(仮)耽奇館主人の日記
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2005年06月02日(木) |
オリジナル小説「ノツゴ」 |
そこに漂っていると、向こうの山道から一人の女がやってくるのが見えた。何か白いものを抱えている。よく見なくてもそれが何なのか分かっていた。白い布でくるまれた赤ん坊なのだ。女はこちらに近づくと、赤ん坊を布にくるんだまま投げ捨て、そこへ枯葉の混じった土くれをかけた。土中の暗闇で、赤ん坊は身をよじって呼吸しようとする。一瞬、かすかに泣き声をあげたが、すぐに口の中に土が入って静かになる。 こんな具合の夢を、わたしは幼少より幾度となく繰り返して見続けている。小さい時は怖くて泣いて両親に訴えたが、両親は笑うばかりだった。一時、赤ん坊がわたしで、埋められた時の記憶を夢に見ているのだと思ったが、それだと、両親とともに写真記録つきの健全な生活を送っている現状に対して、少しもありえることではなかった。それでは、過去にどこかであったことを何かの霊感で感じ取って、夢に見ているのだろうか?また、何かの話みたいに、将来わたしに起こることを予知夢として見ているのだろうか?それにしても、一回や二回ならまだしも、一体どうしてこんな気持ちのよくない夢を幾度にも渡って見続けてしまうのだろう? そういえば、思い出したが、わたしに初潮が来て間もない頃、とても気味の悪いことがあった。夏休みを利用して、四国の山奥にある母方の田舎へ遊びに行って、祖父と山歩きをしていた時のことだった。突然、どうしたわけか足がもつれるか萎えてしまって、歩けなくなってしまったのだ。祖父は何ともなかったが、わたし以上に狼狽していて、おまけに言い知れぬ恐怖を感じているらしく顔をひどく歪めていた。その時、苦しそうに呟いたことは今でもハッキリと思い出せる。「ノツゴじゃ」・・・ノツゴ、確かにそう言ったのだった。その後、祖父はわたしの履いているビニールサンダルをもぎ取ると、鼻緒を引きちぎって脇の林の中へ投げ込んでしまった。そうして、わたしをおぶさって急いで山を下りた・・・気味が悪かったのは、歩けなくなったことではなく、祖父の雰囲気でもない。山を下りている間、しきりに背中とお尻を何かに撫でられるような感触があったことだ。祖父のごつい手と比べて、それは綿のように柔らかくて、ちっちゃな赤ん坊の手をしていたように思う。 山を下りた後、祖父にさっき口にしたノツゴとは何のことか聞いたら、「はて、わし、そんなこと言うたがか?覚えちょらんのう」と返事するばかりで、何度繰り返して聞いても巧妙にはぐらかされてしまった。 そうして大人になった今、わたしは両親とともに祖父の家に来ている。祖父は危篤状態だった。わたしは手放せない大事な仕事を抱えていたけれども、両親に祖父がどうしてもおまえに会いたがっているからと説得されて、無理を通して同行している。思い出すものを思い出してみると、あのノツゴのことが分かるかもしれない、最後の際に祖父が何か教えてくれるかもしれないという期待が膨らんでいた。 しかし、いざ会ってみると、祖父は全く見当違いのことを口にした。分厚い布団の中から痩せこけた首を鳥のように突き出し、かぎ爪のような指をブルブル震わせながらわたしのおなかの辺りを指差して、「やや子はおるのか?」と言ったのである。それは子供、ひ孫が出来たかどうかを嬉しそうに聞く態度ではなかった。何かをひどく心配しているような、また怖がっているような態度だった。「やや子はおるのか?」もう一度祖父が聞いてきた。わたしは「いいえ」と答え、「まだ結婚してませんもの」と続けた。すると、祖父は奇妙な表情を浮かべた。首を捻じ曲げて、全く鳥のように首を傾げてみせたのだ。それは『ほんまか?』と疑っているように見えた。そのうち、祖父の目はわたしから離れたが、唇は動いて呟いた。「結婚しようがしまいが、女はやや子を産むきよ・・・いつだって、ノツゴは出よるんじゃ」久しぶりに祖父の口からノツゴが出た時、わたしは全身が痺れるような感触を覚え、思わず布団の上へ覆いかぶさるようににじり寄った。「おじいさん、教えてちょうだい。ノツゴって一体なんなの?」 しかし、祖父はそれっきり目をつぶったまま、口を開こうとしなかった。そして、夜が明ける前に、祖父は死んだ。 無理を通した以上、葬式が終わるまで仕事に戻らないことにした。会社に連絡を取った後、祖母と両親とそろって、町に要りものを仕入れに車を出した。山道を走っている間、わたし以外は祖父の思い出話をしていたが、わたしは押し黙って運転しながら夢のことを考えていた。昨晩、祖父が死んだ夜に、また幼少からの例の夢を見たのだ。そして、それに加えて新たな夢を見た・・・夢の中で、わたしは初めて男に抱かれた時のことを思い出していた。今まで仲良く遊び、楽しくおしゃべりしていた男が、飢えたような顔つきになってわたしの中に入ってくるのだ。セックス自体よりも、わたしの心を強く刺激したのは、男の変貌ぶりだった。まともな人間から貪欲な獣に成り下がり、さらに何かわけのわからないものになり果てていく・・・それが、自分の巣穴に帰るように潜り込んでくる・・・その得体の知れない恐怖は全くセックスの興奮をかき消してしまうに足るものだった。恐怖はグロテスクなイメージを呼び、処女を失ったばかりのわたしを悪夢で執拗に苦しめた。山道を歩いていると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。その泣き声に誘われて、林の中に入っていくと、地面を覆った枯葉がいっさいに蠢き出して、そこから無数の赤黒く腐敗した赤ん坊がゾロゾロと這い出てきた。みんな、わたしの方を見上げていて、腐汁で濡れた口を開けてピチャピチャ口を鳴らしている。そうして、ショックで動けなくなったわたしを取り囲むと、わたしの足を這い上がってきて、下着を不器用にずり下ろして奥に頭をねじこんでくる。ドロリとした冷たい感触・・・ありがたいことに、そこで目が覚めたのだが、幼少から見ている夢と比べると、ずっとましに思えた。奇妙なことだが、埋められてしまう赤ん坊より、どんな形であれ、這い出てくる赤ん坊の方がいい。 それにしても、やっぱり、赤ん坊を抱いて山道を歩いてくる女はわたしなのだろうか?いやだ・・・いやだ・・・わたしであるはずがない。だって、あれ以来、誰とも寝ていないのだから。男は禍々しいもののように遠ざけている。大体、男なんてみんな子供だ。子供みたいにうるさいし、我儘だし、欲張りで、そしてどこだろうと潜り込みたがる・・・いくら止めても駄目・・・ワッと押し寄せてきて・・・入りたがって暴れて・・・ついに入り込んでしまう。そうして、古い肉体を脱ぎ捨てて生まれ変わってくるのだ・・・。 町から戻って、葬式の準備を手伝っていると、近くのお寺から住職さんが挨拶に見えた。聞くと、祖父とは長年のつきあいだという。しばらく故人の思い出話をした後、お見送りと称して、住職さんとともにお寺への山道を歩くことにした。 「お聞きしたいことがあるんですが、かまいませんか?」 「ええですとも。どうぞ」 「祖父が口にしていたことなんですが・・・ノツゴとは何のことでしょうか?」 その瞬間、住職さんは泣きそうな顔になった。まるで、大切にしていたおもちゃを取り上げられるか、壊されたような子供の顔つきだった。しばらく沈黙が続いた後、だしぬけに住職さんは身体ごとこちらを振り返った。その様子は並々ならぬ毅然とした決意に満ち溢れていた。 「今回だけです。ええですか、お話した後、他人にわしから聞いたとか、もういっぺん聞き返すとか、絶対なさらんで下さい。約束ですよ・・・ノツゴというのは、殺された子供の霊が化けたものです。この辺りでは、昔、間引きとか堕胎がかなり多かったのでしてな、この近くの林の中に産まれたばかりの赤ん坊を埋めるというのが一番多い方法でした。それで、あの近くを通りかかると、必ずノツゴに憑かれるようになったわけです。後になって、林の中から赤ん坊の遺骨を掘り出してねんごろに供養しても駄目でした。浮かばれない霊魂が化けてしまった後では遅すぎたのです・・・」 そこまで聞けば十分であった。わたしは丁重にお礼を述べて、住職さんと別れたが、別れ際の住職さんの表情にドキリとした。祖父の目つきとそっくりだったのである。恐怖と疑いが入り混じった目つき・・・。 それは突然やってきた。葬式が終わった後の雑談で、両親が地元の人たちと話をしているところにそれがいた。子供だった。喪服に身を包んだ男の子・・・わたしの初めての男の顔をした子供だった。「お子さんも大きくなりましたね。お兄さんにそっくりだ」「おかげさんで。兄貴も喜んでることでしょう。ほんまにそっくりですから。生き写しですよ」・・・両親としゃべっているのは、わたしの初めての男の弟だった。そうだった・・・初めての男は行方不明になっているのだ・・・何度も山狩りが行われたが、ついに見つからずじまいで、捜索が打ち切りになり、数年経って死亡宣告が出されたのだ。子供は・・・じっとわたしを見つめている・・・ただ深みのある瞳で見つめているだけだ・・・あんたが悪いのよ、無理やり入ってこようとしたあんたが・・・そんな目で見ないでよ・・・おおう・・・。その晩、わたしは夢の中で、子供を殺した。簡単だった。目つきが気に食わなかったので、目を潰してやった。そして埋めた。 帰るために荷物をまとめていると、玄関に駐在さんが来て、近所の男の子が昨晩から行方不明になっているのだが、何か知りませんかと聞いてきた。わたしたちは知らないと答えた。わたしは少し散歩してくると言って、ものすごい勢いで山道を駆け上がっていった。あれは夢だ・・・まさかそんな・・・夢のはずだ・・・やがて、見覚えのある林が目の前に広がった。夢のままだった。その中央に、周囲と色が違う地面があった。飛びつくようにそこを手で掘り返すと、子供の顔が現れた。目を潰されている。子供を引きずり出すと、穴の底に男の白骨死体が横たわっているのが見えた。わたしの初めての男のものだった。 風が吹いてきた。それが合図であるかのように、辺りから赤ん坊の泣き声が響き渡ってきた。わたしは辺りを見回した。枯葉の中からは何も這い出てはこなかった。ただ、風が吹き抜けていくばかりだ。そこでわたしは気がついた。泣き声はわたしの中から聞こえてくるのだ。わたしのおなかの中から。わたしの子宮に張り切った感触があり、そのゴツゴツとしたものが肉を擦るようにして蠢いた。わたしは言い知れぬ恐怖から悲鳴をあげた。風の中で、それはだんだん笑い声に変わっていった。高笑いしながら、わたしは今や理解していた。わたし自身がノツゴであることを。林の中の赤ん坊たちは、小さかったわたしに取り憑いて一体化していたのだった。それで、祖父と住職さんの目つきの意味が分かった。わたしを恐れていたのだった。 風の中でわたしはだんだん漂いはじめていく。透き通るような気分だった。赤ん坊たちが何を求めているのか、わたしのすべきことが何であるかが、はっきりと分かっていた。風の中で、わたしの両手の手のひらから真っ赤な血が溢れ出てきた・・・。
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