(仮)耽奇館主人の日記
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2005年05月14日(土) 犬神博士、BL執筆を依頼されるのこと。

その昔、九十年代に、私はミニコミ誌でオリジナルの怪奇小説をメインに、同人活動をしていた。
いわゆるサイドストーリーにも手を染めて、私がものすごく入れ込んだ作品に限って、私なりの続編を書いて、その一部を発表したりもした。
で、その当時の、同じミニコミ誌の執筆仲間の女性から、十数年ぶりに連絡があって、BLものを書いてくれないかと言ってきた。
BL、つまり、ボーイズラブである。
男同士のラブラブを、女性向けに書くというもので、ホモとかゲイのために書くのとはまた違う。
厳密に言えば、男装した女性のような、美青年、美少年が、女性好みの耽美的なセックスをするというやつだ。
つまり、その世界には、男の視点は全くないと言っていい。
あくまでも、女性による、女性のための、女性の幻想なのである。
私は同人におけるBLは読んだことがないが、商業用は読んだことがある。
須藤直希先生の「記憶の迷路で逢いたい」(白泉社花丸文庫)で、なるほど、こういう世界なのかと、なかなか勉強になった。
はっきり言って、男の私には感情移入しにくい世界ではあるのだが、ひとつのことを思い出せてくれた。
それは、小学生の時の家庭教師が、当時やっていたアニメ「六神合体ゴッドマーズ」にすごくハマッていて、教え子の私に堂々と、マーズとマーグの兄弟の危険な同性近親相姦の妄想マンガを見せびらかしていたことだ。
魔夜峰夫の「パタリロ!」で男同士のそういう世界に免疫があったとはいえ、彼女の、おとなしそうな顔をして、その実はこんなのを考えていたのかというのが、すごくショックで、すっかり引きまくってしまった。
しかし。
私は今では、BLものに偏見を持たず、ポオの小説と同じレベルとして扱っている。
なぜならば、須藤先生もそうなのだが、男どうしの濡れ場の場面となると、怨念を感じさせるくらいの情熱がこもっているからである。
それが例え、妄想であってもいい。
妄想が火を噴くほどであればあるほど、それはもうすでに妄想ではなくなるのだ。
そこに、貴賤は全くない。
読む側はどう読もうが自由だが、書き手はかように、妄想、妄念、想像力の紅蓮地獄にのたうちまわらなければならないのだ。
ポオであれ、BL作家であれ。
さて、依頼主が私のキャラを知っていながら、あえてBL執筆を依頼したねらいは、こうである。
怪奇と幻想にとても詳しい私なら、違った味わいのBLが書けるはずだというのだ。
なるほど、いわれてみれば、BLと怪奇ものは決して無縁ではない。
江戸川乱歩の「孤島の鬼」を読んだことのある方なら、あれこそ我が国が誇るBLものの元祖だということに大いに賛成するだろう。
私が趣味で翻訳している、ジョン・メトカーフの「死者の饗宴」という吸血鬼ものも、年端のいかない少年に取り憑く、正体不明の吸血鬼という、実にBLファン好みの設定である。
そして、今まで読んできたなかで、私が男どうしのセックスを描いたものの最高傑作だと驚嘆しているのが、宮谷一彦の「緑色なる花弁」(『性紀末伏魔考』に収録、青林堂発行)である。
宮谷一彦といえば、ゴシック・コミックの最高峰、「孔雀風琴」(けいせい出版)で知られているカルト漫画家だ。
「孔雀風琴」も、BLものではあるのだが、強烈さでは「緑色なる花弁」がはるかに上回っている。
なにしろ、女性そのもののような美少年が、せむしの醜男のペニスをくわえてしゃぶっているシーンがあるのだ。
このコマだけでも、興味本位だけで読む軟派な女性たちを駆逐する威力がある。
ストーリーはいずれ読む方のために詳しくは説明しないが、胸を打つ同性のエロティシズムが漂っていたと報告しておこう。
・・・・・・
私が書くBLの題材は、ピエール・モリニエという画家にヒントを得て練られる予定である。
男装する女性のような男性がBLの決まりごとならば、私は、モリニエのような、女装する男性の中性的な美について、楽しみながら、真面目に書いてみよう。
美輪明宏さんの若い頃の写真をごらんになった方なら分かるはずである。
彼のなんという、中性的な美!
私はむしろ、男性がより男性的であるために、そういう美にこだわりたい。
男性はいよいよ肉体的に。
女性はいよいよ精神的に。
それが、私のBLの中核になるであろう。
今日はここまで。


犬神博士 |MAILHomePage

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