2021年10月30日(土) |
息子が体調を崩し臥せっている間に数日が光矢のように過ぎ去った。ほぼ丸ごと覚えていない。でもその間に私はいつものように通院日で、カウンセラーとも話した。それはぼんやり覚えている。
家人がSEをやるようになって。私はちょっと引いている。彼の神経質さが際立ってきているようで、それがしんどい。いや、彼の、彼なりのトラウマへの向き合い方なのだろうと思うのだが、でも、SEにどっぷり嵌っている時の彼は、非常に神経が高ぶっていて、私も息子も閉口する。 ワンコと息子と三人で散歩しながら、息子がぼそり言う。「なんかさ、こっちのせいにされるのやなんだよね」「ん?」「不機嫌なの父ちゃんじゃん」「ああ、さっきね、確かに不機嫌だったね、父ちゃん」「なのにさ、不機嫌なのはこっちみたいな言い方すんの。あれ嫌だね」「あー、やだね、確かにね」「何なんだろうねほんと」「何なんだろうね」。連れ立って歩きながら、私たちはぼそぼそとそんな言葉を交わす。 息子が言いたいことはすごくよく分かる。私も同感だからだ。彼は自分の機嫌の悪さをいつも棚に上げる。そしてまるでこちらが不機嫌みたいな言い方をする。あれは、いつだって首を傾げざるを得ない。何なんだろうと思う。
それにしても、今日の午後は巻雲が美しかった。筋雲の尾っぽがぐいっと曲がっていると天気が崩れる徴なのだそうで。なるほど、明日の天気予報を確認すると確かに雨の確立が上がっており。雲と空の関係って絶妙だな、と思う。
真夜中、家人も寝静まってから、カシアを加えて珈琲を淹れる。シナモンの香りがたっぷりの珈琲をストレートでいただく。それだけで、ほっと一息つける。シナモンの香りというのは私にとってそのくらい魔法だ。
本を読もうとするのだが、一向に入ってこなくなった。活字を追えない。ああ、また活字拒絶状態に陥ったか、と思うとちょっと悔しい。もはや仕方のないことなのだろうとは思うのだけれど、どうして読みたい時に限ってこうなるのかと、どうしても悔しくなる。さすがに、「あんな目に遭わなければ今頃私は」とまでは考えなくなったけれど、少し前まではいつだって、そう思っていた。あの事さえなければ私は、と、いつもどこかで思ってた気がする。
あんなことさえなければ私は。 そう思うことは、結構簡単なんだ。だって何も考えずともすぐそう思える。思わずにはいられないものだから。 でもだから、それを手放さなければならないと思う。だって、なかったことにはできないのだから。なかったことにすることを何より嫌だと思っているのは自分自身なのだから。あんなことさえなければ、ではない。あんなことだろうと何だろうと、確かにあったのだ。そこから始めるほかに、ない。 あんなこともこんなこともあった。それでも私は今ここを生きている。そうやって、いつだって今ここを大事に生きるほかに、ない。 一日一生。今日も精一杯、今を生きる。生きて死ぬ。そしてまた、明日、新しい今日を生きる。 |
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