ささやかな日々

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2022年06月30日(木) 
空というキャンバスに、幅広の刷毛でさっと描いたかのような白い雲が幾筋にも伸びて、その根元から太陽が昇って来た。朝だ。今日もきっと暑くなるのだろう。午前4時すでに暑い。
ベランダの植物たちに水を遣りながら、黄色く変色してしまった葉を一枚一枚取り除いてゆく。この間から続く強風ですっかり姿が崩れてしまった薔薇や宿根菫たち。アメリカンブルーはまったく動じる様子がなく。この間病気で瀕死の状態だったことが嘘のような姿を今見せてくれている。花の数こそ少ないけれど、それでもこの暑い中花を咲かせてくれる。ありがたいことだ。ミモザはちょっと枝葉が重たそうなので少し長さを詰めてみた。名無しの権兵衛たちはわしゃわしゃと集まって、まるでその姿は寄り合い所のおじいさんおばあさんみたいだ。

薬飲んでも効かないんです。被害者仲間のAちゃんが繰り返しそう言う。ああ、あるあるだなぁと私は思う。マックス量処方してもらっても効かないって、どうしろっていうんでしょうか、Aちゃんが言う。いや、どうしようもないんだよ、と私は心の中、ぼそり呟く。
何の救いにもならないのだが、私が一番PTSDの症状が酷かった時期は、薬はほぼ効果なかった。マックス量飲んでも効いてるのか効いてないのか分からないことが殆どだった。薬の効き目を感じられるようになったのは、PTSDの症状がだいぶ緩やかになってから、だった。
薬が効かないからと最大量飲んでも効き目が見られないとしたら、それは、薬の効果なんかよりもあなたのPTSDの症状が上回っているんだと思う。そういう時何度も薬に手を出しても、空回りするばかりだ。それならいっそ猫や犬の背中を撫でたり空や海や植物を愛でる方がずっと、落ち着いたりする。
私は一人暮らしをし始めてすぐ猫と暮らした。被害に遭ったのはその後で、PTSDの症状のきつい時期その猫が常に寄り添ってくれた。私の命を繋いでくれた一人がこの、猫だと思う。猫にご飯を食べさせなくちゃと思うことが、私を何とか生に向かわせていた。
もし彼(猫)がいなかったら、私は娘を産むところまで至らず死んでいたかもしれないなぁとだからいつも思う。彼がいて、娘がいて、そうして私が今ここにいる。いくら感謝してもし尽せない。彼らの体温、鼓動、呼吸、それらすべてが私の命を支えた。薬が救ってくれたわけじゃ、ない。
薬は。ある程度薬がコントロールできる程度に症状が落ち着いてはじめて、効果が出てくる。私などは、薬って効くんだな!と思い始められるようになったのは、ここ十年くらいのものだ。いまだって、パニックになったりフラッシュバックしたりするとき薬は効かない。そもそも、解離に効く薬はないらしいし、PTSDに特化した薬もほぼないそうだ。鬱状態や不安状態を何とかする薬はあるけれども、それが全員に効果があるわけじゃぁない。要するに、効果がないひとだってたぶんにいる。それが現実だったりする。
因みに、私はいまも睡眠薬があまり効かない。飲んで辛うじて寝入ることができても二、三時間で目が覚める。薬を飲んでも飲まなくてもそうだから、もう最低限の量の処方に変えた。被害から二十何年、それでもまぁ、そんなところだ。でも私は今生きてるし、笑ったり泣いたりしている。それで、いい。
じゃぁ効かない間どうすりゃいいんだ、という話になる。正直分からない。いまもってしても私には分からない。だから、ぼそっと、言ってみる。隣にいるよ、ちゃんといるよ、と。君は、ひとりじゃない。


2022年06月29日(水) 
今朝の空には筋のように斜めに走る雲が幾筋も流れていた。その筋の根元から太陽がじんわり昇って来た。濃い黄身のようなとろんとした太陽だった。そこから上空の青色までのグラデーションが見事でしばらく見惚れてた。
それにしても、暑い日が続く。今は6月なんだよね、とカレンダーを見て確かめる。ワンコが毎日ぐったりしている。いやもちろんワンコの部屋はクーラーがかかっているのだけれども、それでも。

S君の作品を今年の展示にすると決めて、編み始めているのだけれども、あれ、彼と撮影に行ったのはたった7回だったっけか、と吃驚している。真夜中に電話したり何したり朗読劇をやったりもしていたので、もっとたくさん撮影に出掛けているつもりになってしまっていた。自分の感覚と実際との差異に唖然とする。
そもそも。S君との撮影は、撮影、というよりも喋り場、のような雰囲気だった。いつも彼が近況をあれこれ話してくれて、その話を聞かせてもらう形で撮影が進んだ。彼にポーズをとってもらうよりも、喋ってる彼を追いかけてた、そんな気がする。
さて。これらをどう見せる形にまとめようか。削り落とし削り落とし、そうして絞り込んでゆく。

夕飯に使った食器を洗う真夜中過ぎ。Aちゃんのことをぼんやり考える。きっかけが何かは不明なまま、酷いフラッシュバックに襲われた、と。怖くて怖くて布団に包まり続けてる、と。薬も効かない、と言っていた。
薬、タイミングを逸するとまったくもって効かないんだよなぁと、自分の時を思い出して思う。相当な量の薬を飲んできたけれど、頓服もその都度処方されていたから飲んだけれども。でも、起きてしまったフラッシュバックやパニックに対して立て続けに飲んでも、これ、効き目はなかった。薬が唯一の頼りなのに、その薬が効果なくて、ずいぶん凹んだこともあったっけ。一体自分に何をしろと?と、世界に向かって八つ当たりしたくて仕方がなかったこともあった。
これをすれば治る!という特効薬があればいいのに、と何度思ったことか。でも、ないのだ。そんなもの。この世にそんなものは、ない。
でもそれをそのまま伝えて何になる? 絶望が増すだけじゃないか。そう思うと何も言えなくなる。今の状態のAちゃんに、掛ける言葉が見当たらない。
洗い物をしていたはずなのにいつの間にか手が止まっていた。私がそんなに途方に暮れても、誰も救われやしないのに。

家人の個展用チラシをデザインしながら、少し焦りを覚えている自分に気づいた。私も自分の個展迄あと三か月。こんなことしていて大丈夫なのか?という焦り、だ。そもそもどうして私チラシをデザインしてるんだっけか?と唐突に問いが浮かんでげんなりする。いやついこの間やるって決めたはずなのに。何やってんの自分。
私の個展準備の際に彼が手伝ってくれるわけでも何でもない、まさしくこれはボランティア以外の何者でもない。それが正直何処かで納得がいかないんだ。

性暴力被害を受けた女性に時々見られる性器の痺れ。痛みが生じるひともいるらしい。でもこれ、何も女性に限ったことじゃぁない。男性被害者でもある友人は、セックスをしても射精できないそうだ。男性が射精できないって、どれほどの悲しみなんだろう。怒りなんだろう。絶望なんだろう。私は男性じゃぁないから心底には理解できない。でも。それでも、絶望だろうなぁと、ぼんやり思う。
性暴力が被害者の身体に刻む傷というのは、本当に、計り知れない。


2022年06月28日(火) 
丁寧に顔を洗っていたら、日の出を見損ねてしまった。とても損した気分に陥る朝。植木に水を遣りながら、もう昇ってしまった太陽をチラ見する。日の出、見たかった。
この数日続いた暴風のせいで、薔薇がぼろぼろになっている。薔薇の葉は薔薇の棘で傷つき、酷い子は隣の薔薇の棘に葉を刺さらせたまま斜めになっていたりする。棘を持つというのはそういうことなのだな、としみじみ思う。薔薇を眺めていると、自分の加害性について考えずにはいられなくなる。
名無しの権兵衛のプランターの中ですくすく育つ子ら、秋になったら植え替えてあげないといけない。だんだんスペースがなくなってきている。この子らが誰なのか分かるまで、ゆっくりつきあおうと思う。
息子が担当しているエリアでクリサンセマムが終わったのだけれど、そのクリサンセマムをどけたら下から、これは恐らくレモンの芽だと思われる子らが続々出てきており。あれ、ここに植えたんだっけか、とびっくりする。すっかり忘れていた。まっすぐに陽の光に向かって背を伸ばす子らの姿を見、何だか嬉しくなる。
そして今朝、朝顔が一輪咲いた。赤紫色の子が今年の最初。息子が、やっぱり朝顔ってきれいだねぇ、と言う。私から見ると朝顔は儚い花に思えるのだが、息子にとってはそんなことはどうでもよくて、この、目の前でひらひらと揺れる色の美しさに、彼は見惚れている。同じ朝顔を見ながら、私と息子の違いを知る。

作業部屋に置いてあるルーターやモデムの調子がおかしくて、ネットが使えない、という事態発生。息子も家人もこういう時頼りにならない。どうしてこういうことの知識なんてもっていない私が修理をすることになるんだろう、といつも思う。今回も、「ネットつながってないよ、母ちゃん」「困ったねえ」それぞれに好き勝手言っている家人と息子を無視しつつ、ああでもないこうでもないといじってみる。
何かがおかしい、そうでなければ動かなくなるわけがない。後になって知ったのだが、どうも掃除をしている最中に家人がルーターとモデムを落としたか何かしたかで、ケーブルが取れ、それを彼が適当に繋いでしまったらしい。そんなこと知らないから、私はあれやこれや試みるわけなのだが、うんともすんとも動かない。そうしてようやっと、何か配線が違ってるのでは、と思い至り、早速やってみる。もちろん私は正解がどれであるのか知らないので、ひとつ試みては確かめて、また試しては確かめて、を地道に続けるのみ。あっという間に汗だく。どうして我が家の作業部屋にだけクーラーがないのだろう、とつくづく不思議に思う。
結局繋がったのは夜も近い時刻。嗚呼、私は何をしているのか。

現代思想7月号が加害者特集ということを家人から教えられ、早速購入する。冒頭に小松原織香さんと森岡正博さんの対談記事。これは読まねば、と早速頁をめくって頭を抱えた。この文字の小ささ! 老眼真っただ中の私はとてもじゃないがまともに読めない。困った。読む気満々でページを捲ったのに、これはあんまりだ。
文字の大きさ、字間、行間、余白の用い方。もちろんフォントも。こういったことすべてをデザインするデザイナーが、きっと、若いひとなのか老眼とは無縁のところで生きているひとなのか、なんだろう。彼らには見えて年老いた私にはとてもじゃないが読めない。読み続けられない悲しさ。しみじみ噛みしめる。
昔母が言っていた言葉を思い出す。「老後は読書を楽しむんだと楽しみにしていたのに、実際老後になったら文字が読めなくなってて、読書を楽しむなんてできないのよ」。なるほどなぁと思う。文字を追うのが苦痛にしかならなくなってしまったとも母は言っていた。
老人にもやさしい本づくり。大事なんじゃないのかしら、と今更だが思う。

今日も今日とてカナヘビ君の餌採集、息子がせっせとバッタを確保してゆく。このくらいあれば今日は充分かなあと言いながら、いやあともうちょっと、と次を探す。赤ちゃんのバッタは捕らないんだ、見つけても逃がすんだよ、と言う。どこでそんな知恵を得たのか。彼のそういうところ、私は好きだ。
そしてカナヘビ君は、息子が設置した樹の皮の下から頭だけ出してきょろきょろしている。こうやって見ると、まぁちょっと、かわいいかもしれない。いや、触ったりは私は絶対したくないけど。

書き忘れていたが。今日は次回の加害者プログラムの打ち合わせで、S先生と会った。孤立化とつながり。加害者にも被害者にもあるそれら。必要なそれら。言葉にすると同じだけれど質が異なるよねとS先生とやりとりしながら考える。また、加害者と被害者の、その後の性の問題についていつか扱いたいねとも話す。
帰りに商店街を潜り抜ける時、さつまいもソフトを横目で見て、今日も諦める。食べたいけどソフトクリームに350円はちょっと。嗚呼、あと少し安ければなぁ。
汗だくになりながら帰る。6月が終わろうとしている。


2022年06月27日(月) 
今日は友人Nの手術の日。朝あまりにばたばたしていて電話も何もできなかった。そのまま開始時刻に突入してしまい、いまだ連絡がとれてはいない。きっと大丈夫、と思う一方、もしものことがあったら、なんてどきどきしてしまっている。どうか何事もなく無事手術が成功していますように。

息子がカナヘビなる生き物を捕らえてきた。育てるんだと勇んでいる。見せてもらうとヘビというよりトカゲに見えるのだが、違うのだという。バッタや小さな虫を食べるが蟻はダメなのだとか。じゃぁ一体毎日毎日食べ物どうするの?と訊ねると、捕まえて来るんだ、という。
早速ワンコの夕の散歩途中で昆虫採集開始。私はとてもじゃないが草むらに入る気がしない。今入ったら蚊の餌食だ、間違いなく。そう思うとどうしても躊躇われていけない。息子は気にせずずかずか空地の草むらに入っていく。しかし。採集が下手で、見ていられない。結局ワンコを引き連れ私も向かう。すぐ小さなバッタを見つける。「母ちゃん、どうしてそんな簡単に見つかるの?!」息子が真剣なまなざしで私に尋ねて来る。別に不思議なことは何もない、目を皿にして草むらに手を伸ばすだけだ。また一匹、さらに一匹、と私が捕まえる。
帰宅してカナヘビの虫籠の中にバッタを移し入れる。しばらく待っていたらカナヘビがしゅっと何かを伸ばしてバッタをぱくん。噛むというより、ぱっくん、という感じ。こんなに身体は小さいのに、こいつは立派なヘビなのだな、と、改めて感じ入り、寒気を覚える。私はヘビ、トカゲ等、爬虫類が大の苦手なのだ。籠を通して見ている分には何とか耐えられるが、とてもじゃないが触る気がしない。
しかも、餌のために捕って来たバッタをカナヘビの加護に入れ替えるのがこれまた難問で。ぴょんぴょん跳ねて抗うから、気が気じゃない。もし部屋に逃げだしたらどうしよう、と冷や汗ものである。息子は全く意に介さずなのだが。
「かわいいなあ、もう一匹どこかにいないかなあ、飼いたいなあ!」。彼の夢は無限に拡がる。しかしその夢は母にとってもはや苦行以外の何者でもない。

家人が近々京都で個展を為す。そのチラシを作るよう命ぜられる。お小遣いくれるの?と言ったら、いえ、ボランティアですと即答されがっかり。でも彼はDTPソフトを使いこなせないひとなので、結局私がやるほかに術がないという現実。わかりましたよ、やりますよ、その代わり私の個展の時ちゃんと援助してね。心の中、そう言ってみる。
今回の写真集について、私は正直、理解できていない。ちっとも理解できていない。いや、ほぼ理解不能と言って過言では、ない。写真集に使われている彼自身を捉えた写真はすべて私が撮影したのだけれども、何と言うか、それをこういうふうに使って編むのはやっぱり彼の才能なんだろう。これまた私には理解不能なのだけれども。
要所要所は分かる。ああこれは彼の不安や恐れなのだな、とか、ああこれは彼のトラウマなのだな、とか。でも、この流れがよく分からない。ここで終わるのも分からない。つまり私はこの写真集をちっとも分かっていない。
そんなんでチラシ作りができるんだろうか、と正直不安だ。でも、素材をもらったからにはデザインするほかないわけで。
理解してない私から見た世界でいいのだろうか、あなたは。と、彼に訊いてみたくなったが、ちょっと臆して訊けなかった。

私の個展もあと3か月に近づいてきた。やることは山積みだ。


2022年06月25日(土) 
ようやっと怒涛の日々が終わった。もうまったく余力がなかった。その感じだけがくっきり残っている。
というのも、終わった途端すべてがすっ飛んで、予定表を見なければここ数日何があったのかを思い出せないという具合。予定表を見て辛うじて、これとこれの用事があったらしい、ということだけは把握できるのだけれども。
解離性健忘って怖いなって、改めて思う。いやそもそも、そんなに私解離し続けてるのか、と呆れる。でも確かに微かに残る映像はすべて、俯瞰図だったりする。もう被害から何十年経ているのにまだここか? それがどうにもこうにも受け容れられなかったりする。もういい加減、もうちょっとマシなところにいけないものなのか? と。
複雑に絡み合った被害があなたに与えたものは計り知れない、とカウンセラーが口酸っぱくして言うけれど。計り知れなさすぎるだろ、と時々唾棄したくなる。

24日、大学での講義。今度こそ原稿を見ないで喋ろう、と思っていたのだけれど、とてもじゃないが無理だった。喋ってるうちに自分の背後に私の眼は移動し、私を含めた映像を脳に映し出す具合で。ああもう無理だと思って必死に手元の原稿を読んだ。
居眠りしている子、あらぬ方向をぼんやり眺めて頬杖してる子、俯いてこちらをまったく見ていない子、そういった子たちの合間合間に、まっすぐにこちらを見て来る子らの視線も。そういうもんだよな、私が学生の時もたしか、そんな感じだったよな、とそんなことを思ってみたりして何とか自分を保つ。
講義後、Kさんの紹介でSさんと会う。ああこの方がSさんか、と思ったのを微かに覚えている。でもあまりに講義の直後すぎて、そう思えたのはだいぶ時間が経ってからだったのだけれども。
Kさんの紹介で、家族から被害を受けているという子の話をうかがう。それが終わってから、Kさんと少し打ち合わせした。

最近息子を寝かしつけていると家人が隣にやってくる。足を絡めて来たりするのだけれど、それがどうにもこうにも嫌で受け容れられない。たかが足を絡めただけじゃないか、腕を乗せただけじゃないか、確かにそうだ。たかがそれだけ。でも嫌なのだ。猛烈に嫌なのだ。同時に、猛烈な嫌悪感を感じてしまう自分に、猛烈に腹が立つ。
家人は私のパートナーだ。分かってる。一緒に暮らしているし籍もいれたし子もいる。分かってる。子ども作れたやんか、と思うのだけれど、その時は何とか必死に頑張れた。でも。それが終わってしまい、PEの治療が進むにつれて、無理さ加減が増大していった。
分かってる、大事なひとだ。セックスできるものならしたい。でも。
無理なのだ、受け容れ難いのだ、肌がくっつく、というだけで、無理だ、と心が拒絶する。家人をそんなに嫌っているのか? いや違う、そうじゃない、そうじゃなくて。
肌が触れる、というそのことが、嫌悪、なのだ。
思い出してしまうのだ、加害者の、繰り返された彼の加害行為が。思い出されてしまうのだ。もう何十年も前のことなのに、今ここで繰り広げられているかのような錯覚を起こしてしまう。とてもじゃないが受け容れられない。無理。
何をやってるんだろう、と思う。家人が私に触れるのは当たり前だろう、夫婦なのだし、家族なのだし、一緒に暮らしているのだし。当たり前のはずだ。でも。でも。でも!
肌がぺたり触れ合う、さらり触れ合う、それだけで戦慄するのだ、私の身体が。勝手にそうなってしまうのだ。
そういう自分に同時に、ぞっとする。
この時期電車の中バスの中でも、肌が触れる時が時々あるのだが。あの時私は全力で戦闘態勢に入ってしまう。隣に座った人間の肌が私の肌にくっついた瞬間、隣人は全力で私の敵になる。攻撃対象になる。何やってんだ自分、と思う隙間もなく、とにかく何かちょっと向こうが動けば、攻撃してやる、というその一心で、私の気持ちは集中してしまう。いつかそうして私は他人を実際に攻撃し怪我をさせてしまうんじゃないかと怖い。そのくらい見事に戦闘態勢に入ってしまう。

自分が嫌だ。何より自分が嫌だ。そういう自分が嫌だ。


2022年06月22日(水) 
日記を書くことも叶わないくらい昨日は疲れ果てていた、と、微かな記憶がそう言っているのだけれど、それ以上のことを思い出すことができない。本当に私の脳味噌は壊れていると思う。たった一日前のことさえ定かじゃない。どうかしている。
急に不安になって、予定表を見てはっとする。そうだ、昨日はH君との撮影だったのだ、と予定表の書き込みを見て思い出す。もしここに書き込みが無かったらと思うとぞっとする。きっと私は昨日のことを丸々思い出せずにいたに違いないから。
H君といろいろ話した。家族のこと、お金のこと、パートナーのこと。撮影の間中ずっとしゃべっていた気がする。気がするのだけれど、それ以上のことをこれまた思い出せない。微かに浮かび上がって来た映像の中、彼はいろんな話をまっすぐにしてくれた、という感覚だけが流れてゆく。もちろん私もそれに応じるように話したと思う。
H君が、生命保険を掛けた時自分は大人になったのだなぁと思ったと笑った、そのことを今くっきり思い出す。マンションを買った時とかじゃなく、生命保険を掛けた時、というのが、H君らしいなぁとちょっと思った記憶が。でもそれ以上のことを思い出せない。ほとほと自分の脳味噌を恨みたくなる。

今朝見事な曇天で、うねうねとうねる鼠色の雲が見事だった。少し前まで雨が降っていたことを、ミモザの葉についた雨粒で知る。そうか、こんなに降っていたのか、と。宿根菫の葉の上にも雨粒がくっついていた。きっと風も強く吹いていたに違いない。そうでなければここまで雨粒は届かない。
起き抜け立ち上がって気づく、足首の辺りから下が軽く痺れているな、と。このところ足のむくみが酷い。毎晩のように足がぱんぱんになる。でもこの足の痺れは何だろう。今度整骨院に行ったら先生に訊いてみないと。ちょっと不安。
久しぶりにヨガへ。やはり身体を動かすのは気持ちがいい。具合がいっとう悪かった頃は外出自体ができなかったから身体を動かすなんてことは思い至りもしなかった。そもそもあの頃汗をかかなかった。あれは何故だったんだろう。いつだって身体が冷え冷えしていた。
ヨガをやりながら、いつのまにか心が空っぽになっていた。夢中になってただ身体をうごかすことに集中してゆく自分。頭も心も空っぽとはこういうことを言うのだろうなと、ちらっとそう思った。でも思った直後また頭も心も空っぽになって自分の今に集中していた。
そのくらい集中してやっているのに、左肩の強張りは、一時間も過ぎると再び現れ、私をちくちく刺してくる。主治医から習った、身体をさらに強張らせて10数えてぱっと放す。それを繰り返しやってみる。これ以上痛むようなら薬を飲もう。でないと頭痛も運んできそうだ。
ヨガを終えた後、この集中力を読書に使おうと試みたのだけれど失敗。まるっきり読めなかった。本を開く、ということをまず叶えるだけで重労働だった、なんて言うと、なんだそれは、と思われるだろうけれども、でも、本当なんだ。
シャワーを浴びる、入浴する、これも一大決心をしなければいまだできない。一大決心をして、シャワーを浴びるんだ、浴びるんだ、浴びるんだ!と何度も自分に言い聞かす。しかしもう一人の私が反対のことをする。どうやって浴室から遠ざかろうか、と必死に考えている。あべこべ、ちぐはぐな私と私。
一事が万事そんな具合。思い返せば、常に右と左で別のことを考えている気がする。結局、一頁もまともに読めず、ちっとも先に進めないままで終わった。

それにしても今日は実にいらいらしている日だった。何をするにしてもいらっとする。ひとの声がそこにあるだけでまずいらいらするし、たとえば息子や一緒にいたCちゃんに八つ当たりばかりしてしまった。本当に申し訳ない。あとで謝ろう。
料理らしい料理ができる気がしなくて、これから夕飯を作ろうと思ってもまるっきり拒絶反応が。
こんなふうになるくらいなら、もうまるっきり何も覚えていない、というふうになるといいのに。こんな時、ヘルパーさんを利用できるならきっとずいぶん気持ちが楽だったのかもしれない、と思うと同時に私には無理と思う。何故なら、家に赤の他人を招き入れることがしんどいからだ。友人なら大丈夫。こんなふうにずるずるいつも身体が強いわけじゃない。赤の他人の時と友人の時と、本当に天と地の差なのだ。

結局、今もまだ夕飯の後片付けをこなせていない。これを書き終えたらできるかぎり向き合ってみよう。
最近本当に、集中力が続かない。斑、だ。それが、正直、かなりつらい。


2022年06月20日(月) 
午前4時。東の空を見やったらピンク色に燃え上がる様に出会った。地平線から拡がるその色は徐々に徐々に大きくなりあっという間に空高くまで輝いたと思ったら、今度は瞬く間に消え去った。本当に一瞬の輝きだった。
後に残った曇天は、のんびり横たわっており。先程のあの輝きのことなどちっとも気に留めている様子はなく。その瞬間瞬間がまさに唯一無二なのだなと改めて思う。そんな、朝。
早々に息子が起きて来た。サンドウィッチを作って差し出す。もちろん彼の大好きなミニトマトも添えて。
朝顔の蔓がもう息子の背を越えて伸びてきている。蕾もちらほら。「今年早いね」「だって種撒くの早かったじゃん」と息子と朝顔を見上げる。挿し枝した紫陽花は、順調に育っている。ありがたいことだ。アメリカンブルーが今朝も咲いた。四つの青い花。微風にふるふると揺れる花弁。かわいい。

ふだん午後からのプログラムを午前中に変更してもらい、朝から依存症施設へ。今日は次回やるフォトコラージュの素材を撮影することに。今の自分の中の暗い部分を形にする、ということで、そのための素材を二人一組になって近所で撮影。
早朝の曇天が嘘のように晴れ渡り、みんなして暑いね暑いねと言い合いながら歩く。まだ6月なのにこんなに暑くて夏はどうなるんだろうね、なんて話しながら。はじめましてのひともいて、のんびり進む。
自分で午前中にプログラムを変更したくせに、時計が12時を指しているのを見て「え?!12時?なんで?」と私が慌ててしまい、みなにきょとんとされた直後大笑いされる。相変わらず抜けている自分。
午後はS先生の知り合いの法務教官であるTさんと会う。

「どうしたら安全か、このひとは敵か味方かっていつも考えてしまう」「ほんと戦場にいるみたい、PTSDあるあるなんだろうけれども」とAちゃんが呟くのを聞いて、ああ、私にもそういうのがあったなと思う。でも、同時に、ちょっと違うな、とも。
今のようにPTSDが当たり前にあった時代ではなかった、私の時は。私が被害に遭ったのは阪神淡路大震災の直後。PTSDや心のケアというものが言われ始めたのはまさにこの、阪神淡路大震災から。それまでそういったものは日本ではほぼ、なかった。だから、私には当時、自分の病気に対する知識がなかった。主治医が説明してくれたこともあったと思うのだが、混乱のさなかだった私はそれらを次から次に失い、だから病識というものがまるでなかった。それに比べ、Aちゃんはちゃんと主治医から教えられたことを受けて、自分が今解離が少しおちついて侵入症状が出始めている状態、ということへの認識があったりする。これ、大きな違いだな、と。
自分の状態に言葉が与えられているというのは、それを認識するうえで明らかな違いを生む。こんな感じ、あんな感じ、ではなく、これこれこういうもの、と言い表すことができるか否か、はその後大きな差異が生じる。
やっぱり。時は流れてるんだな、と。それと共に少しずつほんの少しずつかもしれないけれども、社会は変わっていっているのだな、と。そのことを、強く、感じる。
もちろん。充分なんかじゃない。まったくもって充分なんかじゃぁない。そのことは痛いほど分かっている。それでも。

時代は日々刻々と動いているのだな、と。そのことを、思う。


2022年06月19日(日) 
ふだん、眠れても3時間がせいぜいなのに、昨夜は横になったと同時に意識を失い、気づいたら朝になっていた。目が覚めてびっくり、辺りが明るい。こんなことってあるんだなと笑ってしまう。
よほど昨日の「聴く」ことがしんどかったんだな、と改めて思う。まぁでも、そりゃそうだよなぁとも思う。彼らの認知の歪みの酷さに、Jさんは目をぱちくりしていた。彼らはまだまだ自分のより酷い加害行為を口にしていなかったにもかかわらず、だ。もし、彼らが、もっと正直に、もっと赤裸々に自分を吐露していたなら。Jさんはもう机に突っ伏していたんじゃなかろうか。そう思う。
じゃぁ私は? 私は。いつもここでちょっと途方に暮れるのだ。
私は、彼らの話を、認知の歪み、と一刀両断できないのだ。いつも。何と言うか、一歩間違えばきっと誰もがこういう状況に陥る、私もきっと、と、そう思えるから、だ。それをカウンセラーにちらり話したことがあるのだが、カウンセラーはその時、「あなたはいつだってことを我が事として受け止めるからねえ」と苦笑していた。どうなんだろう、自分で自分を省みると正直よく分からない、ただ、他人事ではない、とは思う。加害性も被害性も、誰もが等しくその裡に秘めているもの。どちらかだけ、の人間なんて、存在しない、と、そう思う。
だからこそ、彼らの話を自分事として聴くと、とてつもなくエネルギーを奪われるのだ。全身を太陽で焼かれているような冷たさ、とでも言おうか。そんな相反するものに引き裂かれてゆく、そんな心地にいつもさせられる。

「聴く」ことは、「待つ」こと、だと思う。特に私のようなせっかちな人間にとって、「聴く」とはまさしく「待つこと、それ以外の何者でもないな、と。そう思う。
たとえば語り手が言い澱み、言葉を探している時。こう言いたいんじゃないかと予想ができてしまう時。それでもじっと待って、相手に語ってもらうことの大切さ。決してこちらから先走って言葉を奪わないことの大事さ。
親子でもよくあることだ。子どもの言葉や行為が、あと一歩のところでもどかしかったりいらいらしたりする時、先走って手を貸してしまう、こっちがやってしまう、といったこと。よくあると思う。
でもこういう時こそ、「待つ」ことが試されてるんじゃないか、と。思うのだ。
言葉や行為を、奪ってはいけない。言い澱んだり躊躇ったりしている時こそ、「待つ」。こちらがそれを試されているんだと思う。
にしても。昨日はとにかく疲れた。拭き掃除にさんざん使われた後、洗われてぎゅうぎゅうに絞られかちこちになったぼろ雑巾みたいだった。もしあれが、友達との会話だったら、私はきっと先走って、相手から言葉を奪っていたに違いない。何度も何度も。ここは対話の場なんだ、という意識が私をそうさせずに済ませたに過ぎない。たまたまその意識が強くあったから、「待つ」ことができたに過ぎない。
自戒を込めて、思う。待つことができなければ対話は成り立たない、と。

今日は世間で云うところの父の日で。数日前、息子がせっせとアイロンビーズでトラを作って家人にプレゼント済。さて今日はどうしよう、と思っていたら、家人の方から外でご飯食べようとの提案があった。ではそうしようということで夕方関内の方まで出掛ける。
ああ世の中はこんなに賑やかなのだな、と、店に入って改めて気づく。みんなコロナに疲れてるんだろうなぁとも思ったりする。テーブルの中央に立った透明な衝立。家人が苦笑しながら「誰も責任をとりたくないから、こういうものが当たり前に置かれるんだよな」と言う。ああなるほど、と思う。

それにしても、身体が痛む。テニスボールでせっせとケアしてみるのだが、追いつかない。仕方なく鎮痛剤を投入。効いてくれるといいのだけれど。
今夜は本を少し読めるだろうか。読みたいな。一頁でもいいから。


2022年06月18日(土) 
加害者プログラムに出席する日。今日は大船の方へ。Jさんの希望で、オブザーバーとして会に参加する日でもある。
Jさんと大船で待ち合わせして出掛けるのだが、ふたりとも商店街が大好きで、もう近くを通っただけでわくわくどきどき、ふたりしてあれも安いこれも安いあああっちも!なんて状況に陥ってしまう。果ては、お芋のソフトクリームなるものを見つけてしまい、ああ食べたいねぇ、と話す。
でも、これからプログラムに出ることもあり、何となく地に足がついていないような、そんな感覚を覚える。落ち着かないんだろう。今日はひとりひとりから、自分の加害行動について語ってもらうことになっている。もうひとりひとりから、という時点でしんどい。何人出席かまだ分からないけれども、ひとりひとりの話に全力で耳を傾ける、ということがどれほどエネルギーを要することか、もう考えただけで頭を抱えたくなる。でも、彼ら加害者は自らのことを語る言葉を持たない、というか、自らを語る場がそもそもないし、ないからこそ語る機会がほとんどないから、「語る」というのはとてもとても大切な行為なんだ。
彼らにはもともと、説明責任、というものも、ある。しかし彼らは通り一遍の謝罪しか思い浮かべられなかったりする。そもそも自分の罪を語ることができない。だからこそ、こういう「語る」機会は大事なのだ。

会が終わった時には、頭は沸騰状態だった。それでも、彼らはすべてを語っていない、きれいな上澄みしか語っていない、という実感がある。でもこれはまだ出だしなのだ。それも仕方がないかもしれない。これをどう、彼らの語りたくないところにまでもっていくか、ってことなんだろう。
語りたくないこと、自分でさえ目をそむけたくなること、そういったものこそ語られなければならないと私は思う。そういったものに日の光を当てる。彼らに目を背けさせない。そういったところにまで至らなければ、この対話の意味は半減する。
被害者の被害その後を知ってもらうことも重要なポイントだ。でも、それだけじゃ、だめなんだ。彼らはぺこぺこすみませんすみませんと頭をさげるばかり。一体何にすみませんと頭を下げているのか、考え及んでいなかったりする。すみませんと言うしか術がない、というところで頭を下げている彼らがいる。

Jさんははじめて参加したからか、目が飛び出さんばかりの勢いで驚いていた。みんな見事に病人じゃないか、と。これはもう病気としかいいようがない、そういうのを目の当たりにして、Jさんは、もう圧倒された、とぼそり言った。こんな現実があるんだね、と。私は苦笑するばかりだった。

それともうひとつ。
誰もが、すべてのひとびとが、加害者にも被害者にもなり得る、と。私はそう思っている。だからこそ、そこから目を背けてはいけないとそう信じている。
そう、まさに。
今日この後、あなたが、あるいはあなたの大事な人が、被害者になるかもしれない。はたまた、加害者になるかもしれない。誰もに等しくその可能性がある。


2022年06月17日(金) 
どんよりとした雲が空を覆っている朝。天気予報は昼頃から暑くなると告げている。今日は通院日。何となく朝からばたばたしている。いつものことと言えばいつものことだけれど。
息子は朝顔に、私は薔薇たちにせっせと水やり。息子が言う、「カマキリいたらいいのになぁ、そしたらこのアブラムシの大群食べてくれるのに!ばぁばの家でやっぱりカマキリ捕まえればよかった」。なるほど、その手があったか、と私も思うのだが、カマキリがここから飛んでいってしまうことも考えられるし、と私が言うと、だから捕まえるのやめたんだ、逃げられちゃうと思って、と息子。
紫陽花の挿し木は萎れてしまった子も一本あるのだけれど、今のところ順調に育っている。ありがたいことだ。改めて近所の紫陽花をあれこれじっと観察してみると、私がこれまで気づかなかった八重の花弁の子が結構いることに気づく。近所にこんなにもあったのか、と改めて驚き。気づかないって怖い。知らないって怖い。
電車に乗り病院へ向かう。途中席が空いたのでそそくさと座って本を開いてみる。藤岡淳子著「アディクションと加害者臨床」。ようやく古本で少し前に手に入れた。でもなかなか読み始められずにいた。まだ読み始めたばかりなので何とも言えないが、私が加害者と対話を進めるにあたってひっかかっていたあれこれが詳らかにされているような気がする。ちゃんと向き合って読まないと、と改めて気が引き締まる。
あっという間に最寄り駅へ到着。慌てて降りる。カウンセリングは先週の続きゆえのっけから暴力の話に。写真が暴力というのなら、正義も常識もある種の暴力だよね、とカウンセラー。ああなるほど、と思う。扱い方を一歩間違えれば、本当に何もかもが暴力になり得るな、と。
こんなことも話した。日本において対話の文化というのは育っていないのではないか。実際対話すべき場面であっても、言いっ放し聞きっ放しがなかなかできない。必ず最後「納得」が求められる。納得して次に進むという文化。つまり、違いを許さない文化。フランスなどだと結論を求めない対話が当たり前に日常にあったりするよね、とカウンセラーが言う。確かに日本のこの、納得を求める風潮がそもそも、互いの違いを認め合うというものとは相容れないというか、互いの違いを違いのまま置いておくことを許さないという空気をうんでいる気がする。それでは「対話」はいつまで経っても進まない。
それにしても今日は身体が痛んだ。特に午前中、カウンセリング前が酷くて、カウンセリングを始めた時は身体のあちこちを私がぎゅうぎゅう押しているところだった。カウンセラーが、ちょっと酷い痛みっぽいわね、と言うので、うーん、いつものことと言えばいつものことです、と笑って応える。そうなのだ、酷いと思うと酷さ痛さが増して感じられるから、まぁこんなもんさといつも考えるように努めている。このくらいまぁ耐えられる程度よね、と。そういうふうに考えると、不思議と、何とかなる。
改めて訊いていい?加害者との対話はいつから考えていたの? カウンセラーにそう問われたので改めてできるだけ時系列で話をしてみる。改めて話してみると、加害者との対話への流れは十年二十年前からおのずとできていたような気がする。きっかけが2017年のS先生との出会いであったというだけで。
あっという間にカウンセリングの時間は終わりが来てしまった。挨拶して部屋を辞する。次は診察。
主治医に、前も話したのだけれども性器の周囲の痺れがあって、それが最近ちょっと強いんです、と伝える。被害を受けた女性にはそういう症状がよくあるのよねぇと主治医。どういう時にその痺れが強くなる?と問われ改めて考えると、ああなるほど、と思うところが結構あって、つくづく身体というのは心と合わせ鏡の関係というか、もっと直截に言えば密接につながっている、のだな、と、そう思う。
薬を減らしたいのよねぇ、でも今これ以上減らせないわねぇ、と主治医。でもいずれね、減らしていきましょうね、にっこり笑顔を浮かべながら主治医が言う。私はちょっと返事を躊躇う。まだそういう覚悟は私の裡にない。
帰り道、ちょっと遠回りをしてカフェヌックに立ち寄る。モノクロ写真の展示と聞いて楽しみにして来たのだけれど。いや、確かにグレーのトーンは実に美しく、グループ展であるにも関わらずコンパクトにうまく統一されていてなるほどなと思う。でも、何だろう、何と言うかこう、物足りない、のだ。ただグレートーンが美しいというだけで、はっとする面白味やぞっとするような美しさは、何処にもなくて。残念だなと思う。折角ここまで見に来たのだけれど、な。
帰りの電車の中、ぼんやり窓の外を眺める。家人が帰国し、数日が経つ。別に彼が仕事をサボっているわけではないのだが、私は不満を覚えている。何故だろう。改めて考えて、気づく。留守中あれやこれや私の負担が増大したにも関わらず彼からは何もメッセージがない、そのことが私は引っかかっているのだな、と。いまさらだけれども気づく。
いや、そんな大げさにお礼を言ってくれとか手伝いをしてくれとか、そういうのとはちょっと違う。こう、家人が当たり前のように私のことを顎でこき使う、そのことが不愉快だったりするのだ、私には。
嗚呼、人生、日々修行だな。死ぬ日がやって来るまで日々修行。死ぬその瞬間、笑っていられたら、もう万事オッケー、と思っている。だからこそ、一日一日を精一杯生きることが大事なんだよな、と。そう、思う。


2022年06月15日(水) 
雨の朝。ワンコに、ごめんよ雨なんだ、と謝ることから始まる。帰ってきたらその時は雨降ってても降ってなくても散歩行くからね、待っててね、と。繰り返し言い聞かす。
橙色の小ぶりの薔薇が咲いている。そこだけぽっと灯が燈ったかのように明るく見える。そういえばうちには赤やピンクの薔薇はない。私の好みがあからさま。いつかくすんだ赤色の大輪の薔薇も欲しいな、とは思うのだけれど。まだな気がする。きっと、当分先。
アメリカンブルーがぽつ、ぽつ、と咲き始めて嬉しい。もう病葉は今一枚もなく、美しいきれいな緑色の葉が茂るばかり。ありがたいなと思う。もうあんなひどい病気にさせないためにも、日々見つめて過ごそうと思う。
でもそれは植物だけの話じゃぁない。ひとだって、誰かが見守っていてくれる、と思うと強くなれたりするものだ。誰も自分を見守っていてはくれない、と思えてしまっているうちは、足元が不安定で心も閉じがちだったりする。植物もひとも、つまり、自分を見守ってくれる誰かの存在によって、美しく花開いたり輝いたりできる。

この二週間、頭痛の回数やホットフラッシュの回数、身体痛についてをできる範囲でメモし続けた。思っている以上にホットフラッシュが頻発していることに気づく。それと身体痛、毎日どこかしらに痛みが生じている。整骨院の先生にそのことを話す。特にこの二週間は夜になると足の甲が痛むのと左下半身が重怠くなるのが酷かった。先生が私の立ち姿をチェックすると、「あー、螺旋状に身体が捩れてるよ」と苦笑。え、と私が振り返ると、こっちがこっちに、そっちがあっちに捩れてる、と教えてくれる。私、これをこっちに直そうと思って頑張ったんですけど、と言うと、それ故に捩れたんだねぇとさらに笑われた。施術中に、家でできるケア方法を3個ほど教えてもらう。
頭痛については、緊張型だね、とぼそっと呟いて、いつものようにマッサージしてくれる。てっぺんから後頭部にかけてマッサージされると、まさに言葉通り、痛気持ちいい、という具合に。左肩のこわばりも酷くて、先生がせっせと解してくれる。
とりあえずまた二週間後、その間はセルフケアをせっせとして過ごしてね、と言われる。でも。この病院に来始めた頃を思えばどれほどよくなったか。最初は週に2、3回ここに来ていた。ああ、でも、その前は別の整形外科のSS先生に、ブロック注射を週に2、3回打ってもらっていたんだったっけ。あの頃は本当に痛みが酷くて。そんな具合だった。それを思えば、今はなんて快適なんだ。私、日々元気になってるじゃないの、と、にんまりしてしまう。

帰宅すると家人が帰宅していて。「寂しかったぁ?」とにまにましながら訊いてくるので、ちっとも寂しくなかった、と即答すると、「いやいや寂しかったでしょ!」と。いやいや、私も息子ものほほんと留守を楽しんでいたのだよ家人。ほんとに。だって、そういう機会なかなかないでしょう?・・・と言いかけて、やめといた。家人がショックを受けそうだから。心の中だけにしまっておくことにする。

被害に遭い酷いPTSDと解離を背負って何度も就活するもその度人間関係で躓き仕事を続けられなくて苦しんでいるAちゃん。だのにAちゃんの周囲の友人らは、働けないのはAちゃんの努力が足りないからだと非難するそうで。
冗談じゃない、本人が一番努力し苦しみ自分を責めてる。被害者を余計に追い詰めるような真似、どうしてするんだろう。善意? いや、そういうのは善意の悪意っていうもんだ。
性暴力被害に遭った後何が一番苦しいって、それまで培ってきた人間関係が根本から崩壊することだ。ひととの適切な距離感、信頼関係、そういったものが根こそぎ破壊される、それが性暴力だ。一度崩壊した他者との距離感や他者との間に培う信頼関係といったものを再構築するには、長い長い年月がかかる。ふつうひとはそれを幼い頃自然と身につけ育む。それを今度は意識して、まさに、再構築、していかなきゃならない。その間ずっと被害者は、被害を引きずり続けることに、なる。
でもだからって、被害者が笑うのはおかしいか? 喜んだり泣いたり笑ったりするのはそんなにおかしいか? 被害者としておかしい? 
冗談じゃない。被害者である前に私たちはひとりの人間だ。笑いもするし泣きもする。全身で叫びもするし沈黙もする。世間の抱く勝手なイメージを、私たち当事者に押し付けないでほしい。
私は被害から二十何年生き延びて来られた。でも途中で散った友人たちも多くいた。被害者のレッテルを貼られ続けいまだ笑うことさえ怯える毎日を過ごしている友たちもいる。そんなのおかしい。被害に遭って多くを失い病を被ったからこそ知れたこともある。私達が幸せになってはいけないなんて誰が決めた?
嗚呼、お願いだから死なないで、みんな。諦めないで。幸せになることを諦めないで。幸せを味わうことを拒絶しないで、放棄しないで。あなたたちはもっともっと幸せになっていい、笑っていいし泣いてもいいし喜んでもいい。そこに生きてることだけでもう、それは素晴らしいことなんだ。

だからお願い。生きて。


2022年06月14日(火) 
挿し木してみた紫陽花たち、萎れてしまった子もいるのだけれど、踏ん張って立っていてくれている子らもいる。せっせと水を遣る。一本でも根付いてくれたら嬉しい。
アメリカンブルーがとうとう咲いた。灰かび病と分かって丸々刈り込んだのが春。以来、少しずつ少しずつ緑が茂り出し、ああ嬉しいと思っていた。花はまだ先だろうなと思っていたから、とにかく無事に茂みができるといいなと、そう思っていたのだが。今日ふと見たら、あの青い青い花が二つ三つ、ちらちらと咲いているのを見つけた。ああ、私はやっぱりこの子らの青色が大好きだ、と改めて思った。この、濁りのない青色が。
薔薇の樹、何枚かうどん粉病の葉を見つけ、急いで摘む。この季節、努力はしているつもりなのだけれどいつもうどんこ病になる子らが出てきてしまう。ごめんね、と手を合わせて葉を摘む。せっかくこの世に現れ出たのにすぐ摘まれてしまう悲しさ。本当に申し訳なく思う。この子らが好き好んで病気になったわけじゃないのに。
息子の朝顔は順調に育っている。互いに絡まり合って蔓を太く伸ばしている子らがいっぱいいる。こっちだよ、と網の方に誘導するのだけれど、ここまで絡まり合った蔓を解く術もなく、もうそのままにしている。下手に折ったら大変だ。とにもかくにも、うまく網に辿り着いて上へ上へ伸びてくれるといい。

家人がいない間に一晩だけ預かって、と娘が言うので、お孫を預かることに。シングルマザーを私もやっていた、その頃、そんなふうに預かってくれる人がいなかった。あれはあれでしんどくも楽しかったけれど、でもやっぱり息抜きは必要だと思う。そういう次第でやってきたお孫、せっせと喋る。訥々と喋る。一生懸命たっぷりそうしてお喋りしてくれるのだけれども、その半分以上がばぁばには難解で、話の内容が半分以上理解できてなかったりする。なんだけども、最後に「約束ね!」って指切りげんまんすることになり、どうしよう意味分かってないんだけども、とばぁばどぎまぎしてる。いつかきっと「ばあばあの約束覚えてる?」とか確かめられてしまうに違いない。それまでには何とか、彼女のお喋りを理解できるようになりたいと思っている。
それにしても。息子がこてんと寝付くのに比べ、お孫は寝ない。ちっとも寝ない。一時間以上添い寝して、もう大丈夫かなとそっと私が起き出すと、少ししてとことこと私の作業部屋にやって来る。そしてまた、お喋りが始まる。この一晩で彼女は寝床と作業部屋とを何往復しただろう。
お孫のあの、眠くても寝たくない、という意志は幼かった頃の私にとてもよく似ているなと思う。眠くても寝たくない、いつの間にか眠くなくなる、という構図。何度も起き上がっては私にお喋りにくるお孫につきあいながら、ちょっと昔を懐かしく思い出す。私はいつも自分の部屋の出窓に布団を引っ張り上げ、空とお喋りしていた。と書くとまるで変な子のように映るに違いないが、でも、それが本当のことだ。毎晩のように空とお喋りし、東から西の空に動いてゆく星を数えて過ごした。お孫を見ているとそのことをありありと思い出す。
最後の最後、お孫はこう言った。「ねぇばあば、ママ、ちゃんとお迎え来てくれるよね?」。そうだよね、毎日毎晩、ママは必ず隣にいてくれるもんね。それがいないのだもの、不安だよね、そう思ったら、かわゆいなぁと抱きしめずにはいられなかった。「大丈夫、もうね、走って帰って来るヨ、大丈夫」と言うと、にっこり笑って、今度は大の字になって寝ている息子の隣に横になった。普段ワンコを怖がるのに、息子の近くにワンコが寝ているにも関わらずそこに横になり、お孫が言う、「ワンコが守ってくれるね」、だから私も言う、「うん、ワンコおっきいから守ってくれるよ」。
そうしてようやっと寝付いた頃には時計は午前2時過ぎ。おつかれさま、とお孫に心の裡で言ってみた。

ほどなく雨が降り出した今日、雨の中をワンコと散歩に出掛ける。明日家人が帰国する。父ちゃん帰って来るヨ、とワンコに言うのだが、ワンコは全く気に掛ける様子もなく、いつものように下ばかり見て匂いを嗅ぎ続け、草を食み続け、ねぇねぇこっち向いてよ、と私が言っても顔を上げる様子もなく、まぁつまり、いつものワンコだったということ。
そうして今夜も淡々と夜が更けゆく。


2022年06月12日(日) 
酷い頭痛から朝が始まった。右後頭部の表面がぎしぎし痛む。幾つも錐で穴を開けられているかのようなそんな痛み。あまりの痛みで呻いてしまう。頭痛薬を飲んだけれどもすぐに効かず、固めのブラシで後頭部をぐりぐりやってみたりする。立て続けに痛み止めを飲むのはいけないと分かっているけれど、種類の違う痛み止めをもう一度飲んでみる。
頭痛が微かに和らいだと思ったら今度は左半身の痛みが始まった。肩の痛みから始まり、臀部、太もも、とんでもなく痛む。身体を雑巾のように捩じられてる気がする。いっそ雑巾になった方が楽なんじゃないかなんてくだらないことを思い浮かべて気を紛らわしてみたりするが、痛いものは痛い。
それでも日常は廻ってゆく。息子は容赦なく「ご飯は?」と言ってくるし、ワンコも何度も飛び跳ねて「ご飯まだ?」とサインを送って来る。歯を食いしばりながら飯を作り、ふたりに食べさせる。
そうして何時間かした頃、痛みが少し和らいでくる。やけくそな気分でせっせとストレッチをしてみる。きっとよくなる。よくなるはず。そう信じてせっせとストレッチに勤しむ。

陽が陰った、と思ったらいきなり音を立てて雨が落ちて来る。あっという間に土砂降り。慌てて洗濯物を取り込む。呆気にとられながらその雨筋を眺める。ばんばんとアスファルトを叩きつけ、跳ね上がる雨はけぶっている。まるで雨の壁に閉じ込められたような錯覚を覚える。
私の頭の痛みも身体の痛みも、この不安定な天気のせいな気がしてきた。

たぶん。みんな希望が欲しいんだ。真っ暗闇の、とてつもない絶望の只中にあって、それでも生きようと思う為に必要な、微かでもいいから、希望を。欲してるんだ。きっと。Aちゃんと先日話しながら、そんなことを思ったことを思い出す。
性暴力被害から何十年と生き延びているモデルをみんな知らないから。ちょっとでも自分より長く生き延びているひとを見ると、それだけで圧倒されてしまう。そんな必要、ないのに。
でも。
分かる気がする。私も、もし自分より先にそういう存在を見たら、圧倒されて、それだけじゃない、こんなどうしようもない今ここでしゃがみこんでる自分を責めてしまっていた気がするんだ。自分なんかだめだ、と。
それでも。そうであっても。
希望の欠片が、ほしいんだ。生き延びるため、せめて。

ワンコを散歩に連れて出た時、ちょうど日が堕ちるところで。雨上がり、橙色の光がきらきらしていた。ねぇほら、きれいだよ、とワンコに話しかけるも、もちろんワンコははぐはぐと雑草を食んでいるばかりなのだけれども。まぁそんなものだよなと苦笑しながら共に歩く夕暮れ。雑草の先についた雨粒にさえ堕ちる日の光が差し込んで輝いている。
こんなに世界は美しいのに。どうしてこんなにも絶望が大きく圧し掛かるのだろう。

頬杖ついて、山積みの本の前で溜息をつく。どうしようと途方に暮れてしまう。文庫6冊、単行本3冊、とりあえず机の脇に山積みになっているんだけれども。早く読み始めようと思うのだけれども。そういう時にかぎって、読み始めるきっかけを掴めなくなってしまう。そもそも集中力が足りてない、今日この頃。
いや、それより先に、今月末に控えている講義の準備を整えないと。いい加減もうやらないと。
本を読むにも準備を整えるにも、こう、集中力が。
5分でもいい、集中のきっかけがほしい。意識が散漫になってばかりで、流れに乗るきっかけが、掴めてない。嗚呼。


2022年06月11日(土) 
母の庭はいつでも花が咲いている。何かしらの花が。その庭に出て、息子と母が笑いながら水やりをしている。私は庭の外に出て、庭を眺めている。二人を眺めている。長く生きると、こういうほのぼのした場面にも出会うことができるのだな、と、ぼんやり思う。もし私が早々に死に至っていたら、こんな思いも味わうことができなかったのだな、と思うと、ありがたいなぁと思うのだ。
母の庭を受け継ぐことのできる人間は恐らくいない。私もどう頑張っても無理だ。母の庭は母にしか育めない。そう思うと、あと何年、この庭をこうして眺めることができるのかな、と思う。母はもう八十。どれだけあと時間が残っているのだろう。
帰り際、母と父に手を振った時、このやりとりもあと何回あるのだろう、と思った。きっと数える程しか残っていないに違いない。そう思ったら、振り返ることができなかった。振り返ったら逆に、今すぐ失ってしまいそうな気がして。
電車に乗り込んでから、さっきの怖さというか何というか、こう、拒絶したい気持ちのような、それに似たような感情がぶわっと湧いたことを振り返って、何かに似てるな、と思ったら、亡き祖母の、ピアノを弾いてほしいというあのエピソードに似ているのだと気づいた。祖母に何度もピアノを弾いてと言われたのに怖くて弾けなかった、あの時の怖さに。とてもよく似ている、と。
思春期、彼らからの過干渉とネグレクトに苦悩し、書物を読み漁った時期があった。被害者になってからも彼からのセカンドレイプに泣いた夜が幾つもあった。もう無理だ距離を置こう、と決めた日もあった。だのに。
ああ、それでも私は、彼らが死んでしまうことを拒絶したい気持ちが何処かに残っているのだな、と、そう気づいたら、ちょっと楽になった。彼らはいずれ死ぬ。そう遠くない将来、私より先に逝ってしまう。その時、私がちゃんと見送れるように。悔いの残らないように今のうちにできることを、今、やっておくほかにないんだよな、と。そのことを強く、思う。

悔いの残らぬように行動する、って、言うのは簡単だけれどとても難しい。ついつい遠慮したり恥じらったり躊躇ったり。私もそんな諸々の感情に引きずられて、結果悔いを残した、という経験が幾つもあったりする。
でももう、この年齢。いい加減恥じらいも躊躇いも捨てちまえ、という気持ちになってきた。遠慮なんてしてたら悔いを抱えたまま死ななくちゃならないと思うと、それは嫌だ、と思うのだ。
そんな自分だからか、Aちゃんの今の状況がたまらなく感じられ、ついおせっかいをやいてしまった。悔いの残らぬよう、もうこれが最後と思って行動した方がいいと思うよ、その時だと思うよ、なんて、言ってしまった。
Aちゃんのことに口出ししたくない、と思っていながら、同時に、それだけは譲っちゃだめだよ、と感じられることがあり。ああおせっかいなんて今どき流行らない、とつくづく思うのだけれど。つい。
「そうですね、それだけは私、譲れないんです、だからやっぱりはっきり主張してきます」と。彼女はそうして出掛けていった。
翌日彼女から連絡があるまで、心の裡でずっと心配していた。大丈夫かな、これ以上傷ついたりしていないかな、と。だから、彼女から「私はっきり言い切って来れました。弁護士さんもそのようにしてくれるって!」と連絡が来た時には、ほっとした。
君は。もう十分頑張っている。この数年、どれほど頑張り続けて来たか知れない。この件が終結したら、きっと脱力感、虚無感に襲われるに違いない。でも、その時に、この、最後の最後悔いの残らぬよう自ら行動できた、という体験が、あなたを後押しし、支えてくれるようになることを、私は祈ってる。

そして。
自分も。悔いの残らぬよう。そう、私自身がそう生きねば、と、誰より私がそう生きねば、と、そう、思う。


2022年06月10日(金) 
いつだったか、部屋を片付けていたら、テレフォンカードが出て来た。封筒に入った未使用の、スズランの写真のテレフォンカード。封筒には「ぢぢより 誕生日おめでとう」と書いてある。達筆な文字。
顧みれば、祖父とはよく手紙のやりとりをしていた。祖母が早くに亡くなり、ひとりきりになった祖父は、毎月1日と15日には朝早く祖母の墓参りに行き、帰って来るのは夕刻だった。ほぼ一日中、祖父は祖母の墓に語り掛けているのだった。
そんなに愛してるなら生きているうちにもっと仲良くしていればよかったのに、と私の母はそんな祖父を見ては言った。寡黙な祖父は、祖母のおしゃべりにいつも斜めに構えていた。酷い時は背中を向けて新聞を読んでいた。あれは祖父特有の照れ隠しだったんだろうか。今となっては分からない。
自分はお喋りが下手だから、と、祖父は喋るかわりによく手紙をくれた。祖父の手紙にはいつでも、S殿と書かれていて、私はその「殿」という字を見るたびこそばゆかった。とりたてて何が書いてあるわけでもない、普通にお喋りすればいい内容がそこにはつらつらと書かれていて、勇んで封を切ると拍子抜けするのだった。でも、それが祖父の手紙だった。
祖母が亡くなって、うちの実家の近くで独り暮らしを始めた祖父の部屋に、折々に訪ねていっては、祖父とお茶を飲んだ。祖父の淹れてくれるお茶はとびきり美味しくて、だからその頃別にお茶が好きでも何でもなかった私だったが、じいちゃんの美味しいお茶と思うと飲みたくなった。熱すぎず、ぬるすぎず、心地よい味がした。
祖母もそうだったけれど、祖父も煙草を嗜んだ。お酒にしても食事にしても八分目と決めている祖父だったが、煙草は自分の好きにぷかっと吸っていた。祖父に頼んでよく、煙でドーナツを作ってもらった。ぽっぽっぽっと祖父の口からドーナツ型の煙が吐き出される。それだけで楽しかった。
祖父は戦争時、海軍に所属していたそうで。と言っても、祖父はあまり戦争の話をしてくれたわけではなく、むしろほとんどしてくれなかったからこそ、その時の話がくっきりと私の裡に残っている。
もう少しのところで敵の攻撃を受け、船が木端微塵になったこと。波間に浮かんでいることも苦しくなったその時、仲間の声が聞こえてきて、その声に導かれるように手足をばたつかせ泳いだこと。気づいたら何処かの浜に打ち上げられていたこと。そして気づいたのは、仲間のほとんどはそこにはいなかった、声の主たちはみな、そこにはいなかったこと。そして祖父は言った、「生きなきゃならん、生きなきゃならん。どんなことをしても、皆の分まで」。
祖父は、或る日突然倒れた。意識を失った。救急車で運ばれた先で、もう全身癌に侵されていると知らされた。それから一週間意識を失ったままの祖父は逝った。まさに最後の最後まで自分で生きたひとだった。

私が一番具合が悪かった頃。よく祖父や祖母を思い出しては泣いた。どうして私を置いて死んでしまったんだ、と記憶を責めた。同時に、いつまで経っても死にきれない自分を責めた。
でも今は、分かってる。祖父も祖母も私を置き去りにしたくて置き去りにしたのではないということ。ふたりともが私に、その死に様を見せ、つまりその生き様を私にこれでもかというほど見せてくれていたこと。だからこそ、私はきっと何処かで分かっていたんだということ。「生きなきゃならん、生きなきゃならん。どんなことをしても、皆の分まで」。

結局私は、なんだかんだやったけれど、生き延びて、生き残って、今ここに居る。今私は幸せか?と誰かに問われたら、間違いなくこう応える。
うん、幸せだよ。生き延びてよかった、と。


2022年06月08日(水) 
祖母のことを思い出していたらあっという間に朝を迎えた。そのまま眠らずに今に至る。でも何だろう、心がほっくりしていて、穏やかだ。
祖母、そして祖父。ふたりともとっくにもうこの世にはいないひとたち。でも、私の中にずっとずっと生きているひとたち。

祖母は、三十代の頃からもうすでに癌にとって喰われていた。一体何度手術をしたんだろう。幼かった私は覚えていない。でも、四六時中入院しては退院を繰り返していた。そのたび祖母は言うのだ。「私の人生短いんだから、好きなことしなくっちゃ」。祖母の好きなことというのは、師範をしていた日本舞踊をはじめ、お茶やらお花やら。あちこちに飛んで行ってはおせっかいをやいていた。退院している間はだから、じっとしている隙間がなかった。いつだってたったか歩いてひとりで出かけていってしまうのだった。私は祖母と祖父の家に行くと、ひたすら祖母にくっついて歩いた。
祖母はとにかく、明るかった。あっけらかんと明るかった。表裏のない、まさに言葉通り江戸っ子だった。そして、あれだけ癌に喰われても喰われても、生きることをあきらめない、手放さないひとだった。
祖母は。どんな思いで病と向き合っていたのだろう。私は癌が、どころではなく死が彼女に喰らいついてきた、まさに最後の介護の頃、よく泣いている祖母を見かけた。私が風呂の介助をすれば「あんたに見られたくない」と泣いたし、私が祖母の痩せた髪を梳けば、私の髪はもうこんなになっちゃったと泣いた。そして。
ピアノを弾いて、と、よく頼まれた。泣かれた。泣き始める祖母を見て、私は弾けなかった。弾いたら、弾いてしまったら、祖母を即座に死に奪っていかれそうで。怖かった。祖母が懇願するそれに反発するように、私はあの頃、ピアノを弾かなかった。祖母は細く細く、ずっと泣いていた。
どうしてあんなに私は反発したのだろう。今思っても、悔やまれる。でも。本当に怖かったのだ。今すぐに祖母を、奪っていかれそうで。それだけは、嫌だった。ピアノを弾きたい、祖母のためにならいくらだって弾きたい、でも、一音弾いて振り返ったら。祖母はもう死んでいるような、そんな気がして。恐ろしくてとてもじゃないがピアノの蓋を開けられなかった。そのくらい、祖母が死んでしまうことは、私にとって恐ろしかった。
病院のベッドの空きがようやっと出て、家から病院に祖母を運ぶ時。祖母はぼんやり振り返った。きっと知っていたのだ。もう二度とここに戻ることはない、と。これが最後だ、と、今ならそれが分かる。当時の私にはそれは受け容れられないことで、反発していたけれど。今ならすんなり受け容れられる。祖母はきっと、知っていた。誰より分かっていた。もう最後だ、と。
祖母がいなくなってからというもの、私は狂ったようにピアノを弾いた。毎日毎日毎日。病室に届くわけがないのに、いまさらなのに、私はピアノを弾いた。弾くことくらいしかもはや、自分の気を紛らわすことができなかったから。泣きながらも弾き続けた。
最後の入院は12月から2月末まで続いたけれど、そのほとんど、モルヒネで眠らされていた。祖母の意識はもう、ほとんどぼんやりしていて、話もできなかった。医者が、こんなになっていたらとてもじゃないが痛みが酷くて耐えられたものじゃないから、と繰り返し言った。でも、私はモルヒネで眠らされた祖母の匂いが、受け容れられなかった。違う、祖母の匂いじゃぁない、もう、祖母の匂いじゃない、それが、耐え難かった。あの頃私はたぶん、四六時中憤っていた。何に? よく分からない。ただ、祖母の命の火がもうじき消えてしまう、そのことに、その現実に、私は憤っていた、そんな気が、する。私から祖母を奪う現実というものに。
祖母の骨は、もうぼろぼろで。焼かれた後の祖母の骨は、細かく砕けてしまってほとんど形が残っていないだけでなく、あちこちに紫や濃いピンク色の痣というか痕があった。これが癌に喰われるということなのか、とその当時の私は唇を噛んだ。今なら、それが薬の影響なのだろうと想像できるが、私はもう、憎むべきは病、としか思えなかったのだ、当時。
祖母がいなくなってから数か月、私の記憶はない。

祖母の死から、私の周りには幾つもの死が現れた。友たちの死だ。病死は数える程で、そのほとんどが自死だった。最初の友Yは、飛び降りだった。当時小さく新聞記事にもなった。そしてそこから、階段を転げ落ちるかのような勢いで、次々、友が死んでいった。首つりやら、オーバードーズとアルコール摂取の末心臓が止まったり、歩道橋から飛び降りたり。思い出すと頭がパンクしそうになる。だから、できるだけ思い出さないようにしている。
死は。いつの間にか当たり前に、隣にあった。昨日元気に笑っていた友人が今日はもういない、そういう毎日を過ごしていたら、自分の中の生と死についても、当たり前に思うようになった。私は死に向かって日々生きている。命があるというのはそういうことだと。
できるのは、笑って死ねるように今日を今を精一杯生きること。私が行き着いたのは、そこだった。


2022年06月07日(火) 
家人が海の向こうに旅立っていった。彼が受賞してから折々に、同じ写真家として妬ましくない?というような言葉を貰う。だから考えてみるのだが、私にはそういう妬ましいとか羨ましいという感覚がすっぽり抜け落ちている。まったくもって羨ましくも妬ましくもないのだ。何故だろう、我ながら不思議だ。
彼と私は確かに、同じ写真家、だ。しかしまったく撮り方も作品の作り方も何も、異なる。どう異なる、と言葉に今でききらないのがもどかしいが、たとえば、ポートレートひとつとっても、彼の被写体への向き合い方と私の被写体への向き合い方が、異なる。距離感が違う、とでもいうんだろうか。
もし、ここでほんのちょっとでもリンクするものがあったら。私はもしかしたら彼に、嫉妬したりするのかもしれない。でも、何だろう、彼の距離感を尊敬こそすれ、嫉妬したためしが、ない。
ああ、そうだ、嫉妬したって何したって、その距離感は私にはない、からだ。彼ならではのアプローチがあり、私には私のアプローチがあり。その距離感は、私には私の、彼には彼の、方法でしか辿り着かない。それが分かっているから、羨ましいと思う隙間が、ない。
今回の受賞も、唯一羨ましいなぁと思ったのは、受賞した写真集を向こうが出版してくれるということ。これは、お!いいなぁ!と思った。ま、それはきっと、私は私で本の出版に多少なり仕事で関わっているから、出版、という事柄に惹かれる、という、何ともこう、不純というか何というか、我ながら笑ってしまう動機なのだけれども。
なんで一緒にイタリア行かないの? ドレスアップして行けばいいじゃない!とも言われたのだが。逆にその感覚に驚いた。いやいや、彼が受賞したのであって私は関係ないじゃん、という自分がいるのだ。彼に便乗して行こうという感覚がまるで自分にないところが私なのだな、と私自身は納得している。
何はともあれ、彼は出掛けてゆき、私と息子は今日、ふたりきりの晩御飯を食べた。ふたりきりだからアイスも食べれるね、なんて言い合いながら、けたけた笑って食べた。その息子は今、ワンコと一緒に眠っている。

来週末の加害者プログラムの打ち合わせ。大船のプログラムは少人数で、かつ、通い始めてまだ間もないひとたちばかり、だ。その状態でできることできないことというのがあると今日S先生と話していて気づいた。池袋はメンバーが認知行動療法等或る程度進んでいて、そういう意味である程度のベースができている。でも、大船のメンバーはそれがまだまだだったりする。そういう中でできることできないこと。なるほどな、と思った。
先生と話しながら、テーマを絞ってゆく。いつもそうなのだが、こういうことはオンラインではできない。直に会ってああでもないこうでもないと互いにぶつけあってはじめて、これでいこう、というものが生まれて来る。私も先生も、アナログな人間ということなんだろうか。こういう感覚は、いつも、直に味わいたいタイプなんだろうな、とは思う。まぁつまり、アナログなんだろうな。
帰り道、青梅が安く売っていて、思わずまた買ってしまった。今家ではエキスを絞り出している梅さんたちが1キロ、ボールの中で眠っているのに。大船のこの、商店街は、魔物だよなぁと思う。いつもひとで賑わっていて、その賑わい方が、亡き祖母を思い出させる雰囲気で、私はつい、惹かれてしまう。
らっしゃいらっしゃい、安いよ安いよ! 魚屋のおじさんお兄さんたちのその掛け声も好きだ。聴いてるだけで祖母を思い出す。いや、祖母がそういうことを言ってたのではない、そうじゃなく。昔祖母と一緒に歩いてると、町中のひとたちが「おお、Kさん、寄ってってよ、ほら、今日はこれが安いんだよねー!」「こっちこっち、こっちにも寄ってって!」と、みんなして祖母を引っ張り廻していた。私は祖母の後をついて廻っては、みんなに頭をぐりぐり撫でられて、おこぼれをあずかっていた。私は町中のひとたちが気軽に声をかけてくる祖母が、そしてそれにひとつひとつちゃんと応えてゆく祖母が、きっと誇らしかったんだな、と思う。祖母はいい意味でも悪い意味でも、とにかく裏表のないひとだった。嫌な事は嫌、いいことはいい、好きなことは好き、嫌いなことは嫌い、そのひとの前でもはっきり意思表示するひとで。私はその、祖母の在り方が、大好きだった。安心したんだ。ばあちゃんは嘘がない、というそのことに。安心できた。
ばあちゃんは悪口も言うが、言う時ははっきりそのひとの前でも言った。陰でこそこそ、というのがなかった。表では褒めて裏ではけなして、というのがなかった。だから、祖母が「私はあなたの味方だよ」と言ったら、本当に味方なのだと信じられた。
祖母の話を始めるときりがない。どんどん溢れてきてしまう。


2022年06月06日(月) 
のっぺらぼうの雪だるま。刺した楊枝は喜んでいるように見える。でも、そうとは限らない。表情のわからない雪だるま。胸のところにぽつん、小さな穴ぼこがある。これは中高の時にある日突然全員から無視されるようになった、その後もひどい虐めに遭った、あの時の傷。そうして不登校になった。それまでは部室に毎日居座ってた。そういう時の、傷。
彼はできあがった粘土の雪だるまを前にして、そう言った。そしてこうも付け加えた。
無なんですよ、表情なんてないんです、ほんと無。表情は無。そして、雪が溶けてなくなれば、これもまた「無」。楊枝の腕も喜んでいるように一見見えるけど、溶けてしまえばそうじゃなくなる。これもまた、「無」。
彼の言う無が、波紋を拡げ二重三重に波紋を静かに拡げてゆく。彼の悲しみ、痛み、悔しさ等、様々な思いを連れて、拡がって行く。

これは親父ですね。いつも食事の時どかんとそこに居た。すごく圧迫感があって、食事中お喋りをすることなんてもってのほかで、礼儀作法を叩き込まれるばかりの場だった。食事だけじゃない、いろんな場面で、親父の圧力はすごかった。
できあがった足を胡坐に組んだ粘土人形。少し俯いた形になってはいるが、その威圧感はありありと現れ出ている。

ぱっと見、笑ってるように見えるけどこれは仮面で、その実、下の表情は泣いてる、っていう、そういう感じでしょうか???
彼の作ったヒトガタは、被った帽子には笑顔が書いてあり、実際の顔には涙がぽろぽろ零れている。

どうしても被せてあげたかったんです、大丈夫だよ、っていう意味を込めて。それからこれは太陽で、岡本太郎の太陽の塔を真似したんですけど、光が降り注ぎますようにっていう願いを込めて作りました。
彼女の粘土人形は大きく身体を曲げて、大きな大きな花の中に座っているかのように見える。

定期的に幼少時から見る夢があるんですよ。その夢の中に、この形のものが出てくるんですけどすげー怖くて。一番怖い。今も、関係ないように思える夢の中に定期的にこれが出現するんです。
蜘蛛の様な長い足を四本持って、ぶらんと下がる腕も四本あって。そういう虫のような形をした怖いモノは、何処までも彼を追いかけていきそうな勢いがあった。

これは昔からの僕のカタチで心臓とも言う。心とも言う。それらが重なり合っているカタチ。楊枝をぶっ刺しましたけど、こんなふうにあちこちの角度からいろんなものが突き刺さってる。そういうのを表現したいと思いました。

―――アートセラピーで「インナーチャイルドを形にしよう」というテーマで粘土に触ってもらった。絵よりも具現化しなければならない粘土。それでも彼らのカタチは唯一無二の光を放ってそこに在る。

承認欲求それはそのまま他人軸なんだな、と。誰かに認められたい、受け容れられたい、このままでいいよと言われたい、何処までも何処までもこのままじゃ他人軸なんですよ。変えたいですよね。
家人が録画したテレビ番組を二人で観ていた。誰かに認められたい、受け容れられたい、は、誰もが思うことで、決して特別なものではない。むしろ、それを自覚しているのなら、次に進める可能性がいっぱいだ。

雨の中出掛けた依存症回復施設でのアートセラピー講師の時間。外で野良猫がみぃみぃ泣いていた。八兵衛の声は聞こえなかった。雨だけが音を立てて降り続いていた。


2022年06月05日(日) 
雨が降り出しそうなくらい重たげな雲に一面覆われた朝。あまりに見事な曇天なので一枚パシャリ、残すことにする。同じ場所から同じ空を毎日毎朝撮っていると、言葉通り、同じ日なんて一日たりとてあり得ないのだということを痛感する。ベランダの、決まった位置から眺め続けているだけなのに、これほど色とりどりの空があり得るんだろうかというほど、毎日毎朝違う。異なる。神様は世界を、一体どんなふうに作ったんだろう、とぼんやり思ったりもする。
ワンコと散歩していて、改めて紫陽花に注目してみると、こんなにもたくさんの種類があったのかとびっくりする。ご近所に、ヤマアジサイと八重のガクアジサイ、しかも青色のを見つけ、立ち止まって見惚れてしまう。何て深い青なんだろう。あまりに見事なので、さんざん迷った挙句、そのお家の方に頼んで一枝わけていただくことにする。挿し木で何とか育ててみたい。
帰宅し、まず水切りをしてきれいなお水を吸わせる。たっぷり吸ったところで葉を半分に切り落とし、いただいた枝を2等分にして、合計4本の小枝をプランターに挿す。さあ、ここからは祈るのみ。たっぷり水を遣って、心の中繰り返し唱える。育て、育て、育て、根っこ、無事出ろ、がんばれ紫陽花…。

食材の買い出しにスーパーへ行くと、そういう季節なのだ、青梅がたんまり売られているのを見つける。これはちょうどいい、母に我が家の梅エキスの作り方を教えてもらおう、ということで、1キロ購入する。
母のLINEに早速、作り方教えて!とメッセージする。夕方になって母から返信が。「洗った梅の実に串かホークで穴を開けて砂糖をかける、そのまま待つだけ。水分を入れなけばカビない。しなびるまで繰り返す」「手っ取り早いのは皮を剥き砂糖をまぶし1〜2日足しながら置く。味をみながら。甘い方が良いよ。薄めて飲むのよね?同量以下、鮮度によるから、エキスが採れるまで」。穴をあけるというからフォークで4、5回突き刺して穴を開けてみた。それで十分かと思いきや、「私は竹串を束にしてがんがん穴開けしたけど大変で皮をむいてみた、どちらも大変たけど」と作業を始めてから続いてメッセージがきて、ずっこける。そんなに穴を開けるのか?! やはり、作り方を訊いてよかった。知らないことばかりだ。
正直、母の料理に対しては切ない思い出が多い。その中に時折、たとえば母が良く作っていたパウンドケーキやパン、そしてこの梅エキスがある。今頃になって、そのレシピを教わりたいと思うようになった。母は今年八十。もういつあの世に手招きされてもおかしくない歳だ。父の家系でも母の家系でも、八十を越えて生きてるひとはほぼいない。癌になっていないのも母だけだ。今日青梅に出会い、購入し、思い切ってレシピを訊いてよかった。これでまたひとつ、誰かにいつか伝えられるかもしれない事柄が増えた。
いつか誰かに。そんなことを若い頃は思いもしなかった。そんな余裕なかった。でも何だろう、この歳まで生きると思っていなかった自分がこうして生きて、できることといったら、やっぱり、「いつか誰かに伝えて」ゆくことくらいなのだ。
若い頃もっと習っておけばよかった、とか、もっとこうしておけばよかった、というのが全くないわけじゃない。こんな母娘関係であっても、もっと訊けることがあったんじゃなかろうかとは思う。でも、私達はそこまでの親しさがなかった。いつでもたいてい、緊張関係だった。だから、これでいいんだと思う。この歳になってはじめて、気軽に、教えて、いいよ、と言い合える関係になれたのだから。これでいいんだ。
無事梅エキスができるといいな。実家の味の梅エキスが。


2022年06月03日(金) 
通院日。ぼおっとしていたら降りる駅を二つも越えてしまっていた。慌てて次の駅で降りる。それなのに、何を考えていたんだか、何も思い出せないという体たらく。
カウンセリングの時間ぎりぎりまで、加害者プログラム宛ての手紙の続きを書く。書きながら、今回の手紙はとんでもなく暗いなぁと我ながら思う。

カウンセリングで私が、私の中にも加害性と被害性は同居している、というようなことを口に出したら、カウンセラーがもう少し詳しく話してくれる?と言う。詳しく話ができるほどまだまとまっているわけではなく。いや、もう何年も前からそのことについては思うところがあるのだけれど、まだ誰かに(外に向けて)語ることができるほど言語化できていない、というのが本当のところ。ためらいながらも少しずつ言葉にしてみる。
でも。いくら言葉を尽くそうと、語り尽くせるわけはないのだ。だってまだ言葉にしきれない思いが私の裡に充満している。そのことを私自身自覚している。
そこには、どうやっても語りたくないこと、も含まれている気がする。
時間ぎりぎりまで人間の裡に巣食う=同居する加害者性と被害者性、加害性被害性についてあれやこれややりとりを交わすものの、あっという間にタイムアウト、また次回にということになる。
ぐったり疲れて診察へ。最近もうまく横になることができないことを話し、酷いフラッシュバックがあって解離もしたけれど家に無事に帰っていた話をする。主治医はうんうんと頷きながら聞いていたと思ったらこう一言、「無事なら解離でも何でも、オッケーってことにしましょう」。にこにこ笑っている。主治医のこの笑顔はいつも私をほっとさせる。「階段落ちもせず無事帰宅してるなら、それで十分ですよね」と私もくすっと笑って返す。何とか薬を減らす方向にもっていきたいのだけれど、と仰るので、それなら眠剤を少し減らしてくださいと告げる。眠剤を飲んでも私は結局、短い睡眠しかとることができない。そもそも横になることに抵抗を覚えるのだから、もうこれ、仕方がない、と、自分でも思うので。「じゃあそうしましょう。この薬の半量は残して、それでやりくりしましょう」ということになる。先生は本当は、抗うつ剤のひとつを減らしたかったようなのだが、それについては私が、まだ怖いと思って微妙に抗った。
酷い鬱病のひとが通常処方される量の3倍はあなた飲んでるのよ、と、前から主治医に言われている。そうなのか、と、思ってもいる。でも。その薬の量でようやく日常をやりくりできるようになってきているのが実情。先生、もう少し、待ってください。
フラッシュバックも解離も、防ぐ手立てはない。特効薬があるわけでもないし、起きるときは起きる。そしてそれはいつだって生々しい。私を容赦なくあの時に引き戻す。それならば、主治医の言うように、事故がなければオッケー、カウンセラーの言うように起きて当然と受け止めるのがベターなんだろう。

帰り道、電車に揺られながらぼんやりする。眩しい陽光がきらきら影を縁取る。光と影はいつだって共存してる。どちらかだけ、ということがない。光と影は、光 対 影、とされることが殆どだ。確かに異なる現象だけれど、でも。ともに在ることもこれ、真実に違いない。
そう思った時、いろんなことにそれは言えるよな、と思う。加害と被害だってそうだ。対のように見えるけれど、その実、ひとりの人間の裡に両方が内包されている。どちらかだけ、ということはあり得ない。

そういえば今日は、カウンセラーに、あなたのような複雑性PTSDを背負ったひとは、というような言葉を何度も言われた。複雑性PTSDかあ、と心の中反芻していた。もともと昔の、一番最初主治医となってくれたM先生に、しょっぱな言われたんだった。あなたはPTSDです、まだ正式な病名ではないけれど、あなたはその中でも間違いなく、複雑性PTSDですよ、と。
PTSDという言葉自体、日本で普通に言われるようになったのは私が被害に遭ったあの年の阪神淡路大震災がきっかけだった。被害者元年、と後に言われるようになったあの年。

見知らぬ人間からの被害と、信頼関係や上下関係等といった関係性のある人間からの被害とでは、被害のその後が大きく異なるものなのだな、と、今日カウンセリングを受けて改めて痛感する。いや、分かっていた、分かってはいたけれど、でも、あまり考えたくなかっただけなんだ。本当は、気づいていた。何処かで知っていた。
今日のカウンセリングの続きは、ちゃんとやらないといけないな、と思う。

そういえば。夕方、大きな音がして驚いて振り返ると。風鈴が落ちた音だった。南部鉄の、お気に入りの風鈴。三つでひとつになっているもの。いつどこでどう買ったのかなんて思い出せないけれど、この音が気に入っていて長いことずっと使い続けている。三つあるうちのひとつの鈴の糸が切れて落ちてしまったらしい。短くなってしまうけれど、この糸をそのまま使って、短くして止めるほかに術はない。ぎゅっと先をかた結びで結んで窓際に吊り下げ直す。すると、これまでの倍くらいの勢いでりりん、りりん、と風に鳴るようになった。
りりん、りりりん。
いい、音。


2022年06月02日(木) 
重い腰をあげて、ようやっと手紙のひとつに返事を書き始めた。加害者プログラムのひとつ宛。書きながら、強さって何だろうな、と改めて考えていた。

私自身よく、強いひと、と言われてきたし今も言われる。でも、言われるたび、何か違うよな、何処か違うよな、という気持ちがあった。
私は確かに、一見強そうに見える。それは自分でも思う。そう振る舞っているから、見えるのは当然だろう。
でも、本当に強いひとというのは、弱さや己の醜さを曝け出せるひとなんじゃないか、と。私にはそう思えるのだ。
私はまだまだ、自分の弱さも醜さも、曝け出せるところまでなんていっていない。むしろ、曝け出せないから、大丈夫そうに振る舞っているだけの話だ。そんなもの、本当の意味で強いなんて言わない。

たとえば性暴力被害に遭った時。私はすぐにSOSを出すことができなかった。自分に起きたことが何なのかをまず自覚できなかった、受け容れられなかった、というのももちろんある。でも、それ以上に、このことを誰になら打ち明けられるのか、が、分からなかった。
こんなこと、という意識がまずあったし、私にそれが起きてしまったという現実を私自身が受け容れられずにいた。誰か助けて!と思いながら、一体誰にこんなことでSOSを出せるというのだろう、という思いもあったのだ。
もしあの時、もっとスムーズに、もっと早く、自らSOSを出すことができていたら、私はこれほど傷を長引かせずに済んだかもしれない。これほど傷を膿まさずに済んだかもしれない。
問題解決能力、というのはそもそも、自分一人で抱え込んで越えられる力、ではなく、「周囲を巻き込んで周囲の手をいかようにも借りながら」物事を解決してゆくことの力なのではないのか。

それから。「ヒトをヒトとして扱う」ということについて。彼らの多くは、他人を受け容れること、を目標のように掲げていた。
でも何か違う、何処か違う。そんな気がして、考え続けている。
じゃあ何が違うのか。
ヒトをヒトとして扱うとは。つまり、自分とヒトとの違いに気づき、その「違い」こそを受け容れることなのではないか、と。ただ「他人を受け容れる」のでは、自分を大切にはできない。自分も他人も等しく大事なのだ。自分を犠牲にしてまで他人を受け容れる必要などどこにもない。
あなたはこうだね、私はこうだよ。あなたと私は違うけれど、でもあなたと私、どちらもOK。そういうふうであれたら、きっと、ずっとずっとずっと、誰もが生き易くなるんじゃないか、と。


2022年06月01日(水) 
今日はH君との撮影だったのだが。私は神奈川の鎌倉に向かい、彼は千葉の鎌倉に向かい、結果巡り会えず、撮影は改めて別日にということになった。千葉に鎌倉があるなど初めて知った。地図で確かめると確かにある、が、何もなさそうな、バス停だった。「高校生のようなミスしてすみません」としきりに恐縮するH君に、いやいやと笑った。そんな、拍子抜けから始まった今日。とてもいい天気で、すこんと抜けるような青空。雲はまだ夏という感じではないのだが、でも、暑さはもうすでに夏な気がする。じんわり汗ばむ陽気。
鎌倉の駅に降り立って、思い出した。鎌倉は、加害者が一時期住んでいた場所だった。加害者に仕事の引継ぎを強いられていた頃、加害者に引っ張られるように連れて来られていた場所だった。ホームに立って、いきなりフラッシュバックする。もう町並みはずいぶん変わったはずなのに、当時在った店など残っているかどうかなんて分からないのに、まるで当時に戻ったが如く、何もかもが当時のままのように思えて、頭がぐわんぐわんした。これはまずいと思い深呼吸しようと思うのに息が吸えず、気づけば過呼吸気味になっており。何とかホーム中央のベンチに辿り着き、座ってみる。さっきまであった空の青色がすっかりくすんで見える。いや、光が眩しいのだが、眩しいことは眩しいのだが、ありとあらゆる色がくすんでしまって、何処か別世界のように見える。
たてつづけに、父の声が蘇る。父が激しく私をなじる。同意の上だったのではないのか、被害なんかじゃなかったんじゃないのか、こんな恥じなことがあるか、等々。次から次に父の、そしてその父の声にかぶさるように大勢の当時周りにいたひとたちの声が重なってくる。セカンドレイプの渦。
呼吸がしづらくてしづらくて、喉がひゅうひゅう鳴り始める。頭では分かっている。これは現実ではない、今ではない。なのに私は過去に引きずり込まれてゆく。どうにもこうにも世界があの、あの頃に、重なってゆこうとしている。

一人目の友は、夜勤明けでとてもじゃないが話せる状態じゃなく。だから私もSOSを出し損ねてしまう。二人目の友にはもう、SOSを出す気持ちが消えてしまって、ただ、「今何してるー?」とだけ聞いてしまう。三人目の友にようやく「撮影が延期になって」というようなことを話し出すことができたものの、それが精一杯。まさか今、自分が、昔の、被害に関連する場所に立っているなんて、説明できずに終わる。

私は。この街が好きだった。大好きだった。小さい頃七五三で訪れたのもこの街の八幡宮だった。その頃生きていた祖母が、母よりも目立つ色の着物を着て私と連れ立って歩いてくれた。まだ実家で暮らしていた頃、家からここまで自転車で延々と走って来たりもした。江ノ電に乗ってここから江の島までよく行きもした。ちょっと閉鎖的な、でも明るい街並みが、私は好きだった。
被害に遭ってからというもの、私はこの街を訪れたことがあったんだろうか。記憶がない。ああ、確か、娘の七五三の折、父母と娘と、そして撮影役として私も来たはずだ。だが、まるっきり記憶が抜けている。どうやってその時私はこの街に降り立ったのだろう。分からない。

私は。この街をまた、好きになれるんだろうか。この街と仲良くなれるんだろうか。とてもじゃないが今、恐ろしくて、そんなこと考える余裕はない。けれど。
どうしてあんなに好きだった街が今恐怖の対象になってしまっているのか、それが納得いかなくて、苦しい。私のせい? 私のせいなのか? 被害も何も、私のせいなのか? 引継ぎを強いられたのも、それを受けたのは私で、だから私のせいなのか? 怒涛のように押し寄せる自責の念。違う、違う、違う、と、いくら言おうとしてみても、口の中や喉が渇いて貼りついて、声も何も出ない。

気づいたら。ホームに電車が滑り込んで来ていた。這いずるようにしてとにかく乗った。あとは覚えていない。気づいたら、横浜に居た。そして次気づいた時には、家に居た。
もう、SOSを出す気持ちにはなれなかったけれど。誰かの声が聴きたい顔が見たいと思った。そうだ、と思い立ってTに電話をした。ちょうど病院が終わったところだと言う。時間ある?と訊くといいよーとのんびり返事が返って来た。いつもの喫茶店で待ち合わせる。じゃあまた後で。

ふと思いついて、「流浪の月」サントラの、15曲目、「Strata地層」をかけてみる。最初うまく耳が音を辿れなかったけれど、気づくと、じんわりじんわり、沁みて来るのが分かった。じんわりじんわり。音が、私に沁みて来た。ちょっと泣きそうになってしまった。涙は、出なかったけれど。
もう二十年以上、三十年近く前の出来事なのに。遥か彼方昔の、出来事なのに。
津波だ。大津波だ。一度フラッシュバックが起こると、もう怒涛のように、ありとあらゆる感覚が根こそぎ薙ぎ倒される。奪われる。津波が引くには、時間がかかるし、引いた後は、破壊されたものたちの残骸があらゆる場所に散乱しているのだ。
被害は一瞬の出来事。そのほんの一瞬の出来事が、人生そのものを変貌させる。それが、性暴力被害。性暴力被害者になる、ということ。


浅岡忍 HOMEMAIL

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