(仮)耽奇館主人の日記
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ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世が逝去した。 そのニュースを眺めているうちに、私は高校時代に教会経由で文通をしていた、北海道のトラピスト修道院のGを思い出していた。 彼とは同い年で、お互い、幽霊話が好きだったから、お互いの母国の怪談を交換して親交を深め合ったものだ。 まだ雪の残る春休みに、父方の家族が戦争中に疎開していた青森は弘前を訪れる機会があって、そこでGと会う約束をした。 待ち合わせ場所は昇天教会。 Gとは実に多岐にわたって、色々な話をしたものだ。 その中で、「聖書は誰が書いたのか?」ということを論じ合ったのだが、創世記の部分は、「神」の言葉、啓示そのものであると、Gが断言したのに対して、私は「言葉」で書かれてある以上、「人間」が書いたに決まってるだろと譲らなかった。 完全に、観念の相違である。 埒があかないから、お互い、旧約聖書と新約聖書の間に横たわる、四、五百年にわたる空白について語り合った。 その空白を埋める材料は、聖書外典とされるもので、「アポクリファ」というタイトルで知られているものだ。 ギリシャ語で、「隠れたるもの」という意味で、まさしく空白の間に書かれたものにふさわしいタイトルの書物だ。
神は存在するのか、しないのか?
私もGも存在を肯定する方だが、ニュアンスは上の相違のように、違う。 それ自体が「実際に触れられるもの」として、その「実在」を信じて疑わないG。 人間が想像するものとして、産み出された「精神的な第三者」として、人生の指標のシンボルとして設定する私。 この相違が、色々な宗派を生み出したことは、歴史が証明するとおりだが、聖書にせよ、アポクリファにせよ、もうひとつの外典、パウロの黙示録にせよ、作者の無名氏(アノニムス)が何のために書いたのかを、さかのぼって考えると、信仰以上に情熱を注いだものがあることに気づくだろう。 我々人間の、普遍的な精神のかたちを、そっくりそのままレポートしているのだ。 善、悪、無限の想像力について語りつくす。 従って、人間そのものの本として、聖書はいにしえより読み継がれるにふさわしい内容なのだ。 作家の開高健は、無神論者ではあるが、旅先の孤独を癒すために、聖書を愛読していた。 彼は言葉を愛する人間として、無名氏(アノニムス)の情熱を和漢洋のニュアンスを活かしつつ、見事に翻訳した、これまた無名の日本人翻訳家を尊敬していると書いている。 その愛読、尊敬ぶりは、私にキリスト教に興味を持たせる大きな影響を与えた。 結局、Gとは、エキュメニズム(教会再一致)の問題、つまり、宗教戦争にまで発展しそうなので、お互い尊敬している、映画監督のアンドレイ・タルコフスキーの美しい言葉をあげて、お互いの論戦を無理やり、静かに終了させた。
「実際人類は芸術的イメージ以外にはなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである」
Gよ、私は法王が天国に召されたところまでは想像出来ないが、ポーランド人、生身の人間としての彼が生きているあいだ、常に頭にあっただろう一篇は想像出来る。 アポクリファの「ベン=シラの知恵」の十八の七と八だ。 即ち。
人の終わりたるときは始めに過ぎず。 彼のやむるときは惑いのうちにあらん。 人は何なるか、何の用か彼にある、 その善は何なるか、またその悪は何なるか。
今日はここまで。
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