(仮)耽奇館主人の日記
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広島の幼女殺害、死体遺棄事件の犯人が捕まったと思いきや、間を置かずに、今度は栃木の事件である。 師走になると、この類いの事件に心を曇らせるのが、まるでクリスマスに次ぐイベントになったかのようだ。 私も少女、幼女を家族に持つ身として、ほんとうに他人事ではない。 会社やお寺、自宅にて、人と顔を合わす度に、広島の事件の犯人の言う、「悪魔」との闘い方について語り合っているのだが、私の意見は一貫して、自分の身は自分で守ること、幼い子供は絶対に一人で行動させないことの二つである。 しかし、誰にも言わない、言えない、悪魔との闘い方がある。 それは、自分自身の悪魔の声にも、時々助言をもらうことなのだ。 極論、暴論ではあるのだが、誰にでも幼女殺害、もしくはそれに匹敵する鬼畜な行為を思い浮かべる瞬間があるはずである。想像力というものがある限り、それは別に非難することではない。ただ、そんな自分自身を、当然認めないはずで、そんな瞬間はなかったことにしてしまうのが常であろう。 気持ちは分かる。 しかし、今の世の中、そんな悠長なことは言ってられない。 自分自身の中の「悪魔」を認めてしまわなければ、「悪魔」との闘いが出来ないのだ。 私は、先人たちを思う。 先人たちはなんと、「悪魔」との闘い方に長けていたことか。 例えば、サド侯爵。彼は一連の暗黒文学を物にすることで、人間性の秘密を追求した。 サドに続く、いわゆる人間の暗黒性やエロスについてこだわり続けた人たちもそうである。 「悪魔」、即ち、人間の衝動性を前にして、脆くも崩れてしまう、一般人たちの中で、果敢として立ち向かい、自己を乗り越えてきた人たち。 私はそういう人たちに親しんできたおかげで、私自身の「悪魔」を自由自在にコントロールして、創作に活かしているのだが、私の「悪魔」は断言する。 ああいう事件を起こす病んだ人間のすべては、きれいなものばかり見て育ったせいもあるかもしれないが、自らの衝動にあっさり負けてしまう点で、最初から闘いを放棄した、文字通り、「悪魔」に魂を売り渡した輩だ。
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人間は最初から強いわけではない。 私もあなたも、誰もが、弱いのだ。 それゆえに、誰もが、「悪魔」の囁きを一度は耳にする。 しかし、その囁きに乗らない自己を鍛え続けることで、人間は強くなれるはずなのだ。 そして、私の闘い方は、自らの「悪魔」をも戦力にしてしまうほど、視野を広くすることである。 そうすれば・・・ 少なくとも、自分が幼女を連れ去るには好都合と思う場所に、家族を行かせない。 さらに、他人の中の「悪魔」に敏感になれる。
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全く嫌な世の中になったものだ。
今日はここまで。
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