(仮)耽奇館主人の日記
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2005年02月02日(水) 船の中の極道のこと。

小さな一家だったが、今は絶滅してしまった、古いタイプのやくざの親分の墓がある縁で、うちの檀家にはそのスジの者たちがけっこういる。
去年の秋に、親分の十三回忌が執り行われて、ビビリの従弟にかわって、私がお経をあげたのだが、毎度のことながら、何事もなく、なかなか神妙な法事であった。
そして、法事が終わって、年が明けて、必ず決まった日にお寺を訪問する老やくざが一人いる。
今では七十の半ばくらいで、茶色のべっ甲縁の分厚い眼鏡をかけた、白髪の角刈り。
一体、なにゆえに、彼は他のみんなと一緒に法事に参加しないのかというと、いわゆる「一家」の人間ではなく、「客分」という立場だからなのだそうだ。
それなりの距離があるわけである。
しかし、若い頃は非常に親分の世話になったそうで、今でもこうして欠かさず参拝に来られる。
今回の再会は、七回忌の後だから、かれこれ六年ぶりであった。
私はまだ三十路に入る前で、高知県の現地妻、青森県のウブな彼女、茨城県のナヨッた少年の間を行ったりきたりする、荒っぽい生活を送っていた。
その時、老やくざ、Hさんは、素足の雪駄に、喪服という格好で、ニヤニヤしながら私の手に赤ひげ薬局の精力剤を握らせていた。
六年後も、Hさんのスタイルは変わらなかったが、私が少々丸くなって落ち着いてきたように、老け込みが目立ってきた。
他のやくざのように、しのぎで食ってるのではなく、実家が代々受け継いでいる仕事で食っていて、Hさんは隅田川を拠点とする屋形船の船長をしていた。
幼少時から、船の中で育ってきたのだそうで、陸に上がると気分が悪くなるくらい、身体が船に馴染んでいた。
それが、最近、気分が悪くなるどころではなく、意識が朦朧として、時々記憶が飛んでしまうのだという。
「もうダメだよ、犬神の。おりゃあ、くたばっちまうのもそう遠くあるめぇな」とHさん。
「死んだら、親分さんの墓の隣に入れて差し上げまさあね」と私。
「いやいや、とんでもねぇ!気持ちは嬉しいけど、それには及ばねぇよ。ちゃんと死に場所は決めてあるよ」
「どこです?」
「海さ、お棺の中に入って、海に流れて行って、そのまま藻屑になっちまえば、最高だねぇ」
「補陀落渡海ですねぇ」
「ふだらくとかい?なんですぃ、そりゃ」
「和歌山に伝わる奇習でしてね、文字通り、棺桶のごとく密閉した小船に生きたまま閉じこもって、海へ流されるんです。海の先に極楽浄土があると考えての、即身成仏の一種です」
「そりゃあ、いい。いいねぇ。もちっと詳しく教えておくれよ」
私はニヤッと笑って、Hさんと馴染みの寿司店に行って、そこで二人して朝まで飲んだ。
Hさんの刺青は、両腕、背中、腰、尻、太ももに渡って、ダイナミックに彫られたもので、「滝を昇る鯉」の図である。
やくざの刺青は色々あるが、私個人は、この図ほどやくざにふさわしいものはないと考えている。
極道の一生は、滝を昇ろうとする鯉と同じなのである。
Hさんは、若い頃は愚連隊の一人として、下町を練り歩き、数多くの修羅場を経験してきた。
ヒットマンにタマを狙われたこともある。
その時、Hさんを救ったのが川のボロ船で、それ以来、組のしのぎはやらず、実家の仕事で食いながら、賭場の用心棒をするという「客分」のスタイルを貫くようになった。
「あの世じゃあ、あんたのオヤジ殿が待ってるだろう。楽しく花でも差すよ」
「オヤジの手は・・・いつも猪鹿蝶狙いでしたっけ?」
「そうそう。こだわりがあったねぇ、あんたは?」
「せこいですよ、カスの積み重ねがメインです」
地道で堅実な手なのだが、Hさんを相手にすると、こうも負けるかというくらい、コテンパンにやられる。
後で聞くと、やはりイカサマで、その奥義も色々と教えてもらった。
「あんたには、色々教えてやるよ。その代わり、オレにふさわしい戒名を考えてくれよ。それと、お経も死ぬ前に教えてもらいてぇな」
「いいですよ。まずお経は・・・」

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音

具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願

我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦

假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池

或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没

或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住

或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛

或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心

或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊

或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱   

呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人

或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害

若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方

玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去

雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散   

衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦   

具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身   

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅   

真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰

無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間   

悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔   

諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散   

妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念   

念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙

具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼


爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生  
 
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者

当知是人 功徳不少佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生

皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心

「・・・と、『観音経』です」
「ちょっと待ってくれよ、そんなに覚えられねぇよ!」
「それじゃあ、石井眞木の『熊野補陀落』で行きやしょうか」

行く舟の ただようままに ふだらくや
岸うつ波の 三熊野を 離れて われは ひとりぞー 死出の道
もろびとの 罪業消滅を 我いちにんに 託しての 祈りをあとに 送り舟

にじ むじんにぼさつ そくじゅざぎ へんだんうけん がっしょうこうぶつ にささごんせそん かんぜおんぼさつ いがいんねん みょうかんぜおん

舟ばたを はげしく 打つは 波か 風か よみの鳥の羽音か
わがししむらを ついばみて 幾千丈の 水底に 身はもくずとやなりぬべし
闇の かなたに われを呼ぶ声々

行きともない!行きともない!

悔やめども 悔やめども うつしよの 名残の夢か
振り捨てて なお 捨てやらぬ 心の闇
逃れ得ぬ 目なし篭舟 真の闇
暗き 波間を ひとり 行く ふだらくの旅

しんかんしょうじょうかん こうだいちえかん ひかんきゅうじかん じょうがんじょうせんごう むくしょうじょうこう えにちはしょうあん

「おお、そっちの方がいいねぇ。どっちかってぇと、分かりやすいよ」
「実際にお棺を流すのは無理でも、お骨のかけらを小さな篭舟に入れて流してあげまさぁね」
Hさんはニヤッと笑って、「よろしくお願いしますよ」といやに丁寧に言ってきた。

私とHさんが共有する思い出がひとつある。
それは、一晩過ごした屋形船から出て、川べりの朝日に照らされたコンクリートの船着場を見た時だ。
そこには、三羽の雀が楽しそうに飛び跳ね、羽ばたきながら、遊んでいるのが見えた。
私も、Hさんも、息を潜め、身動きせずに、にっこりと笑いながら、しばらくその光景を眺めたものだ。
それを思い出しながら、私は、私が唯一、心から尊敬する極道の男を見送りたい。
今日はここまで。


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