ささやかな日々

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2022年01月29日(土) 
小松原織香著「当事者は嘘をつく」を一気に読み終えた。私は読みながら、自分を重ね合わせてしまっていた。どうしてもそうせずには読めなかった。

私が以前書いた本は、数人の被害者の語りを綴ったものだ。ひたすら聴き、それを綴った。当時言われたものだった。「どうしてあなたは当事者なのに自分の事を先に書かないのか」と。
私は返事ができなかった。理由は簡単だ。書かないのではなく、当時私はまだ書けなかったのだ。自分に起こった出来事について語るだけの言葉をまだ、持ち合わせていなかった。だから、出会った性犯罪被害者たちの語りにひたすら耳を傾けた。それしかできなかったのだ。私は耳を傾けながら、彼/彼女らの語りの中に、私自身の傷や痛みを見出し、共振していた。それが当時の私にできる、唯一のことだった。
今もってしても、私は、自分についての語りに自信がない。被害体験の主要部分の記憶がないからだ。ぽっかり穴があいているかのように空白なのだ。そこの部分をどう覗き込んでみても、私には真っ暗闇で、同時に真っ白でもあり、無、なのだ。そこにどう言葉を付したらいいのか、まったくもって分からない。いや、そもそも無なのだから付しようがない。
でも、そんな私の語りを、最初に母が「嘘でしょう?」と笑った。あの一番最初の体験が、私の心の中心にぐさり、突き刺さった。以来、私は自分語りをしても、あの言葉、声音がその都度蘇りがんがんと頭の中鳴り響いて、どうにもこうにも自分が嘘をついているように思えて仕方がなくなってしまう。嘘じゃない、嘘なんかじゃない、本当なんだ、信じて!と、何度も何度も何度も、叫ぼうと試みる私がいる。でもその叫びは声にならず、私の喉をむしろ締め付けて、殺してしまう。結局、私は、何度自分の体験を語ってみても、「しょせん私の話は嘘」と、自分で自分を断罪してしまう。
小松原織香氏は、このエッセイの中で何度も「嘘」という言葉を用いている。私は小松原氏の記す「嘘」という意味合いに何度でも頷いてしまう。もう一つ、彼女が繰り返し用いる言葉「赦し」。こちらにも私は、頭をぶんぶん振って頷かずにはいられない。
小松原氏は憤りや怒りを原動力に、未来に向かって戦いを挑んでいった。一方私は、哀しみを糧に、ここまで来たといっても過言ではない。何故、どうして(わかってもらえないのだろう)という小松原氏の怒りと私の哀しみ。怒りと悲しみとの違いはあるのだけれども、その、どうして、何故、というところを礎に未来へ歩き出したというところは似通っている気がすると思うのは私のただの驕りだろうか。
小松原氏は最後にこう書いている。「窮屈な型を破って、新しい型を生み出すサバイバーがきっと出てくる。私の語りの型は、誰かの生き延びるための道具となり、破壊され、新しい型の創造の糧になる日を待っている」。私はこれを読んだ時じんわり涙が心の中滲むのを感じた。確かに、この小松原氏の語りの型が誰かの生き延びる為の道具となり、新しい型の創造の糧になる日が来る、それも近い将来、と、そう思えてならなかったからだ。少なくとも私にとってこの書は、たくさんの気づきを得るものとなった。今はだから、ただ、読むことができたことに感謝しかない。


2022年01月27日(木) 
ちょうど被害に遭った時間だな、と時計を見ながら思う。27年前のあの日も、こんなふうに腕時計で時刻を確かめた。そろそろ帰る準備をしなくちゃ、と、手元の原稿の校正をしながら思ったんだった。猫のももが家で待ってる。早く帰らなくちゃ、と。日付が変わろうとするこの時刻。
それ以上思い出すのはきついので敢えて意識を変える。私は、27年生き延びたのだ。27年。ひとがひとり成人になるのに十分な時間を生き延びた、と考えると、愕然とする。今日までの日々は長かったようで、同時にあっという間のことのようで、そのどちらでもあるからだ。永遠に終わらない永遠に行き着けない時間、それでいて回転扉がくるり回転するかのようにあっという間の呆気ない時間。
時間というのは、残酷で、かつやさしいんだなと最近よく思う。巻き戻しもできない、早回しもできない、一瞬一瞬誰にも等しく過ぎ行く、確かなもの。それが時。私は、この「時」というものにどれほど助けられてきたのだろうと思う。その真っただ中だった時は、こんな残酷な代物はないと何度泣いたか知れない。それでも。
この、容赦なく等しく刻まれる時のおかげで、私は今日ここにいる。ここまで生きて来れた。そう、思うのだ。
どうしてこんな、被害に遭った日を記念日というのか、と加害者プログラムに出席した際元加害者のひとから問われた。改めて考えてみるとおかしな記念日だなと私も思った。でも。記念日という他にないのだ。そしてそれは、未来の為の言葉なんだと最近思う。
そう、未来の為の言葉、記念日。この日を越えるたびに、ここまで生き延びることができたのだと実感できる、大事な記念日。いつ死んでもおかしくない状況から、それでも生き延びて来たことを証明する、大事な記念日。
ここまで辿り着くのに、どれほどたくさんのひとの手が必要だったか知れない。今はもうここにはいないひとたちの手もたくさん。その手にその都度その都度支えられながら助けられながら、私は「今」を越えて来た。その手がひとつでも足りなかったら、私は今ここにはいない。そのくらい私はずたぼろだったし、弱っていたし、いつ崩れ落ちてもおかしくなかった。冷たい地べたはいつだって、すぐそこにあった。
でも。
実際倒れ伏してみて、じっとそこに倒れ伏してみて知ったことは、地面は冷たくなんてないってことだった。地面はじっとそこに倒れ伏して全身を欹てていると、じんわりあたたかいものとして温度のあるものとして私の身体に伝わって来た。ああ、そうか、世界は決して私を拒絶してなんていないのだ、と、そうして知った。
27年前から変化したものもあれば、変化しなかったものもある。そのどちらも、いつか等しく慈しんでやりたい。今はまだ、十分にそれができないとしても。
私はこれを書きながらもう、28年目を生き始めている。友がくれたガラスポットで、これまた友がくれたお茶を熱く淹れて啜りながら、もう確かに28年目を生き始めている。私の人生は、ここからもまだ、続く。
今日会った友に「長生きしてね。そうして初めて見える景色が必ずあるから」と私は言った。本当に、そうなんだ。
生きてなきゃその景色に会うこともない。生きてここに在るから、その景色に会える。もしかしたら明日が私の死ぬ日かもしれなくて、だからこそ、今ここ、を大事に。今ここの景色を十二分に呼吸して。

私は、生きている。


2022年01月25日(火) 
伊藤詩織さんと山口敬之氏の二審、伊藤詩織さんの勝訴とのニュースが流れる。それと共に、何人かの被害者仲間から「嬉しい!よかった!」と声が届く。黙ってじっとその声を聴いていた。どう返事していいのか正直分からずに。
私は。
そんなふうに一心不乱に喜ぶことができない。

私が被害に遭った頃。性的合意なんていう概念も言葉も、なかった。被害者が声を上げる、その声を誰かが聴く、なんてことも、あり得なかった。性的被害はただただ、恥、だった。少なくとも、私の周囲にいた大勢の大人たちは、被害を恥としか受け止めてくれなかった。痛みや傷としてさえ、受け止めてもらえなかった。被害に遭った女が悪い。端的に言えば、そういう時代だった。
当時は被害をなかったことにしてやり過ごすことが、唯一、できることのようだった。でも私は、被害をなかったことにだけはできなかった。恥だろうが何だろうが、あったことをなかったことにはできないと思った。だからあからさまに声を上げた。
それによってどれだけ土礫を投げられたろう。どれほどのひとたちが離れていったろう。どれほどの。数え出したらきりがない。
途中、命を断つ友たちもいた。もうこれ以上生きてはいかれない、と飛んだ友、首を吊った友、薬を飲んだ友。私はそんな彼らの間で、結局死に切れもせず、生き残った。
生き残った私にできることはただ、なかったことにはしない、というその一点をどんなになっても守り通すことくらいだった。
そうして五年、十年、十五年…と時が経つにつれ、いろんな言葉が生まれた。地位利用型性暴力や性的同意、セカンドレイプやら何やらといった言葉も、その途中で多く見聞きするようになった。そういった新しい言葉に出会うたび、新しい概念に出会うたび、私は時代の経過を痛感した。時代は変わるのだ、変わっているのだ、と。
伊藤詩織さんのこの件が、二審にまで進み、しかも勝訴と報道されるのを少し離れたところからじっと見つめていて、じわじわと湧いてくるのだ。悲しみや怒りが。どうしてもっと早く、どうしてもっと早くこういう時代が来てくれなかったのか、と。
いや、まだまだ全然十分じゃない、不満だ、というひともいる。そりゃあそうだろう。でも。
いくつもの友の命を見送った私からしたら、これは、凄まじい変化なんだ。
分かっている。私のこの思いは私の勝手な思いであって、それ以上でもそれ以下でもないということ。痛いほど分かっている。どうして素直に喜べないのかと自分でも思う。でも。
あまりに幾つもの命を見送り過ぎてしまった。
そういった命の上に、この結果が今ここに在る、としか、私には思えない。

Sよ、Mよ、Yよ、Tよ。あなたたちは今、何処にいる? 今このニュースをあなたたちはどう見ている? あなたたちがどうか、涙していないことを私はただ、祈るほかにない。もし涙していたとしても、それは悲しみの涙じゃないことを、ただただ、祈るほかに、ない。

そして私は。27日に被害の日をまた、迎える。27年経つのか、と思うと正直途方に暮れもする。長かったような、あっという間だったような。よく分からない27年。ひとひとり成人するのに十分な時間が経ってしまっているのだと思うと愕然とする。信じられない。
ここまで生きて来るのに、ただ毎日、必死だった。言葉通りまさに、必死の毎日だった。いつ死んでもおかしくない日々だった。
それでも。私は今、生きている。今ここを、今ここに、生きて、在る。


2022年01月24日(月) 
わからない、理解し合えないことを怖がる必要はない、と思えるようになったのはだいぶ歳を重ねてからだ。それまでは理解しないといけない、わかって当たり前、と思っていた。だからずいぶん、わかりもしないのにわかると小さな嘘をついてやり過ごしてきた。いまとなっては恥じ入りたい記憶。

一番わかり合いたい父母と、どうやってもわかりあえないことを思い知った時、私の中で何かが弾けた。ああ、このひとたちとは決して分かり合えない部分があるのだな、どうしようもなく理解し合えない部分があるのだな、と、受け容れるのに少し時間がかかった。でも何だろう、受け容れることができてすっと何か、憑き物が落ちたような、背中が軽くなる感じを覚えた。
それまで私は、何年も何年も、いい子を演じるのに必死だった。愛されたくて愛されたくてたまらなくて、だから彼らの望むいい子を必死に演じていた。いつの間にかそれが張り付いた仮面みたいになって、外し方も分からなくなってしまうくらい、一生懸命だった。でも、或る日性犯罪被害に遭い、すべてが変わってしまった。
被害に遭ったということ、被害によって何を失い何に苦しむのかを彼らは決して理解しようとしなかった。「さっさと忘れてしまいなさい」「どうしてあなたはいつまでも引きずるの」「もういい加減にして」等々。彼らの言葉は鋭い刃となって私を絶え間なく傷つけた。
でも、傷ついていることを認めることはなかなかできなかった。彼らは善意で言っている、彼らは私のためを思って言っている、それを受け容れられないのはそれを叶えられないのは、弱い私のせいなのだ、と、そう自分を追いつめ続けていた。でも。
もう無理だ、と悟った時。ああ、私は、このひとたちと分かり合うことは無理なのだ、と、そのことを受け容れざるを得なかった。
しばらく音信を絶った時期もあった。そういう時期を経て、ようやく、「分かり合えないところからはじめればいいのだ」と思い始めることができるようになった。そう、分からないことこそ当たり前で、分かり合えることは幸せな、幸運なことだったのだ、と、そこで私はようやく理解した。
その理解は、世界をくるり、回転させた。それまで絶望色でしかなかった世界に、一筋の光が降り注いだ。ああ、そうか、分かり合えないことは当たり前のことで、分かり合えることは幸せなことなのだとそのことに気づいて、分かり合える幸運にひとつひとつ感謝することができるようになった。父母の間だけではない、いろんな、多くの友人たちの間に横たわる縁に、ひとつひとつ、感謝をすることができるようになった。
そうやって改めて世界を見渡せば、世界はこんなにもたくさんの感謝で形作られているのだ、と、気づいた。それまでモノクロにしか見えなくなっていた世界に、仄かな色が生じた。大丈夫、まだ、私は生きていける。そう、思えた。
気づきというのは本当に、世界を変え得る。それまでの世界に希望の灯を燈し得る。今ふと思い出した言葉がある。レオス・カラックスの「映画はひとが十年かかって気づくことを一瞬にして気づかせる可能性を秘めている」という言葉。映画しかり、ひととの出会いしかり、日常のいろんなところに、気づきはひっそりと転がっている。それに気づくかどうかはもう、ただただそのひとにかかっている。

話を戻して。分かり合えないということに嘆くことはない。分かり合えないというところからはじめればいいだけなのだ。分かり合えなくて当たり前なのだから。ひとりひとり、命の数だけひとの違いは横たわっていて、違いを受け容れてはじめて、そこから始まる物語があるのだ。
分かり合えない、分からない、理解できない。そのことに恐れ戦くのではなく、ああ分からない理解できないことがこんなにもあるのか、じゃあこれからわたしたちはもっともっと親しく知り合えるのだな、と、そのことに感謝すればいい。物語はそこから、何度でも始まる。


2022年01月21日(金) 
「回復」という言葉の意味を調べるとこうある。「もとのとおりになること。もとどおりにすること。」。そもそもここが違う。性犯罪被害者は、元の通りになんてなれない。元通りになんて戻れない。被害に遭ったその時点から、新しい茨の道に踏み出すほかにない。
なのに何故ひとは、「回復」しようね、とか、「回復」に向けて、とか、そういう言葉を用いるんだろう。性犯罪被害者にとって「回復」という言葉自体がかけ離れているというのに。
というのも、先日の加害者プログラム最中にS先生が私の解離性健忘の症状について問うてきた時に先生が「じゃあどうやって回復の実感を得るんですか?」と尋ねて来た、その時に、引っかかったのだ。回復って、何だろう、と。
だから改めて考えてみた。回復「もとのとおりになること。もとどおりにすること。」。
でも。繰り返しになるが、被害者は元通りになることなんて、できないのだ。そもそもが。被害に遭ってしまったら、その被害をなかったことにはできない。被害をなかったことにできないということは、もう被害前には戻れないということ。戻せないということ。
つまりもうこの時点で、私たちに「回復」という言葉はあり得ない、ということに、なる。
被害をなかったことにできない以上、もう私たちは、被害は在ってしまった、というところから始めるほかにない。被害というものの上に新たに土を耕し道を作るほかに、ない。そうじゃないだろうか?
なのに。多くの第三者が、「回復」に向けてとか「回復」するために努力しなさいとか、軽々と言ってのける。いや違うんだ、と、私は今敢えて言いたい。
私たちは、回復に向けてなんて努力できるところにさえいないのだ、と。そう、声を大にして言いたい。
それまでの日常が崩壊し、それまでの非日常をその瞬間から私たちは生きなければならなくなる。それまでの非日常こそがここからの「日常」になる。
私たちはつまり、思ってもみない世界に放られ、そこから新たに歩き出さなければならなくなる。
だから「回復」という言葉は、やっぱり、私達には当てはまらない。じゃあ何が当てはまるのだろうと考えてみる。敢えて言葉を挙げるなら「再生」だろうか。いや、「新生」かもしれない。

再生:そのままでは働かない状態から、また働く状態になる、あるいはすること。/衰え死にかかったものが生気を取りもどすこと。/精神的に生まれ変わること。
新生:新しく生まれ出ること。/生まれ変わった気持で人生に再出発すること。特に、信仰によって心が一変した状態。

「再生」なり「新生」なり、そういった類の言葉なら、なるほど、と思える。それは私だけだろうか。

丸々と太った月が南東の空に浮かんでいる。その月を凝視しながら思う。
私は二度と、仲間に「回復」という言葉は使えそうに、ない。


2022年01月18日(火) 
瞬く間に時が過ぎ往く。私はまったくもって追いついていっていない。それでも、今日は昨日になり、明日が今日になる。
薔薇の様子がちょっとおかしい。一本、黒点病になっている兆しが。これはもう薬を使わなければならないかもしれないなぁと思いながら見つめる。明日薬剤を買って来よう。それまで待ってて。
それにしても日が延びて来た。息子が遊んで帰ってきてもまだ明るい。ついこの間まで、この時間はもうすでに暗かったはずなのに。それだけ時が駆け足で過ぎているということか。冬という季節の向こうに、春が見えるような気がする。

Aちゃんと少し話す。世界が一変して、もうこれ以上失うものもない気がするのに、それでもさらに失っていく気がする、と。ありとあらゆるものが失われてゆく気がする、と。
私はただ、頷く。うんうん、と相槌を打つ。覚えがある。その感覚。私にもそういう時期があった。
性被害に遭って世界が一度崩壊する体験をしたりすると、石橋を叩いて渡るということができなくなる。石橋を叩いて壊して「ほらやっぱり!」と何度でもやってしまったりする。私にも、そういう時期が長く、長く長くあった。
でも。叩いて壊して壊れることを確かめても悲しいばかりなんだ。そんなことをする必要はもう、ないんだ。
でも、必要がないにも関わらず、やってしまう。それがPTSDの特徴のひとつだったりする。だから今、まだ過渡期真っただ中のAちゃんやCちゃんが、何度でも石橋を叩いて壊そうとする気持ちが、痛いほど分かる。
私に、いくらあんたが石橋を叩いて割ろうとしたって、この石橋は壊れない、と実際にそこに在り続けて示してくれた友人がふたりいた。そのふたりのお陰で私は今もここに生きて在る。感謝してもしきれない。そうやって生きて在って示すことがどれほど大事なのかをそのふたりから教わった。だから、今私ができるのは、彼らから教わったことを次に伝えること。

そう、世界が崩壊する。一変する。そんな、とんでもない体験を経ると、それまで非日常だったものがそこから「日常」になってしまう。これほど恐ろしいことはない。
それからはもう、ただただ、砂の城、だ。波打ち際で子供がよく砂の城を作ってはそれが波に壊されて、でもまた作って、壊されて、とやるけれども。まさにあれ、だ。波打ち際で積み上げる砂の城は確かに、何度でも突き崩されるけれど、それでもただ生きること。生きて在ること。意味なんてなくとも生きること。それがとてつもなく大事なこと。
生き続けた先に、その道端に、一輪花が咲いていたり。その花に蝶が留まるのを見かけたり。生き続けなければそれに出会うこともできない。生きてることに意味なんてなくとも、生きて在る、それだけで尊いんだと。私はそう、今ならそう思う。

Aちゃん、Cちゃん、今あなたたちはとてつもなくしんどい時期を生きている。だから何度でも揺り返し揺り戻しがあるだろう。でも、生きるんだよ。どんなことがあっても。生きて、生きて、生きて、ここを越えるんだ。
私の大切にしている言葉のひとつに、「絶望の先にこそ真の希望がある」という言葉がある。とある映画監督が言ったと言われている言葉なのだけれど。私はこの言葉、落ち込むと必ず心の中で反芻する。絶望の先にこそ真の希望がある。本当に、そうだと思うんだ。
今君たちは、まさに絶望の真っただ中を泳いでいるに違いない。それでも。
生きることに意味なんてなかろうと何だろうと。
生きてほしい。生きて在ってほしい。この先には必ず光があるから。必ず。
だから。生きて。


2022年01月14日(金) 
家人が買った蜜柑がちょっと古くなってきたので、ジャムにすることに決める。いや、明日食べればそれで済む、とも思えたのだが、明日の加害者プログラムを控えて眠れそうにないから、それならいっそ、ということでジャムを作り始める。
蜜柑の皮をゆっくり剥いて、できるだけ白い筋は残して、ミキサーにぽいぽい入れて。ペースト状になった蜜柑を今度は鍋に移し替えて、弱火で煮る。
ことこと、ことこと。きび砂糖を使う予定が、ほとんど残っていなくて、迷った末目の前にあった蜂蜜を使う。黄金色の蜂蜜が瞬く間に溶けてゆく。橙色の海に。
ことこと、ことこと。半分くらい煮詰めたところでレモンをたっぷり絞り入れる。スプーンでほんのちょっと掬って舐める。ま、このくらいかな。
ことこと、ことこと。ジャムを煮詰めるのは、気持ちを煮詰めるのと似ているとふと思う。ことこと、ことこと、ゆっくりジャムを煮詰める。ことこと、ことこと、ゆっくり気持ちを確かめながら煮詰めていく。そうしてできあがったジャムは翡翠みたいにきらきらして静かに横たわってる。気持ちも、そうやって煮詰めると静かになる。そんな気がする。
はっと気づいた。瓶。瓶はあったっけ。慌てて台所をぐるり見廻す。ちょうどいい具合にほんの一口だけ中身の残っていた瓶が幾つか。これはもうぺろりんと食べてしまおう。そうしてこれを煮沸して、と。
だいたい30分から40分、弱火で煮詰めれば、最初のペーストの量が半分以下になっている。とろりんといい具合にとろみがついて、橙色の海はいつのまにか、ジャムに姿を変えている。できあがり、だ。
煮沸し終えた瓶に次々詰め込んでゆく。ここは手早く。さささっと。これで作業完了。友人の分と実家の父母に送る分と、それから明日会う友人の分も。そんなことをあれこれ考える時間が私は結構好きだ。あのひとに贈ろう、このひとに贈ろう、喜んでくれるかな。そんなことをあれこれ思い転がしながら、ひとり心があったまる。そういう時間。

明日の加害者プログラムでは、記念日反応について伝える予定になっている。そういえば。阪神淡路大震災の日まであと数日。きっとその日は、あれから何年、と繰り返しニュースが伝えるのだろう。私はそれを聴きながら、ああ、私のあの日からももう何年か、と思うに違いない。阪神淡路大震災とサリン事件、そして自分の被害。1995年はそういう年だった。

今日は通院日で、カウンセラーから出された宿題をプリントアウトして持っていった。あれこれ吟味してくれたカウンセラーから、さらなる宿題を出された。ひとの機嫌を窺わずに、それはそのひとの責任の範疇の事柄、と、放ること。いやそれ、言うのは簡単だけれど私にはかなり難しいのでは、と私が苦笑すると、カウンセラーがウィンクして、すぐにできなくてもいいのよ、まず気づくことから始めて頂戴、と。なるほど。
主治医に、最近時間があっという間の時ととてつもなく長く感じる時と波があって、という話をする。過食嘔吐やリストカットの衝動にかられ、いやもうそんなことはだめだと一生懸命自分の衝動を抑えているのだが、という話も。主治医は、あなたの場合そういう抑圧がそのまま身体化されるのよねえ、と。身体化?と訊ねると、解離性健忘のことを言われる。こちらもまた、なるほど。
帰り道、本を読もうと一度本を拡げたのだけれど、どうしても活字が追えずに諦める。また活字読めない状態に突入したらしい。仕方ない。そういう自分ともつきあってゆくしかあるまい。

そうこうしているうちに午前4時。煙草を一本吸ってみる。先刻まで明日だったものが今日になった。ワンコがカウンター越しにこちらをちらちら見ている。わかってるよ、朝の散歩の時間が近いんだよね。もう少し待って頂戴。
煙草の煙がしゅるしゅると、換気扇に吸い込まれてゆく。唐突に祖父がよくやってくれた、煙草の煙のドーナツを思い出す。祖父は何個でも煙ドーナツを作って私や弟を喜ばせてくれたっけ。大事な想い出のひとつ。


2022年01月10日(月) 
手紙を書きながら、少し考え込む。じゃぁ君は今、何をどう考え、そして行為しているのか、と。

「被害者に許されようとは思っていません」と書いてくる元加害者の男性。許されるようなことじゃないと思っています、そういうことは加害者が考えていいことじゃないと考えます、とも。
そうか、それならそれで構わない。でも、じゃぁ君は今、何を思っているのかちゃんと教えてほしい。何を感じ何を考えているのか。どう行動しようとしているのか。君の生き様からそれはちゃんと伝わってくるか。
頭の中で考えているだけなら、誰にでもできる。そうじゃないんだ、君は君の加害行為は被害者を生んだ。被害者がここにいる。その被害者が、ああと納得できるくらいの生き様を、君はしているのか。
君は実際、どう生きているのか、今。

別にこの男性に限ったことじゃぁない。誰にでも言えることだ。過去の過ちを過ちとして、今どう生きているのか、その過去の過ちを糧に、今どう生きているのか。そのことが問われるのだと私は思う。それは当然私自身も含めて、だ。
私の過去の過ちを、過ちとして受け容れ、そのうえで、私はどう生きるのか。どう生きているのか。それが常に常に常に、そう、常に問われることになる。

過ちを犯さない人間などいない。残念ながら。それが現実だろう。清廉潔癖な人間など、実際何処を探してもいないに違いない。
だからこそ、だ。

過ちを犯した。その過去を、糧とするのか否か。そこなんだと思う。しかもそれはただ頭の中で考えて作り上げているだけではなく、きちんと血肉として、行動として生き様として、現れ出ているかどうか。そこなんだと、私は思う。

私にも過ちはいっぱいある。悔やんでも悔やみきれないことたちが幾つもある。あの時ああしていれば、あの時こうしていれば。考えだしたらきりがない。だからこそ。
今ここ、から始めるしかない、と、そうう思うのだ。何度でも何度でも。

今ここをどう生きるか。どう刻むか。

「他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる。 今、この時を認識すればよい。 過去や未来を生きる必要はない」(エリック・バーン)。
この言葉、私は、こう捉えている。他人と過去は変えられない。変えられるのは今ここと自分のみ。
つまり、今ここの連なりが私を形作る。今ここが常に試されているのだ、と。

だから、私は反論するのを止めた。その反論はまた反論の波を作る。それは延々と続く波紋のようになってしまう。
私にできるのはただ、実際にどう今ここを生きるか、のみだ、と。そう腹を括った。

なあ君よ。君はどう腹を括った? 私にあれこれ言う前に、生き様で見せてくれよ。示してくれよ。君の言う反省を、後悔を。懺悔を。そして、被害者となってしまった誰かに感じさせてくれよ。ああ、もう、十分だ、と。


2022年01月05日(水) 
写真をあれこれいじっていたらあっという間にこの時刻。とてもじゃないが今晩中には終わりそうにないので一旦休憩。お友達が送ってくれた珈琲を淹れてみる。それにしても冷えてきている。窓の向こうで大気がピンと張り詰めているのが見えるかのようだ。天気予報によると明日は一時雪になるらしい。それだけ冷えているということか。

極力テレビニュース等からは距離をとるように努めている。自分のトラウマを逆撫でするニュースが多いからだ。特にこの時期は、そういったことがきっかけで激しいフラッシュバックなどを起こすことが多いから気を付けている。のだが。
ふと見かけた、亡くなった芸能人の、急死直前のやりとりの音声データ、というニュース。ほんの数行読んだだけで吐き気がした。この構図、関係性、まさしくDVとでも言わんばかりの勢いがある。「死ねば?」「みんな喜ぶんじゃない?」。もうこの二言だけで十分なのに、記事は延々と続いている。私は目を逸らし、呼吸を整える。
かつて恋人からのDVに晒されていた時期があった。私はそれをDVだと認識できず、自分のせいでこうなるのだ、自分が悪いのだ、と無駄な努力を日々重ねていた。それがもう当たり前の構図だった。
「消えろよ」「おまえのせいだ」「おまえの」。そういった言葉を幾千幾憶叩きつけられたあの頃。言われなくても可能なら消え入りたいと何度思ったことか知れない。言われなくても分かってる、私なんていない方がいい、私なんてここにいるだけ害悪だ、私なんて。そうやってひたすら、私は自分を責め続けていた。追いつめ続けていた。
私はその恋人と数年つきあったけれども、一体どうやって別れたのか、記憶が残っていない。主治医曰く「解離していたんでしょうね、日常的に」。途切れ途切れの記憶の中、彼はいつも嘲笑めいた表情で私を見ていた。もはや軽蔑するような、私を完全に見下す視線。当時私は、自分が受ける当然の代物なのだ、と、それを受け止めていた。何をされても意志をもてなかった。
十年ほど経って、レイプ被害に遭って、一年後病院に駆け込んで。主治医から、この被害だけではないはず、とぐいぐいと突っ込まれ、私は気づいたら時を遡り、洗いざらい主治医に喋っていた。そこで、一冊の本「バタードウーマン」を渡された。「あなたがされてきたことは間違いなくDVだから。暴力だから。あなたはそれを拒絶していいの。あなたにはその価値があるの。逃げていいのよ。逃げてよかったのよ。それはあなたの当然の権利だったのよ」。
親からの精神的虐待、恋人からのDV、そしてレイプ。それだけで正直、おなかいっぱいだ。もういっそ、人生放棄したいと思うくらいには十分生きた。でも。
十代、生き辛さのピークだった。二十代、家を飛び出したことでようやく呼吸が楽にできるようになった。三十代、生き辛くてたまらなかった十代二十代に比べれば、多少なりではあるが生きられるようになってきた。そして四十、ふっと肩の力が抜けた。五十、ようやく年齢と自分の内奥が交叉するようになった気がする。

「消えろ」「死ね」「死んじゃえば?」「どっかいっちまえ」「おまえのせいだ」「おまえは汚い」「おまえは」。
そういった言葉たちでとことん追いつめられ貶められた経験。できるなら二度と思い出したくないけれど、そうもいかないようだ。私は向き合わざるを得ないらしい。自分の傷たちと。
悲鳴さえあげられず。洗脳され、まるで操り人形のように意志という意志をすべて奪われ、ただされるがままだった日々。消えてしまいたい、と何度思ったことか。でもその意志さえ奪われ、ただ、言葉の暴力に晒され続けた。あの日々にはもう二度と、戻りたくない。私は、嫌なものは嫌だと言えるようになりたい。違うのなら違うと言いたい。遅すぎるかもしれないが、私は私を取り戻したい。私自身の為に。


2022年01月01日(土) 
恩師から電話が入った元旦。まだ死ねない、身動き一つままならなくなってきたのに、ほとんど一日中寝て過ごすしかできなくなったのに、まだ死ねない、でも今年は会いたいなあ!と。私の言葉がほとんど聞き取れないのだろう、一方的にしゃべるだけしゃべって、恩師は電話を切った。
まだ恩師のホームは面会が予約制でしかも一回30分と限られている。私の家から片道二時間半かけて行くことが躊躇われて、まだ行けていない。でも今年は行かねば。恩師と私との間に残された時間はきっとあと僅かに違いないから。
年賀状をさぼって迎えた新年、娘と孫娘が泊まりにやってきた。揃って神社にお参りに。娘が並ぶ屋台を眺めながら「屋台見るの久しぶり!」と喜んでいる。そういえば彼女が子供の頃は近所の商店街のお祭りに、よく通ったものだった。所狭しと並ぶ屋台に群がるひとたちのからからと笑う声が響く、そんなのんびりした祭だった。懐かしい。今はどうなっているのだろう。夏が来たらまた覗いてみようか。

30日夜中から伊達巻を作り続けて大晦日の朝を迎えた。我家の分のほかに実家の分、娘の分、そして義母の分。その義母についての話を家人から聞かされる。家人がぽろり、「もういなくなってほしい」とこぼすのを私はただ黙って聞く。気持ちは痛いほど分かる。でもここでやすやすと頷くわけにもいかず。だから黙って聞く。「親父が狂ったのは、間違いなくあのおふくろが原因だ」と家人。それもまた私は黙って聞く。

初日の出、迎える直前の南東の空には細い細い月が貼りついていた。その姿はか細いのに、くっきりと輝いている。私はしばらくじっと見つめる。何故だろう、満月や三日月よりも、このか細い月の方がずっと、存在感を覚えるのだ私は。まるで月が訴えているように見えるのだ。私はここにいる、と。

息子を寝かしつけようとしたら孫娘がやってきて一緒に寝ると言う。そういえば私も昔々、祖母の家に行くと祖母と祖父の間で眠ったものだったと思い出す。この歳にして子育てを続けている私だから隣には息子と孫が眠ることになる。そう思うと何だか可笑しい。ふたりに「ほら、目つぶって!」と繰り返し言いながら、私たちはひとつの布団の中牛ぎゅう詰めで横になる。あったかいなぁと思う。

今こうして書いていても、記憶がもうすでに断片的で、まるでジグソーパズルみたいにばらばらになっている私の頭の中。まったくもって頼りない。でも、これが私の現実。つきあっていくほかにない。

そうこうしていると、いきなり電話のベルがなる。こんな夜中にどうしたんだろうと電話に出ると、S君が酔っぱらってかけてきた電話のようで。彼は私を、東京のおふくろ、と位置付けてくれている。ありがたいことだ。にしても、いい具合に酔っぱらって独り芝居を始めるところ、笑ってしまう。そんな彼はこの春、有名な演出家の舞台への出演が決まった。本当によかった。これまで地道にひたむきにこの道一筋歩んできた彼だからこそ、私は嬉しい。「ちゃんとお金払って観てよ!」と言ったそばから「あんたの分は俺が出すからさ」なんてかわいいことをぼそっと言う今夜のS君に、「ちゃんと布団に入って寝なさいよ!」と声をかける。今風邪ひいたらシャレにならん。

明日も寒いという。日本海側は大雪だという。降り続く雪は菅平の山小屋でしか会ったことがない。父の山小屋の冬はいつだってこんもり雪だった。父から教わるスキーは、しんどかった思い出しかない。でも、あのリビングに置かれた大きな石油ストーブと、窓の向こうの白銀の世界は、今も美しく私の心の中にある。白銀の中にそそり立つ白樺が、私は大好きだった。


浅岡忍 HOMEMAIL

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