ささやかな日々

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2020年08月30日(日) 
朝、カブトムシの籠のひとつを見やると、雄も雌も死んでしまっていた。息子に告げる。思ったよりショックを受けていない様子。そんなもんか? 去年とは反応があまりに違って正直戸惑う。去年は大泣きして、しばらく立ち直れない様子だったのに。一年でこんなに変わるものなのだろうか。
雄と雌を入れていた籠の土の中にはいくつもの卵が。私は壊したら怖いので、家人と息子にやってもらうことにする。なんであなたやらないのと言われたが、頑として私は断った。私は私ができる世話をできるかぎりこれまでしてきた。これ以上のことをここからも続けるなら、そもそもカブトムシを飼い始めた君と息子がやるべきでしょう?と。家人は不機嫌になり「子供が喜んで育てているものをそんなふうに言うならもう二度と触らなくていいから!」と言い出す。売り言葉に買い言葉、ああそうですか、なら私は二度と触りません。私も言い返す。
何を朝からやっているんだろう。心の中思う。阿保らしい。でもそれは心の中に留めておく。言ったら余計ややこしい事態になるだけだ。そう思える時はいつだって黙ることに決めている。

竜胆が咲き始めた。秋実りのトマトの花も咲いて、挿し木で育てている薔薇には蕾がついている。この蕾、どうすべきか。樹のことだけを考えれば今年は花を咲かせず、つまり蕾は早々に切り落とすのがいい。花を咲かせるにはまだ早いから。でも。花が見たいと思ってしまう自分が居て、なかなか切り落とせない。どうしよう。
アメリカンブルーが、今だ今だ!というような勢いで咲き誇っている。アメリカンブルーの葉の様子を観察して私はいつも水遣りのタイミングを計っている。何となく葉が乾いてきたなと思ったらそのタイミング。今夕はそのタイミングで、ベランダの東側のプランターから順々に、たっぷり水を遣る。東側から西側へ。順繰り。
朝顔の弦からは新たに四つの種が採れた。水遣りをしながら順に摘み取ってゆく。そういえば昨夜息子とオクラを採取し、塩茹でにして三人で食べてみた。ちょっと摘み取るのが遅かったのかもしれない。でも、新鮮なオクラは皮が厚くなっていたけれど瑞々しくて美味しかった。
空の雲は、遠い南の海の上にできた台風のせいなのか、もこもこもこもこ、実に表情豊かな雲ばかりで。こういう雲が現れ始めると、秋の入口だと感じる自分がいる。まだまだこんなに暑いけれども、でも確実に季節は流れているのだな、と。そう思うとちょっとほっとする。
十五年前の日記をふと読み返していて、リストカットの記述が出てきて、我ながらこっぱずかしくなり、俯く。こんな詳細に書かずともいいだろうに、なんて思って苦笑する。いや、この時は、これが精いっぱいの私だったのだ、と。十五年を経て、ずいぶん私も状況も変わったものだ。変わらないままのものの方が少ないんじゃないか?

オンラインで配信されるLIVEがこれから普通になるのかなあと思うと、ちょっと、いや、かなり寂しい。会場であの熱気を感じるのが、あの直中に立つのが、LIVEだと思っていた私にとって、この事態はかなり寂しい。確かに配信されるLIVEにはそれはそれでいいところもある。それはそう思う。でも。
何だろうなあ、ひとがヒトのアイダにいなくなることが増えていく今、人間って何だろうなあと私は思ってしまうのだ。人間という字はヒトのアイダと書く。その意味の重さを、思う。


2020年08月26日(水) 
毎朝、朝顔の弦を丹念に見つめる。そこについている種の様子を調べるために。ちょうどよく色づいた種をそっととる。来年また息子と植えられるように。ちょっと気を抜いて放っておくと次々弾けてしまうから、毎朝必ず。今朝は三つほど採取できた。
先日から我が家のベランダのお友達になった竜胆の、蕾が、綻び始めた。内側の鮮やかな青色がほんのちょこっと見える。ちゃんと開くのにはまだ一日、二日、かかりそうだ。楽しみでならない。
今週と来週の二週間、緑のおばちゃんをやっている。黄色い旗をふりふりして、子どもたちを交通事故から守るっていう、あの、PTAの係だ。やり始めてすぐ、ランドセルって偉大だと気づかされた。
ランドセルを背負った子供にすぐ気づけるから旗をすっと差し出せる。迷わず車を止められる。これまでランドセルなんて重たいばかりで邪魔だと思っていたけれどそうではないんだな。ランドセルは目印なんだ。
私が立つ場所は急坂と急坂に挟まれた狭い谷間で、だから車が勢いよく走り込んでくる。でもそこに黄色い目立つ旗を持っている誰かが立っているとそれだけで車はスピードを緩めてくれる。左右を確認してから再び走り出す。こちらの旗もまた、目印になっている。
二週間も暑い最中嫌だなあと思っていたけれどそうでもないなと思い始めている。挨拶すると返事してくれる子もいればうつむいてそのまま行ってしまう子も。会釈しながらにっと笑ってくれる子も。みんなそれぞれ。
ともかくも来週末まで何事もなく過ぎますように。

ところで。私は誰かに本を贈る、という行為が結構好きだ。そのひとのことを思いながら、この本がいいかな、あの本がいいかな、いやあっちかな、なんて、想像を膨らませている時間が大好きだ。自分が読んできた本の中から、あ!これはあのひとに合う気がする!と思うときなんて、どきどきする。読みながら誰かの顔が脳裏に浮かぶと、わくわくする。
今日は、文通中の方に贈るため五冊の本を選んだ。一冊は彼からの注文のあったものをそのまま贈るのだけれど、残りの四冊は、彼が今、そしてこれからまだ十年近くは置かれているのだろう場所を考えて、想像力を羽ばたかせやすそうな上質なエッセイや日記類を選んだ。気に入ってもらえるフレーズが一個でもあるといいのだけれども。梱包し宛名を書きながら、無事に届きますように、と声にしていた。

手紙や荷物を送る時、それがこれまで何度もやりとりしている相手であっても、私は「無事に届くかな?大丈夫かな?」と心配になってしまう。そして宛名を書きながらやっぱりいつも、「無事に届きますように!」と声にしてしまう。まるで、そう声にしたならきっと届くと信じられるかのように。

いつの間にか、暑さのピークを過ぎている気がする。いやもちろんまだまだ暑い夏なのだけれど、空に遊ぶ雲の様子などを見つめていると、ああ、秋が近いな、と思うのだ。


2020年08月20日(木) 
時々、眠りたくない夜がある。今夜もそんな夜だ。眠りたくなくて、でも別にこれといってやることもなくて、ぼんやりしている。
ぼんやりしているくらいなら横になって身体だけでも休ませたらいいのに、と思う。でもだめなのだ。こんな夜は。横になることを全身が拒絶してしまう。
作業部屋にクーラーはない。だから気づけばぐっしょり汗をかいている。熱中症にならないように水をこまめに飲む。何やってんだか、と思う。でも、眠ろうとは思わない。

今と違い、昔は眠れなかった。眠れない夜がほとんどだった。横になることが怖くて、横になるつまり無防備な状態になることが怖くて、何度も何度も横になろうと試みるのに、そのたび飛び起きてしまう。そんな具合だった。
疲れ果ててうとうとすると決まって悪夢を見た。その悪夢に魘されて結局目が覚めた。悪循環だった。自分が背負った病がどういうものだか、思い知るばかりだった。

今音楽をかけながら、ぼんやり闇を見やっている。丘の上に立つ我が家のこの窓からは、家々の屋根が見える。窓の明かりはもうほとんど消えている。埋立地に立つビル群の、存在を知らせるための赤いランプがちっかちっかと点滅している。静かだ。私が流す音楽と虫の音以外何もない。
そういえば明日は通院日だ。正確にはもう今日だけれども。先週何を話したのか思い出せない私の脳味噌。困った。またカウンセラーに、「先週何を話してましたっけ」と尋ねるところから始めなければいけない。
そういえば、と、息子の来週の漢字テストのプリントを、スキャンし、何枚かプリントアウトする。明日の朝から練習させなくちゃ、なんて思う。

カブトムシの雄が、雌の体をぐわっしと抱きかかえて離さない姿を先日息子と見つけた。でもその雌はもう息がなく、死んでいた。雄はそれが分かっていないのか、それとも分かっていても離さないのか、それはどちらなのか私たちには分からなかった。私は何だか切なくなって、手を伸ばせずにいた。息子が一生懸命雄から雌を引きはがした。雌の体はぴくりともしなかった。雄は、途方に暮れたかのようにしばらく虫かごの壁をがしがし叩いていたけれど、やがて静かになり、餌の方へ方向転換した。それもまた、私から見ると切なかった。
土を調べると、死んだ雌が産んだ卵が幾つも幾つも見つかった。家人と息子はその卵をスプーンの先で拾い上げ、個別の容器に入れてゆく。私はその作業をただじっと見守っていた。家人がぽつり言った。「死んじゃうくらい一生懸命産んだ卵なんだから、ひとつも無駄にできないね」。
そんな家人を私はその時黙って見ていたけれども。本当は。ちょっとだけ思った。カブトムシだけじゃないよ、私だって生きるか死ぬかのところで妊娠出産したんだよ、分かってる?と。
たぶん、彼は、死んだ雌のカブトムシのことなら分かっても、生き残ってる私のその気持ちは、きっと生涯分からない。


2020年08月19日(水) 
身体のメンテをしてもらいに東京まで出掛ける。私の足は片方が短くて、でもそれは痛んでるから縮んでしまっているのだという。それを施術のたび解してもらい、正常なところに治してもらう。それだけでも立った時の感じが変わる。身体のバランスが変わる。
肝臓は長年薬を服用しているから、しかもそれなりの量の薬を服用しているから、酒を摂取していなくても重くなっている。そのせいで腕がうまく上がらない。施術してもらうと、その直後は軽々と腕が上がるから不思議だ。他にもあちこち軋みが出ている部分に油を挿してもらって帰路に就く。
外に出ると真上に陣取った太陽が真っ白に輝いており。容赦ない陽光に目がくらくらする。水筒の水に少しだけ塩を混ぜてきたのだけれど、それでちょうどよかった。こまめに水分補給しながら歩き電車に乗る。
11月に家人が展示を控えており。帰宅するとその時販売する予定の写真集の表紙の制作をしていた。家人は結局フェルトにシルクスクリーンで印刷することに決めたようだ。赤いフェルト、その赤が血の色に見える。先日切り付けた自分の腕の血の色と重なって見える。
息子は昼食を食べるのも疎かになる勢いで外に遊びに行った。この炎天下大丈夫だろうかと思うけれども、でも遊びたいという気持ちは何より大事だ。コロナの騒動が始まってからというもの、友達と遊ぶのも気を遣うようになってしまった。そういう日常が彼らの日常だ。それだけでも足枷。
大学はいまだオンライン授業だという。キャンパスライフという言葉は正直好きではないけれども、それでも、学校に通いそこで実際に友と触れ合うぶつかりあうということがどれほど大事なことかを改めて思う。それが奪われた彼らのことを思う。
そんなこんなしているところに一通のメールが飛び込んでくる。MさんのことでKさんからのメール。幼少期に遭った性暴力被害は確かにすでに時効だけれど、せめて謝罪だけでも求めたい、そのために内容証明を先方に送りたい、そのために私の知っている弁護士に相談したい、という内容。
加害者に時効はあっても、被害者に時効はない。生涯背負っていかなければならない。実際Mさんは60を越えた今も被害の記憶に苦しんでいる。
加害者は土地の権力者で親戚だった。それだけでもしんどいのに、彼女の記憶はぶつ切れになっていてちゃんと被害の状況を説明することができなかったりする。
被害から50年を経てようやく加害者の名前を口にすることができた、とMさんは先日言っていた。
気持ちはすごく分かる。だから私にできることは何でもしたいと思う。でも。
きっと、これを何とかしたとしても、Mさんの望むような結果が出るかどうか。それを思うと暗澹たる思いにさせられる。
傷ついた者、傷つけた者。傷つけた者はいつだって忘れてゆく。その傷つけたことを忘れて笑っている。

太陽がぎらついて、悲しすぎる。


2020年08月18日(火) 
夕刻犬と散歩。冬は夕飯前に散歩に出掛ける。でも今は夏。しかも猛暑の毎日。だから夕飯を終えて少し暗くなり始める頃出掛ける。
犬を連れた人たちとすれ違うたび、こんばんはと挨拶を交わす。犬同士が匂いを確かめ合うこともあるのだけれど、うちの子はすぐ尻尾を振って飼い主さんの方に近寄ってしまうから、ワンコから見たら「自分の飼い主を盗られた!」と、勘違いされて吠えられてしまうこと多々。だから最初からリードを短めに持ってすれ違うよう心掛けている。
それにしても、うちの子はいくら吠えられてもうんともすんとも吠え返さない。そもそも彼がワンと吠えているところを私はこれまで見たことがない。たまには吠え返せよと思うことも正直あるのだけれど、彼は一向に気にしないらしい。黙ったまま尻尾を振っている。不思議そうな顔でこちらを見上げることもあるほど。
子犬の時からそうだった。彼をペットショップで見つけた時、彼はしょぼーんとしていた。売れ残ってしまっていたからだ。もうずいぶん長くそこに居続けていたんだろう。私達が近寄るとぶんぶんと千切れんばかりに尻尾を振っていたっけ。
連れて帰ると「ここはどこ?いったい何が起きたの?」という困った表情で私に抱かれていた。その時家人が撮った写真を見るたび、ちょっと切ない気持ちになる。

今日の夕空には、うねった巻き毛のような雲が拡がっており。地平線に近づいている太陽から発される茜色の陽光が下からそれを照らして、不思議な色合いを醸していた。少し強い風が樹々の枝を揺らし、眼を閉じて耳を澄ますとざわわざわわと音が聞こえてくるのだった。
夕飯を食べ終えた後だというのに、犬は草と土と枝をがしがし食おうとしており。何度もダメ出しをするのだが「何か?」と知らぬふりをされる。仕方なくリードを短く握り、私の左側にぴたっとくっつけて歩く。途中、黒ラブの子犬とすれ違う。まだ三か月だというその小さな真っ黒なお目目がかわいくて撫でさせてもらう。女の子だという。私が撫でてるのに彼女のお目当ては私ではなく犬の方で、一生懸命背中に手をかけては遊んで遊んでと尻尾を振っている。たまらない可愛さ。

途中へびいちごの実を見つけ犬に差し出す。この実を食べるのが大好きな我が家の犬は私の掌を涎だらけにしながらぱくぱく喰らう。
約一時間の散歩はあっという間に終わり。でも、先日熱中症になったばかりの彼は散歩が終わる頃にはぜぇぜぇ息が上がっており。毛繕いをしてやってから抱いて家に帰る。25キロの身体を毎度毎度抱いて運ぶのは結構辛い。私が何歳になるまでこれをこなせるのかなあとちょっと途方に暮れている。


2020年08月17日(月) 
昨日はH君との撮影だった。島まで出掛けたのだけれど、あまりの暑さに二人とも早々に汗だく。せめて熱中症にならぬようにとこまめに水分補給。始発で出掛けてよかった。一時間を過ぎた頃にはばらばらと人の姿が。みな水着を着ている。
家族の話、結婚の話、研究の話、あれやこれや。この十年近くの間に彼の身辺もずいぶん環境が変わった。それだけ彼が生きて来た証なんだよなとしみじみ思う。
寝坊して遅刻してはいけないと徹夜でやってきた彼は、それでもへこたれず最後まで笑顔だった。昔の彼なら早々に「もう無理っすー!」と言っていたに違いない。そういうところもこの十年で変わった。
私にとっての十年はどうだったろう。この十年、本当に忙しかった。次々降りかかることに対処しているうちにあっという間に時間が過ぎてしまったという感じだ。再婚したり息子を産んだり、娘の反抗期に涙したり、かと思えば娘の結婚、DV、離婚。でも、今の娘を見ていると、ああ離婚できて本当によかったと思うのだ。娘と孫の幸せそうな笑顔を見ているとつくづくそう思う。
撮影終盤、鳶が何羽も空で円を描いていた。彼らの影が私たちの足元に。その影の大きさに息をのむ。すごいですね、すごいね。私たちは彼らを見上げ、影を見つめ、思わずそう声にする。
別の岩場に辿り着くと、その入口で橙色の百合のような花が群れて咲いているのを見つける。こんな場所にも花が咲くんですね、とH君がその中に入ってゆく。出て来た時には彼の紺色の服にびっしり花粉がついてしまっており。慌ててぱたぱたと叩く。
容赦のない強烈な陽光に閉口しつつも、それでも三時間ほど撮影をし帰路につく。駅に着いて二人でアイスクリームを食べる頃にはもうくったくたで、顔を見合わせ苦笑する。
帰宅すると家人に「熱中症にならなかった?」と言われる。そういえばなってないなぁと返すと「よくこの天気で熱中症にならなかったね、あなた相変わらずタフだね」と笑われる。確かに。
H君と別れてから、改めて考えている。彼らを撮り続けたこの十年という時間。二十代という季節。喪ったもの、得たもの、見送ったもの、迎え入れたもの、いろいろなものが交叉しながら走馬灯のように私の脳裏を往く。


2020年08月08日(土) 
息子が育てているオクラの花が咲いた。想像していた姿よりずっと可憐な花で、思わず息子と二人で写真を撮る。風に揺れる柔らかな花姿。
朝顔の種が二つばかり採取できた。まだまだ咲き続けているけれども、最初に咲いていた子たちが種になって、もう色づき始めた。明日もちゃんとチェックしないと。
コンボルブルスとアメリカンブルーはそれぞれ毎朝律儀に花を開かせる。今日も数えられないくらいの花が咲いた。私の大好きな色たち。そして挿し木している薔薇の枝からは順調に新しい葉が開いている。このまま夏を乗り切ってくれれば、きっと根付いてくれるに違いない。それを信じて世話をする。
息子と家人がポケモンGOに興じているので、私は朝嘔吐してしまった犬を連れて動物病院へ。早朝、結構派手に、七、八回嘔吐していたのに、病院に着いた頃にはけろっとして、看護師さんたちにじゃれついて離れない。これは急いで診る必要ないね、と院長先生に笑われて、夕方の予約を取る。コロナのせいでこれまで予約制度なんてなかったのに、今月から導入したとか。これからは予約を取らないと病院に行けないのか、と思ったら、ちょっと不安に。仕方のないことなのだろうけれど。
本を読みたいのに読めない日が続いている。読みたい本は机の脇、山積みになってる。準備万端なのに、活字が記号にしか映らない。読む、という行為がまるでついてこない。読みたい時に限って、こうなるから困ったものだ。

夕方、動物病院で診てもらうと、軽い熱中症だ、とのこと。念のために吐き気止めを処方してもらい、今日から五日間の間飲ませることに。耳の方は異常なし。
夕飯は麺類で簡単に済まそうと思っていたのに、麺以外がいい、との家人からのリクエスト。息子は冷やし中華がいいと言う。どっちか決めて、と放ったら、結局棒棒鶏に決まった。付け合わせの野菜の方が多いんじゃないかと思う程のボリュームで野菜を盛り、その上に茹で鶏を載せる。

更年期障害のホットフラッシュの発作が容赦なく襲ってくる。発作が来ると、一瞬にして手の甲から腕から肩から汗の粒がぶわっと浮き上がる。額や頬にも汗の大粒。あっという間にぽたぽた垂れてくる程。ホットフラッシュが始まってもうどのくらい経つんだったか。だいぶ慣れたとはいえ、このぼたぼた垂れてくる汗はこの季節にはやっぱり辛い。何枚タオルや着替えがあっても足りない。もういい加減、発作が少なくなってくれないものか。せめて夏の間だけでも。

家人が寝付く前、ほんの少しの間だけ、家人と、自殺していった友人の話を交わす。まだまだ心の整理はつかない、気持ちはついて来ないのだけれど。でも、それでいい、と思えるようになれたら。そうしたらいちいち凹まなくても済む気がする。ひとが死ぬ。今この瞬間も地平の彼方で知っている誰かが跳び下りようとしているかもしれない。いまこの直後にも、高層マンションの屋上から一歩を踏み出そうと身構えている誰かがいるかもしれない。誰かの「死にたい」を、私ごときが止められるわけもなく。でも、止められないならせめて、隣にそっと座って、黙って同じ呼吸を繰り返したい。
そうでも思わなければ、やってられない。もう誰にも、死んで欲しく、ない。



2020年08月05日(水) 
蝉がぎょっとするほど大仰に鳴き出した。夏が来た。今年の夏はきっと短いんだろうとそんなことを思いながら青く燃える空を見上げる。がっくりするほど抜けるような青空だ。求めていた空のはずなのに、あまりの暑さに閉口している。
赤紫、紫、水色の朝顔がぱっと咲く朝。植えたすべての色が揃って咲くのは珍しい。そう思いながら見やる。朝顔の弦はもう天井にくっついて縮こまっている。放っておいたらどこまで伸びるのだろうと不思議になる。空を求めて求めて伸びる弦。それは命そのもののような気がする。
息子が夏休みになり、べったり後をくっついてくる。まさしく金魚の糞。コロナまっさかりの頃を思い出す。
違うのは、毎日毎日、虫捕りにつきあうことだ。彼が言う公園や池のほとりに行って、彼がトンボや蝉捕りに興じるのにつきあう。炎天下、毎日毎日よくやるなあと思うのだが、それが子供だと言われれば確かにそうで。それにつきあうのも親の仕事と言われれば確かにそうで。言葉がない。

夜息子が寝付くと、ようやく自分の時間になる。心底ほっとする。ようやく何も考えず、何も余計なことを考えず好きに呼吸できる、と。自分が好きで産んだくせに何言ってるんだと言われるかもしれないが、それが本音だ。
自分が好きで産んだ、自分で選んで産んだ、まさにそうだ。でも、24時間356日、ひたすら付き纏われていると、どうやっても「独りの時間」を思ってしまう。それまで禁じられたらとてもじゃないが息ができない。
ほっと自分の時間を自分の好きに呼吸出来て初めて、私は私の周囲の者を大事に扱える。どっちが欠けても私はバランスを崩す。

夜の闇はいつでも、境界を曖昧にして溶かしてしまう。今目の前に柵があったとしても、それさえも闇に溶かして見えないものとしてしまう。それだからだろうか、自分が自然に抱かれている気持ちになれるのは。だからこそ、無理をしなくて済む。静かに呼吸ができる。
今夜は手紙を書き終えてしまおう。もう二通も溜まっている。ちゃんとお返事を書かなければ。


浅岡忍 HOMEMAIL

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