**In my heart of hearts**
心の奥のこころ


2012年12月17日(月) この2年間

なんて暖かな気温なんでしょう。冬とはとても思えない。暖房は何もつけていなくて、季節がわからない。 年末だと思い出すと、うれしい気分は湧いてくる。そうだ、一年が終わりを告げて、そしてまた、新しい暦が始まるのだ。悪かったところを改めて、これからまたちゃんと生きて行きたいという思いがわいてくることがうれしいのだ。 こんな気持ちはひさしぶりなのだ。  ずっと不安だった。このままでいいのかと。仕事の事、兄弟のこと。漠然とこのままではいけないと自分を縛っていた。 縛りながらも出口のドアを開ける勇気なんてなかった。 不安や苛立ちや淋しさをアルコールで紛らわしていられる若さがあった。 いつしか、寒い冬には昼間からワインを平気で飲むようになった。 こんなことして、どうなるか見て見ようと心の奥の声がしたのを覚えている。 ある朝突然に左の手首がちぎれるほど痛み出した。うなり声をあげたくなるくらいに、激痛だった。 いつものリューマチの最大級なんだというくらいで、包帯して、治まるのを待つだけ。色んなところの激痛はこれまでもなじみのもので、あとはウソのように元に戻るから、あまり気にもとめなかった。 けれど、それからの一年がリューマチ悪化の始まり。 両肩、両足首、激痛と脱力で全身も背中に背負ったような重たさに苦しんだ。初めての韓国旅行で新しいページを開いたとき、帰国してすぐは元気で調子がいつも以上に良かったのに、2,3日して、高熱をだした。インフルエンザで長引く熱も初めての経験。それからが 体調不良の始まりだった。 これを機会にお酒も控えるようになった。少しずつ意識も変化せざるを得ない時期が来た。 そんなとき、横浜の甥っ子は高校2年の文化祭を向かえ、母を連れて、交流するためには受験を来年に控え、このときを逃すことはできなかった。 いつかは、訪れなければと思っていた横浜の家、私にチャンスが与えらた。 めったにない機会。 甥の17歳の姿にふれるのは二度とないわけだし、とても貴重な時間。 新緑の5月のエネルギーとともに 家族としての親類としての傍にいられた時間。 

当たり前のようにして普段から顔を合わせていられる親戚とは違うこと。
なじまないところと、会えて特別な感情を味わう事。時間が限られていて、切ないこと。 これまでの私の非礼が後を引いて兄嫁との付き合い方もこんなものかな、どこかはじくような、感情をぶつけてくる。 おばかな母にもいらだつものがあるのだろう。 でも父と弟のことを気にして、会うことを勧めてくれる。 私が遠い先祖の人の話を持ち出さなかったら、どう展開していただろうか。何事もなく終ったんだろうか。 仏壇の前で思わず、まあ、位牌があったから、それにかこつけたものとして、○○家はという言葉は飛び出した自分に少し驚いたこと。ちゃんとした家なんてないくせして、冗談としてしか響かないこの言葉のことが、気になった自分。 あとでネットで検索かけてみる。そして、この苗字の始祖になる人のことがわかった。

とても不思議な気持ちと驚きがあって、そこから流れが始まったきがしないでもない。 ネットから飛び出したのは、先祖だけでなく、生きている先祖もだった。横浜から帰った夜の出来事。普通にはあまりありえないようなことだったから、驚きもひとしおだった。前の日にどうにかコンタクトを取ろうと決心した矢先に、メールアドレスが書かれた投稿記事が現れたのだから。

幼い赤子の弟を黙って連れ去って、別の女性と生活を始める父。あれから45年もの月日が過ぎている。時間の長さが何だというのか、何も関係ない。母の気持ち、私の気持ち。 弟の姿を一目だけでも見たい。でもそれも叶わない願いかもしれないと、ずっと思い続けてきた。いつかは・・。そのいつかはとは、・・。父が死んだ時だろうか。ぼんやりとそんなことしかもうかんがえられなくなっていたかもしれない。 幸せに暮らしているのだろうから、それだけでもありがたいことなのだし。

つづく


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