2022年05月31日(火) |
ワンコの肉球の端っこに白い粒が見られたので慌てて病院へ連れて行った昨日。切開して白い膿を絞り出すという処置を受けた。それにショックを受けたのか、昨夜からちょっと元気がないワンコ。気になる。
朝は雨。そぼ降る雨。でも私が家を出る頃にはほぼ止んで、ぱらぱら程度に。今日は整骨院。 だいぶよくなってきていますよ、と言われる。右の腰が痛むのは左の腰が要因ですねぇ、なんて言われて目を白黒させる私。私の肩や背骨もねじれ放題ねじれてるようで。まだまだ整えなければならないところがたくさんある。ありはするが、もともとが散々な状態だから、自分でも「結構よくなってるじゃん!」なんて思ってたりする。 何より、薬を飲む量が減った。それは明らかな結果だ。ありがたいことだ。今日も新しいケアの方法を教えてもらって帰宅。せっせと為す。
息子が持って帰って来たプリントで、再来月宿泊学習があることを知る。息子に、よかったね!たのしみだね!と伝えると、「僕、休む。行かない」と言う。どうして、と問うと、だって寝てる最中に僕パンツ脱いじゃうから、みんなに見られるの嫌だから行かない、と。 確かに彼は、毎日毎晩、器用にパンツを脱ぎ捨てる。寝てる最中にひょひょいっと脱いでしまう。朝はだから、つるりんと丸いお尻丸出し状態になっている。「脱がないように癖を直せばいいんじゃない?」と提案するも、無理!と一言。つい笑いだしそうになってしまう。無理ってそんな。 まぁまだ時間あるから、脱がない練習をしよう、と私は彼にもちかけてみたが、彼は最初からあきらめていて、なかなかうんと言わない。 しばらく放置しておこう。それに限る。
まだ読み始めたばかりなのだけれど。これはもう、「赦す」ということにつながってゆくのだなと感じる。そしてそれは、私たち日本人の感覚では追いつかないところのものなんじゃなかろうか、と。そんな予感がする。
国境線を意識したのは、テオ・アンゲロプロスの映画が最初だった。私は大陸に暮らしたことはないから、そこに描かれる国境というものの摩訶不思議な線に、背筋がぞっとした。それは悪い意味ではなく。ただ、ぞわっとした、という、そういう体験だった。以来、国境って何なんだろうと折々に想像するようになった。 特に「こうのとり、たちずさんで」で、男が片足でふらふらと立つ線、その向かい側には銃を背負った警備隊が居り、という光景が描かれていたのだが、それを観た時には後頭部をがつんと殴られた気がした。私が日本人でいるかぎり決して味わうことのできないものがそこにはあって。愕然とした。こんな国境線が日常に当たり前にあるということの意味を思った。
幾つかの国を訪れた経験はあるけれども。私が国境を越えるのはいつだって、飛行機の中だった。自分の足で越えたことなんて一度たりともなかった。その線を越えることの、恐怖と希望が背中合わせになったような喉がひりひりする感覚なんて、想像でしかなく。どこまでも想像でしかなく。私はこの身体で味わったことなんてなかった。この線を、たかが線を越えたら撃ち殺されるかもしれない、罪人扱いされるかもしれないなんていう日常は私には、やっぱり想像でしかなかった。 その線が幾重にも交叉してゆく日常。そういう日常を、大陸の人々は生きているのかと思うと、もうそれだけで、圧倒される気がした。 そこで体験し、獲得される「赦す」という感覚は、島国に暮らす私なんかには、やっぱり手が届かないのかもしれない。交錯する線をそれでも越えて赦そうとする人々がいて、その存在は私の前に厳然とあり。そう、「許す」ではない、「赦す」。 一冊の本を読みながら、今、考え込んでいる。 |
|