(仮)耽奇館主人の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年06月03日(金) サイドストーリー「富江・復活」(抄)

★ホラーファンなら当然ご存知のことと思いますが、知らない方々のために。「富江」シリーズは、漫画家伊藤潤二の手による連作です。朝日ソノラマから発行されているので、是非一読を。映画も連作を重ねていて、様々な美少女が富江役をこなしていますが、個人的には宝生舞が好みかな。


 その日も雨が降っていた。渦巻く黒々とした天空から篠突く雨は、黒光りするアスファルト道路を洗い流し、郊外の街からの塵埃をいたるところに寄せ集め、染み込ませ、泥濘の中に呑み込ませていた。街灯の光の中を、雨がカーテンのように流れているところへ、少女は現れた。彼女は傘をさしていなかった。濡れるままに幽玄とした足取りで歩いていた。濡れそぼった白いシャツとジーパンの中からは、黒々と濡れながら滴を垂らす黒い髪、切れ長で吊り上がりぎみだが透き通るような瞳、左の目尻にポツンと浮き出た小さなほくろ、すらりとした鼻、小さく咲いてはいるが笑ったりすると大きく咲きそうな唇、そして白く結晶化したような肌が見えていた。靴底のゴムが割れ、歩く度に水棲動物の呼吸のような音をたてている。その音が雨音に溶けていく中で、少女は顔を上げた。彼女の目の前には、煉瓦造りの門があり、鉄製の門扉の向こうには、巨大な中世風の城館が雨の中で黒々と聳え建っていた。門柱に埋め込まれた真鍮製の表札には「雛田」とあった。少女は無表情のまま、扉の格子を掴み、ゆっくりと押し開いていった。

 ねえ、この世で一番つらいことって何だか知ってる?

 何年も掃除していない水槽のように暗く沈んだ庭園だった。闇の中でも荒れ果てているのが分かり、影のいたるところから蔓が寄生虫のように虚空へ這いうねっていた。足元で何かが蠢く気配がするので、目を凝らして見ると、雨におびき出されたミミズの群れだった。その中を進んでいくと、唐突に目の端を何かが横切っていった。色はミミズに似てはいたが、大きさは人間くらいだった。しばらく立ち止まっていると、その何かの気配はひとつだけではなく、庭園のあちこちでミミズと同じくのろのろした単調さで這いうねっているのが感じられた。そのくせ、まともに姿を見てやろうとすると、信じがたい敏捷さで視界から消え失せるのだった。少女は溜息をつき、玄関まで歩いていった。

 鏡を見ることかしら、自分自身の現実を直視すること?

 鳴らした呼び出しベルに応えて、分厚いオーク材のドアを開けて少女を迎えたのは、ゴム製のフランケンシュタインのマスクを頭から被った少女だった。紫と黒のボーダーセーターにあちこち擦り切れたジーパンを身につけている。
 「何の御用?」
 その人を見下したような横柄な口調に、少女は思わず微笑んだ。
 「雛田さんに会わせて頂けませんか」
 「あんた誰よ?」
 そこで、少女は沈む直前の夕陽のように目を暗く輝かせた。
 「富江・・・トミエといいます」
 マスクの上からでは分からなかったが、相手は明らかに嫌悪の表情を示していた。
 「取り次ぐからここで待ってて」
 そのまま、マスクの少女は奥へ消えていった。

 あたしはあたし以外には興味はない。あたしはあたし自身が一番好き。例え、バラバラになっても。しかも、それらがそれぞれ分裂して増殖しても。

 しばらくして、マスクの少女に導かれるままに通されたのは、食堂だった。実にびっくりするほど広大な食堂で、五十人は座れる長いテーブルが延び、その奥にはヒエロニムス・ボスの三連画「地上の楽園」、「快楽の園」、「音楽地獄」が、マントルピースの上から見下ろすようにして飾りつけられていた。上は吹き抜けになっていて、二階の回廊が壁沿いに一周していた。壁にはひとつも窓がなかったが、天井の中央にステントグラスで装飾された円い明かり取り窓が据えつけられてあった。
 「ようこそ、当家へ」
 マントルピースの方から声がしたので、そちらへ顔を向けると、テーブルの奥に中世風の派手なドレスに身を包んだ少女が座っていた。髪型も派手に結ってはいるが、その顔は対面している少女と全く同じだった。
 「私が雛田富江です、もう一人の富江さん。お座りなさい、ちょうどいいところへいらしたわね、これから食事よ」
 少女はマスクの少女が引き出してくれた椅子に吸い込まれるようにして座った。
 「トミー、もういいわ。あっちへお行き」
 マスクの少女は一瞬身体を痙攣的に震わせたが、そのまま食堂から消えていった。そんな様子に城館の主人は低い笑い声をあげた。
 「やっかいな子でねえ、あたしたちと同じ富江のくせして、あんな格好して趣味の悪いゴムマスク被って、おまけに自分のことトミーって呼ばせるのよ」
 少女は何も言わなかった。
 やがて食事が運ばれてきた。メイド姿の富江が六人、それぞれワゴンを押してきて、主人と少女に給仕していった。皿の上から銀製の覆いが取られていくと、そこからは色とりどりのご馳走が現れた。パテ、サラダ、キャビア、フォアグラ、鶏肉のフリアンティーヌ、ロブスターの煮込み、ソースのかかったおつゆたっぷりのローストビーフ、湯気がゆらめくオニオンスープ・・・そしてグラスに注がれる血のように真っ赤なワイン。
 「あたしたちの健康に乾杯」
 グラスを上げて主人が微笑む。少女はゆっくりとした動作で主人に返礼した。食事が始まった。

 でも、何かがおかしくなるとあたしはあたしたちを憎む。あたしはとどのつまりあたしだけ。もう二度と苦しい思いはしたくない。

 「あなた、どこで成長したの?」
 食事の途中でワインを飲みながら主人が聞いてきた。
 ここで、初めて、少女ははっきりした声で即答した。
 「あたしは成長したんじゃないわ。人並みに育ったのよ」
 しばらくの間沈黙が続いた・・・突然、主人がけたたましく笑い出した。
 「分かったわ、そう思いたいのね。失礼、成長なんて言い方をして悪かったわ。じゃあ、どこの国の生まれ?」
 「稲荷山って知ってる?あそこの出身よ」
 「あたしたちが初めてバラバラにされたところね」
 「そう、全ての始まりの、記念すべきところ」
 「何回、何十回、何百回、何千回と分裂しても、あれだけははっきりと覚えているわ」
 「みんなに寄ってたかって生きたまま解体されたのよね。痛さなんて感じなかったのも覚えている?」
 「よく覚えているわ、よおくね・・・」
 食事が終わった。
 メイドたちが食器を片付けていくと、主人の身体がふらりと動き、滑るような足取りで少女のところへ歩いてきた。
 「見せたいものがあるの。ついてきて」
 ホールに出て、階段の前に回ると、踊り場のところにトミーが立っていた。いつ見ても、不気味なゴムマスクにしなやかな少女の身体がくっついているのは気持ちのいい眺めではない。しかも、散弾銃を持っている。
 「トミー、何のつもり?」
 「外に誰かがいるわ」
 主人は少女を振り返り、肩をすくめてみせた。
 「あなた、お連れでも?」
 少女はかぶりを横に振ってみせた。
 「外を見てみたの?少なくともまたあたしたちってことはないわよね」
 「窓からちらっと。背の高い男よ。びしょ濡れのコートを羽織ってて。ものすごく汚かったわ」
 その瞬間、玄関のドアが激しく叩かれた。オーク材に直接骨が打ちつけられるような音だった。
 「花子、開けておくれ、お父さんだよ。花子、花子、花子」
 その声を打ち消そうとするかのように、主人が甲高く長い悲鳴をあげた。
 「違う。違う。あたしは花子じゃない。そんなダサい名前じゃない。あたしは富江、大富豪の令嬢、雛田富江よ」
 主人はトミーの方を振り返り、ヒステリックに喚き立てた。
 「トミー、撃ちなさい!ドアごと撃ち抜いておしまい!」
 トミーは散弾銃を構えると、二発、続けざまにドアの中央に撃ち込んだ。ホール中を金属的な大音響が駆け巡り、わんわんと静まっていくと、無残に破壊されたドアの陰から男の身体が転げ落ちてきた。べったり濡れたボサボサ頭、顔中が濃い髭に覆われた大男だった。ただ、骨と皮ばかりになって痩せ衰えている。腹をまともに撃たれたらしく、粘液じみた血とともに内臓をこぼし続けていた。苦しそうな呻き声をあげながら、大男はゆっくりと立ち上がった。
 「高木先生・・・」
 どの富江が言ったのか分からなかったが、彼女たちの間から大男の名前が呼ばれた。大男はしばらく富江たちを眺めていたが、ニヤリと笑って、主人に向かってまっすぐ人差し指を突きつけた。
 「ひどいことをするじゃないか、富江。だが、おまえの運命も今夜限りだ。何故ならおまえの研究はひどい失敗に終わったのだからな」
 どこかで雷が鳴った。
 閃光がきらめくように、奥から数人のメイド姿の富江たちが現れ、一人が手に持った斧を大男に向かってまともに叩きつけた。崩折れるようにして倒れるところを、それぞれがあちこち鷲掴みにして、折り曲げ、ねじり、ひじき、バラバラに引き裂いてしまった。引きちぎられた生首がゴロゴロと少女の足元へ転がり、大男の視線がまともに少女を見据えた。少女はただ無表情に見返すだけだった。そこで、大男はみだらなウインクをしてみせた。
 「さてと、とんだ茶番だったわね。お客さん、こっちよ」
 ぷいと振り返って怪談を上がっていく主人の後についていく前に、少女はもう一度大男を見た。バラバラになった肉片と生首はきれいに片付けられているところで、三人の富江がすでにモップで床の血を拭い取っていた。それから、トミーの方を見ると、彼女は立ちつくしたままだった。マスクの上からでは分からなかったが、泣いているようだった。
 二階に上がり、案内されるままに入ったのは書斎だった。見上げるような本棚の列をいくつも通り抜け、広いところへ出ると、そこは回りを本棚に囲まれてはいるが、ちょっとした応接間になっていた。豪華な敷物の上に溶けかかったようなガラステーブルがあり、それを挟むようにして一人掛けアームチェアとソファが向かい合っていた。側にはぼやけた輝きを放つスタンドライトがひっそりと立っていた。
 アームチェアに主人が身体を沈めると、少女にあなたも座ってと目で促した。少女はテーブルの上にあるものを見つめたまま、ソファに腰を下ろした。そこには首が置かれてあった。剥製処置が施されているのか、形は崩れていなかったが、目と皮膚の色には生気がなかった。顔は二人と同じ富江のものだった。
 「目は大理石を入れてあるのよ。なかなかいいでしょう?」
 「これは・・・何なの?作り物?」
 「作り物じゃないわよ。分かってるくせに。富江の一人よ」
 「一体・・・何で再生しないの?」
 「あたしがそういう風にしたからよ。あたしが研究して、開発した細胞還元剤でね」
 「研究・・・あんたは分裂と増殖を止めたいのね?」
 「あんたは違うの?」
 少女は答えなかった。
 「まあいいわ。少なくとも、あたしにとって富江は一人で十分。考えてもごらん、自分自身がそこら中にうようよいるなんて、まともなら耐えられないなんてものじゃなくてよ」

・・・・・・

この後は、今秋開館予定のホームページにてお楽しみ下さい。


犬神博士 |MAILHomePage

My追加