ささやかな日々

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2021年12月30日(木) 
今年もあっという間に今日が来た。伊達巻をせっせと作っているこの夜中。台所中に伊達巻の甘い匂いが満ち満ちている。
一年を振り返ろう、と思っても、私のがたがたの脳味噌はほとんど何も憶えていない。おかげで一年の振り返りなんてちっともできない。辛うじて、今年6月に個展をやったな、そしてつい最近二人展をやったな、と、その程度のもの。

今日家人からこんなことを言われた。記念日が近くなると君は予定を詰め込む。それをやめてくれないか、と。
別に記念日が近いからとか、そういう理由で予定が多くなるわけではなく、いつもととりたてて変わらないつもりで過ごしている、と返事をすると、いやそんなことはない、もう記念日反応は出てて、そのせいでぴりぴりしている、それがこっちにも伝わってきてこっちもまたぴりぴりしてしまう、と。そう苦情を告げられた。
ちょうど息子が帰宅したので私が何か返事を返すということはしなかったのだけれど。ああこのひとは、どうやっても私をそういう目で見るのかな、と、そんなことを思ってしまった。もしそうだとしたら。何と言うか、正直、虚しい。
何処までいってもPTSDやら解離性障害やらがくっついて廻る私という代物。それが私にだけ影響を与えるだけなら別にもう構わないのだけれど、私の周辺にいるひとたちに及ぶのは私にとっても害以外の何者でもなく。そういうところこそが困りものなのだよな、とつくづく思う。波及してしまうことをコントロールなんてできない。コントロールできるくらいならたぶん、病気だ症状だなんて誰も言わないんだろう。
伊達巻をぎゅっぎゅっと巻きながら、私はここに何を込めているのだろう、とふと思った。何を凝縮させているのだろう、と。いや、そんなこと考えても詮無いことなのだが、ふと、思ってしまった。
先日巷を賑わした放火犯人の死亡が確認されたとのニュースを見かける。この加害者は一体何を思ってこれを為したのか、もう誰にも何にも分からずじまいになるのだな、と思ったら、気持ちがぎゅっと堕ちた。被害者はきっと、「何故私が」「どうしてこんなことに」と死ぬ迄自問し続けずにはいられないに違いない、だのに、それに応えられる唯一の人間が消えた、と、それは奈落の底に突き落とされるような感覚に違いない、と。
私が過日感じた、加害者がすでに死んでいたら、と、その時味わった途方もなさに近いんじゃないかな、なんて、勝手に想像してしまい、がっくりする。こんな想い、でき得るなら誰にも味わってほしくない。つくづく思う。

菫の芽がようやく出て来た。本当に小さい、濃緑の葉。私は、ちんまいねぇちんまいねぇ、大きくなるんだよぉ、なんて言いながらプランターに水を遣る。息子が「レモンの種から芽出てる?」と訊くので「まだだねぇ」と応えると「もう出ないのかなあ」と息子。葡萄の種から芽が出るのにも十日近い時間がかかったのを思い出す。もちろん芽が出ないことだってあるのだけれど、もし出るにしてもまだまだ先なのかもしれない。息子にそう伝える。私がそう応えた頃には、息子はもう公文の宿題に夢中になっていたのだけれども。
今夜はあともう少し御節を作って、できるならシャワーを浴びて髪を洗いたい。でも、そう思い始めてからすでに三時間が経過し夜中を廻ってしまった。私は一体今日、シャワーを浴びて洗髪できるんだろうか。


2021年12月24日(金) 
瞬く間に時が飛び去ってゆく。それに全く追いついていけていない。いや、何とかやり過ごしているが、記憶が全く残らない。
私はどっぷりこの時期解離性健忘に憑りつかれるようで。それは、そこから逃げることはもはやできないんじゃなかろうかと思う程だ。今日もカウンセリングで、あなたに憑りついているのは過去の亡霊だから、とカウンセラーが繰り返し言ってくれた。ありがたいことだ。何度も何度も何度も。もう言い飽きただろうに。そんな素振りは全く見せず、淡々と繰り返し私に唱えてくれる。それなのに、私はそれを受け止めかねている。
たとえば風呂場。私はこの時期風呂場に近づくことが非常に困難になる。記念日反応のひとつ、だ。それは分かっている。私は何度も凌辱された、そのたび、加害者の後の風呂に無理矢理入れさせられた。その時のあの、水面にびっしり浮かぶ塵。あの塵に私は、もう一度レイプされるような感覚を味わったのだ。ぞっとした、恐怖だった、絶叫したかった、喉が締まって声が出なかった、出せる声ももはや残っていなかった。そうして私はただただ、塵に犯されたのだ。
あの感覚が、どうしても蘇ってきてしまう。この時期どうしても、あの衝撃が、蘇って来てしまう。それゆえに風呂場自体に近寄ることが困難になる。浴槽に浸かるなんて、湯船に浸かるなんて、とてもじゃないができない。
友人が言う、お風呂にゆっくり浸かって一日の疲れを取るのが私の唯一の楽しみだ、と。羨ましいと思う。私もゆっくり熱い湯に浸かって強張った体を解したいと心底思う。だのに。できないのだ。
加害者からレイプされるだけでなく、人間以外からもレイプされるあの屈辱、無力感。たまらないものがあったのだ。私にとっては。私にはもう、何処にも逃げ場がない、そう思えた。人間からも、人間以外からも、こんなふうにレイプされ続ける運命なのか、と、そう思ったら、もう絶望以外何も、残らなかった。

日々の記憶があまりに飛び飛びになるから、私は常に「今ここ」に必死になる。今の私にはまさに、「今ここ」しかないからだ。「今ここ」を呼吸し生きるので精いっぱいだからだ。私の脳は誤作動を起こしていて、この時期は特に、連続した記憶を残すことが非常に難しくなる。まるで行動するそのすぐそばから、誰かに消しゴムでそれらを丸ごと消されていくかのように。きれいさっぱり私の記憶は飛び去ってゆく。瞬時に消滅する。何処にも何も残らない。
私に過去は持てないのだろうか。ひとの言うところの、ごくごくふつうの過去。こんなことしてあんなことして、あんなこと思ってこんなこと感じて。そんな「営み」が、何処を探しても私の裡には残ってくれない。
私自身のことはそれで仕方がないとしても、困るのは家族のことについて、だ。特に息子の、あれやこれやの連絡事項、そういったものに対しての対処が全然できなくなる。これが困りものなのだ。私が困るのではなく、息子やその先にいる人々に迷惑がかかる。これが辛い。いくら頭を下げても足りない。どうしたらいいんだろう、本当に。

電車に乗っていても、よく途方に暮れるのがこの時期だ。自分が何処に向かっていたのか思い出せなくなるからだ。この電車は一体何処へ行こうとしているのか、そもそも私は今何処に向かっていたのか、思い出せなくて慌てて電車から飛び降りること多々。そうして携帯電話のメモ帳機能を確認したり、予定表を確認して、必死に思い出そうと努力する。思い出せればいいのだけれど、どうしても思い出せないままの時は、とりあえず誰かに電話してみたりする。この歳になって電車に乗っていて迷子になるなんて、多分自分くらいなものだろうな、と、いつも落ち込む。落ち込むのにももう正直、ちょっと疲れた。

こんなことをこうして書いてしまうと、よほど私は凹んでいると思われるかもしれないが。それは違っていて、もう凹むことにも疲れてしまったというのが本音だ。いや、凹んで立ち止まっている暇がないのだ。「今」は常に、瞬時に飛び去っていってしまうから、私は「今ここ」に食らいつくのに必死で、それより他に考える/感じる隙がもはやないのだ。だから私は、記念日反応でもう、へたり込むようなことは、ない。

ただ、時折、ぽかんとしてしまう。
空の天辺にぽっかり穴が開いていて、私はそれに呑み込まれるのかしらと思いながらただ茫然と、淡々と、見上げている構図が、そこにはあるだけ。それ以上でも以下でもない。ただ、それだけ。


2021年12月15日(水) 
まだ幼かった頃。家と学校にしか子供の居場所はなかった。その学校で虐められ、家では家で常に緊張を強いられていた私は、自分に適した場所は自分にはないのだと思っていた。自分に適した場所が自分にはない。でもそのどちらかしか子供の居場所はない。私は不適合者なのだ、と、生きることにおいて不適合者なのだと私は自分を断じた。そうすることで、悲鳴を上げたくなる自分を何とか抑え込んでいた。
十代になって。学校が遠方になったこと以外何も変わっていなかった。この世界において不適合者である私は、何処にも居場所が無くて当然なのだ、と、自分をそう見做すことで何とかバランスをとっていた私は、常に過緊張の状態に置かれていた。何処にいても自分が緩む場所がなく、心も体も過覚醒状態、過緊張状態、それがもはや私のデフォルトになった。
私の両親はよくできた人だ。何より社会に適合し、その先頭を突っ走っているような人たちだった。何処に出ても恥のない、むしろ誇らしい経歴の持ち主であり、実績の持ち主であり、それ以外の何者でもなかった。私はその家の長女であり、その家の血を引く子供の筈であり、周りは「あそこのお宅のお嬢さん」と当たり前のように私を見做した。私はいつも、周りからの突き刺さるような視線を感じ、心の何処かで怯えていた。いつかバレるに違いない、私がこの世界において、この社会において不適合者だってことはきっといつかバレてしまうに違いない、と。だから必死に、いつも必死に、取り繕っていた。
十代も半ばになった或る日、「機能不全家族」という言葉と出会った。貪るようにそれに関する書物を読んだ。ようやく自分の居場所が見つかった気がした。精神的虐待、という言葉をそこで知った。
でも。私は、自分が精神的虐待を受けていると自分の内側で思えても、それを認めることはできなかった。恐ろしかった。もし認めてしまったらこの家で生きていけない、では何処にゆけばよいのか、私には分からなかった。この家にいる限り、私は自分が虐待児だなんて、絶対認めてはいけない、受け容れてはいけない、そう自分を制していた。
でも。刻一刻と、限界は近づいていた。
もう無理だ、両親と暮らすことは私にはもう無理だ、と、限界を認め、家を飛び出したのは大学卒業時だ。卒業式を待たずに家を出た。両親の留守中に、黙って家を出た。
はじめて、深呼吸した気がした。はじめて、自分の部屋を自分の「家」と思えた。毎日がどきどききらきらしていた。ああ生きていいんだ、とそう思えた。
私は当たり前のように仕事に打ち込んだ。どんな逆境であろうと、どんと来い、だった。それを私自身が選択したのだ。その選択の責任は私にあり、私は私の人生をようやっと一歩踏み出したのだ、と、そう思い、私は私を追い込んだ。仕事場でどんなに卑しい仕事を強いられても、私は絶対ここから引き下がるものかと踏ん張った。
でもその結果、上司からのレイプに遭い、数か月の性虐待に晒された。
被害から一年経って、私は自分が狂ったのだと思い精神科に飛び込んだ。そこで、医者から言い渡された。あなたは心的外傷後ストレス障害と解離性障害です。当時まだ複雑性PTSDという名称は正式ではなかったが、医者は私に「私が診るかぎり、あなたのそれは重度の複雑性PTSDです」。
私が幼少期体験してきたものは明らかな精神的虐待だったと。ネグレクトと過干渉、酷い言葉の暴力によってあなたの脳は明らかに変異してしまっている、と。機能不全家族という言葉もそこで改めて告げられた。あなたは親を憎んだり怒ったりしていいのよ、とも。それはあなたの正当な権利なのよ、と。
でも。私にはそれができなかった。虐待されたのだ、というところまでは受け容れられても、親に対して憎んだり怒ったりするということが、私にはできなかった。私は、親を求めていた。愛していた。あんな親でも、愛されたいと全身で求めていた。
性被害による傷、親からの虐待による傷、傷を受けたことは確かにそうだと私自身受け容れられた。そこから先が、私には、だめだった。

今、五十を越えてようやく、親との距離の取り方、性被害との距離の取り方が何となく分かって来た。ようやっと、だ。一体何年かかったか知れない。しかもそれらはまだ、解決したわけでは、ない。

何故今更そんな話をしているのかというと。「こども庁」「こども家庭庁」この名称についてのニュースが流れたからだ。「こども庁」と名称が変更されたのには意味があった。それがいきなりここに来て、「伝統的家族観」を重視するため名称逆戻りと。
この伝統的家族観、というものによって、どれほど多くの子どもが追いつめられたことか。家族、家庭を、「すばらしいもの」「あたたかいもの」などと形容するのは個人の勝手だが、「すばらしい」「あたたかい」ものであることが当然、と社会が決めつけるのはあまりにおかしい。私はかつて精神的虐待を受けて脳に異常が現れる程追い込まれた子どもの一人として、言いたい。家族というのは密室の凶器だ、と。その密室の凶器によって夥しい数の子どもたちの命が薙ぎ払われている。その現実を、事実を、なかったことになどしてほしくない。
大の大人になっても、私のように五十にもなっても、幼少期に受け続けた傷を引きずって歩く、かつての「子ども」を、もうこれ以上生んでほしくない。私は、かつて虐待を受けて生き残った者のひとりとして、そう声を上げたい。


2021年12月14日(火) 
今日届くはずの荷物が21時を廻っても届かない。佐川急便の配送状況が、さっきまでの配達中から、いきなり持ち戻りになっている。愕然とする。今日届かなければ意味がないというのに何故何の連絡もなく持ち戻りなのか。酷すぎる。あまりに腹が立つので、その勢いでレモンの皮をみじん切りにする。母から送られた無農薬の庭のレモンだ。そのままマーマレード作りに突入。こういう時は料理をするのが一番落ち着くと相場が決まっている。怒りが心頭に達した時は料理だ。それにしたって、何の連絡もなく持ち戻りって何なんだろう。さっきの家人の呟きが思い出される。「佐川だからね、所詮」。私はその時、でも、と言ったのだった。がしかし、今は、とても言い返す気持ちにならない。全力で家人の呟きに同意したい。腹が立つ。

搬入、設営を何とか終えた。二人展。もう終電を逃すと思った。目の前で電車の扉が閉まりかけていた、そこに滑り込んだという感じ。運転手さん、ごめんなさい。ご迷惑おかけしました。心の中謝罪する。

この一か月の記憶がほぼほぼ途切れている。ばらばらのジグソーパズルみたいに、記憶が切れ切れだ。そんなに忙しかったのかな、と振り返れば、息子のダンス教室の発表会の、怒涛の様な練習の嵐にしてやられた、というのが実感。こんなに大変とは思わなかった。というか、親に頼り過ぎなんじゃないんだろうか、と思えるくらい、衣装のことにしろポスターのことにしろ、親に放り投げて来る感がある。それが当たり前といわんばかりに。私はそういうのは無理だなあと痛感する。息子がダンスを辞めたいともし言うなら、賛成してしまいそうだ。もうこんな大変さはごめんだ、正直。

自分の二人展の方は何とか始まって、今日はOさんが大阪から来てくれた。ありがたい。この後トークイベントを控えているとかで、一時間で走って帰っていかれた。そんな忙しいさなかに立ち寄ってくださって、本当に感謝、だ。

深い深いところで、何かが枯渇している。何だろう。このところ自分の内に潜り込む時間もなくて、ちっとも視ることができていない。とてもとても渇いている。何か。私の内が間違いなく枯渇している。


2021年12月04日(土) 
久しぶりに数人の友人らと会食。といっても場所は我が家。コロナのために長らく会えていなかった友人との再会。
写真集の話をしたり、今取り組んでいる企画の話をしたり。思い思いにみながめいめい語る言葉をぼそぼそと聴く。それだけで、贅沢な時間だな、と思う。そういうことさえできなかった時間が長くあり過ぎた。
珍しく酔っ払った友が先に隣室でぐーかー。その後も残ったメンバーで夜通し話し続ける。料理はすっかり空っぽ。それでも、炬燵を囲んでぺちゃくちゃ。

当たり前にそれまで為してきたことが、当たり前にできなくなった。でもコロナってそんなに怖いのだろうか。申し訳ないが、コロナよりもPTSDの方が私には怖い。だから、コロナコロナと騒ぐ人の気持ちが今一つ分かり切れていない。この状況下、顰蹙極まりないなと我ながら思うのだが、こればかりは仕方がない。私にとっては、PTSDや解離性健忘の方が、ずっとずっと恐ろしい代物だ。
記憶は飛ぶ、フラッシュバックは起こる、体のあちこちが痛む、幻聴幻覚は繰り返し襲ってくる、動悸息切れ、謎の頭痛、あの日からというもの、症状は果てしなく、そして、ずっと続いている。こんなにしんどいならいっそ殺してくれと思ったことだってあった。でも生き延びて今在る。そんな私にとって、コロナは申し訳ないが、二の次三の次ということになる。
多くのひとが恐れ戦くコロナに、私はそれらを覚えることができないという現実。社会との距離を猛烈に感じる。

展示の準備に息子の発表会の準備に、と、重なってしまって何が何だか分からない状態になっている今日この頃。それにしても、ひとがうようよ集まるとどうして私は異物になってしまうんだろう。とても苦しい。
すべてのひとの顔という顔が同じに見えてきてしまう。そして圧となる。とてつもない恐怖だ。でもそれを他人に理解しろと言っても無理なのだ。だって、そんな経験はまず、しないのだろうから。それが「普通」だから。
私にとっての普通は、そこからあの日を境に大きくズレてしまった。外れてしまった。二度とそこには戻れない。

記念日反応が少しずつ少しずつ、そう、まさに、じわじわ、と、私の内側から滲み出してきている。それもまた、あの日を境に私に訪れたもの。消えない痕跡。

葡萄の種、ずっと殻を被っていた子の、その殻がようやく外れた。もう縮れ切った葉は、きれいには開かないのだけれど、それでも嬉しい。いっぱいお日様を浴びるんだよ、と声をかける。もうひとつ、殻をかぶったままの子が残っている。この子はまるで帽子を深くかぶるみたいに殻を被っているから、たぶん当分外れない。いや、外れる日が本当に来るのだろうかと不安なくらい。頑張れ、芽。


浅岡忍 HOMEMAIL

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