2022年04月30日(土) |
陽射しは暖かいけれど北風がぴゅるぴゅると吹いて肌寒い。半袖のシャツを着ていた私はベランダに出てぶるり。水やりを始める前に一枚上着を着込む。 先日切り込んだアメリカンブルーは今のところ静かに佇んでいる。このまま病葉が現れず育ってくれるといいのだけれど。それから名無しの権兵衛の芽が次々顔を出しているプランター、覗くたび誰か新しい子が現れている。確か葡萄と檸檬とあと何かしらの種を次々埋めたのだけれど。どれがどれなのか分からないし、そもそも最後のあと何かしらという何かしらが誰だったか覚えていない。育って実か花かついてくれるまで、私はきっとこの子らを名無しの権兵衛さんと呼ぶほかにないんだろうと思う。ブルーデイジーが次々蕾をつけている。朝顔は息子に任せきりなのだけれど、すくすく育っている様子。見ると間引きしたくなるのでできるだけ見ないようにしている。 昨日できなかった洗濯、今日はということで三回廻す。物干し竿が撓むほど干した。風が吹いているからあっという間に乾くに違いない。そうであることを祈る。
身体痛が相変わらず続いている。テニスボールのケアが欠かせない。ストレッチももちろんしているのだけれど、特に両脚の付根あたりの痛みが酷い。次の診察は10日後。ちょっと間がある。それまで自分で何とか保たなければ。
加害者が自分の歪みに自ら気づき、また、自らの言葉でそれらを語るということ。今まだ社会には、そういったことを許す場がほとんどない、というのが現状だ。もし語る誰かがいたとしても、それをまず否定したり非難したり。反応としては当然と言えば当然なのかもしれないが、私はできるなら、いつか、いつの日か、そういう場が当たり前に用意されるようになるといい、と思っている。 借り物の言葉でいくら反省や謝罪を述べたとしても、それではその加害者は真の意味での反省も謝罪も更生も、辿れはしないと思う。何処までも「借り物」であって、それは当人の内奥にまで降りていっていないことがほとんどだったりするから、だ。 自ら気づくこと。そして自らの言葉で語ること。 これができてはじめて、自分が何を犯したのか、彼らはようやっと、納得できたりする。だからこの過程を経ることは、彼らの更生には、欠かせない。そのことを、プログラムを通じて私は知った。だから、思うのだ。彼らが自らの言葉で自らの歪みや罪を語る場をいつの日かこの社会に、と。今はまだ無理でも、近い将来、できるなら。
家人と息子が喧嘩して、とうとう別々の部屋に寝ると互いに譲らない夜。私はそんな彼らをちょっと離れたところから見つめている。息子小学四年生、反抗期先取りなのか何なのか、このところの彼の様子は確かに半端じゃない。年頃になる前に反抗期ばりばりだった頃の姉貴に並ぶんじゃなかろうか、と思う今日この頃だったりする。 でもだからって、家人までもが彼とタイマン張る必要は、ないと思うのだが。どうなんだろう、そこのところ。 ふたりとも頑固だから、絶対譲ろうとしない。息子も息子なら家人も家人。要するに私から見てると、どっちもどっち、にしか見えない。
春は別れの季節。新しい出会いの季節、とも言うけれど、でもやっぱり。別れの季節だと私は思う。たとえば、AKちゃんが北の施設に入所すると引っ越して行った。今日飛行機に乗って。また、西の町に住むHちゃんは、外国に転勤が決まってしまった。近いうち彼女も飛行機に乗って行ってしまう。数年前から心調を崩していたMちゃんは、とうとうこちらを引き払って西の町の実家に帰ることになった。他にも何人か、ちらほら、と。 またいつか会える、と思えば会えるのかもしれない。でも、会えないこともあり得る。そう思うと、やっぱり、今ここの一瞬一瞬を、全力全身で生きるほかに何もできることはないのだな、と、そのことを思う。 今ここ、を全力で生きる。そんな一瞬一瞬を積み重ねる。死が迎えに来る日まで。 私ができることって結局、それに尽きる。 |
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