『日々の映像』

2008年08月03日(日)  「スペインかぜ」の記録が示唆するもの

 コミュニテイ「新型鳥インフルエンザ情報」に一定の情報を集録するためにかなりの資料を読み込んだ。危機感を覚えた情報の中で、一つを挙げるとすれば次である。

「新型インフルエンザの出現と流行は、確実に抑えきることのできない自然現象の一つであるととらえるべきでしょう」
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA16.html
であった。

 ともかく、ヒトからヒトに容易に感染する新型インフルエンザウイルスが出現し、ひとたびそれが一定以上の人口のあいだで拡大を始めると、パンデミックを防ぐ確実な方法は現時点では知られていないのである。

 多くの資料を読み過程で、 第一次世界大戦中の1918年に始まったスペインインフルエンザのパンデミック(俗に「スペインかぜ」と呼ばれる)がなぜ終焉に向かったのだろうという疑問であった。少ない資料であるが、以下の2点の記録が多少の示唆を与えてくれる。

 現在は感染すると6〜7割の人死に至っているが、感染を繰り返すうちに病原性が弱まってくるのである。よって、世界的なパンデミック(感染爆発)が起こっての半年を経過すれば、感染しても死に至らない・・・・と理解した。

 その根拠を以下の通り引用したい。
1、このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫、すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し、そしてこのころには、ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており、そのおかげで、オーストラリアでは、期間は長かったものの、より軽度の流行ですんだとされています。
       http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html

2、第1波は1918年3月に米国北西部で出現。米軍とともに欧州に渡り、西部戦線の両軍兵士に多数の死者を出して戦争の終結を早めたといわれている。
スペインの王室の罹患が大々的に報じられたことからスペインかぜと呼ばれるようになった。第2波は同年秋、世界的に同時発生してさらに重い症状を伴うものになった。 第3波は1919年春に起こり、同年秋に終息に向かった。
            http://influenza.elan.ne.jp/basic/spain.php

3、米国では南北戦争の死亡者や第2次世界大戦の死亡者を大きく上回り、パンデミックの脅威をまざまざと見せつけた。人口の多くがその免疫を獲得するにつれて死亡率は低下したが、 1957年にアジアかぜが現れるまで流行し続けた。
             http://influenza.elan.ne.jp/basic/spain.php

 スペインインフルエンザのパンデミック(俗に「スペインかぜ」と呼ばれる)は、15〜35歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ、死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという。この理由、お分かりの方がいましたら教えてください。

資料
スペインインフルエンザ(1918-1919)
感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html
20世紀のパンデミック〔スペインかぜ〕
インフルエンザ情報サービス〔中外製薬〕
http://influenza.elan.ne.jp/basic/spain.php

この記録はコミュニテイ「新型鳥インフルエンザ情報」の保管します。

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スペインインフルエンザ(1918-1919)
感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html

 第一次世界大戦中の1918年に始まったスペインインフルエンザのパンデミック(俗に「スペインかぜ」と呼ばれる)は、被害の大きさできわだっています。世界的な患者数、死亡者数についての推定は難しいのですが、患者数は世界人口の25-30%(WHO)、あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920)、約5億人(Clark E.1942.)で、致死率(感染して病気になった場合に死亡する確率)は2.5%以上ともいわれています。日本の内務省統計では日本で約2300万人の患者と約38万人の死亡者が出たと報告されていますが、歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水、2006.)という推計もあります。
  
スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まりますが、この(北半球の)春と夏に発生した第一波は感染性は高かったものの、特に致死性ではなかったとされています。しかしながら、(北半球の)晩秋からフランス、シエラレオネ、米国で同時に始まった第二波は10倍の致死率となり、しかも15〜35歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ、死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという、過去にも、またそれ以降にも例のみられない現象が確認されています。また、これに引き続いて、(北半球の)冬である1919年の始めに第三波が起こっており、一年のタイムスパンで3回の流行がみられたことになります。これらの原因については多くの議論がありますが、これらの原因については残念ながらよくわかっていません。

 1918年の多くの死亡は細菌の二次感染による肺炎によるものであったとされていますが、一方、スペインフルは、広範な出血を伴う一次性のウイルス性肺炎を引き起こしていたこともわかっています。非常に重症でかつ短期間に死に至ったため、最初の例が出た際にはインフルエンザとは考えられず、脳脊髄膜炎あるいは黒死病の再来かと疑われたくらいです。
 
もちろん当時は抗生物質は発見されていなかったし、有効なワクチンなどは論外であり、インフルエンザウイルスが始めて分離されるのは、1933年まで待たねばならなかったわけです。このような医学的な手段がなかったため、対策は、患者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の延期といったありきたりの方法に頼るしかありませんでした。多くの人は人が集まる場所では、自発的にあるいは法律によりマスクを着用し、一部の国では、公共の場所で咳やくしゃみをした人は罰金刑になったり投獄されたりしましたし、学校を含む公共施設はしばしば閉鎖され、集会は禁止されました。患者隔離と接触者の行動制限は広く適用されました。感染伝播をある程度遅らせることはできましたが、患者数を減らすことはできませんでした。このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でした。厳密な海港における検疫、すなわち国境を事実上閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し、そしてこのころには、ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており、そのおかげで、オーストラリアでは、期間は長かったものの、より軽度の流行ですんだとされています。その他、西太平洋の小さな島では同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが、これらのほんの一握りの例外を除けば、世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。


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20世紀のパンデミック〔スペインかぜ〕
インフルエンザ情報サービス〔中外製薬〕
http://influenza.elan.ne.jp/basic/spain.php

1、発生と流行の広がり
第1次世界大戦の最中、3波にわたり全世界を襲った。第1波は1918年3月に米国北西部で出現。米軍とともに欧州に渡り、西部戦線の両軍兵士に多数の死者を出して戦争の終結を早めたといわれている。
スペインの王室の罹患が大々的に報じられたことからスペインかぜと呼ばれるようになった。第2波は同年秋、世界的に同時発生してさらに重い症状を伴うものになった。 第3波は1919年春に起こり、同年秋に終息に向かった。

2、ウイルスのタイプ
A型。当時はウイルスが原因とは知られておらず、 後の血清疫学調査や剖検肺や凍土中の患者肺からのRNAの解析で判明した。

3、感染者・死亡者
この間、世界の人口の約50%が感染し、25%が発症したと見積もられている。死亡者は2,000万人以上にのぼり、疫病史上有数の大被害となった。米国では南北戦争の死亡者や第2次世界大戦の死亡者を大きく上回り、パンデミックの脅威をまざまざと見せつけた。人口の多くがその免疫を獲得するにつれて死亡率は低下したが、 1957年にアジアかぜが現れるまで流行し続けた。(H1N1型)

4、日本では
1918年(大正7年)の11月に全国的な流行となった。 1921年7月までの3年間で、人口の約半数(2,380万人)が罹患し、 38万8,727人が死亡したと報告されている。

5、その他の特徴
20代から30代の青壮年者に死亡率が高かった原因は不明で、謎として残っている。通常は小児や高齢者の死亡率が高い。死因の第一位は二次的細菌性肺炎であった。このとき、始めて剖検肺中に細菌が証明されないことから、ウイルス肺炎が疑われるようになった。





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石田ふたみ