(仮)耽奇館主人の日記
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2005年03月27日(日) |
近況報告其の弐、漂流する神仏のこと。 |
今日で、大体、私の役目は終わった。 実にしんどかった。花粉症、風邪に加えて、喋りっぱなしとお経の唱えすぎで喉をすっかり痛めてしまった。 住職の従弟の具合はまだよくない。 気長に鍼で治療を続けるというが、せめて、盆前には治して欲しい。 寝たきりの従弟と副住職について話し合う。 私は代理を務められても、得度していないのだから、やはり色々と問題がある。檀家たちがよくても、お寺の体面上、そうはいかないのだ。 それに、私だって、今回ははっきり言って無理をしすぎた。 副住職を迎え入れることについては、けっこう前々から論じ合っていた。 普通なら、当然、国内の若い僧侶だが、私はインドか中国から招くべきだと主張した。 冗談などではない。大真面目である。 「別に国際何とかを気取ろうってわけじゃねえ。もっと、もっと、お経の中身を分かりやすくしようってだけさ。それで、食材にこだわるように、坊さんにもこだわるべきだよ」と私。 「それがインドと中国?いつもながら、とんでもないことを言うね、兄貴は」と従弟。 「天竺のピュアな坊さんにとって、うちのお寺がどういう風に映るか・・・そいつをとっくりと眺めて、我と我が身を見つめ直すいい機会になるよ」 「なるほど・・・たいしたカンフル剤になるかもしれないね。最近、はっきり言って、日本の宗教はあやふやになっちまってるから・・・」 「その通り。ひでえもんだぜ、精神的土壌がすっかり荒れ果てちまってな。もうお経を読んだぐれえじゃ、成仏にゃおっつかねえぜ。原始仏教の真髄まで遡らねえとな・・・」 「あれは確か、タブーなんじゃなかったかい」 「今さら、タブーなんてもんはねえよ。ていうか、よく考えてみれば、誰でも気づくこったね。原始仏教の真髄とは。極楽も地獄もないんだよな。従って、死後の世界なんてねえ。そんなもんは全然認めてやしないんだ。じゃあ、何があるのか。自分自身だけなんだよな。でも、生死にとらわれない、究極の自分自身というものもある。ま、難しいことはおいといて、俺たちがこうして、やれお彼岸だ、お盆だって檀家たちを集めて、くっちゃべったりなんかして、お布施をもらったりしているのは、仏教とは関係ないんだよな。生活の手段さ。墓の番人としてのね」 「そんなこと言って。じゃあ、俺たちのやってることってまやかしだって言いたいのかい」 「そう、まやかしさ。だけど、まやかしで安心させるわけだよ。そもそも、安心感というのは、気休めだからな。気休めってえのは、その気にさせなくっちゃあな」 「まさか、檀家たちに言ってやしないだろうね?」 「言っちゃ悪いか?すでに何人かに話したよ、その上で、おのれとおのれ自身が崇めてるものを見つめ直して、あらためて、心を耕せばいいんだ」 「それで、向こうから副住職を呼ぼうって考え付いたのか」 「そう、もう、お経は読んだり、聞いたりするだけじゃあ、ダメなんだ。生身そのものを味わうべきだよ。インドと中国の坊さんたちは、我が国のそれと比べて、ピュアだからな。まさしくお経そのものだ。彼らを眺めるだけで、精神修養になる。実に分かりやすいだろ」 そうして、四角四面の従弟は、へその緒切って生まれて初めて、私の意見に賛同してくれた。 インドと中国のどちらにするかも決めた。 インドである。 現在、長期滞在の件などで煮詰めているところだが、うまくいけば近々、ブッダの国の副住職が誕生するだろう。
そのくだりを聞いた恋人の紋は、呆れたのか、それとも他に理由があるのか、深く微笑を浮かべた。
私にとって、宗教とは何か。 ビジュアルなら、冒頭に掲げた、長崎土産の写真につきるだろう。 言葉で表すなら、「畏敬」である。 それが実際にいたのか、いなかったのかは問題ではない。 まやかしと考えてしまうより、心の問題について考え詰めるべきだ。 心のなかには、確かに、神仏は存在するのだから。
神仏のように、強く、逞しく、豊かに生きる。 そう願うことで、人は事実、神仏のように生きられる。
そのことを私は知ってるし、長崎の人々もよく知ってる。 そして、昔、大昔の人々は、当然、もっとよく知っていた。 今日はここまで。
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