ささやかな日々

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2022年07月27日(水) 
先日の加害者プログラム。被害者が被害後失ったもの、について語ってほしいと。思いつくまま箇条書きにし始めて気づいた。失っていないものがないんじゃないのか?と。
たとえば、一番最初に私が書き出した、ロングスカートとハイヒールとストッキング。私はかつてスカートが大好きだった。ロングの、フレアスカートなんて最高、と思っていた。ロングのフレアスカートを履いてストッキングにハイヒール。それは私にとって私が思うおしゃれだった。そこに口紅と香水をつければできあがり、ってなもので、デートの時は私なりに一生懸命おしゃれしたものだった。
でもそれらは一切合切、被害に遭うことによって失われた。
たとえば味覚と嗅覚。私は被害に遭ってしばらくして、味覚と嗅覚を失った。大好きなシナモンの香りが分からなくなっていることに気づいた時愕然とした。ご飯も、生きるために何とか口にするが味が分からないまま、砂を食んでいるかのような毎日だった。
たとえば横になること、眠ること、安心といったものを失った。24時間365日警報機が鳴り響く、そういう毎日を過ごすようになった。
人間関係がどんどん壊れ、仕事を追われ、日常が壊れてゆくのを、私は呆然と見送るしかなかった。
失ったもの、を挙げ出すとあまりにきりがなくて唖然とした。じゃあ失わなかったものは何だろう? 改めて考える。ない。失わなかったものを考えると、要するに、ないのだ。じゃあ得たものは何だろう。
たとえば幻聴、幻覚、眩暈、フラッシュバック、パニック、身体痛、麻痺や過覚醒、自分は汚物という感覚…。書き出していて、げんなりした。あらゆるものがマイナスを向いているようで、げんなりする以外に術がなかった。

失ったもの。それは、私のすべてなんだ、ということに改めて気づく。それまで生きて得てきたもの築いてきたものすべて。すべてが崩壊するのが性被害なのだなぁということを、改めてしみじみ感じ入る。

でもそれをプログラムに参加するひとたちにそのまま伝えてもまず伝わらない。「私のすべてが失われました」なんて言っても、「そうなんだ…」としか恐らく反応は返ってこない。
だから、ひとつひとつ、できるだけ具体的に、彼らに伝える。例を挙げて、ひとつひとつ。彼らが肌で感じられるよう、できるかぎり具体的に。
でも、何処まで伝わっていることか。どんどん能面のように固くなってゆく姿、一方で一生懸命頷いてみせる姿、加害者それぞれの反応の仕方があって、私はそれらをひとつひとつ感じ取ってゆく。できるかぎり感じ取ろうと努力する。

何度だって繰り返し伝えよう。必要なら何度だって私は語ろう。きっとすぐには結果なんて出ないから。彼らの中でそれらが芽吹くには、何年も何年もかかるんだろうから。加害者の彼ら、だけの話じゃぁないんだ、これは。当事者以外のすべての人間が、鈍感になっている。当事者以外のすべての人間が、だ。
私は被害者になんてならない、加害者になんてならない、なるわけがない、と笑っているひとたちに言いたい。何処にそんな保証があるのか、と。明日あなたにその悲劇が降りかかるかもしれないのに。降りかかってからでは遅いのに。
誰もが生きやすい社会。私の子どもや孫たちが年頃になる頃には少しはマシな社会になっていてほしい。せめてほんの少しでも、彼らが生きやすい、何度失敗してもやり直ししやすい社会になっていてほしい。だから。
何度だって繰り返し伝えよう。必要なら何度だって私は語ろう。すぐに結果なんて出なくても、信じて語ろう。伝えよう。いつか、いつの日か、と。


2022年07月26日(火) 
朝、激しい雨。どしゃっと降って来た。これじゃワンコの朝の散歩は行けない、と思いながら窓の外の雨線をぼんやり見やる。それにしても見事な雨だ。
今日はK組の撮影の日。どのくらいぶりか、ああ、二年半ぶり、なのか。コロナのお陰でずいぶん長い間中断していたんだなと気づく。雨はやみますと天気予報は告げているけれど、一向に止む気配がない。そうして午前中が粛々と過ぎてゆく。
夏休み、みんなの食堂の日でもあって、息子が食べたいというので11時過ぎに公民館まで出掛ける。もうすでに何人も並んでいて、息子もその列に並ぶ。雨がぽたぽたと、先ほどの勢いは確かになくなったけれど、まだ降っている。K組の音担当のKさん、カメラ担当のOさんは荷物が多いはず。それまでに雨が止んでくれると本当に助かるのだけれどなぁと思いながら傘の向こうを見上げる。
美味しい美味しいと言いながら息子がそぼろ丼を食べている横で、私はバスの時刻を気にしながら過ごす。食べ終わった息子は公文の時間までと言って遊びに飛び出してゆく。

初参加のSさんが耳を傾けてくれるので、話しやすかった。Oさんのカメラはいつもやさしい。無理にこちらに迫って来たりしないから、いつの間にかそこにカメラがあるのも忘れている。Kさんはにこにこしながらマイクの棒を担いでる。重いに違いないのにそんな素振りはちっとも見せない。みんなプロなんだなぁと思う。当たり前のことなんだけど、でも、すごいなぁと思う。
Sさんが要所要所で言葉を吐く。その言葉に、改めてはっとさせられる。ああそうだ私は本づくりが本当に好きだったのだ、と思ったり、写真展を始める前と後との私の心持ちの違いはそういえばこうだった、と思ったり。改めて問うてくれるひとがそこに居ることで、ひとつひとつ、気づいたりする。
私の本棚の中に清宮質文全版画集があるのを見つけたSさんが「私好きなんです」と言うので早速取り出す。この版画集の年表に自分の名が挟まっているなんて、今思っても不思議だ。あの当時、もうR夫人と遠くなり始めていた。今思い返すこともできないほど記憶がおぼろげなのだけれど、私はずいぶんR夫人に失礼なことも言ったに違いない。もう取り返しのつかないことも言ったかもしれない。思い出せないって怖いなと思う。
あっという間に午後が過ぎてゆく。

K組のみんなを見送った後、息子とワンコと散歩へ。今日は蜜柑の樹の葉もバッタも確保しないとね、ということで坂を下り蜜柑の樹のところへ。私が鋏で切り落としたのを息子がキャッチする。青虫たちは順調に大きくなって、もうぷくぷくになっている。最初気持ち悪かったぬめっとした背中がいつのまにかきれいな緑色の背中に変わっており。ああ私が実家で最初に毛虫と間違えて潰してしまった子も、この子たちの仲間だったのだよなと改めて申し訳ない気持ちになる。その後坂を上って丘を越えてバッタの空地へ。蚊との闘い。そういえば今日もバッタが脱走していた。いや、きっと息子がバッタをカナヘビの籠に入れ替えるときに逃げただけなんだとは思うのだけれど。いつ見つけてもぎょっとする。ぎょっとしつつ即座に捕まえてる自分がいるから慣れって怖い。

人間、という言葉はヒトのアイダと書く。ヒトのアイダにいてこそ人間なのだと改めて思う。ヒトのアイダ。ヒトとの縁。かかわりこそがヒトを生かす。それがなければ私たちはここにたぶんいられない。いられないくらいに私たちはか弱い。だからこそ、私たちは互いに支え合って、ここに居る。


2022年07月25日(月) 
早朝、じっと東の空を見つめてた。何となく今日は、朝焼けが見られそうな気がして。ぼんやりしていた空のグラデーションが、或る瞬間ピンク色に輝いた。それから間もなく、黄金色に燃え上がり始めた。点在する雲が地平線から黄金色に照らし出され、ぐわんと地平線が膨らんだ。それは太陽が昇る直前まで続いた。太陽が昇る直前、その祝祭色は薄らいでゆき、太陽に座を譲った。
朝焼けや夕焼けを見ていると、地球は毎日、儀式を行っているのかしらと思う時がある。毎日毎日、律義に儀式を。さぁ朝だよ、新しい今日だよ、さぁ夜だよ、眠りの刻だよ、そんなふうに、地球は命ある者たちすべてに、時を刻んでいる。そんなふうに、感じることがある。誰の上にも等しく、朝は来るし夜は巡る。残酷なほど等しく、それらはやって来る。今日を生きよ、と、今ここを生きよ、と、諭すように。

アートセラピー講師の日。でも今日は、S先生を招待して、先生に自分のお話をしていただくことになっている。アディクトとしての先生のお話。興味深かった。振り返ればたぶん、誰にでもアディクションというものはあるんじゃないかと思う。たとえば私なら摂食障害と自傷。
私は大丈夫、私には関係ない、なんて思ってるひとの方がたぶんずっと多いのだと思う、いやほとんどのひとが「自分には関係のないこと」としているに違いない。心弱いひとがなるもので、自分には関係ない、と。
心弱いひと。そういう思い込みもまた、違うんじゃないかと思う。心弱いからなるんじゃない。心弱いから病に陥るわけじゃない。恵まれてないひとがなるわけでもない。誰もがほんのちょっとの、ボタンの掛け違えで、そこに陥る。
先生のお話を改めて通してうかがって、ああ、私が先生に辿り着いたのも、きっと引き寄せられたのだなあと、縁だなぁと思った。
ひとはひとによって生かされている。人間という言葉はヒトのアイダと書く。その意味を改めて噛みしめるひとときだった。

家人が落ち込んでいる。京都での個展、訪問者が少ないらしい。いい空間に仕上がったのになあ、と凹んでいる。
気持ちは、分かり過ぎるほど分かる。観てもらえてなんぼ、だ。観てもらえなければはじまるものもはじまらない。一生懸命展示した代物、一人でも多くのひとに観てもらいたい、誰だってそう思う。
本も売りたいだろう。出版記念展なのだからなおさら、その意気込みが強くあるのも十分分かる。
でも何だろうなあ、そもそも箱がまだ知られていない、認知されていない、そういう場所的なハンディがまず、あるんじゃなかろうか。あとこの季節的なものも。
そうなってきたらもう、凹んでも仕方ないと思うんだ。お客が少ないなら、その隙間隙間で自分時間を過ごしたらいいんじゃなかろうか。自分に浸れる時間なんて、実際、ほとんどないのが現実。なかなかないチャンス。そう考えを切り替えてみたらどうだろうか。
家人よ。同じ時間なら、凹んで過ごすより、楽しんで呼吸する方がきっと、いいと思う。
とりあえず。本が売れようと売れまいと、展示が自分の思う通りになろうとなるまいと、君に帰る場所はあるのだから。安心してそこでの時間を堪能してほしい。


2022年07月24日(日) 
加害者プログラムの帰り道、性犯罪被害者はこんなふうに笑ったりしない、と某氏が言ってたことをふっと思い出す。何をもってして笑ったりしないと言ったのか私は詳しいことは知らない。でもこの言葉を聞いた当初、愕然としたことを覚えている。笑うのも怒るのも喜ぶのも悲しむのも、確かに麻痺して、感情という感情が麻痺して顔が強張り表情がのっぺらぼうだった時期は確かにある。でもそれは、そういう時期も確かにあったな、ということであって、それがすべて、ではない。某氏はそこを勘違いなさっているのだろうなと思うが、当事者からすればそれは酷く不愉快だったりする。
被害者はこうあって当然。加害者はこうあって当然。何を根拠に「こうあるべき」なんて言えるのだろう。つくづく不思議で仕方がない。
私がプログラムで出会う加害者たち。彼らは極悪人でも何でもない。何処にでもいそうなごくごくふつうのひと、である。もし今彼らが電車に乗ってあなたの隣に立ったとして、あなたは気づけるだろうか? 恐らく気づけないに違いない。
「被害者」は何処までも傷ついて痛々しくあれ。笑いもせず喜びもせず、ただ下を向いて唇を噛みじっとしていろ。
「加害者」は何処までも極悪人であれ。同情の隙もないような極悪人であれ。社会から弾かれるべき人間であれ。
極端な譬えかもしれないが、世間のそういった勝手な思い込みはいつ聴いても苦々しい。「被害者」/「加害者」へのラベリングは本当に酷いものがある。
こんなひどいラベリングをされたら、回復/更生もできない。

プログラムを終えてから、T君のお店に行ってみる。梅ソーダをいただきながら、T君と久しぶりにおしゃべり。何がキッカケだったのか覚えていないのだが、T君がこんなことを言う。「なんというか、何かしらの第一人者だったりすると、こうあるべき、そうあるべき、みたいな制約ってあるじゃないですか。世間からのこう、レッテルみたいな。そういうので具合悪くなったりしないんですか?」。
私がきょとんとしていると、続けて「ほら、よく眠れないみたいじゃないですか、そういうのも、他からの影響で具合悪くなってたりするのかなって思って」と。その言葉ではっと気づく。そうか、T君はそう思っていたのかと吃驚する。だから、こう伝える。
「眠れないのは、自分の被害によるPTSDの症状だから、他人からのどうこうが影響してるわけじゃないんだ。私はいまだ横になることが苦手なの。横になる行為そのものがいまだ苦手で、具合が酷く悪いときは椅子に座ってしか休むことができない。でもそれは、あくまで自分の症状であって、他人からのどうこうは全く関係ないんだよ」。
T君は一瞬ぽかんとして、直後、ああそうなのか、という顔をした。私がいまだそういう道途中にいることを彼は思っていなかったんだろう。言ってみれば、「回復したひと」と思っていたに違いない。「回復したひと」は睡眠をきちんととれて、横にもなれて、健康的によく笑うんだろう。でもその「回復したひと」というラベリング自体が、間違ってる。

世間が、隣人がどれだけのラベリングを私に対ししてくるのか知らないけれども。どれだけラベリングされようと自分の軸を見失わないようにしたい、と、強く思う。


2022年07月22日(金) 
1997年というと今から何年前になるんだろう。もう25年前? 机の中を整理していたらそんな昔に営んでいたサイトの原稿が出て来た。1997年から2000年まで、性犯罪被害によって被った心的外傷後ストレス障害について 私の場合、と記して、写真や散文詩のサイトの中にそういうスペースを作ったのだった。もともとサイトのタイトルは、自分の被害に関係するひとたちに向けて、覚えていますか、と呼びかける気持ちから付けたものだった。だからこそ、このスペースは私にとって当時なくてはならないものだった。
原稿の一部をぱらぱらと流し読みして、正直口があんぐりと開いた。よくもまぁこんな分量を当時書いていたな、と、呆れるというか感心するというか吃驚するというか。そんな気持ちになった。何か所かじっと読みながら、ああ私はこんなこともあんなことも今思い出せないのだな、と実感した。
あの時は。
必死だった。このまま黙っていたらまさに言葉通り「なかったこと」にされてしまいそうで。それだけは嫌だった。だから必死になって書いた。いや、タイプした。当時そばにいた友がHTMLのコードについて教えてくれたり、アップロードの仕方を教えてくれたり。手取り足取り教えてくれたおかげで、何とかサイトを構築することができたんだった。そもそもそのためのPCを、はとこの兄ぃが私に譲ってくれなければ、何もかもあり得ないことだった。
K兄ぃは引きこもってるなら何かやれ、とPCを持ってきてくれたんだった。そしてT君が使い方をあれこれ教えてくれた。ホームページ、なんてものがあるとその時初めて知ったし、インターネットってものもその時初めて知った。それまでワープロしか使ったことのなかった私には何もかもが初めてだった。
「なかったことにされてしまう」前にとにかく記そう。声を上げよう。必死だった。まさに「死に物狂い」だった。
もしこれがなければ。Sちゃんとも知り合わなかったのだなと思うと、不思議な気がする。インターネットの海の中、Sちゃんと私、ぷかぷか浮いていた。偶然出会った。同じ時期に似通った被害に遭い、PTSDと解離性障害を被り、あっぷあっぷしていた。それぞれにそれぞれの体験サイトを作って、浮かんでた。
今ふと思う。被害に遭わなければ私たちは出会っていなかったのか、と思うと、それこそ不思議な気がする。
芋づる式にあれやこれやが思い出され、でも多くのものが霞んで見える。鮮やかにというよりもむしろ強烈に思い出されるのは被害にまつわることばかりで。私の脳味噌は一体どうなっているんだろうとげんなりする。
それが、PTSD脳なんだろう。いや、そんな言葉が実際あるのかどうか知らないが。

ワンコと息子と三人での夕の散歩は、最近ほぼ毎回バッタ捕りの道程になっている。カナヘビとカマキリのご飯となるバッタたち。最初は「この世の理とはいえ容赦ないよなあ」なんて思いながら申し訳なさげにバッタを捕っていたけれど、もはや何の感情もなく、無心でわっしわっしと捕る今日この頃。そんな自分がちょっと怖かったりもするが、まぁ男の子の母親なんてそんなもんなんだろうと深く考えないようにしている。
腹ペコ青虫たちもせっせと葉っぱを喰らいせっせとうんちをしている。このメンツにさらにコクワガタが加わって、もう私には何がなんだか、というところ。息子よ、がんばってくれ。母はもう、バッタ捕り以外は手伝わないぞ。


2022年07月20日(水) 
雨の中昨日母の庭に行った。かぼすの樹に蝶々の幼虫がたんまりいると聞いて、息子がどうしても捕獲したいということで向かう。私達が電車に乗った頃はぱらぱらと小雨だったのが、降りた時には土砂降りで。こんな雨の中幼虫探しができるものなのかとはらはらだった。
しかし、捕獲したいという息子の熱意は冷めるどころかもはや執念になっており。傘を差しながら樹を覗き込む。私達が育てたことのあるアゲハの幼虫だけじゃなく、大丈夫なのか?と思う見たことのない幼虫もいて、「もし蛾だったらどうする?!」と私と息子顔を見合わせたものの、ここまできたらとりあえず持って帰れということだ、と結論に至る。次から次に息子の虫籠に幼虫を投入。最終的に何匹になったのかもはやふたりとも覚えていない。
と、その時、何気なくかぼすの樹の隣のツツジを見たら、蜂が巣作りをしているではないか。もうすでにある程度の大きさになっている蜂の巣。慌てて父を呼ぶ。ゆっくりと出て来た父の手には殺虫剤が握られており。「それでほんとに死ぬの?」「ま、大丈夫だ。山小屋でもいつもそうしてる」と。シャツ1枚で挑もうとするので、それはやめてくれ上着を着てくれと頼む。
何をするにもゆっくりな父。ああそうか、父はもう85だった。一挙手一投足、私がこれまで知っている父のようにはいかないのだ、と気づく。耳も左が遠くなり、左側から話しかけると返事がまったくもって、ない。
上着をひっかけて出直してきた父が殺虫剤を振り撒く。しかし、蜂たちも執拗に巣を守ろうと必死になっている。そんな蜂のテンポと父のテンポが真逆で、私はひやひやしてしまう。
「私がやるわ、ちょっと待ってて!」私はもう見ていられなくなって父を制し、とりあえず傘とそれからタオルを持ってツツジの前に立つ。プシャーッ!!!!!殺虫剤を勢いよく振りかける。しかし今は土砂降り中。私はこれでもかというくらいの勢いで殺虫剤を噴射。あの時私は何を思っていたんだろう。父が「もういいだろ?」と何度か言うまで、ひたすら噴射させ続けていた。

母の庭が何となく、草臥れているように見えた。夏だから? いや、もちろんそれもあるだろうが、それだけじゃない疲労感が漂っているように感じられる。だから母に何の気なしに「お母さんの庭、ちょっと草臥れてる?」と言ってしまった。母は即座に応える。「でしょう? 水やりだけでね、もう身体が続かないの」。
ああ。そうだよな、と、すぐに思った。父母の、ひとつひとつの仕草、身体の動かし方、その気配、ぐん、と変わった。電話や手紙でやりとりしていたのでは気づかない、気づけない、そういったことに今ここで気づく。
「ふたりだから何とかやってる。これが、どちらかが死んだら、残った方はどうなることやら。なぁ?」「そうそう。残された方がね、きっと大変ね」。

ふたりだから何とかやれてる。本当にそうなんだな、と、ふたりを見ていれば痛いほど分かる。私にとって父母は、ネグレクトと過干渉をくれた親であり、被害を告白した時は嘘つき呼ばわりした人間たちであり、一時期絶縁もしていたことのあるひとたちだけれど、でも、このふたりは本当に、お互いにはやさしい。どこまでも労わり合いながら寄り添って在る。これがこのふたりの夫婦のカタチなのだな、と、今なら分かる。
帰り、駅まで車で送ってもらう。ゆっくりと走る車も、父母によりそって在る気がする。結局、この日雨は暗くなるまで降っていた。


2022年07月18日(月) 
ようやく洗濯物を片付けられた日。4回も洗濯機を廻してしまった。干す場所がもはやないくらい、洗えるものは次々洗った。もうそれだけで満足したくなるくらい、洗濯物に塗れた朝だった。
挿し枝した紫陽花は順調に新たな葉を茂らせてきている。灰かび病になったアメリカンブルーは今じゃもさもさに茂って元気だ。このアメリカンブルーと紫陽花が最もベランダで元気かもしれない。水やりをしながら、どうしたらこの暑すぎる毎日を緑が元気に越えてくれるだろうと思案する。肥料もやり過ぎれば毒になる。水だってやり過ぎれば毒になる。何でもそうだ、程度が過ぎればそれは、ただの毒にしかならない。

子どもの頃、適当という言葉が嫌いだった。「テキトーにやればいいじゃん!」と友人たちがけらけら笑う、その笑いが何処か嘲りを含んでいるように聴こえてならなかった。テキトーって何だよ、何をもってしてテキトーって言うんだよ、なんて、心の中で毒づいていた。適当にうまく立ち回ればいいんだよ、と言う先輩を、心の中で睨みつけたこともある。適当になんてやってられるか、いつだって本気で向かわなきゃ相手に失礼じゃないか、ふざけんな馬鹿野郎、と、そう思っていた。
いつだったろう、適度、という言葉に立ち止まったのは。適度、という言葉が心にひっかかったのは。もしあの時、適度、ではなく適当という言葉がそこで使われていたら、私はきっと、条件反射的に反発していたに違いない。
確か、恩師だった。あの時にかっと笑ったのは。おまえはほんと下手だな、もっとうまく立ち廻りゃいいのに。何処までいってもおまえは不器用だ。そう言って笑った。その直後、こう言ったんだ。物事には適度ってもんがあるんだ。
適度? 適度って何だ? まず私はそう思った。テキトーでも適当でもない。適度って何だ?と。でも、その場では先生に問い返せなかった。何となく、訊けなかった。
それからしばらくずっと、「適度」という言葉に拘った。何をするにも「これの適度って何処にあるんだろう」と考えた。そうしていた或る日、料理をしていて、ああ塩加減がちょうどよいかもしれない、と思った瞬間はっとした。ああこれが、適度、だ、と。
テキトーでも適当でもない。適度な匙加減、塩加減。私の「適度」がここにあった、と思った。薄すぎもせず、濃すぎもせず、おいしい塩加減。それが私の、適度な塩加減。おいしいと思える、ちょうどよい加減、それが、適度。私にとっての、適度。
そこからドミノ倒しの如くだだだだだっと、いろんなものの「適度」に気づいた。適度なやさしさ、適度なおせっかい、適度な。そう、いい加減、じゃなく、良い加減。それが私の「適度」。
それからだ。適当、でなく、適度、という言葉を意識的に用いるようになったのは。私にとってまさにその言葉は、ちょうど良い加減、だった。
適度に目覚めて、私はぐんと生き易くなった。テキトーや適当に惑わされなくなった。周囲がたとえ、テキトーや適当を使っていてもあまり気にならなくなった。まるで軸が見つかったかの如くだった。私の、ちょうどよい加減である適度な場所、適度な軸、適度な量、適度な速度。周りと合っていなくたっていい、私にとっての適度なそれが、私には大事なのだ、と。そう、納得した。

太陽が照り過ぎれば葉は乾く。風が強すぎれば葉は擦り傷だらけになる。雨が降り過ぎれば根腐れを起こすし葉も病気になる。そんなふうに、し過ぎればそれはもう、ただの毒。何にでも「適度」な分量ってもんがあるのだ。その適度な分量を、ちゃんと見つけてやる、気づいてやることが大事なのだ、と。
でもやっぱり、適度は理解できたが、テキトーや適当には反発を覚える。いい加減に、テキトーにこなしゃ、或る程度の結果は出せる。その程度には器用だ。が、テキトーにひとと向き合う、命と向き合うのは。私は、やっぱり嫌だ。
自ら嘲りを含む笑いをしなければならないような適当さは、私は要らない。不器用と何だろうと、自分がかつて、ちゃんと正面から向き合ってほしいと思った分だけ、相手とちゃんと真っ直ぐに向き合いたい。この歳になっても私は、それだけは譲れない。


2022年07月17日(日) 
朝顔が咲かないと、息子と朝顔の蔓の前で腕組して蹲る。何がいけないんだろう、何が去年と違うんだろうと息子とふたり首を傾げる。長雨のせいなのか何なのか、それともそもそも土がいけなかったのか。分からない。「もうちょっと待っていなさいよ、待つのも大事よ」と電話をして訊ねた母が言う。植物を育てるのには待つことも大事なポイントのひとつよ、と言われている気がした。なるほど、私達には「待つ」が足りない。それは確かにそうだ。もうちょっと、待ってみよう。「天気がよくなればまた変わるわよ」。母のこののんびりさ加減。植物以外のことでこんなのんびりさ加減を母の背中から見て取ったことはないのだが。彼女は植物のことになるとこう、なんというか、神がかってくるから不思議だ。

家人の京都行が目前になってきた。ばたばたしている。いや、ばたばたしているのは家人だけのはずなのだが、ばたばたしているひとを見ているとこちらも何となく気ぜわしくなってくる。何かしなくちゃいけない気になってくる。
確かにやらなくちゃいけないことが自分にも山積みなことに改めて気づく。手紙の返事を書かなくちゃならないし、プログラムのための原稿も書かなくちゃいけないし、来週の撮影の用意もしなくちゃいけない。そもそも二か月後に迫った展示の準備もやらなくちゃいけない。うわ、やらなきゃならないことだらけじゃん、といきなりどぎまぎしてくる。
この暑さにやられて何一つ満足にできていない。暑さのせいにしているが、いや、確かにクーラーのない部屋での作業は地獄で、全然捗らないというのも事実なのだけれど、それでも。
思うのだけれど。冬の寒さは着込めば凌げる。でも夏の暑さは。どうしようもない。為す術がない。暑さを前にして為す術がないという、そのことが、さらに私をどんよりさせるのだな、と今思った。抗いようのないことが、私をどん詰まりにさせるのだ、と。ふむ。

最近、文章をしたためる時、たいてい原摩利彦氏の「流浪の月」のサウンドトラックを聴いている。落ち着くのだ。音が始まると、すっと、自分がシャボン玉の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。薄い膜がかかった、というような。だから、自分をちゃんと守った状態で自分に降りてゆける。
空の色が変わり始めた。昨夜のうちに日記を書くつもりだったのが、書けずに今になってしまった。夜明けが近い。ああ、今朝の空は静かだ。夜闇が徐々に徐々に消えてゆきながら地平線が暗橙色に膨らみ始めた。小さな雲がちぎれちぎれ、地平線近くに浮かんでいる。ここからがあっという間なのだ、空の変わりようが。じっと、ただじっと見つめていたくなる。
昨夜だったか、以前レース編みして作った小袋をプレゼントしたTから連絡があって、袋の糸がほつれてしまった、と。もう寿命かなあ、と。この春だったかほつれたばかりだったから、ああ、もう糸が限界なのだなと思った。ずいぶん長くつかってもらったから、まさしくその言葉どおり、寿命、なのだろう。
昨夜はそれで終わったのだけれど。何となく心に引っかかっていて。というのも、彼女はものを大事に使うひとで。ひとつのものを長く愛でるひとで。ちょうど12月、約半年後が彼女の誕生日だから、それに向けてまた小袋を作ろうかな、と。そう思いついた。うかがいのメッセージを送る。

ああ、今ちょうど太陽が雲の向こうに現れた。雲の微妙な切れ間から燃え上がる橙色が透けて見える。朝だ。
無事に一日を越えた。そしてここから、新しい一日が始まる。


2022年07月16日(土) 
ここ数日日記を書こうにも体力気力が足りず書けなかった。ようやっと今紙に向かって、数日を省みようと試みるのだけれど、ぼんやりしていてほぼ思い出せない。唯一思い出せるのは病院に行ったというそのこと。それは隔週金曜が通院日だから思い出せるだけの話で、もしこれが、一か月に一度とか、たまにしかなかったら、きっと今も思い出せていないに違いない。

通院日。確かいつものように電車に乗って出かけた。カウンセラーと向き合い、時々、あれ、今私何を話してましたっけ、と言った気がする。そのたび先生が、今さっきはこれこれこういう話をしていたのよ、と教えてくれたんだった。身体痛がかなり酷くて、テニスボールを持っていった。背中や腰あたりをテニスボールでごりごりやりながら、カウンセリングを受けた。
診察がいつもより早く回ってきて、診察室に入ると、先生はいつものようににこにこしていてほっとしたんだった。何かの拍子に血管の話になって、歳を取る程血管は浮き出てくるものなのよ、筋肉や脂肪が血管を抑えておけなくなるのよ、みたいなことを先生が言った時、ああ私は一番若くてきれいだったはずの二十代後半、被害のおかげでまるっきり閉じ篭って過ごしたんだったなぁ、私のきれいはどこに消えたんだろう、なんて、柄にもなく思ったんだった。

宿泊学級で息子が夜いないので、家人に誘われ飲みにゆく。といっても私は梅酒くらいしか今飲めなくなっているのだけれども。
お酒を飲むなら煙草が吸えるところがいい、と私が言ったものだから、家人が困ってあれこれスマホで調べていたのだけれど、途中で「ああもう面倒くさい。行って聞くのが早いよ、そうしよう」と。そういう家人も昔は煙草を吸っていた、特に飲んだ時はぱかぱか吸っていたんだけれども。

このくらいは何とか思い出せる。
私の記憶はそのくらいが限界。

「不遇な幼少期を過ごした人は、自分は何をしてもいいと歪んだ特権意識を持つようになりがち。そういう人が生まれやすい社会情勢。孤立する人達をケアする体制が必要」。とある精神科医が吐いたという言葉。会ったこともない人間をそう分析したそうで。
不遇な幼少期を過ごした人間を何人も知ってる。でもそうした人間の誰一人として、歪んだ特権意識なんて持っていやしない。むしろ、不遇な幼少期を過ごしたからこそ、それを繰り返させてはならないと活動するひとたちばかりだ。
私は何でこの言葉が喉元に引っかかってしまったかといえば、これが精神科医の言葉で、なおかつその精神科医が人間を診もしないでこう評したから、だ。
何なんだろう、この無責任さ。一度たりとも診察したことがない相手をこう断罪できてしまう精神科医。私が接したことのある精神科医らとは、まったく異なる人種としか思えない。
むしろ、貴殿のように誰かを断罪する精神科医がいることが社会の害悪にしか私には思えない。ひとを孤立させているのは貴殿のこんな言葉の方だと思うが。

それにしても。よく雨が降る。梅雨明けしてから雨が降る不思議。溜まった洗濯物を一体いつ片付けられるのだろうと途方に暮れている。部屋干しした洗濯物の感触は、いくら消臭剤やら柔軟剤やら使ったからって好きじゃない。ふにゃっとしていてハリがない。せっかく洗濯したのにくてっとしている洗濯物は悲しい。


2022年07月13日(水) 
加害者プログラムへの手紙を書いていたら、あっという間に夜明けになってしまった。彼らの手紙に真摯に向き合おうとするほどに、当たり前だけれどもエネルギーを要する。彼らの認知の歪みに正面から向き合おうとするほどに、細心の注意が要る。私の言葉遣いひとつで何かがまた掛け違えを起こしてしまうかもしれないと思うと、言葉選びにとんでもなく時間がかかる。そんな具合だから、生半可な気持ちでは書き出せない。今回は一週間以上書き出すのに時間がかかってしまった。
私が伝えようとしていることが10あったとして。そのうちの1、2くらいでもいい、ちゃんとまっすぐに伝わってくれたら。もうそれで十分と言ってもいい。最初から丸ごと伝わるなんて思っていやしないから。伝わる何かがあれば、それで、いい。
被害者にとって被害は被害そのものだけではない、被害後を生きるそれ自体もが被害に含まれるのだということ。たとえば「死にたい」ひとつとっても、被害者のそれと加害者のそれとは異なっている、それは何が異なるのかということ。今謂われる男らしさは本当に強さなのか、本当の強さとは何なのかということ等々。挙げ出すときりがないのだけれど、どれかひとつでもいい、読む彼らの心に届くと、いい。

依存症施設のKさんが、カマキリを二匹捕まえてきてくれた。息子にどうぞ、と。緑色のカマキリと茶色いカマキリ。どちらもとても小さい。息子に渡すとそれまでへそを曲げてぶーたれていた顔がぱっと明るくなる。
あまりに嬉しかったのだろう、カマキリを弄繰り回している。そんなことしてると死んじゃうよ?と言ったそばから、茶色いカマキリがころっと死んでしまった。
ショックを受けた息子がギャン泣き。ワンコを連れて寝床に泣きにいってしまう。緑色の子もびよーんと身体を伸ばして横たわっている。
命ある者は誰も等しく死ぬのだよ、という話をしんしんと伝える。もちろん彼はそんなの今受け付けられない。大好きな、ようやっと手に入れたカマキリが死んでしまった、そのショックの方が何億倍も大きい。しかし。
「父ちゃんも母ちゃんも、いずれ君より先に死ぬんだよ」と言ったところで、彼が黙り込む。でもそれが事実であり、どうしようもなくやってくるだろう現実であり。結局、泣きべそをかいたまま彼は寝付いた。
翌朝、なんと、虫籠の中で緑色のカマキリが動いているではないか。
「母ちゃん!これ、脱皮してたんだよ、脱皮!」
カマキリが脱皮するなんて、私は初めて知った。なるほど。茶色い子は間違いなく死んでしまっており。公園に埋葬することになった。
カナヘビと共に別の虫籠で育てることになったのだが、もうこれ、餌確保が凄く大変って話なんじゃないか?と、母は戦々恐々となっている。母ちゃん、もうこれ以上バッタ捕り手伝わないよ。

* * *

高校の時友人が飛び降りて死んだ。新聞にも小さく記事が出た。学校での虐めだけじゃなく両親が「宗教」に嵌ってそれについても悩んでいたと後で彼女の遺書によって知った。「宗教」に対して一歩置くようになったのはあれからかもしれない。ひとの命を奪うようなものが「宗教」なら、私はそんなもの要らない。
親からのネグレクトと過干渉とに悩んでいた十代、必死に神に祈った時期があった。救われたくて必死に縋った。でも、祈っても祈っても私は救われなかった。特定の神様より、海や空や植物たちが醸す生命力に自分が引き上げられることに気づいた。神なんかじゃない、等しく与えられた命こそ私には尊い。
私がどん底にいた頃、いつだって、ぎりぎりのところで手を伸ばしてくれるのは、数少ない友人らだった。神様なんかじゃなかった。私の命をひっぱりあげてくれるのはいつだって、命ある者たちだった。死んでいったかつて命あった者たちもそうだ。私をとことんのところで後押ししてくれた。
神様や薬は、一時凌ぎにはなっても、私をすくい上げてなんてくれなかったし抱きしめてもくれなかった。だから私は、私と同じようにどん底でのたうち回り足掻いてる命たちこそを信じる。


2022年07月11日(月) 
矯正研究に掲載されている藤岡先生の論文を少しずつ読み始めてみる。活字を追うのがまだしんどいけれども、そうも言ってられない。山積みの本を少しずつでも片づけなければ。論文の中にJさんのお名前が出てきて、ふっと気持ちがJさんの方に向かう。元気でいるだろうか。具合がよくないと聞いたけれど、もう大丈夫になっただろうか。

朝顔がちっとも花が咲かないのには理由があるそうで。肥料があってない、とか、茂り過ぎ、とか。そのどちらも当てはまらない場合はどうなんだろう? 見事に花芽がつかない。母ならこんな時、すぐ原因を見つけられるのだろうけれども、私ではまだまだ、そうはいかない。ああでもないこうでもない、と悪戦苦闘するばかり。
紫陽花の挿し枝は何とか育っている。この暑い中、新葉を拡げ始めてくれており。ありがたいなぁと思う。クリーミーエデンの新苗は、すっかり草臥れてしまっていて、ほとんどの葉が散り落ちてしまった。花を見るのを楽しみにしているのに、今こんな具合では夏を越せないかもしれない。心配だ。
私は植物を育てながら、きっと、心のバランスを保ってるんだと思う。彼らが無事育ってくれていると、私もまだ生き延びていける気がするのだ。もうだめだ、と思う時でも、ベランダで彼ら緑がひらひらと風に揺れ囁いてくれれば、何とかなるかもしれないと思うことができたりする。彼らを育てているのは私かもしれないけれども、彼らに支えられているのもまた、私だ。

月曜午後。アートセラピー講師の日。自分の心の中の暗い部分を形にしようというテーマでフォトコラージュに取り組んでもらう。いつも思うのだが、彼らにはきっと語りたいことがやまほどあって、でも言葉が追いついていかないから語れないだけなんだと思う。だって、フォトコラージュ等してもらうと、彼らは実に饒舌に語り出すからだ。
コラージュの中にクレヨンでメキシコの言葉をちりばめさせた子もいれば、写真と写真を道でつないだひとも。きっちり写真を並べて用紙を埋めたひともいれば、仕掛け絵本のように覗き穴をつけたひとも。どれもこれも、私ではとうてい思いつかない発想で、隣にいるだけでもうどきどきする。彼らに教えられることの、なんとたくさんあることか。
途中で久里浜の病院のスタッフらが見学に来られた。そのスタッフさんも並んだところで、メンバー全員で作品たちをシェア。タイトルの付け方もみなそれぞれ個性的で、読み上げるのが楽しかったりする。
施設までの道、自転車で走る。陽射しがこれでもかというほど照り付ける中走る。マスクなんてしていたら顔中汗だくになってしまうから、早々に外す。外では外してもいいようなことを医者が言っていたけれど、街中を歩いているときすれ違うひとらはみな、マスクをきっちりつけている。外しているのは自分だけだったりするから、すごく居心地が悪い。マスクは一体、いつまで私たちの顔に貼りついているんだろう。

今はっと思い出した。今日は朝一番に映画を観たのだった。「神は見返りを求める」。前から気になっていた。ようやくチャンスを得て見てみた。
なかなかきつい映画だった。今この時代を実によく吸い取って写し取っていた気がする。登場人物たちの醸す雰囲気に怖ささえ覚えた。観る者の心の、不快な部分をざらざらと逆撫でしてくるような映画で。気づいたらじっと見入ってしまっていた。ムロツヨシ氏の演技があまりに絶妙で、こんな演技ができる俳優さんだったんだ、と感心した。ラストの、踊るムロさんの後ろ姿を逆光で映すシーンは、ぎゅっと胸が掴まれた。人間の滑稽さ、切なさが、スクリーンいっぱいにあふれているかのようだった。「空白」を撮った監督さんの作品だと後で知って、ああなるほど、と勝手に納得してしまった。人間の、人間ならではの滑稽さ、残酷さ、情けなさを、存分に映し出す、そんな映画で。その人間の抉り方には、惹かれるものがあった。不愉快なのに、不快なのに気になる。そういう映画。

身体の痛みが酷いので、鎮痛剤をちょっと多めに飲む。これで少しの間だけでも楽になるといい。


2022年07月10日(日) 
早朝、空がピンク色に燃え上がった。ふわぁっと拡がるその色に辺り一面包まれた一瞬。慌ててカメラを構えシャッターを切る。振り返った時にはもう、ピンクの光は消えていた。一瞬にして雲に呑みこまれた光。いつもそうだ。一瞬一瞬、変化し続ける空と雲。一瞬として同じことはない。
たぶんそれはひとの人生にも言えて、一瞬たりとて同じことは、起こらない。その都度その都度の私たち自身の選択によって、道は作られてゆく。同じ道を歩くことはできない。死ぬ迄道を作り、歩き続ける。

朝顔が、何故か花が咲かない。一度二度咲いたきり、音沙汰がない。さすがに息子も気にしているらしく、「学校のはいっぱい咲いてるのにどうしたんだろう?」と首を傾げている。やっぱり灰かび病なのだろうか。これは、どう対処すべきなんだろう。アメリカンブルーは全部一度刈り込んでしまったけれど、朝顔だとそうもいかない。困った。
新苗の薔薇たちが連日のこの強烈な日差しに喘いでいる。どうにかしてやりたいがどうにもならない。すっかり草臥れた様子で立つ苗たちを、指でなぞりながら、耐えてね、と伝える。何とか秋まで踏ん張ってほしい。

正直、今日のことをあまり思い出せない。身体の痛みでうんうん唸っていたのは覚えているのだが、読もうと本を開いたところで意識が途切れた。それでも洗濯や掃除を切れ切れの意識の中でやっていたから、まぁ何とかなったのだろうとは思うが。
掃除をしながらふと本棚がおかしいなと見たら、息子の鬼滅の刃グッズがずらり、本棚に並べられていた。あまりにたくさん並んでいてびっくり。いつの間にこんなに集めたのだろう。そういえば映画に行く度、ガチャガチャやりたいと言い、鬼滅の刃のガチャガチャを探しては為していたけれども。こんなにも夢中になるものなんだなぁと改めて感心。ふと思い出す、そういえば昔私はマッチを集めていたっけなぁと。祖母や祖父に連れて行ってもらった店のマッチやら、自分がひとりで通うようになった珈琲屋のマッチやら。とにかく段ボール幾つも溜まるほどだった。そう省みると、ひとのことは言えないな、と苦笑が漏れる。
マッチ、といえば、マッチを置いている店なんて、もう見かけなくなった。私はあの、マッチ箱のデザインを眺めるのが好きだった。一個一個、趣向を凝らして作られた店のマッチ。それを見るだけで、店主の店へのイメージが手に取るように分かったものだった。私は特に、手触り感のあるマットな紙質が好みで、そういう紙を使って作られたマッチ箱が特にお気に入りだった。マッチのあの頭の部分の、独特な匂いも。あの収集したマッチは、独り暮らしをするにあたって実家を出る際、すべて処分してしまった。もったいないことをした、と今も思う。もう、集めたくても集められない品々、だった。

Sちゃんから宅急便が届く。中にはじゃがいもやたまねぎがごっそり詰まっている。Sちゃんのお友達が栽培したというそれらのお裾分け、だ。「今年はじゃがいもがふだんの3倍も収穫できたらしくて、あまってるんだってー」と言っていた。ありがたやありがたや。
夜、Sちゃんと少し話す。今回も外資系に就職したSちゃんなのだけれど、ちょっと勝手が違うらしい。縦割りで、トップの意見に否が言えない雰囲気が強烈にある、と言っていた。イエスしか言えないなんて、あほらしいよね、ほんと、と言う彼女に大きく私も頷く。そんなんなら、AIでも並べて置いておけばいいじゃないと思ってしまう。イエスしか言わないコンピューター相手に仕事すればいい。
そもそも、自分が正しい、と、自分の正しさに従わない者は悪或いは敵、というのは違うと思う。あなたの正義と私の正義が違うのは当たり前のこと。その違いを互いに認め合っていかなければ、新しいものは生まれはしない。成長は、ない。
月末にでもお茶しよう、と約束する。

明日はアートセラピー講師の日。さぁ頭を切り替えねば。


2022年07月09日(土) 
植木に水を遣りながら、植木の様子をチェックしていく。先週の強風続きの数日のおかげで、薔薇たちはすっかり葉をぼろぼろにしてしまった。棘があるってこういうことなんだなぁといつも思う。薔薇は美しい、と言われるけれど、その美しさの陰にはこれだけの彼らの努力があるのだよなと。日々を風を黙って耐え忍ぶ彼らの姿をここでいつも見ているから猶更に。
宿根菫は伸び放題に伸びているので、近々刈込をしてあげないと、と思う。名無しの権兵衛のプランターの中、にょきにょき育つ子らは相変わらず元気。夏が終わったら早々に植え替えしてやらないといけない。心配なのは朝顔。なんかおかしい。葉の様子がおかしい。アメリカンブルーと同じ灰かび病なんじゃないかと思えるのだがどうなんだろう。花のつきも悪い。息子はまったく気に留める様子はないのだけれども。私は気になって気になってしょうがなかったりする。

どのくらいぶりだろう。久しぶりにMりんに会った。いつものナポリタンでランチを、と約束していたのだが、何故か今日に限ってそのナポリタンの店が臨時休業で。結局、もうひとつ私が知っている珈琲の美味しい店まで歩くことにする。
彼女の息子の話、私の息子や娘や孫の話、写真の話、あれやこれや、話題が尽きない。彼女とはTさんを通じて知り合ったと記憶している。あれから一体何年経つのだろう。
陽射しがぎらぎらと照り付けていて、歩きながらふたりとも汗が噴き出して仕方がなかった。「マスクいい加減どうにかしてくれないかな」と言いながら笑い合った。笑い合える相手がいるって、ありがたいな、と、思う。こんな時だからこそ、他愛ない話題でからからと笑い合える。大切なことだと思う。

自分で自分の歪みに気づき、かつ、それを受け容れられるひとっているのだろうか。私はそんなできたひとにはほとんど出会ったことが、ない。歪みや偏りに気づいてはいる、くらいがせいぜいだろうか。
歪みや偏りに気づいてはいる、というのにも幅があって、なんかひとと違うな、という程度のひともいれば、自分はヤバいと気づいてるひともいたり。そういったことを、自分だけで引き受ける、というのは、本当にしんどいものだ。だからこそ、引き受けられずに目を逸らしてしまうことがほとんどだったりする。
何となく違うな、と思った時に、それを打ち明けられる「他人」がいない。この「他人」こそが大事になってくると私は思うのだけれど。こうした「他人」がいないことが、今の時代の、大きな「欠陥」になってるんじゃないか、と、最近強く思う。
先日の日記にも書いたけれども。みんな忙しすぎて、自分のことだけでもう精一杯で、だから、「おせっかい」を焼ける隙間がもはや残っていなかったりする。でもこの「おせっかい」こそが、社会を穏やかに廻す「潤滑油」みたいな役割を負っていたりするんじゃないか、と。

まだうまく言えないのだけれど。でも。そう、思うのだ。

ひとごと、じゃなく。わがこと、にできるおせっかいさ。それが今、必要なんじゃないか、と。


2022年07月07日(木) 
曇天。もくもくと棚引く灰色の雲は、いつ雨を落としてもおかしくない装いで。そのせいなのか何なのか、朝から頭痛が酷かった。ずきんずきんといつもの箇所が痛んで、苦しかった。
こんな日は。頭痛薬もたいして役に立ちはしない。呼吸を深くして、一歩一歩、確かめながら歩くことくらいしか、やれることは、ない。

唐突だが。
昔々の、子どもの頃のことだけれども。よく、出来のいい子、と言われた。何でもできる優秀な子、とも。
でも、本当は、出来のいい子なんかじゃぁないことは自分が一番よく分かっていた。ひとが見ていないところで努力して努力して努力して、ようやっと他人より少しできる、学校の勉強をそれなりにこなせる子、に化けてただけだ、って。だから、周りからそう称されれば称されるほど、私はそのプレッシャーに圧し潰されそうになっていたし、呼吸が苦しかった。完璧ないい子にならなくちゃ、と、いつも焦っていた。
今なら。完璧ないい子、なんてものはいないんだよ、ないんだよ、と思う。あの頃の自分に、だから、そんな焦らなくていいよ、できなくていいよ、大丈夫、ほかのだれがあなたを見捨てても私はあなたを見捨てたりしない、と言ってやれる。
当時は無理だった。とてもじゃないけれど。周りの評価についていかなくちゃと足掻いてた。あの焦りは、私の身を焦がすくらいに激しいものだった。
間違ったことをしてはいけない。いつでも正しくいなくてはいけない。そうも思っていた。いつだって、いい子、でいなくちゃいけない、と。
遠い、昔のこと。

完璧な人間なんて、この世界のどこを探しても恐らくいない。みんな、何かしら間違うものだ。間違って、転んで、痛い思いをして、そして知る。完璧なんてないし、いい子なだけのいい子はいない、って。もちろん、時間がかかるかもしれないけれども。

出来のいい子、優秀な、何でもできる子、は、やがて挫折を味わう。実際私は学校を中退もしたし、犯罪被害者にもなったし、何度自殺未遂なんてもんも試みたかしれない。完璧なんて何処へやら、もうこれでもかってほどずたぼろになって周りにも迷惑をかけて、そうして今、ここに、いる。

つくづく、思うのだ。完璧な、正しいだけの人間なんていない、と。みんなどこかで間違う。間違った時声をかけてくれる隣人がいるかいないかの違いなのだろうなと。犯罪者になってしまう前に声をかけてくれる誰かに出会ってほしい。犯罪者となってしまう前に。そして、被害者をうんでしまう前にどうか、気づいてほしい。
忙しい人たちが増えた。大人も子供もみんな、忙しい。そんな中、きちんと丸ごと話を聞いてくれる他者の存在が、欠けているのかな、と。思うのだ。
忙しすぎて、自分のことだけでもう手いっぱいすぎて、他人にかまけていられない。そういう世の中なんだろうけれど。でもこの、「欠け」が、やがて歪みに、偏りに、なっていってしまうのかもしれない、と、そう感じる。
歪んでしまう前に、声を掛け合えないものなんだろうか。
女はもっと男に寛大になれ、とか何だとか。寛大になれと言うのならまず自分が隣人に寛大になれよ、と思う。
忙しすぎる社会の弊害があちこちにあって、時々、茫然となってしまう。私もその、社会の住人のひとり。自戒を込めて。


2022年07月05日(火) 
息子の朝顔が、最初の二輪三輪咲いたきり、全然咲いてくれない。どうしたんだろう、と朝顔の隣に立って気づく。葉の何枚かが茶色く変色している。もしやアメリカンブルーと同じ灰かび病になっていやしないか? 不安になる。ちょくちょく様子を見てやらないと、と思う。

今日は、舞踏家Sさんと久しぶりの撮影。改札口で待っていると、いきなり声をかけられる。誰かと思えばSさん。いつものスキンヘッドではなく、髭ぼうぼう、髪の毛くりくり、で現れたものだから、誰だかちっとも分からなかった。正直あまりのむさくるしい様に驚いて吹き出しそうになってしまう。「どこまでむさくるしくなれるか、やってみようと思ってサ」なんてSさんが言うから、なおさら笑い出してしまいそうになる。
朝から強い陽射し。Sさんは裸足で踊るから、アスファルトが熱々になってしまうと困る。早々に撮影開始。
Sさんの舞踏は数年前から、大きく変化した。彼の身体に癌が見つかった前後だったと思う。癌が分かったことをきっかけに、彼が自分の身体を改めて省みるようになったことが大きく踊りに影響したんじゃないかと私は勝手に思っている。精神的にも、それまでのSさんと少しずつ少しずつ異なる部分を感じるようになった。
それまでのSさんの踊りは、大きく動く踊りだった。風を、空気を切って踊る、そんな踊りだった。自ら風を起こそうとしているかのような動き方をしていた。それが、いつしか、風の波動を掬い取るような舞踏に変わった。前の大振りな踊りを知っている私から見ると、それは大きな大きな変化で、最初頭がついていききれないほどだった。
台風が近づいているという今日、風は強烈で、容赦なく吹いていた。以前のSさんだったら、その強烈な風に、さらに自らが風を起こし勢いづいて踊ったんじゃないかと想像する。でも今のSさんは、風に乗るように、静かに最小限の動きしかしない。それが今の彼の踊りなんだろう。私はじっと、彼の舞踏を追う。
それにしても。髪の毛や髭があるだけで、頭の大きさが坊主だった時の2倍3倍に見えるって、すごい。髪の毛や髭ってそれだけの存在感があるのだと改めて知る。
場所を変えようか、ということで自転車で走り出す。最初F山まで走る予定だったのだけれど、裏道とかどお?ということで思いついた、中華街脇の裏道。以前ちらっと見た覚えのある蔦で覆われた工場。行ってみたらまだあった。早速撮影。
感触として、この場所が一番、今日のSさんの踊りに合っていたと思う。撮っていてそう感じられた。それまでちょっと上滑り感のあった私の中の何かが、この時かっちり合った。そんな実感。
撮影後、珈琲屋へ。食べながらSさんが、音の波動の話をしてくれる。そういえばこの前もそんな話をしていたなぁと思い出す。音の波動によっていろんなものが浄化され得る、それは病細胞までも、と、Sさんは言う。もっと調べて勉強しようと思ってるんだ、と。
Sさんの話は、感じとして分からないわけじゃなかった。そうだったらいいよね、と私も思う。でも。そんなんで癌細胞まで消え去るのであったら、私の祖母は何故全身癌に侵され死んだのだろう、祖母だけではない、祖父も叔父も大叔母も。みんなみんなみんな、何故癌で死んだのだろう? Sさんの話は興味深いことは興味深いのだけれど、親族全員癌で死んで失っている私には、音の波動で癌細胞が消滅するとはちょっと受け容れ難いのだった。
近々、写真と舞踏の話でもしようよ、と約束して別れる。そういう話し合いというか対話も、時として重要。できるだけ早めにその予定を組もう。


2022年07月04日(月) 
郵便受を見たら受刑者さんのひとりから手紙が届いていた。整った字を書くひとからのものだった。
読みながら電車に乗る。今日はS先生とSさんを引き合わせるために出掛ける。電車がごとごと揺れながら走って行く。実家に居た頃使った最寄り駅も通り越し、S先生の勤める病院の駅へ。Sさんはもうすでに改札口に居た。初対面なのだけれどきっとこのひとだろうと思ったひとがSさんで、ふたり顔を見合わせちょっと笑う。
おふたりが話しているのを一生懸命聴いていようと思うのに心が遠くなって頭がぐわんぐわんしてしまった。仕方ない、これも私の症状のひとつ。S先生はもう慣れたもので、「あ、解離始まったなーって思いました。僕もだいぶ慣れてきました」と後に笑っていたけれど。いやいや、そんなのに慣れなくてもいいですと私も笑ってしまった。

それにしても。Sさんには感心した。事前にS先生に訊ねたい事柄を書き出してきており、言語化しづらいことも一生懸命言葉にしようと声にして語っていた。なかなかできることじゃあない。そもそも彼女は今、不定期にカウンセリングを受ける以外していないそうだ。つまり主治医についていないから薬も服用していない、と。びっくりした。
息子の歯医者の予約時間が迫っていてゆっくりできなかったけれども、いつかちゃんとSさんとも話がしたい。もう少し、彼女の身辺が落ち着いたら。

ばたばたとK組の撮影が決まり、準備しておかなければならないことも出てきて忙しない。そして明日は舞踏家さんとの撮影だ。雨かもしれないからそれなりの準備をしておかないといけない。

そしてふと流れて来たSNSを見たら、家人が「チラシは母ちゃんです」と書き込んでいる。ああ結局そういう形になったのか、と、見ながらぼんやり思う。まぁそれが彼にできる最大限のことだったんだろう。
思うことはいろいろある。でも、これについてはこれ以上何も言うまいとも思う。朝やりあった時のことをしっかり覚えておこうと思う。でも同時に、彼なりに術を模索して実行してくれたことも覚えておこう。

主治医に短いレギンスを履いて、足の付根の炎症を抑えるといいわよとアドバイスされたので短いレギンスを買って早速履いてみたのだけれど。更年期障害のひとつのホットフラッシュには負けるらしい。発作が来ると着替えないといけないくらい汗だくになるから、その時この短いレギンスさんはへたってしまう。どうしたらいいのか。また今度主治医に相談してみよう。
ホットフラッシュ、ほんと、甘くない。

必要があって写真を見返しピックアップしているのだが、際限がない。終わりが見えない。こんなに私は写真を撮っているのか、と、呆然としたくなる。いや、写真家はみんなそんなものなんだろうけれども、じゃあみんな、それらをどう管理しているのだろう、と意識が遠くなりそう。昔のフィルムの方がよかったか、と言い出すときりがないのだけれども、私はやっぱり、手で触れるプリントが好きだった。フィルムが好きだった。また暗室に一日中籠って、プリント作業だけに専念するという時間がほしい。いつか、また。


2022年07月03日(日) 
久しぶりに怒っている。家人の展示のフライヤーをデザイン作成したのは私なのに、いきなり家人が為したことになって発表された。これはどういうことなんだろう? 夫婦だからなぁなぁにしていいことなんだろうか? それとも単に間違えたのか? こういうことに間違えるってあるのか? 理解ができなくて頭が混乱している。

自分の仕事には自分のサインを必ず付せ、と教えてくれたのは恩師だ。恩師から教えられたのは、正確には、自分の文章には自分のサインを必ず残せ、だった。もしも自分の名が付されていなくても、ああこれはあのひとが書いた文章だ、と読んだ人が気づくくらいに、自分の仕事にプライドをもって為せ、と。
今回、確かに拙いデザインだったかもしれない。どうってことのない話なのかもしれない。たいしたことのないレベルの話なのかもしれない。でも。
私の流儀に反するのだ。

誤情報を流した先にも、何故?となってるが、そもそもこういうことは家人がきちんとしておかなかったから起きたことなんじゃないかと思えてならない。そこが非常に残念で不愉快で仕方がない。どうしてこうなった?

そして今、私が訴えたことによって先方から、誤情報削除しました、申し訳ありません、と連絡がきたけれど。これもまた、首を傾げている。家人が作成した、ということを発表することはできて、私が作成した、と発表することはできないということ? 訂正もなく削除すればいい、ということ?
理解するのに頭がまったく追いつかない。不愉快極まりない。

ああなんだか、今日一日が塗り替わってしまった。家族で久しぶりにボードゲームをして、疲れ果ててことんと眠ったはずなのに。確かに私の睡眠はいつだって短くて、二時間ほどで起きたのだけれども。でも、でも、でも。
それなりに穏やかないい日、だったはずなのに。

何なんだろう。

ちょっと考えるのをいったんやめよう。棚上げしよう。保留棚に置いてしまおう。心を切り離さないと、気持ちが混乱する。

* * *

今朝の空は本当に美しかった。ほんの数分のことなのだけれど、そこに在った雲がすべて、下から金色に照らし出され、燃え上がった。神々しい、とはこういうことを言うのだと瞬間的に思った。
見事な夜明け、だった。
―――と、書き出してみたけれど。今自分の心に充満するもやもやを一掃することが、できそうにない。さすがに私はそこまで、器用じゃない。
恩師にこの話をしたら、恩師は何と言うだろう。笑って流せと言うだろうか? あり得ない。あれほど恩師に教えられたことをこうも軽々とバツつけられたみたいで、それが何より気分が悪いのだ、私は。
私が大事にしてきた気持ちをこんな簡単に足蹴にされた、それが、不愉快なのだ。きっと。
なんだか、とても、疲れた。


2022年07月02日(土) 
昨夜は記憶が飛んでいる。通院日でカウンセリングで話し込んだせいかぐったりしてしまっていた。走馬灯のようにフラッシュバックが、動画ではなくスライドショーのようにして脳裏に流れていたのを覚えている。最近時々このパターンがある。何度か意識を取り戻し、日記を書いてしまおうと試みたのだけれど気力がもたず、結局ぐったり横になった。横になりながら、脳裏を流れる幾つもの画をぼんやり眺めていた。

森山良子さんの「さとうきび畑」を久しぶりに聴きたくなってCDの棚を漁る。森山良子さんのファンではないのだが、彼女のこの歌だけはどうしても忘れられない。子どもの頃にみんなの歌か何かで聴いた。その時の衝撃は今も残っている。私は沖縄のことなど何も知らず、ただこの歌を前にして圧倒された。
せっかくだからと森山つながりで直太朗の「生きとし生ける物へ」も聴いてみる。

Cさんと会う。どのくらいぶりだろう。もはや数えられない程久しぶり。最近飲み始めた漢方が自分に合っているのだと嬉しそうに話してくれる。離婚も近々成立しそうで、やっとだよ、と苦笑していた。
彼女がまだ四国にいて、パートナーから酷いDVを受けていた頃。電話で聞く彼女の声はいつだってくぐもって、ぐったりしていた。私はそんな彼女の声を聞くたび、彼女のパートナーへの腹立ちが募って募って仕方がなかったのを覚えている。
でもそれも、あと数か月でケリがつく、と彼女が言う。長かったねぇとふたりで言い合い苦笑する。結婚は簡単にできるものだけれども、離婚というのはどうしてこうも大変なのか。誰か論文でも書いてほしいくらいだ。
般若のライブに娘と家人がでかけていったので、私はお孫と息子と共にお留守番。そこにCさんが加わっての夕飯。息子とお孫のリクエストで焼きそば。もちろん野菜は多めで。

カウンセリングで、加害と被害についてカウンセラーと話をする。特定の加害、特定の被害、ではない。加害全般、被害全般、その傾向についてあれやこれやと話を。あっという間に40分が過ぎてしまう。今度はきちんと話を整理してから向き合わないとだめだなと反省する。
診察に移って、最初に慢性疼痛について話をし、その後、炎症を起こしている性器の左端、左足の付根の内側を診てもらうと、肌の色が変色していて、つまり色素が濃いというわけではない私の足の付根(性器の左脇)を診てもらうと、そこは炎症を繰り返し起こして皮膚がすっかり色素沈着してしまっている、とのこと。酷い被害を受けたもんだねぇとしみじみ主治医とふたりで話をする。
でも、こんなことを話せるようになったのも、この先生になってから、だ。その前はこんなこと口に出すことさえできなかった。そもそも、まだPTSDの急性期は身体の痛みになんて気づくことができなかった。
十年、二十年、もうじき三十年。それだけ年月が経って、ついでに自分も歳を取って、そうしてようやっと、口に出すことができた。長い道程。

ああ、それにしても。本が読みたい。今活字拒絶状態の時期に入ってしまって、気を張っていないと文字を追えない。それがつらい。貪るように本を読みたい。


浅岡忍 HOMEMAIL

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