2021年11月27日(土) |
なんだかんだと二人展の準備でわたわたしている。容赦なく時間ばかりが過ぎていってしまうので、結構焦っていて、気持ちがぴりぴりしているのかもしれない。家人にちらり、嫌味を言われてしまう。「ぴりぴりしても何も変わらないよ」。確かにそうだ。そもそもこの言葉を嫌味と受け取ってしまうこと自体、私に余裕がなくなっている証拠なんだと思う。気を付けねば。
暗室作業をしなくなって、どのくらい経つんだろう。ふと思う。自分が使い続けてきたフィルムが生産中止になって、それを境にフィルムからデジタルへ移行せざるを得なくなった。というと、フィルムなら他にもあるじゃないか、とよく言われる。が、私にとってあのフィルムの感触は唯一無二で、他のフィルムでいくら試しても、頑張っても、同じものは出せなかった。当時それは私にとって、絶望に近かった。だからもう、いっそ、と、デジタルに移行したんだ。 写真を始めてから十五年近い年月、暗室作業は常に私を支えてくれていた。あの作業がなかったら、越えられなかった夜が一体幾つあったか知れない。あの頃の私を受け止めてくれたのが、あの、暗室作業だった。 窓のない風呂場に引き伸ばし機やパレットをぎゅうぎゅう並べ、明け方までずっと、現像液がへたるまでずっと、ひたすらに作業し続けた。朝、稜線がぼんやり白み始める頃、窓際にはひらひらと濡れた印画紙がはためいていた。ああ、夜が明けるんだ、夜を越えられたんだ、という実感にはだからいつも、暗室の液の匂いと空を背景にはためく印画紙とが一緒にあった。 リストカットに溺れていた時期も、ずたぼろになりながら同時に作業してた。作業がなかったらもっと果てしなく延々とリストカットをし続けていたに違いないから、そうしたらもうこの左腕、今頃使い物にならなくなっていたかもしれない。 そうやって省みると、暗室作業がかけがえのない代物だったことをただただ痛感させられる。あの作業があってくれてよかった。あの時期の私にあの作業があってくれて、本当によかった。 今デジタルに変わっても。基本、やることは同じだ。作業はPC上で為されるけれども、私が為す作業は暗室作業で行っていた範囲のものに限られる。それ以上のものは施さない。暗室でできないものをPC上で為す気持ちには、まだ至らない。
デュプレの音がたまらなく好きだった時期があった。だから全集も買い込んでひたすら聴いていた。それが最近、しっくりハマらなくなった。これまですうっと入って来ていた彼女の音が、何故か跳ね返ってゆく。吃驚だ。 そして試しに、ヨーヨー・マを聴いてみて、ああ、そうか、と気づいた。デュプレの音に比べればヨーヨー・マの音は間違いなく健康的だ。私はたぶん、昔と比べてずいぶん元気になった、その証がこの跳ね返りなのだな、と。妙に納得できた。 私は、何年も何年もかけて、間違いなく変化しているのだな、と。 |
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