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2003年10月30日(木) |
100年後の私たちはユートピアに住んでいる |
きょんにつきあって書店に行き、「美術手帖」11月号を衝動買い。 特集がオノ・ヨーコだったのです。「未来に贈るIMAGINEの力」だそうです。
先日「グレープフルーツ・ジュース」を読んで以来、オノ・ヨーコへの偏見がすっかりなくなり、あっという間に尊敬にまで変わってしまったわけですが、今回の美術手帖の記事も、自分の中の眠ってしまいがちな「何か」が呼び覚まされるような快感を味わえました。
ワタシ、もともとは「コンセプチュアル・アート」というものがとてもイヤだなと思っていたのですが。 アートにコンセプトもクソもあるか! 感じたままの表現、それがアートだ! なんて頑なに。 しかしここのところオノ・ヨーコづいていたワタシは、コンセプチュアル・アートの意義に(ワタシなりに)気付きました。
ワタシが今まで「感じたことをそのまま」というのは、決して間違いではないと思うんですよ。 ていうか、そんなことに間違いも正しいもないわけなんですが。 でも、つきつめて考えていくに、ワタシの「感じたことをそのまま」に、というのは、けっこう受動的であったのではないかなあと。 感じられないものは、表現することができないことになっちゃうわけです。
オノ・ヨーコ的コンセプチュアル・アートというのは「感じようとするアート」「感じさせようとするアート」であり、とても自発的で能動的。 若い頃はそれが押し付けがましくてイヤだったのかもしれないんですが、「グレープフルーツ・ジュース」を読んで「感じようとさせられる」行為がことのほかスッキリすんなりとワタシの中に入ってきまして。
例えば「絵を描こう」と思ったときに、今までのワタシは「何か降りてくるもの」がないといけない、みたいに思っていたわけです。 ワタシが感じたことを、描きたい。 描きたいことを描きたい、みたいな感じで。 でも、そういうものがない状態でも、例えばコンセプチュアルにアプローチすれば、「今日の感情を○○さんに、左手で描いた絵だけで伝えるとしたらどんなものになるだろう。その際は具体的なイメージは一切入れないようにしてみよう」というお題を自分に与えれば、あとは表現するだけ。 しかもけっこう楽しそう。 「あー! 自分は何も感じることができない」なんてジレンマからも解放されちゃったりして。
何が言いたいのかよくわかんなくなってきましたが。 オノ・ヨーコ、キライだったのにな。不思議だな。ということが言いたかったんですよ。たぶん。
美術手帖にはオノ・ヨーコへのロングインタビューも載っているのですが、その小見出しを見ているだけでもなんだか自分の中の見えない力を信じられるような気持ちになります。 以下、その小見出したちです。
すべての女性の力を尊敬します。 二十世紀を暴力と 破滅から救った陰の力を。
私たちが100パーセントの知恵を出し合えば、 不可能なことなどありえない。
100年後の私たちは ユートピアに住んでいる。
ワタシは100年後なんてもちろん生きてないけれど、 この世界がユートピアになるのだとしたら、それはそれで、すごく嬉しい。 たとえありえないことだとしても、それを希望として持てるのであれば、今生きててやってもいいよ。 という、高飛車なじょりぃでございます。
それとも100年後はみんな死んで天国に行っちゃうってことでしょうか(笑)。 それはそれで、またハッピーですけどね。
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