2021年09月29日(水) |
「会話」は、二人、または少人数で向かい合って話し合うこと。イメージとしては英会話で一対一で話していたり、複数人で話をしている状態。 一方「対話」は、向かい合って対等の立場で話すこと。 この二つを分かりやすく学校の場面にたとえると、会話が黒板を使った授業。対話が、理解できなかった授業内容を先生に教えてもらう。という捉え方ができるのだとか。
対話と会話の違いを他者に説明しようと思って自分なりに調べていて、一番腑に落ちたのが上の説明。なるほどなるほどと思った。
先日の、加害者プログラムで、何だかこのひととはすれ違うな、噛み合わないな、と思っていた、その同じ人から、今日メッセージが届いて、愕然とする。このひとと私の間に共通の日本語辞書はないのではないかと思うくらい吃驚する。 何だろうこの違和感。 そう考えて、S先生にも相談した。すると、先生からこういう言葉が返ってきた。 「彼らは問題点を正面から指摘すればするほど巧妙に外したり、はぐらかします。それが性加害者の特性です。自分の捉え方がおかしいなと思わせるようなアプローチでないと、どんどん遠ざかっていきます。 どうすればいいのかと、途方に暮れるところですが(私もしょっちゅう呆れています)、そのようにこちら側を呆れさせることも彼らの無意識の加害者の戦略ですから、少し俯瞰して彼にはどのように現実が見えていたのか、そこから今回のやりとりを見直してみようと思います。」 先生からの返信に、なるほど、と唸らされた。 私は残念ながらまだまだこの領域に達していないなと、痛感する次第。深呼吸して、とりあえず一歩距離を置いて、見つめ直そう、と思う。
私は加害者と、対話をしにいっているのであって、つまり、対等の立場で話をしにいっているのであって、おしゃべりをしに行っているわけではない。なぁなぁにするつもりもまた、ない。
と、ここまで書いてふと窓の外をみやれば、欠けた月が東の空にぺたり、くっついている。まだ昇って間もなく、のっぺりと黄味がかった色合い。虫の音だけがしんと静まり返った夜を震わせている。 静かだ。こんな静けさが大好きだ。静かの海、というタイトルのアルバムがそういえば何処かにあったなと思い出し、かけてみる。天野月、静かの海。好きなアルバムのひとつだ。こんな月夜に海辺に立って、ただぼんやり海を見つめたい。若い頃はよく行ったものだ。終電で家を抜け出し、海まで。もうどのくらいやっていないんだろう。いつかまた行けるだろうか。 家族はもう寝静まっている。私が部屋を抜け出し今出かけたら、間違いなく心配する。夜明けまでに戻ってくれば良いのだろうが、それでも何となく気が引ける。 若い頃それができたのは、家が居場所じゃなかったからだ。何処にも居場所がなかった。学校も家も。そんな私にとって唯一、海は私の居場所だった。
あんなに美しく出ていた月が、いつの間にか雲に呑まれた。そうか、台風が近づいてきているんだっけか、と思い出す。今週の金曜日は通院日、その通院日は雨が激しく降る予定らしい。 ちょっぴり、憂鬱。
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