2004年10月06日(水) |
長期療養入院の高齢者、食住費自己負担 |
65歳以上の高齢者が毎年50万人以上増加しておく。これに伴って社会保障関係費が増加していくのである。05年度の社会保障関係費の増加分は「1兆800臆円」(10月6日・朝日から)であるという。 厚労省と財務省は05年度予算編成で社会保障関係費の1兆800億円の自然増分を「2200億円圧縮することで合意している」(引用同)というのだ。簡単に説明すれば、8600臆円(1兆800臆円―2200臆円)を療養病床の患者約22万人、介護保険適用施設老人14万人に負担させようとの計画なのだ。 具体的には病院に長期入院する高齢者などにかかる居住費と食費を医療保険の給付対象から外し、「本人の全額自己負担に改める方向で検討に入った」(日経から)というものだ。負担額は病院によって異なるが、患者の負担増は月5万円を超すという。自宅暮らしと療養病床との食住費格差をなくして、必要以上に病院に留まる「社会的入院」を減らし、高齢化に伴う国民医療費の膨張を抑えるのが目的なのだが払えない高齢者が出てくることは必至だ。 財政制度等審議会(財務相の諮問機関)は介護保険制度改革で、特別養護老人ホームなどの施設入所者について食費や光熱費などの居住費の全額を給付対象外にするように厚生労働省に提案するという。現行制度では食費や居住費の一定割合が自己負担になっているが、これらが全額自己負担になれば「1人当たりの入居者の負担は現行の2倍超の月額10数万円」(引用同)になるのだ。年金が10万円程度の高齢者はかなりの割合でいるのである。介護保険適用施設の入所老人14万人にこれだけの負担をさせようとしている。繁栄した日本といっても、高齢者にとっては住みにくい社会だ。庶民の対応策があるのか。今日この件で友人と懇談した。結論は「死ぬまで元気でいるような生活をしていこう」であった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 癒しの森418 2004年10月6日
「夜回り先生」こと水谷先生の語録 毎日新聞の心の欄に水谷先生のエッセイが掲載されている。心が歪んでいる中高生がこの人のエッセイ、講演に接することがあれば、立ち直るきっかけをつかめると思う。水谷先生が22年間の教員生活を辞職することになった。「私が学校を辞めることを告知したとたん、ものすごい数の講演依頼が続きました。すでに年内はほぼ全日、日本のどこかで講演です」(35回エッセイ)というように、この人の指導を待ち望んでいる学校が無数にある。この人の講演をテレビで聴いたことがあるが、このような教師が日本にいることにある種の感銘を受けた。 「ここにも私を待っている子どもたちがいる。私を信じている子どもたちがいる。私の人生は変わりました。養護学校には5年勤務しました。私は子どもたちから日々学び、子どもたちの求める教員になることを学びました」(第34回 ありがとう、学校から) 「今から13年前に夜間高校に異動しました。そこでも子どもたちから多くのことを学びました。今の私を作ったのは、まさにここで出会った子どもたちです」(第34回 ありがとう、学校から) 「(自分の)悩みを捨て、自分を必要としている誰かのために何かをする。少なくとも笑顔をもらえます。水谷はいつもそう生きてきました」(第35回 無職、水谷に)(水谷先生のエッセイを1週間余り引用しておきます)
・われ以外 すべてが師との 生き方で 輝き放す 水谷語録 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 第34回 ありがとう、学校 ついに22年間の教員生活に終止符が打たれました。先週は、最後の教壇に立ちました。残念ながら授業ではなく試験官としてでした。理科の試験でしたが、必死に試験に取り組む生徒たちの姿を教卓から眺めながら、22年間の教員人生を振り返っていました。 私は22年前、横浜市にある体に障害を持つ子どもたちのための養護学校高等部の教員として、教員生活を始めました。養護学校の教員として採用するという横浜市からの連絡を受けたとき、なぜ、ぼくが養護学校で…、と愕然(がくぜん)としたことを憶えています。社会科の教員として颯爽(さっそう)と授業をすることを夢みていた私を待っていたのは、トイレの世話、食事の介助、訓練…。私は、ふてくされていました。 そんな6月、一人の生徒がお尻を汚し、シャワーできれいにすることになりました。嫌々やっていた私は、水の温度も確認しないまま、冷水をこの子にかけていました。「ギャッ」という悲鳴がトイレに響き、その直後に私は先輩の教員から殴り飛ばされていました。 「この子に何の罪がある。そんな嫌々仕事をするなら辞めろ」。この一言が私の心をえぐりました。 ここにも私を待っている子どもたちがいる。私を信じている子どもたちがいる。私の人生は変わりました。養護学校には5年勤務しました。私は、子どもたちから日々学び、子どもたちの求める教員になることを学びました。 次に私が勤務したのは、横浜市立の受験校でした。初めて教える世界史、日本史…、毎日が勉強の連続でした。毎晩遅くまで翌日の授業のためのノート、資料作り。知識を楽しく、そして深く教えることの喜びを学びました。私には、いつも子どもたちが私の先生でした。 そして、今から13年前に夜間高校に異動しました。そこでも子どもたちから多くのことを学びました。今の私を作ったのは、まさにここで出会った子どもたちです。 この22年間、私の毎日には、いつもたくさんの子どもたちがいました。昼の世界にも夜の世界にも。そして多くの子どもたちが巣立っていきました。 試験後、机を整え、窓を閉め、黒板に「ありがとう」と一礼をして去りました。思えば教壇は、水谷が最も水谷として輝いていられた場所だった気がします。さよなら、学校。お世話になりました。 2004年9月29日
第35回 無職、水谷に ついに無職、水谷になりました。もう「夜回り先生」ではなく「夜回りおじさん」と変えなくてはなりません。 しかし、私が学校を辞めることを告知したとたん、ものすごい数の講演依頼が続きました。すでに年内はほぼ全日、日本のどこかで講演です。ただ、困ったことがありました。私の肩書きをどうするかという問い合わせです。私が、「肩書きはありません。それではだめですか」というと、公的な機関ほど「それは…」と困った声が返ってきます。まだまだ日本は肩書きが大切な社会のようです。 私は来年の3月までは、何の仕事にもつかず、講演と執筆、そして日々のメールや電話での相談への対応で生きていこうと思っています。そして、その半年の間に、来年以降の仕事を考えてみようと思っています。体調の方は最悪で、いつまでこのからだが持つかわかりませんが、それでも来年の4月からは何か職に就きたいと思っています。 多分、下記の選択肢が今の水谷にはあるような気がします。 ・ 作家、講演家として生きていく。・ 教育研究所などを開設して、子どもたちの問題に組織的に取り組んでいく。・ 何らかの教育機関に再就職し、現場に復帰する。・ マスコミと契約し、テレビやラジオの媒体を通し、社会に訴えかける。・ 休養し最後を待つ。 でも、考えれば考えるほど、どれも違和感のある生き方に思えます。 水谷は、悩んだ時はいつも、子どもたちの側に行き、子どもたちとともに考えてきました。来年の3月まで、夜の町やメール、あるいは掲示板で関わっている子どもたちとともに、来年4月からの水谷の生きる道を探してみようと思っています。きっと子どもたちが、私の生きるべき道を教えてくれます。 人が悩むということは、解答が出ないからです。そのことをいくら悩んでも救いはありません。どんどん苦しみの連鎖の中に、はまってしまいます。そんな時は、まずは悩みを捨て、自分を必要としている誰かのために何かをする。少なくても笑顔をもらえます。水谷はいつもそう生きてきました。
【プロフィール】1956年横浜市生まれ。上智大学文学部哲学科卒業。83年横浜市立高校の教師になり、98年から市立戸塚高校定時制社会科教諭、04年4月から市立横浜総合高校教諭。同年9月、横浜市の高校教諭を辞職。中・高校生の非行防止と更生、薬物汚染の拡大防止のために、夜の繁華街をパトロールする。薬物防止の講演では全国を駆け回る。03年東京弁護士会第17回人権賞受賞。著書は、「夜回り先生」(サンクチュアリ出版)など。
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