ささやかな日々

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2021年08月31日(火) 
見事な曇天の朝の空。あまりに見事過ぎて写真を撮ることを忘れてしまった。昨日は光化学スモッグのせいなのか霞んでいるというか靄っている空だった。せっかくの朝の空との出会いが、ここ数日立て続けに残念な感じになっている。
ホットフラッシュが酷いのは気圧のせいなのかそれとも私のストレスのせいなのかはたまた年齢のせいなのか。分からないまま過ぎてゆく日々。更年期障害って言葉は便利だ。すべてを含ませてしまう。でもつまりそれは、ちゃんとした原因が分からないままということであり。厄介だなあと思う。
整骨院での施術のおかげなのか、気圧変化による頭痛の回数が随分減った。ありがたや。四六時中トラマールやロキソニンのお世話になっていただけでなく、かつては身体痛が酷くてブロック注射をぶすぶす数十か所打っていたのだから、その頃を考えると今なんて天国にいるかのようだ。感謝。
カウンセラーから言われている課題=宿題はいまだまったく進んでいない。たかがタッチひとつなのに、それさえできない。私のこの眼に見えない囚われ=恐怖の正体は一体何なんだろう。つくづく嫌になる。
踵の骨挫傷はまだあまり回復していない。朝起き抜けが一番痛くて、あとは夕方じわじわと痛む。歩くことが難儀で仕方がない。身体が大丈夫な状態って、どれほどありがたいものなのかを痛感する。
私はPTSDやら解離性障害やら持ってはいるけれど、身体はかなり頑丈な方だ。そもそもこれほど大量の薬を二十数年のみ続けてきていても、肝臓は何とか機能してくれている。そういう丈夫な体に生んでくれたのは両親なんだよな、と、突然ふとした拍子に想い耽る。彼らにまっすぐに感謝できることがあるとしたら、たぶんそのことなんだろうな、と。
昨日、依存症施設にアートセラピーをしに行ったのだけれど、そこで一人の方が「うちは機能不全家族だったから」という言葉を繰り返し使っていた。その言葉が私の脳味噌の片隅で反響している。機能不全家族じゃない家族なんて、じゃあ一体どこにいるんだよ、と、突きつけたくなる自分がいるのだ。何てひどい人間なんだろう自分は、と思うのだが、同時に、だってそうじゃないか、ちゃんと機能している家族なんてこの国の何処を探したら存在してると言うんだ、と、そう嘲笑しながら吐き捨てたくなる自分がいるのだ。
かつて、十代の頃、あまりの生きづらさから、我武者羅に本を読んだ。機能不全家族、アダルトチルドレン等々。それにまつわる本を片っ端から読んだ。ちょうど私の十代後半に、機能不全家族という言葉が使われ始め、アダルトチルドレンという言葉も当たり前のように使われ出した。DVという言葉や共依存という言葉も。家族という密室の恐怖が、少しずつ少しずつ語られるようになった時代だった。それを貪るように私は喰らった。
生きづらいことこのうえない十代を過ごし、ようやっと二十代になったと思ったらあの被害だった。よほど私の前世は酷い代物だったのだろうなと、そんなどうでもいいことを思い浮かべて前世なるものを呪ったりもした。そんなものがあるのかないのか、ちっとも分からないまま、ただ、ひたすら呪った。そうでもしなければ救われなかった。
綱渡りのような毎日だった。今思っても、よくここまで生き延びたよな、と我ながら思う。
と、話が宙ぶらりんになってしまった。だからつまり、機能不全家族がもはや礎になってしまっているといっていい今日この頃の私たちの有様なのに、それでも「機能不全家族だったから」という言葉に縋らずにはいられない誰かのことを思って、胸がぎゅうとなるのだ。それはもう特別なことなんかじゃないんだ、みんながそれぞれの機能不全家族を背負って生きてるんだよ、と。

家人が帰宅してから、何だか酷く苛々しているようで。息子と衝突しまくっていた。家人に対し、自分にとっての理不尽を言われるとちゃんと言い返してくる息子に、私は心の中エールを送っていた。私なんて、その昔、親に言い返すなんて行為とてもじゃないができなかった。息子は筋が通ってないと思うと必ず言い返す。切り返す。そんな息子を私は、すごいな、と心中思っている。
カウンセラーが、「息子君が一番まともだわよ」と言っていたことを思い出す。実は実は、本当にそうなのかもしれない、と、噛みしめる今夜だったことよ。


2021年08月27日(金) 
通院日。まだ朝早いというのにすでに照り付けてくる陽射しに肌をじりじり焼かれながら出掛ける。マスクをしていると呼吸が浅くなってしまう。酸欠になりかけの金魚ってこんな気持ちなんだろうか、とちょっと想像しながら歩く。
カウンセラーから前回出された宿題は、ほとんどできなかった。そのことをまず報告する。家人に触れるというただそれだけの宿題のはずなのに、私がそれを為せたのは回数にしてたったの二回。そのうちの一回は家人から「宿題やってないでしょ」と言われて渋々為したという体たらく。でもカウンセラーが「一回がせいぜいかなと思っていたから、二回できただけでもよかったじゃない」と笑う。そのカウンセラーの対応に虚を突かれ、私はしばし腑抜けになる。
「とにかく触りたくないんです。家人だからとか、そういうんじゃなく、触れるという行為がもうすでに嫌みたいで」
「犬に触るのも?」
「…犬に触るのは平気です。でも、触ってるうちに犬が舐めてくるとやめて!って思う」
「なるほど。自分が触れたことによって自分が望まない反応を返されるのが嫌ってこと?」
「ちょっと違うかも。でも、そうだとも言えるかもしれない」
まだ自分の中でうまくまとまらない。まとまらないまま、居心地悪く椅子に座っていると、お尻のあたりがもぞもぞしてくる。同時に、そういう状態に疲れてしまっている自分もいる。
考えたくない、と、全身が拒絶しているかのような。そんな感じ。
そして、どういう話からそうなったのかを思い出せないのだけれど、実父と家人は私にとって少し似ているという話になる。威圧的なところが似ている、と。
「別にだからって殴られるわけじゃないでしょう?」
「実際に手を出されるのとは違うんです、言葉の暴力に晒されるというか」
「なるほど。それが怖い?」
「怖いです。もうこれ以上何も言われたくなくなってしまう。追いつめられてしまう」
「怖い、という感情が勝ってしまうのねえ」
と、話しているうちに感情が高ぶって勝手に涙が出てきてしまった。そのことに自分が狼狽えてしまう。何をやっているんだろう、本当に。勝手に泣いて、勝手に狼狽えて、自分は一体何をしてるんだろう。
診察では何を話したのかほぼほぼ覚えていない。主治医が「とにかくあなたの薬の量は多すぎるのよねえ、少しずつ減らしていきたいのよ」と言ったことは覚えている。私も減らしたい。

夜、ワンコと散歩していたら、妙な動き方をする車に気づく。さっき私の横を通り過ぎた車なのに、さっきそこを曲がったはずなのに、止まっている、それだけじゃない、別の道に私が進むと、その車も別のルートでその道の反対側にやってくる。車のナンバーを繰り返し口の中で唱え忘れないようにする。怖い。いや犬連れなのだから大丈夫だろ?と思いかけて、いや、うちのワンコはうんともすんとも鳴かない犬だから、何の助けにもなってくれないかもしれない。そう思ったら、もうとんでもなく怖くなって、全速力で駆け出している自分がいた。とにかく車が通れない道を選んで、走って、走って、走って。
気づいたら交番の前にいた。
黒いワンボックスカーは、いつのまにか消えていた。
今更だけれど、自意識過剰なだけだったんじゃないのか、と恥ずかしくもなった。でもそれなら何故、二度も三度も、同じナンバーの同じ車が目の前に現れたんだろう。何だか情けなくて恥ずかしくて、怖くて、同時に自己嫌悪も覚え、ありとあらゆる感情にぐるぐる巻きになってしまう。もう嫌だ。今日なんてとっとと終わってしまえばいいのに。
私が全速力で走り、それに引きずられるように走らされたワンコが、ぜえぜえ言いながら私をじっと見上げて来る。巻き添えにしてごめん。

家人と息子が散らかしたリビングを、彼らが寝静まってから片づける。シンクには洗い物が溜まっている。私は、小さくため息をついた。今日はちょっと、いや、だいぶ、疲れた。


2021年08月26日(木) 
息子を後ろに乗せて自転車で片道一時間。ひたすら走る。走って走って走って、おたふくの予防接種をしてくれるこどもクリニックまで。
それにしても今日はとりわけ暑さの厳しい日だった。マスクをしていると汗で顔に張り付いてくるからなおさらに呼吸がしづらくて困った。後ろに乗っている息子が繰り返し「母ちゃんガンバレ!」と声をかけてくれるのだが、途中からそれに返事をする余裕もなくなった。暑い。焼かれる。焦げる。蒸し上げられる。そんな感じ。
それでも何とか辿り着いたクリニックで、注射をしてもらう。それはほんの一分もかからないような事柄で。「お疲れ様でしたー!」という看護師さんの声で診察室を押し出される。ここまで片道一時間かけて来たのに、一分もかからないなんて、と私は心の中ぽかーんとしてしまった。いや、当たり前のことなのだけれどそれでも。
おたふくのワクチンが不足しているということ、かかりつけの小児科ではまったく接種を受け付けていなかったこと、諸々の事情が重なってこういうことになったのだけれど、それにしたって、と、愚痴を言いたくなる気持ちにさせられる。
気持ちを切り替える為に息子と一緒にスーパーの食品売り場へ。美味しそうにぷるぷる冷えてるプリンを4つ買う。再び自転車に跨り坂道を上る。
実家までの長い坂道。実家にまだ住んでいた頃、毎日毎日この坂道を往復した。行きはよいよい帰りは恐い、という具合。でも何故だろう、もう通うことのなくなったこの坂道が、今日は懐かしく感じられる。えっほえっほとペダルを漕ぐ。
父も母も相変わらずの様相で。口調の厳しさも相変わらず。容赦なくひとを決めつける口調。私もいい加減これに慣れることができたらいいのだろうけれど、私はだめなのだ、この口調にいつだってやられてしまう。
すっかり年老いた両親を前に、私は正直居心地が悪かった。そのことを申し訳なく思いつつも、もはやどうしようもなくて。
それでも一時間、何とか堪えた。

お願いだ、自分。彼らは日々老いていっている。そんな彼らにもう少しでいい、ほんの少しでいいからやさしく接せられないか? もうちょっとだけでもいいからやさしく笑ってやれないのか?


2021年08月12日(木) 
恩師から電話。俺はよほどひどいことをしてきたに違いない、と言う。なんで、そんなことないじゃない、と言い返すと、そうでもなければ今こんな仕打ちにあっている理由が分からない、と言う。
3月に転倒して骨盤を骨折し、入院、手術。リハビリを経てようやくホームに戻れたと思ったら、高熱にうなされるようになり、再び病院に舞い戻ることに。手術が失敗していたことがそこで判明し、今、熱が下がるのを待っていると言う。
足が動かなくなり、手が動かなくなり、そして耳の頼りであった補聴器が故障したのにコロナのおかげで修理にも行けず、眼も眼鏡が合わなくなっているのかうまく文字が読めない。こんな状況になってまで生きている。よほど俺は人から憎まれることをしてきたに違いない、と。
私は、ふざけんな、と言い返したかった。先生、あなたは多くの生徒の師として懸命に生きてきたじゃないか、多くの生徒の師として頼られ、ここまで生きてきたんじゃないか。そりゃあその間に憎まれ役も買って出たことが多々あったろう、でもそれはそれ、だ。だから今のこの酷い状況が自分にはきっと当然なのだ、なんて言い方、しないでくれ。当然なんかじゃぁない。
「身体が辛いから電話もこの辺で切るけれど。オリンピックのマラソンのニュースを読むこともできなかったから、送ってくれないだろうか」「読みたいんだよねえ」。

図書館に行って新聞記事をコピーすることも考えたが、よほど文字を大きくコピーしなければ今の先生には読めないに違いない。考えた末、インターネット上のニュースを大きな文字で何種類もプリントアウトして、送ることに決める。

本当は。今すぐにでも飛んで行きたい。飛んで行って、先生の愚痴をとことん聞き倒したい。そうでもしなければきっと先生の心は膿でいっぱいいっぱいになっているに違いないから。でもそれがコロナのおかげでできない。何と憎たらしいコロナ。気づけば歯軋りしている自分がいる。
先生。
先生と国語演習の授業で出会った高校3年。今も覚えてる、先生が本を読むなと言ったんだ。今なら分かる、受験にふつうの読書は必要ない、という意味だったと。でも当時の私はそれが分からなくて、先生に喰ってかかるような手紙を書いて渡したんだ。翌日放送で呼び出され、恐々としながら先生のところへ行くと、一冊の詩集と分厚い手紙を渡された。「申し訳ない」という言葉がはっきりくっきり書かれた手紙で、先生が生徒に謝るなんて、と私は仰天したのだった。でも。先生が何故私に申し訳ないと書いてくれるのかの意味もすべて、その手紙には詰まっていて。私は涙したんだ。
以来、担任になってもらったこともないのに先生との縁は続いた。大学になって先生も研究室に席を移して、私はそこに通った。嬉しいことや悲しいことがあると、先生!とそこへ飛んで行って報告した。
大学4年の時私がパリに逃げたことがあった。逃げたのに、私は毎日毎日先生に絵葉書を書いて出した。何故だったんだろう。分からない、覚えていない。でも、私は毎日毎日先生にだけは手紙を出した。
ストレスから左手が動かなくなりピアノが弾けなくなった時も、誰の前でも泣けなかったのに、先生のところに行ったらぼろぼろと、ただぼろぼろと泣けた。
被害に遭い、一年経った頃先生にSOSを出した、あの時も先生は黙って助けてくれた。たかが週に1、2度の授業で担当しただけの生徒に、先生は、どんな時も精一杯真正面から向き合ってくれたんだ。
その先生が、自分は罰が当たってるに違いないと言う。そういう生き方をしてきたに違いない、と。だからこんな仕打ちに合うのだと。呂律の廻らなくなった先生の口から、そんな言葉が次々零れて来る。電話越し、私はぎりぎりと、ただ歯軋りする。
先生、先生の生き様を、多くの生徒が知っている。先生がどんなことを言おうと、先生がやってきたことを私たちは知っている。だから。

神様。お願いだ。もしあなたがいるのなら、先生の苦痛を少しでいい、軽くしてくれ。せめて手が動くようになるとか、それがだめでも、耳が聞こえやすくなるように補聴器修理に外出できるようになるとか、それっぽっちのこと、なんとかならんのか、神様。

私はあれやこれやの宗教の神様が嫌いだ。信じることができない。
でも、八百万の神は好きだ。自然の神は好きだ。だから、その神様たちに今全力で祈る。お願いだ神様。先生の苦痛をほんの少しでいい、和らげてくれ。


2021年08月11日(水) 
昔私の住む街には関内アカデミーという映画館があった。2004年1月に閉館してしまったのだが、私は今も時々、あの映画館に行きたいという衝動に駆られることが、ある。マニアックな映画がこの近辺で最後の最後ここで上映される、という贅沢。私はだから、いつもこの映画館でマニアックな映画を観た。小さな劇場で、昔は入れ替えもなかったから、学校をサボって朝からずーっと入り浸り、なんてことが多々あった。制服ですみっこに座っていても、誰も何も咎めず、そのまま置いておいてくれるのんびりさがあった。誰にも言えない秘密を抱えて映画館の隅っこ、映画を観ながらおいおい泣く。映画にかこつけて思う存分泣く、と、不思議と「明日もがんばろ」という気持ちになれるのだった。

関内アカデミーで映画を観た後、私はたいてい海を観に行った。大さん橋は今みたいに綺麗な桟橋じゃなくて、ただの棒切れみたいな形をした古びた桟橋だった。色気も何もない、ただの桟橋。でも、その突端に座り込み、日が堕ちるのをじっと見つめた。悔しい気持ちや悲しい気持ちを抱え、日没を見つめていると、不思議と「これもきっといずれ終わるさ」という気持ちになれたのだった。

そんな十代、まだハマにはメリーさんも健在だった。今はなきドトールや丸井の前でよく見かけた。ケンタッキーでメリーさんを見かけた時はちょっとびっくりしてしまった。ドトールで珈琲を飲んでいるならまだしも、メリーさんがケンタッキーか、と思って。おかしな偏見だけれど。そんなメリーさんは私にとって、自分の住む街を象徴する大事な大事なひとだった。

子ブタならぬ大豚みたいに太った学生鞄をいつも提げて、歩いていた。昔は日記を書くのもノートに万年筆だったから、絶対にそれらを身につけていなければ気が済まなかった。もちろん読み歩く本も数冊。教科書は教科書で持ち歩いていたから、結果豚鞄になるのだった。

なんでこんなこと、今日思い出すのだろう。きっと映画を観たせいだ。映画館に行ったせいだ。

映画館を出てたったか歩いて駅へ向かう。それだけでもうどきどきしてしまうのだけれど、でもできるだけ背筋伸ばして、何もないふりで、平気な振りで、とにかくまっすぐ前を見て。私は大丈夫、なんてことはない、というふりをして。
電車の車窓にぼんやり映った自分を見つめて、そんな武装いつか必要なくなる日が来るかな、とちょっとだけ想像してみた。分からないけれど、でも、いつかそんな日が来たら、いい。そして昔みたいに、自分の暮らすこの大好きな街を、夜通し闊歩しするんだ。カメラを片手に。
夢みたいなそんなこと、夢想しながら、家路を急いだ。


関内アカデミー
大桟橋のあゆみ
ハマのメリーさん


2021年08月04日(水) 
ホワイトクリスマスを何本か挿し木して増やしている。その子たちが揃って蕾をつけ、綻ばせ始めた。本当は挿し木の状態で花を付けない方がいいって聞いた。そこに養分を吸い取られちゃうから。でもせっかくついた蕾をそのまま切り落とすことができず今日に至った。今朝、綻び始めた花をそそくさと切り、花瓶に活ける。菫の紫式部はぐいぐい拡がっていて、この子は何処までその領地を拡げようとするんだろうとじっと見つめてしまう。這いつくばるように生えてるのに、この勢い。強いんだな、と、心の中、思う。向日葵は今年も失敗かもしれない。小さな小さな花がついて花弁もちょこっとだけ開いたのだけれど、そこから微動だにしない。どうしてなんだろう。
夏休みになってから、息子は時々公園に出掛けるのだけれど、友達の誰とも会えないという。誰もいないのだ、と。昨日も、公文の帰りに公園に寄ってみたのだけれど、誰もいなかったらしい。すぐに走って帰ってきた。
それにしても暑い日が続いている。私が子供の頃とは全く異なる暑さだ。スコールのような雨も、昔はこんなになかった。私が生きている半世紀のうちに、こんなにも気候が変化するなんて。そうして息子や孫娘のことを思い、ちょっと途方に暮れる。この子らが大人になる頃には一体、この国の気候はどうなってしまっているのだろう、と。いつか、四季、という言葉さえなくなるのだろうか。

「修復的司法とは何か 応報から関係修復へ」と「性暴力被害の実際 被害はどのように起き、どう回復するのか」をぱらぱら捲ってみている。どうも活字がまったくだめだめな時期に突入してしまったようで、文字を追うほど文字が逃げる。いや、違う、文字が記号にしか捉えられなくなってしまっていて、ありとあらゆる文字が私から逃げるのだ。どうにもこうにも入って来てくれない。
こうなるとしばらく、読書がまともにできない。それが、苦しい。
こんなふうに読書ができなくなる、文字が解読できなくなっていつも思うのは、文字にはあらかじめ意味が込められているのだなということ。意味なくして文字は生まれなかった、と。そうでなければ、こんなふうに記号化してしまった文字に苦しくなることは、あり得ないに違いない。文字は、言葉は、記号であってはならないのだ、きっと。

部屋を片付けていたら、娘が中学生の頃に私にくれたプリクラが二枚出てきた。一枚は当時の親しいお友達と一緒に満面の笑顔で写っている。ペン字であれこれ書き込んであったりもする。まだまだ幼い表情の、娘の笑顔。もう一枚は、1歳くらいの息子、彼女にとっての弟と一緒に写っている。彼女がぐいっと息子を抱き上げて、頬をくっつけたりチューをする真似をしたり、一枚一枚違う表情で。息子は息子で、ねぇねに抱っこされたりイジられたりするのが楽しいらしく、にこにこ笑顔。少し色褪せてきてしまっている二枚のプリクラ。私は、眺め終えた後、そっとグラシンに挟んで、ファイルに仕舞い込む。


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