身の呪われた「力」と一生向き合うことの地獄。
そんなことは、とてもじゃないが、恥ずかしくって他人には言えやしない。
それゆえに、私はその人にこう言われたことがある。

「あんたはいいね、補聴器をつければ聴こえるんだから。あたしはどうやったって、人並みになれないんだ」

・・・・・・

確かに、「霊感」は、時と場合によっては、羨むべき能力かもしれない。
人の役に立ったり、自分の役に立ったりする能力なら、なおさらだろう。
だが、私が見た限りでは、本物の霊能力とは、実際なんの役にも立っていなかった。
まるで・・・
自然の災害のようだった。そう、落雷のような。
人を怯えさせ、自分をも怯えさせる。
その中で、死ぬべき時に死ぬまで、ずっと生き続ける。
そういう人も確かにどこかで生きて、かつて、私の傍に生きていたのだ。
そんなわけで、私は霊能力がないことを心の底から感謝し、耳が聴こえない代わりに、残りの感覚が鋭くなったという人並みの発達を心から喜ぶ。
で、むやみに、気軽に、「霊感」を口にする輩を、心の奥底からあざ笑い、嫌悪する。
今日はここまで。










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