ささやかな日々

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2022年02月27日(日) 
今年最初のクリサンセマムが咲いた。つい一昨日まで、ぎゅっと、赤子の握りしめたこぶしみたいな蕾だったのが、ほろほろっと解けてきてふわぁっと咲いた。まっすぐに陽光に向かって咲く花だ。いつ見ても元気になる。咲いてくれて嬉しい。これから次々蕾が開いてゆくのかと思うと楽しみでならない。
菫は相変わらず地べたを這いつくばるようにして育っている。その菫の隣で葡萄の芽がじーっとしているのだけれども、ここに新たに2つ、芽が出て来た。葡萄の芽だ。種を蒔いたのは秋。それから今日まで土の下で耐えていたのかと思ったら何だかとても嬉しくなってしまった。頑張るなぁ君たち。大きく育つのは無理かもしれないけれども、一度くらいは実をつけてほしい。ガンバレガンバレ。
薔薇が新芽を吹き出させる季節にもなった。特に、挿し木した子らからの新芽の吹き出し具合が凄い。これでもかというほど次々新芽をつけている。待ってました!という感じ。春なんだなとつくづく思う。
ワンコの散歩に行っても、これまで丁度良かった厚手の上着が合わなくなってきた。汗ばんでしまう。ここ数日散歩が終わる頃には背中がぐっしょりだ。一週間前はそんなことはなかった。むしろ寒かったのに。気温も間違いなく上がってきているのだな、と、タオルで背中の汗を拭きながら思う。
そのワンコ、また我が家のリモコンを破壊した。昨夜息子と仲良く寝ていると思っていた私が甘かった。息子のところから自分の寝床に戻って来る道すがら、リモコンをがしがし喰らったらしい。朝見たら破片が散乱していた。息子は「もうおまえと遊ばないからな!許してやらない!」と喚くし、家人は「どうして君気づかなかったの」と責められるし、何とも複雑な気分を味わう。でもこういう時下手に言い返してもいいことないので沈黙は金ということで黙り込むことにする。

Kさんからの手紙に返事を書きながら、今回のKさんの手紙には甘えが滲み出ているなと思う。自分が何人もの被害者を出したことを棚上げしてしまっていやしないか、と、そう思えてならない。愚痴と甘えは違う。愚痴なら聴くが、甘えには返答しようがない。私はそういう甘えは嫌いだ。

25日に行われた小松原織香氏と信田さよ子氏の、「当事者は嘘をつく」出版記念の対談、アーカイブで視聴した。興味深い点がいくつもあった。幾つもありすぎて、まだ消化しきれていない。対談の中で小松原氏が、「私が被害に遭った頃はまだ性暴力という言葉もなかった、強姦という言葉くらいしかなかった」と言っていたが、本当にそうだったなぁと思う。被害者/加害者という言葉もまだ当時は当たり前じゃなかった。また、小松原氏が「言葉がだぁぁぁって零れ落ちていくんですよ」と言ったところ、思わずうんうんと頷いてしまった。自分の被害体験を訴えようと思っても、言葉が零れ落ちて、逃げてしまう。あれは辛かった、いや、辛いということさえ感じられないほどだった。ありありと思い出す。時代は変わった、と、小松原氏が言っていたことも印象深かった。私も同感だから、だ。いや、まだまだだ、という意見ももちろん分かるし、足りないこんなんじゃまだ全然足りない、という言い分も十分すぎる程分かる。でも。
私や小松原氏が被害に遭った頃とは比べものにならないくらい、時代が変化したのも、確かなこと、なんだ。


2022年02月24日(木) 
祝日が挟まったせいで曜日感覚が完全にズレてしまった。木曜日なのに今日は月曜日な気分。何度も間違えてしまう。今日はごみの日、いや違う、とか、今日はアートセラピー講師の日、いやいや違う、といった具合。そして何より今日は臨時の通院日。
カウンセリングを終えて待合室に行くとやけに混雑していて一瞬たじろいでしまう。つい今しがたカウンセラーと話してきた、境界線が薄い私は、慌てて群衆と距離を置こうと試みる。気を吸ってしまうからだ。
よく言えばそれは共感性が強いということらしいが、そんなものできればないにこしたことはない。他人のネガティブな気を試験紙みたいにしゅうしゅう吸い取ってしまって、結果、他人の分まで具合が悪くなってしまう。ろくなことは、ない。
壁を背中にして、一番端っこの席に横を向いて座る。こういう時は音にも過敏になってしまうから、予めウォークマンをボリュームをあげたままかけっぱなしにする。でも順番が来て名前が呼ばれた時気づけるように片耳だけ。
カウンセラーと話してきたことをあれこれできるだけ思い出そうとするのだけれど、神経が高ぶってしまい思い出せない。子どもの頃父母の機嫌を損ねないようにと全神経を欹てて四六時中過ごしていた自分が蘇ってくる。弟が母の財布からお金を抜き取った時、両成敗だと布団叩きで私も弟も殴られ続けた。どちらかしかいないんだ、やったことを白状するまでずっと叩くからな!と父は宣言し、実際そうした。弟は多分、あまりのその剣幕に押されて、いまさら言い出せなくなってしまったんだと思う。父がとうとう叩き疲れて手を止め、投げ捨てるように暴言を吐いたその後、こっそり私の部屋に来て「ごめん姉貴、巻き添えにして」とそう言った。一事が万事、そんな具合で、殴られる時はいつだって、巻き添えだった。そうならないよう全神経を集中させてひとの気の行き来を見て取ろうと毎日毎瞬必死だった。そんな、子どもの頃だった。
共感性が高いことは時に武器にもなるんだろうけれど、でも先にも言ったようにろくなことはあまりない。不安や恐れ、しんどさが増えるばかりだ。何事も「適度」が、いい。私はそう思う。
話を戻して。待合室は時間が経つごとにひとでごった返すようになり、私は気が気じゃなかった。早く名前を呼んでもらえないものだろうか、とひたすら祈って過ごした。
ようやっと順番が来て先生の部屋に入った途端気力が切れてしまった。どっと疲労に襲われた。何やってんだ自分、と突っ込みを入れたくなった。

帰宅後は帰宅後で、家人と息子が喧々囂々やっている。確かに息子の行儀は悪い。肘をついたり面倒臭そうに食べてみたりするからこれでもかってほどマズそうだし、その様子ははっきりいって褒められたものじゃぁない。だから家人がしつこいくらい注意するのも分からないでは、ない。
でも同時に思うのだ。これじゃ、食事は楽しくないよな、と。何処まで行ってもおいしくなんかないよな、と。そう思うのだ。
どうするべきなんだろう。行儀の悪さを何処まで叱っていいんだろう。楽しくない食事なんて味も分からないに違いない。私もそうだった。だから思うのだ、何処まで家人のようにしつこく叱っていいものなんだろうか、と。確かに行儀を教えるのは親しかいない。しかし。食事がそもそも楽しくなければ、マズそうにもなるんじゃなかろうか。どうなんだろう。一体どっちが大事なんだろう。
ワンコの散歩から帰って来ると、さらにふたりの状態は険悪になっており。息子が舌打ちしただとか父ちゃんが勝手に怒ってるだとか、ふたりの言い分は完全にちぐはぐで。結局家人に八つ当たりされる始末。いや、私関係ないでしょ、と言いたかったが、言い返すのも馬鹿らしく思えて黙った。

ロシアのウクライナ侵攻が現実になった今日。ウクライナの街に鳴り響いているという空襲警報が、聴こえてなんていないはずなのに耳鳴りとなって私の左耳に巣食っている。


2022年02月21日(月) 
家人が体調を崩しているので朝のワンコの散歩も私が代わることに。そして今朝、寒風吹きすさぶ中ワンコと歩く。何となく音楽が聴きたくなって持っていたウォークマンのスイッチを入れる。片耳だけヘッドフォンをして歩く。
うちのワンコはうんちが近くなるとたったか足早になる。お尻ふりふりしながらたったったったっと坂道を急いで降り始める。今日は何処まで駆けるかなと後をついて私も駆け足。長い坂をちょうど降り切ったところでお尻をくいっと下げて来た。すかさず私はビニール袋をお尻の下にセット。これでばっちりオッケー。
曲が上白石萌音の「懐かしい未来」に。口ずさみながら歩く。続けてpukkeyの「未来へ」、そして優里の「レオ」へ。歌っているうちに気持ちが盛り上がってしまったのか、それとも単に寒すぎたのかよく分からないまま涙がぽろぽろ零れて来る。草を食んでいたワンコがこちらを見上げ怪訝な顔をするので「一緒に歌う?」と声を掛けてみる。何言ってんのあんさん、という顔で畳みかけて来るので思わず笑ってしまう。私はそういう君が大好きだよ、声に出して言ってみる。日の出までもう少しだ。

信田さよ子著「加害者は変われるか?」を私が読んでいたら、Jさんがあっけらかんとこう言った。「「加害者」ってのがついてるうちは変われねぇよ!」。なるほど、と思った。
現在進行形の加害者なのか元・加害者なのか。それってどこで計れるんだろう。外見だけじゃ少なくとも計れない。でも明らかにこの両者は異なる。加害者なのか元・加害者なのか。反吐が出るほどの違い。二度と繰り返さない為に、今君に何ができるのだろう。

会いたいと言うのでじゃあいついつ会おうか、と言うと「行きます!必ず行きます!」と返事してくる友人がいる。でも、必ず直前に「時間に遅れそうです」とか「今日行けません」と連絡が来る。連絡が来るだけマシといえばそうかもしれないのだが、会いたいと言ったのは君だろ?といい加減言いたくなっている自分がいる。いや、分かっている、今彼女は本当にしんどい時期で、だからこそ誰かに会いたくなっているのだということも。分かっている。だから口が裂けても言わないが、それでも、約束をしてはその約束を反故にするのは、二度三度でやめておいた方がいいぞ、と心の中思っている。でないとひとは離れていく。
ひととの縁が大切な時期に、ひととの縁が切れていってしまう。私にもそういう時期があったよなぁ、と、遠い眼をして思う。そういう切ない時期が確かにあった。
でも悲しいかな、ひとは忘れてゆくのだ、たいてい。のど元過ぎれば熱さ忘れる、って、このこと、だ。
自分だけはそんな薄情な人間にはならねぇぞ、と当時思っていたはずなのに。実際どうだ? 忘れてるじゃないか。おまえだって忘れてるじゃないか、あんなにひととの縁に飢え、同時にひととの縁を大事にできず失うばかりだった頃のこと。その時の痛みも何も、切なさでしか覚えていないじゃないか。
自分で自分に突っ込みながら、ほとほと自分が嫌になる。こんなことが一体幾つあるだろう。のど元過ぎればという言葉を生み出したひとはきっと、痛いくらいこのことを繰り返し経験したんだろう。喉元過ぎてしまって忘れ去っている己にきっとそのたび愕然としたに違いない。ああまた自分は忘れ去ってゆくのか、と、絶望したに違いない。そんな人間に自分はならないぞと思いながら、結果、なってゆく自分に。

忘れる、というのは才能だと、思っていた時期があった。忘れることがちっともできなくて、些細なあれこれまで詳細に記憶したままになってしまう自分に苦しんでしんどくて、忘れる才能が欲しい、と真剣に祈った時期があった。
でもそれから十年二十年経ってその自分が、解離性健忘なんてものにどっぷり嵌ってしまって次から次に忘れ去るようになっているなんて、誰が想像しただろう。忘れることがこれっぽっちもできなくて重くて苦しくて記憶の量で窒息死するんじゃないかと思えていたあの頃の自分と、今の次から次に忘れてゆく自分と。一体どちらが本当の自分なんだろうと時々思う。でも、そのどちらも間違いなく「私」で。あまりの隔たりに、途方に暮れてしまう。

郵便ポストに届いていたDMで知る。掛井五郎先生が11月に亡くなっていたこと。亡くなられたという文言が飛び込んできて愕然とする。一瞬時が止まったかと思った。何度も何度もその文言を繰り返し辿る。
でも。
そうか、もうそういう年頃だよな、と納得する。先生を取材してから三十年近くの年月が経っているのだ。当然といえる。そうか、先生、今あっちで何してますか。創ってますか、相変わらず。そうであってほしい。合掌。


2022年02月18日(金) 
ベランダの植物たちに水やりをしながら、首を傾げる。何故息子が種を蒔いたプランターからは芽がひとつも出て来なかったりするのだろう。一方何故私が種を蒔いたプランターからは芽がわらわらと出て来たりするのだろう。この違いは何故生じるのだろう。不思議でならない。誰か教えてほしい。これは何故?
クリサンセマムがぎゅっとした蕾を徐々に徐々に膨らませ始めている。もうじき咲いてくれるのかなと思うとどきどきする。晩秋に芽を出した葡萄は、まだまだちびっちゃいままだ。2センチあるかないかの背丈。それでも何とかそこに立っていてくれている。頑張れよー、と声をかけてみる。いや、そんな頑張らなくてもいいのかもしれない、育ちたいように育てばそれで、いい。

小松原織香さんの最新記事を読む。「私たちに残された「対話」という道」。読み乍ら、まるで自分の心の中の大半を代弁してもらっているような錯覚を味わう。

「「対話をすれば被害者は回復する」「修復的正義のプログラムがあれば、社会がよくなる」などと思えたことはほとんどない。私自身、被害後、加害者には二度と関わりたくなかった。一生、縁を切って、そんな人は存在しなかったごとく暮らしたかった。でも、「なぜ、私にあんなことをしたの?」と尋ねる相手は、加害者しかいない。自分の気持ちを伝えて謝罪を要求する相手も、赦しを与える相手も加害者しかいない。「あなたを赦さない」と宣告する相手すら、加害者しかいないのである。だから、ときに被害者は対話を求める。たとえ、加害者からまともな返答がないと思っている場合でも、加害者がすでに死んでいる場合でも、話す相手はその人しかいない。私も実際に加害者と対話をした経験があるが、相手からはろくな反応はなく、心の平穏は得られなかった。最初から被害に遭わず、加害者と対話しない人生であれば、どんなに良かっただろう。私は、被害者が暴力を受けた後に対話を望まざるを得なくなることは、不条理なことだと思っている。でも、対話しか道がないから、そちらに進むしかない。」
「もし、なにかの被害に苦しんでいる渦中の人に出会ったとき、「そういえば対話がどうこうという話を読んだことがあるな」と思い出してくれればいい。私は「対話すべき」とも、「対話すべきではない」とも結論づけない。ただ、対話という道が私たちにはあることだけを伝えたいと思っている。」
(記事より https://www.moderntimes.tv/articles/20220218-01/)

対話をしたから赦す、赦すべき、と思っているひとたちも中にはいるかもしれないが、対話をしたからとて赦せないこともある。実際、赦す赦さないという地平で対話をしているわけではない私がここにいたりする。

私は。
知りたかった。何故私だったのか。まさに小松原氏の言葉を借りれば「「なぜ、私が? (Why me ?)」という、世界中の被害者たちが抱く疑問」だ。何故私だったのか。どうして。
また、私自身自分の加害者と対話したことがある。一方的に謝罪を繰り返す加害者を前に呆然とし、同時に、その彼の謝罪がまったくもって私に響いてこないことに愕然とした。
それ以来ずっと、私は加害者とのさらなる対話を考えるようになった。
実際加害者となった彼らと対話を続けてきて、絶望に近いものを味わうことが多々ある。じゃあさっさと対話を切り上げてしまえばいいじゃないかと言われるかもしれない。何故それでも私が対話をし続けているかといえば、彼らが被害そして被害後についてあまりに何も知らないことを思い知らされたからだ。同時に私も、彼らの加害そして加害その後について何も知ってはいないことを思い知らされたからだ。
知り合うために。私は対話を続けている。
被害と被害その後を加害者につぶさに知ってもらうこと。
加害と加害その後について被害者が知ること。
過ちを繰り返さないために、それは必要な対話に、私には思えるのだ。だから、対話を今日も続けている。

と書いてきたが。まだまだ私は自分の想いを言語化できるほどには至っていない。書きながら、もっとこう、こんな感じなのだ、もっとああいう感じなのだが、と四苦八苦している。
私がきちんと自分が今為している事柄を言語化し得るには、もう少し時間がかかりそうだ。

対話についてと並行して、私が今気になっている事柄。それは「回復」だ。
回復とは一体どういうものなのか。どういう状態を回復というのか。私の回復とは一体何なのか。
同時に、私が対峙している加害者たちの、回復とは。回復はあり得るのか。

まだ、私のうちはぼんやりしすぎていて、言葉に還元できない。


2022年02月17日(木) 
Kちゃんとほぼひと月ぶりに会う。ともに吉祥寺美術館で催している土田圭介鉛筆画展へ。
以前観た小さな作品ではなく、今回のメインはどれも大きな作品で。これを描くのは大変だったろうなぁなんて土田さんの容貌を思い出しながら観て廻る。鉛筆の、縦の線の濃淡で作り上げられる緻密な世界。
たとえば「悲しみ」を描き出す時、土田氏は「悲しみ」だけにスポットを当てるのではなく、「悲しみ」の「周辺」にも光を当てて描いていると私には感じられる。たとえば悲しみ乍ら笑っている、悲しみ乍らじっと佇んでいる、悲しみ乍ら怒っている、一言で悲しみといってもいろんな悲しみがあるだろう。悲しみは決してたったひとつでは、ない。たったひとつの角度だけでは、ない。土田氏はその「悲しみ」の全体を必死にすくい上げようとしているように感じられる。だから、鉛筆のモノクロームの線、しかも縦の線だけの世界なのに、とても重層的な世界がそこに生み出される。
今重層的、と言ったが、重奏的、と言ってもいいかもしれない。幾重にも重なり合う想い=メロディがそこに在る。だから、おのずと、近くに寄って凝視する時と一歩下がって俯瞰する時と、視えてくるものも異なってくる。そこが非常に面白い。
Kちゃんとふたり、展示室を往ったり来たりしながら、土田作品を堪能させてもらった。贅沢な時間だった。
帰宅後、昔購入した土田氏の小品を眺める。壁に掛かったその小品には小さな細い細い翼があって、でもその翼ではとても飛べそうになくて。そんな、ひっそりと像が佇む小品。もう私が購入できるような値段で彼の作品は販売されていない。あの時背伸びしてでも買っておいてよかったなあなんて、改めて思う。

帰宅後ワンコと散歩。病院へ。うちのワンコは病院が大好きだ。今日も病院の近くだと気づくと、途端に足取りが早まった。私がぎゅっとリードを引っ張ると、どうして引っ張るのさ、早く行こうよ!とばかりにこちらを振り向く。いやだからゆっくり歩いてと私もまたリードをきゅっと引く。
院長先生にいつものように検診してもらう。お耳もチェック。これから暖かくなると耳が爛れやすくなるから気を付けないとね、と言われ、私もうんうん頷く。体重が0.5キロほど増えていた。ご飯の量を気を付けねば。
そして帰り道。これまたいつものように座り込みされる。「帰るよ、帰ってご飯食べるよ!」と言っても座り込みをやめない。病院の帰り道はいつもそうだ。どうしてそんなに病院が好きなのだろう。肛門絞りや爪切りをされている時は大暴れするのに。いや待てよ、そういえば彼は暴れながら尻尾をぶんぶん振っている。あれは何故だ? 改めて彼の顔を覗き込み、訊ねる。「お家帰ろ、ご飯食べよ?」。渋々という顔で立ち上がり、私の後をついて歩くワンコ。今日も一緒に寝ようね。歩きながら彼に話しかける。

「母ちゃん!見て!満月でかいよ!」。夕食後、息子が教えてくれた。コンビニにアイスを買いに行きながら、私たちは月を見上げる。出掛けは半分雲に隠れていた満月が、帰宅する頃には全身姿を現しており。見事なでかさに私たちは玄関の前で立ち止まり言い合う。「ちょっと大きすぎるよねえ」「おっきいと気持ち悪いかも」「これが濃い色だと確かに気持ち悪い」「だよね!」。アイスを頬張りながらの月見は、さすがにこの時期、まだ寒い。


2022年02月16日(水) 
性暴力被害で刑事告訴しているAちゃんから連絡が入る。駄目そうだ、と。折り返し電話をすると、機関銃のように彼女から言葉が飛び出してきた。
「Sさんはよく時代は変わったって言うけど、変わってきたのかもしれないけど、でも、私にとって今この時点での法律はただのクソとしか思えない。どうして誰もこれを変えようとしてこなかったのか、悔しくて悔しくてたまらない」
「これって、被害者が負け組ってことですか。最悪じゃないですか。言われたい放題言われて、加害者の方が自分は被害者だみたいな顔してて、やりきれない」
「Sさんも私もつまり、負け組なんですよ。確かにSさんは今盛り返して輝いてるけど、でも、負け組だったことに変わりはない」
「みんな当事者感なさすぎ!こんなおかしな法律そのままに放っておけるってもう絶対おかしい。みんな結局他人事なんですよ」
「もう、当事者感ない奴ら全員、等しくレイプされればいいって私本気で思ってます」

まくしたてる彼女に、私は返事を一瞬躊躇った。今は冷静じゃない彼女に何を言ってもどうしようもないと思えた。でも。どうしても言いたい一言があった。
「全員レイプされればいいなんて私は冗談でも思えないなあ。それから、Aちゃんに私の人生の勝敗をつけてほしくはないなあ。それ、決められるの、私自身だけだと私は思ってるから。そもそも勝敗って何。Aちゃん今あなたが性暴力被害当事者だからそういうこと言ってるけど、当事者じゃなかったらどうだった? 人間そんなもんだよ。当事者になってはじめて、いろんなことが我が事になるんで、そうじゃなければ余程努力しないかぎりどこまでいっても他人事だよ」

ああ、冷静じゃない彼女にこんな冷たいこと言うべきじゃない、と途中で思った。でも、私はどうしても黙っていられなかった。

時代は変わってきてる。私はそう思ってる。私が被害に遭った1995年から今日までの間に、微々たるものかもしれないけれどもそれでも変わってきたと私には感じられる。でも、確かにAちゃんにとっては今ここの今この時点の法律こそが全てなわけで、彼女の気持ちも分からないではない。というか、わかり過ぎる。私もかつて、そういう絶望を味わったことがあった。
それならもっと、やさしい言葉をかけてあげればいいのに。どうしてそれができない自分、と、自分を叱り飛ばしたくなりもする。でも。残念ながら私はそこまで人間できていない。
私は少なくとも、法律を変えようと必死に戦ってきた友人らを知っている。その為に身を粉にして行動し、今も戦ってる友人らを知っている。だからこそ、彼女の「当事者感ない奴らは全員レイプされればいい」という言葉にはとてもじゃないが同意できなかった。
私はむしろ、誰一人レイプされないで済むならそれに越したことはないと本気で思っている。当事者になんてならずに済むならそれに越したことはないとも思っている。知らなくていいことも人生には多々ある、と、そう思っている。知らなくてよかったことだったのに、当事者になってしまったがゆえに知らざるを得なくて、それをまさに体験せざるを得なくて、という友人たちを見ているから、自分も含めて見ているから、だから、全員レイプされればいい、なんて冗談でも言いたくない。とてもじゃないが、私はその彼女の言葉を、そのまま聞き流すことは、できなかった。

にしても。私もまだまだ未熟者だあな。こんなことで心が痛んでしまうだなんて。もっと余裕もって生きられないかな、ほんとに。


2022年02月14日(月) 
アートセラピー講師の日。最初別のテーマを考えていたが、午前中にSさんが「怒り」について扱ったという話を聞き、それはぜひ続けて「怒り」を扱おうと思いつく。自分の中の「怒り」がどんな色、どんな形をしているのか、コラージュしてもらうことにした。
絵を描くより、折り紙をちぎって貼って、とやってもらうことを考え、そのようにしてもらう。
抑えつけることに慣らされた「怒り」を作り出すひともいれば、一度抱くと四方八方に爆発しまくってしまう「怒り」を作るひとも。八つ切り画用紙全部を赤で埋めるひとも。かと思えば「アルコールで靄がかってるからこんな感じ」と、ぼんやりした色を紙面に散らしたひとも。
ああこんなにも「怒り」にはバリエーションがあるのだな、と感心させられる。じゃぁ私は? 私の怒りは? どんな形? どんな色?
ぼんやり、どくどくとした赤黒い色が思い浮かぶものの、それは芯がそうなっているというだけで、そのすぐ外側はもう冷え切って冷たくなっている、そういう殻のような、そう、分厚い殻のようなものが思い浮かぶ。でもどれもこれも、もうはるかかなた昔の、遠い遠い記憶のように感じられる。手を伸ばしてももはや届かないモノのような。
みなでシェアする時、ひとりひとり発表をしてもらうのだけれど、たとえば、グレーは不信感、青は冷めた感じ、とか、そんなふうに色それぞれに想いを込めて説明してくれるひともいれば、一方で、大きな身振り手振りをつけてどれほどこれが爆発すると危険かを説明してくれるひとも。共通しているのは、怒りがどれほど扱いづらいか、というところか。
怒りは。
抱いてもいい感情なのだということ。むしろ、使い方さえ間違えなければ行動を起こす原動力になり得るということを伝える。そして、怒ることは恥ずかしいことでも罪なことでもないのだということも。だから吐き出し方、扱い方を覚えよう、その方法もいくつかバリエーションがあると生きるのが楽になるよね、と。どんなにマイナスに思える感情でも、その感情を今自分が抱いているということに自覚的になると、扱いが楽になれるよ、と。
いつも思うのだけれど。彼らにメッセージしながら私は、自分の内奥を確認しているのだろうなと。そう思う。自分がこれまで生きてくる中で培ったあれこれを、その都度その都度確認し、そして納得しているのだな、と。そう、思う。

息子を寝かしつけて間もなく、彼が寝言を言い始めた。うん、そうそう、とか、違うよーとか。あまりにくっきり言うのでちょっと笑ってしまった。そんなにくっきりした夢を彼は見ているのかと思ったら、想像が膨らんで、楽しくなってしまった。きっと明日の朝訊ねたら、彼は「何それ?」と言ってくるに違いない。でも今、彼は夢の真っただ中。たのしい夢だといいな。カラフルな夢だといいな。そんなことをつらつらと思う。
夜中、Yさんと少しやりとりする。羽生選手の会見の記事を読んだよと私が言うとふふふと笑う彼女に、その記事の中の、9歳の自分というくだりにとても共感した、うれしくなった、と伝える。彼女が「詩人だろ?」とドヤ顔で言う、その言葉に私はちょっと笑う。
淡々と一日が過ぎてゆく。いや、あっという間に過ぎてゆく。私は明日になれば忘れてしまうんだろう。それでも一日一日生きているからこそ過ぎ往くのだということ。私は決して生きていないわけじゃないということ。忘れないようにしないと。

明日15日は母の誕生日。


2022年02月10日(木) 
朝ワンコと散歩に出掛けると雨が降り出したところだった。パーカーのフードを被っててこてこ歩く。ワンコはいつも通り私の後ろを歩いてついてくる。ねぇ隣においでよ、とリードを引っ張って隣に位置させるも、すぐ彼は私の後ろに行ってしまう。そうしてちょっと私が引っ張るような形でずっと歩く。
今日の雨は雪に変わるんだと天気予報は言っている。でもこの重たげな雨が雪に変わるのはしばらく先に思えた。私はフードの下から空を見上げながら、雪に変わりますように、と言ってみる。息子とワンコが雪を楽しみにしているのだ。ちょっとくらい降ってくれないと悲しい。
通院日。カウンセラーに呼ばれて部屋に入る。先週主治医から言われた、「PTSDと私」「PTSDの私」についてあれやこれや思うことを伝える。私は、PTSDは私の一部であって全体ではないと思ってここまでやってきたつもりだった。でも、先生から見るとそれは全然十分ではなくて「PTSDの私」を私が生きていると見えるみたいだ、じゃあ私は一体どうしたらいいんだろう、全然分からない、そう思いながら改めて「回復」について考えてみると、まったくもってイメージが湧かない、どうなったら私は回復したと言えるんだろう、想像がつかない、等々。一気に話す。それまで相槌をうちながらただ聴いていたカウンセラーが言う。「PTSDと私、というのと、PTSDの私、が、長く闘病してくる間に近くなりすぎてしまったんじゃないのかしら」。
なるほど、それはあるかもしれない。そう思って振り返れば、PTSDの私、と、PTSDと私の交叉部分が、とても大きい、というか、ほぼほぼ重なってしまっている、と自分でも思えた。「長く生き延びてくると、そうなっちゃうわよね、仕方ないことだと私は思うわ」カウンセラーが続けざまそう言う。
回復についてどう思う?と私が問うと、あなたは?と問われたので、一瞬間を置いてから応える。「昔は、元に戻りたいとか、あの頃のように働きたいとか、あれこれ思っていたんだけど。そうなったら私は回復だと思っていたんだけれど。あったことをなかったことにはできない。つまり、元に戻ることはできないんだ、って思い知ってから、元に戻りたいとかそういう気持ちはすべて諦めて手放してしまった。そうしたら、自分の回復のイメージがつかなくなってしまったような気がする。でも、しょうがなくない?だって、あったことをなかったことにすることだけはできないんだもの。なかったことにだけはしたくないんだもの」。カウンセラーが「そうだよね、なかったことにはできないよね、つまり元に戻ることなんてどうやったって不可能なわけで。でもそこで新しく何か、というのは考えられない?」。
新しく始めたこと。いくつか思い浮かぶ。たとえば写真、たとえば加害者との対話。たとえば…と考えてくると、すべて、PTSDになってしまったことによって生じた事柄だと気づく。気づいて、愕然とする。
ああ、もう、私はまさに、PTSDと私、の領域と、PTSDの私、の領域とが接してるどころじゃなくほぼほぼ重なり合ってしまっているのだ、と。だからこんなにも生きづらいのか、と。そこに思い至る。
主治医の言葉がじんわりと私の中に降りて来る。
でも、じゃあ一体私はどうすればよかったのか。分からない。そこで時間切れになってしまった。また次回ね、とカウンセラーと挨拶を交わし部屋を出る。

Nさんから連絡が入る。小松原本を読み進める中、どうしても連絡とりたくなってしまった、と。「すごい本ですね、これは。記事を書かずにはいられない」「ですよね、そうしてください!ぜひぜひ!」「ところで、小松原さんと直接お会いしたことあるんでしたよね?」「あ、はい、ありますね」「それは加害者との対話を始める前ですか?」「違いますよ。対話を始めてから後ですよ」「え、そうなんですか? じゃ、加害者との対話を始めるのと小松原さんの修復的司法の本が出るのとどっちが先だったんですか?」「対話が先ですねー、私が対話を始めたのを見ていたHさんが、私に、最近こんな本が出てるんですよと教えてくれて知ったんです」等々。延々話す。話しながら、そういえば出版イベントがあることを思い出しNさんに伝える。あっという間に午後が過ぎゆく。

夕方のワンコとの散歩は雪がびゅうびゅう降る中だった。ああようやっと雪になったか、とちょっと嬉しくなった。ワンコは、ぶんぶん尻尾を振って喜んでいる。でも。ちょっと重い雪だな、べたっとしている。おかげであっという間にパーカーがぐしょ濡れになってしまった。寒いな、手が冷たいな、と思いながらそれでも歩き続けていたら、何故か手が温かくなってきており。あれ、冷たくないぞと思いワンコに触れると、ワンコはもうぴょんぴょん跳ねて喜ぶ始末。いやいや、私の手は雪ではないぞ、と苦笑しながら、鼻歌を歌いつつ歩く。
PTSDと私。PTSDの私。ちょっと油断するとこのワードに凹んでしまう。考え込んでしまう。でもきっとすぐには答えは出ない。出せない。
納得できるまで、考えるしか、ない。


2022年02月08日(火) 
来月の加害者プログラムのテーマについての打ち合わせに出掛ける。S先生といつものように雑談。今日は信田・上間本と小松原本についての感想などをあれこれやりとりする。そうしているうちにB社の編集の方がいらして、その方も交えてあれこれおしゃべり。とても聡明で静かな女性だなという印象を覚えつつ、私とS先生は遠慮なくおしゃべり。まぁいつものこと。そして直前に考えていたテーマを言ってみる。じゃぁそれにしましょう、ということで打ち合わせは終了。
帰り道、商店街に寄りたい気持ちでいっぱいだったのだが、息子の帰宅時間に間に合わせるにはぎりぎりの時間で。私は小走りで駅へ向かう。

*

私は権威が怖いのだ、と改めて思った今日。一冊の本に付箋をつけながら二度読み終える。読み終え、本を閉じて思うのは、自分がどこで間違い、どこで迷子になっていたのか。また、どこから自分の意思で選択して行為してきたのか、ということ。
少し前、家人から言われたこともたぶん、心に引っ掛かっていて、それもこの気づきに影響していると思う。それは、「あなたはもっと自分の才能でお金を稼いだりできるひとだと思う。才能があるひとだと僕は思ってる」「かつて、それができないという烙印を押されたりして、自分はできないと思い込んでいるところがあるんじゃないか」という言葉だった。
思い当たることがありすぎて、何を挙げたらいいのか分からないほどだ。父母から受けた言葉の呪縛、支配は、いまだ健在なのだ私の裡で、と、そのことをいやというほど痛感した。参った、私はいまだ、そういうところにいるのか。
被害に遭った時もそうだった。上司から被害を受けた、その上司を「加害者」として名指しすることは、恐ろしい以外の何ものでもなかった。いや、加害者被害者という言葉はその当時まだなかった気がする。私は当時、レイプされた、という認識はあっても相手を加害者呼ばわりはしなかった。私を凌辱したひと、として加害者を当時認識していた覚えがある。
ということを思い出したのは、1995年というのは被害者元年だということを知ったことによる。被害者という言い方が為され始めたのが1995年だと。確かに私はあの当時、自分を「被害者」などという仰々し言葉で表しはしなかった。むしろ、穢れた、どうしようもない存在、消えるべき存在、消されるべき存在、いてはいけない存在、とそのように思って、ひたすら自分を責めていた。
そして思うのは、被害者が、私は被害者ですと起立した時、加害者が生まれるということだ。いや、違う、加害者がいるから被害者が生まれるのだ、本当は。順序として、加害者がいて、だからこそ被害者が生まれてしまう。なのに、加害者は自分を加害者と認識してはいないから、被害者が自分の被害を訴えるまで、自分を被害者と認識し声を上げるまで、「加害者不在」の時間がある。この加害者不在のありようが、まるで被害者が声を上げさえしなければ加害者は隠れていられた、かのような、錯覚を見せる。
そして私は声を上げ、加害者が祭り上げられた。その加害者は、君が僕を名指しするんなんて思ってもみなかった、予想外だ、という言葉ともうひとつ、僕と結婚しよう、そうすればすべてなかったことになる、という言葉を私にその後放ってきた。いまなら驚愕するが、当時は目の前が真っ白になって、茫然としたのを思い出す。これもひとつの、搾取の形なのかもしれないが、当時はそれさえ気づけず、何が起こっているのか認識することができないまま、真っ白の宙に宙づりにされているかのような、そんな感じだった。

私は自助グループが恐ろしい。自助グループのパワーはすごい、と小松原織香著「当事者は嘘をつく」でも信田さよ子・上間陽子著「言葉を失ったあとで」でも出てくる。が。
私は自助グループなんて恐ろしくて恐ろしくて、とてもじゃないが出たくない。
被害体験を経、そのことで声を上げ、なのに、何もなかったかのように勤務し労働を続けてくる中で、私は夥しい二次被害を受けてきた。その二次被害のおかげで、私にとって恐怖の対象は人間全体であって、男性に限ってでも女性に限ってでもなかった。人間全体が私の恐怖だった。脅威だった。だから、自助グループなんて場に座ること、そのこと自体が私の恐怖だった。
唯一、自分の主治医だけをよすがに、長いこと長いこと歩んできた。JM先生、TK先生、YK先生。そして今のYN先生になって、ようやっと、私はカウンセリングをまともに受けられるようになった。主治医以外でも、何とか信じられるようになった。それまでは、主治医以外は脅威であって、それ以外の何者でもなかった。脅威、そして敵だった。
確かに私は、性犯罪被害者たちを被写体にして写真を撮っていた時期、彼女らと語り合う場を何度か設けたことがある。楽しかった時間もあったはずだ。でも、その後のいろんな経験からその楽しかったかもしれない時間は恐ろしいものに変わってしまった。余計に、人間はいずれ裏切るもの、私を踏みつけるもの、と、そう認識するようになってしまった。だから、私にとって自助グループめいたものは、恐ろしいものとしかいまだ思えない。

話をもとに戻す。
新入社員、ぺいぺいの新入社員だった私は、どこまでいっても一番最底辺の人間だった。被害に遭ってなおさら、しかもそれについて訴え出てなおさら、厄介者にされてしまった。少なくとも私には、そうなってしまったと思えた。余計に私は縮こまっていった。
もともと、父母からの抑圧経験があった私には、その構造は住み慣れた環境ではあった。だから、あまり不思議に感じることさえできず、ずっとそういうものなのだ、私の人生はそういうものなのだと思い込んで過ごしてきた。が。
もうそういうものから私は、解放されたろう、と、どこかで高を括っていた気がする。もう大丈夫なんじゃないか、と。
否。
全然大丈夫なんかじゃあなかった。そのことに、今日改めて躓いた。
私は自分に肩書がつくことが怖いと同時にあり得ないと思っているところがある。自分にはそんな資格も能力もないと自分自身見做してしまっているし、肩書がつくことでかつて私に二次加害を及ぼしたひとたちと同じになってしまうのが怖い。
とことん小心者である。


2022年02月06日(日) 
午前4時半、「僕オラフ!ぎゅーっと抱きしめて!」と大声で繰り返す息子。にっこにこの笑顔でひたすらその台詞を繰り返して私と家人を起こしてくれた。彼は午前3時に目が覚めたのだそうで。こりゃ、夜はあっけなく寝るんだろうなと予想しつつ、起き上がる。顔をさっと洗い息子の朝食を作る。ワンコがカウンター越し「オイラにも飯クレ!」という目線を送って来る。私はこの目線に出会うといつも笑いが込み上げてきて困る。
今朝の夜明けは実に美しいグラデーションだった。燃え上がる橙色から絶妙な緑色、そして青、藍、紺と、一点の曇りもないグラデーション。こんなグラデーションを描けるのは自然以外にない。私達人間がどんなに頑張っても、このような色合いは出せない。

小松原織香著「当事者は嘘をつく」の後、信田さよ子・上間陽子著「言葉を失ったあとで」を開いてみる。本文を数ページ読んだだけで、ぐいっと胸倉をつかまれるような錯覚を覚える。今が活字を読める時期で本当によかった。このまま勢いをつけてこの本を読んでしまおう。今がチャンス。
この「言葉を失ったあとで」と「当事者は嘘をつく」、この二冊は、出るべくして出た本だなと思う。この時期にこの本が出るのはまさに、必然だったのだろうな、と。付箋を貼りながら読み進めているのだけれど、あちこちに貼りたいところがあって、始末におえない状況になってしまっている。そのくらい、読むべき箇所がある。Mから貰った紅茶のティーバックを拡げてマグカップで淹れる。それをちびちび啜りながら、本と向き合う昼過ぎ。

今更なのだけれど。この間行った浜田知明展で見た、長田弘詩集「メランコリックな怪物」に添えられたという飾画。もっとしっかり見ておけばよかったと後悔している。仕方がないのでポサダの版画が添えられた晶文社から出版されている「メランコリックな怪物」を眺め直している。この詩集は一時期これでもかというほどのめり込んだ。幾度読み返したか知れない。そのたび新たな気づきがあった。長田弘の名前を私が覚えたのは、この詩集と出会ったせいだった。もし十代でこの詩集と出会っていなかったら、その後自分が長田弘を追い続けることはなかったのかもしれない。そのくらい強烈に私の裡に刻み込まれた詩集だった。
この際だから、浜田知明飾画のその本を購入してしまおうか。

中島みゆきがラスト・ツアーのアルバムを出したそうで。早速聴いてみる。聴きながら、しみじみしてしまう。そうだった、あれはラスト・ツアーだったのだった。Sと一緒に必死になって電話をかけた。でも。悉くコロナの為に中止になってしまったのだった。あれが本当に、本当に、ラストだったのか、と。
当たり前のことだけれど。はじまりがあれば終わりがある。人間においてだって当然そうだ。はじまりがあれば終わりもある。彼女にとってはじめてのライブがあったように、最後のライブもあるのだ。それが、この間だったということ。コロナ禍と時期が重なってしまったがために、こんな寂しい終わり方になってしまった。
どれもこれも何度もCDで見聞きしているはずの歌なのに、それらをこの曲順で、そして今の歌い方で歌っているのを聴くと、また新しいものを聴いているような気持ちにさせられる。Sと、「ラストライブ、行きたかったね」と、ぼそぼそ言い合った。コロナを恨んだってどうにもならないことは分かっている。でも。最後くらい、ちゃんと見送りたかった。

最後くらいちゃんと見送りたかった―――。この思いはあちこちに、ある。
自ら命を絶った友人らの葬式に、私がほとんど出ないのは、彼らを今まだ見送る気持ちになれなかったからだった。生き切ったと確信のある友以外の葬式には、私はいまだ出席しない。見送る気持ちになれないからだ。最後くらい、ちゃんと見送らせてくれ、見送れる死に方をしてくれ、と、そう思ってしまうからだ。
そのくらいいいじゃないか、と言う人もいる。そりゃそうだろう、死ぬしかできない気持ちも、十分すぎるほど分かる。
でも。
私は生き残ってしまった。
彼らは死ねて、私は死ねなかった。この、何ともいえないひねくれた思いが私の中にあって、だから、見送る気持ちになれず、葬式に出ないという選択をしてきた。ガキだよな、と我ながら思う。でも、生き死にに対して、嘘を挟むことは、とてもじゃないが、できない。
だからといっては何だが。生き残った自分はせめて、精一杯生きて、生きて生きて生きて、いつ死んでも悔いないように今を生きて、そうやって、いつか彼らと再会したいと思っている。「生き残ってみたら、こんなに面白い風景に幾つも出会ったよ」と、土産話持って、彼らといつか、あの世で再会できたら、いい。


2022年02月02日(水) 
朝一番に整骨院へ行き、その足で茅ヶ崎市美術館まで浜田知明展を観にゆく。久しぶりにMと会い、一緒に美術館へ。
展示を観ながら、じくじくと古傷が痛み始めるのに気づいた。大好きな作家のひとりであり、作品集も持っている作家だのに、私の脳味噌はいつの間にか、被害体験とその後のあれこれに結び付け、いわゆるフラッシュバックという奴に襲われる。途中あまりのフラッシュバックの激しさに身体が揺れてしまう。もし一緒に来ているのがMじゃなかったらと思うとぞっとする。Mはそういうことも含めての友人だから、最悪私がしゃがみこんでもきっと、よしよし、なんて言いながらそばについていてくれるに違いない。そう思ったら、余計に身体がぐらぐらした。
フラッシュバックしてきたことのあれこれは、もう見飽きるくらい見飽きてるはずなのだ。繰り返された被害の場面だったり、悪意なきひとたちからの二次被害だったり、最初の被害のまさにその場面だったり。どれもこれも、もう何度も何度も何度も、再生されてきたもののはずなのだ。
なのに私はそのたび、「今ここ」で再体験しているような錯覚を覚える。何度でも「今ここ」で被害にまつわるあれこれを再体験してしまうのだ。それはもうこれでもかってほど生々しく。
そういう時はしばらく私は空白になってしまう。あらゆる感情が凍り付いて停止してしまう。自分が何を感じ何を考えているのかなんて、まったくもって分からなくなる。その代わりに、身体はぐわんと熱を帯びる。気づけば汗だくになるほど発熱する。喉は乾き、視界はぎらぎらとした白光が交錯し、そして全身が強張る。握りしめた掌に短く切ってあるはずの爪が突き刺さる。
もしかしたらそれはほんの一瞬なのかもしれない。でも、私には永遠に思える。いや、それよりもこう、時が停止してしまったかのように思えて仕方がない。もう二度と廻らない、壊れた時計が目の前に見える。
帰り道、電車の中でぐったりしてしまった。しばらく、過去に関わった作家や作品の展示は、遠ざかっていよう、と自分に言い聞かす。今日たまたま特に具合が悪かったのかもしれないけれど、でも、こんなヴィジョンは繰り返したくない。

夕飯後、またジャムづくりを始める。林檎ジャムがもうなくなりかけているので林檎ジャムを。手元にあった林檎がちょっとボケているようなので、いつもよりさらに多くレモンを絞って作る。もちろんシナモンもたっぷり使う。
小瓶4つ分ができあがったので、ひとつをMに。今日心配をかけたお詫びに。もうひとつはパン好きな友人に。そして残り2つは我が家の分。

回復。前回土曜日の加害者プログラムに出て以来、回復という言葉がひっかかっていたが、小松原織香著「当事者は嘘をつく」を読んでなおさら、回復って何だろう、と悶々と考え続けている。
回復のテンプレート、という言葉がふっと浮かぶ。世間が一方的に被害者や加害者に対して抱いているイメージのテンプレート。でも実際はどうか? 少なくとも私があの場所で出会ってきた加害者らは、世間の加害者というテンプレートからはかけ離れたひとたちばかりだった。そしてまた、加害側と被害側とでは回復に必要な事柄も必要な情報も何も、対岸にあるかのようで。そうでありながら一方で、重なり合うものも確かにあるな、と。そう、思うのだ。


浅岡忍 HOMEMAIL

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