2022年01月29日(土) |
小松原織香著「当事者は嘘をつく」を一気に読み終えた。私は読みながら、自分を重ね合わせてしまっていた。どうしてもそうせずには読めなかった。
私が以前書いた本は、数人の被害者の語りを綴ったものだ。ひたすら聴き、それを綴った。当時言われたものだった。「どうしてあなたは当事者なのに自分の事を先に書かないのか」と。 私は返事ができなかった。理由は簡単だ。書かないのではなく、当時私はまだ書けなかったのだ。自分に起こった出来事について語るだけの言葉をまだ、持ち合わせていなかった。だから、出会った性犯罪被害者たちの語りにひたすら耳を傾けた。それしかできなかったのだ。私は耳を傾けながら、彼/彼女らの語りの中に、私自身の傷や痛みを見出し、共振していた。それが当時の私にできる、唯一のことだった。 今もってしても、私は、自分についての語りに自信がない。被害体験の主要部分の記憶がないからだ。ぽっかり穴があいているかのように空白なのだ。そこの部分をどう覗き込んでみても、私には真っ暗闇で、同時に真っ白でもあり、無、なのだ。そこにどう言葉を付したらいいのか、まったくもって分からない。いや、そもそも無なのだから付しようがない。 でも、そんな私の語りを、最初に母が「嘘でしょう?」と笑った。あの一番最初の体験が、私の心の中心にぐさり、突き刺さった。以来、私は自分語りをしても、あの言葉、声音がその都度蘇りがんがんと頭の中鳴り響いて、どうにもこうにも自分が嘘をついているように思えて仕方がなくなってしまう。嘘じゃない、嘘なんかじゃない、本当なんだ、信じて!と、何度も何度も何度も、叫ぼうと試みる私がいる。でもその叫びは声にならず、私の喉をむしろ締め付けて、殺してしまう。結局、私は、何度自分の体験を語ってみても、「しょせん私の話は嘘」と、自分で自分を断罪してしまう。 小松原織香氏は、このエッセイの中で何度も「嘘」という言葉を用いている。私は小松原氏の記す「嘘」という意味合いに何度でも頷いてしまう。もう一つ、彼女が繰り返し用いる言葉「赦し」。こちらにも私は、頭をぶんぶん振って頷かずにはいられない。 小松原氏は憤りや怒りを原動力に、未来に向かって戦いを挑んでいった。一方私は、哀しみを糧に、ここまで来たといっても過言ではない。何故、どうして(わかってもらえないのだろう)という小松原氏の怒りと私の哀しみ。怒りと悲しみとの違いはあるのだけれども、その、どうして、何故、というところを礎に未来へ歩き出したというところは似通っている気がすると思うのは私のただの驕りだろうか。 小松原氏は最後にこう書いている。「窮屈な型を破って、新しい型を生み出すサバイバーがきっと出てくる。私の語りの型は、誰かの生き延びるための道具となり、破壊され、新しい型の創造の糧になる日を待っている」。私はこれを読んだ時じんわり涙が心の中滲むのを感じた。確かに、この小松原氏の語りの型が誰かの生き延びる為の道具となり、新しい型の創造の糧になる日が来る、それも近い将来、と、そう思えてならなかったからだ。少なくとも私にとってこの書は、たくさんの気づきを得るものとなった。今はだから、ただ、読むことができたことに感謝しかない。 |
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