ささやかな日々

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2020年07月30日(木) 
ぽつぽつと、廊下に蝉が転がっている。去年の今頃といったら、息子は毎朝早起きをして廊下に落ちているたくさんの蝉を拾って歩いていた。もちろん蝉を拾って虫籠にいれても、学校に行く前にはベランダから逃がしてしまうのだけれども。でもそれが彼のいいところでもあって、私はその姿を見るのを楽しみにしていた。でも今年は。夏がない。
このまま梅雨が終わらないんじゃなかろうかとおもうくらいに。

涼しいおかげで犬の散歩は時間を遅らせる必要もなく、いつも通りの時刻に出掛ける。今日は先日出会った女の子たちが私たちを見つけて駆け寄ってきた。「ねぇ名前なんていうの?」「噛まない?」「かわいいよねー!」。三人が三人とも好き勝手に喋ってる感じで聴いていると楽しい。犬は大喜びで、地べたに座り込んで三人に撫でられるままにしている。じゃあねーと立ち去ろうとした彼女らを追いかけようとする犬。慌てて戻ってきて「これじゃおばちゃん困るよね。じゃああそこまで歩いてってぱっと隠れよう!」「それがいい!」三人が知恵を出し合ってくれる。そのかいあって犬も歩きだすが、三人がいなくなったとたんきょとんとした顔で立ち止まる。三人は物陰から必死に笑い声を抑えて見守っている。私が何度も「お散歩続きだよ!」と声をかけ、ひっぱって歩く。じゃあねー!おばちゃん、またねー!と去ってゆく女の子たち。

昨日はまたやってしまった。自分を傷つけても何の得にもならんともういい加減学んでいるはずなのに、繰り返してしまった。痛みさえ感じられない自傷は悲しい。でも、その瞬間はほっとするのだ。ああまだ赤い血が流れていると思うとほっとするのだ。おかしなもので。

このまま放置しておくと、ぴょーんと高いマンションから飛び降りたくなってしまいそうだから、親友に声をかける。ストッパーになってもらう。「いつでも連絡してね」と言われ泣きそうになる。

凹んでもしょうがないと分かっているけれど、もうしばらく凹みは続きそう。凹んで当然だよ、と親友は言ってくれたけれど、凹んだままでいることを自分に許せなくてしんどい。早く元気にならなくちゃ、早くちゃんとしなくちゃ、早く早く早く!そう急かす自分がいる。

死にたい、と、消えたい、は違う、と誰かが言ってた。違うと思う。消えたいというのは、消したいとも似ていて、自分を生まれたところから全部消してしまいたい、消えてしまいたい、自分が関わった人の中の自分の記憶全部消去したい、という、途方もない願いなのだ。不可能だと分かっていても。
誰かの中に残ったまま自分を消すのはまるで無責任な気がして。自分と自分にまつわるものすべて消去しなければ死ぬことさえ許されない気がして。


2020年07月27日(月) 
息子が種を蒔いたオクラがようやく実の徴をぽちょっとくっつけた。発見した息子が喜びの声を上げる。私は空を仰いで、洗濯物の心配をする。

凹んでいる私に彼女がそっと寄り添ってくれているのが分かる。分かるのだけれど、十分嬉しいはずなのに、それなのにそれでも、持ち上がらない自分の心に閉口する。一体どうしたら上昇してくれるんだろう、この心。かといって荒れ狂っているわけではない。ただ、重たい重たい雲が垂れ込めて、どうにもならないという感じ。じっとしていると息苦しくなるくらいそれは重たくて。だから何とかしようと思うのだけれど、動くのももう疲れて床に倒れ伏してしまう、そんな感じ。
だから試しに床に転がってみた。そうしたら不思議なことに、床がぐにゃっと凹んで私を吸い込むかのような錯覚に襲われた。ああこりゃ末期だなと苦笑した。

結局今夜も眠れず。午前三時を廻った。それまで止まっていた風が急にひゅるりと流れ始めた。ああこれは朝の徴だなと、網戸を開けベランダに出てみる。まだ地平線の何処にも気配はないけれど、それでも、この風が知らせてくる。朝だよ、朝だよ、と。

ひとが一人死んだくらいじゃ、世界は変わらない。いや、何十人何百人死んだくらいでも、世界はびくともしない。淡々と世界は廻り続ける。そうでなきゃこんな、人間の世界がこんなに長いこと続いてはこなかったに違いない。
それでも。

たかが一人。たかがひとつ。
されど、一人。されど、ひとつ。
たったひとつであってもそのひとつの生命の重さは、間違いなく誰かしらの心を傷つけ、穴をあけ。その誰かの明日は、昨日とは全く色合いを変えるに違いない。

だから思ってしまうんだ。
どうして今自分が生き残っているんだろう、って。
貴方があんな呆気なく死んでしまったのに、どうして何度も何度も自分を消去したいと試みた私の方が生き残っているのか、と。
この差は、何。

願わくば。せめて貴方が最後に見た光景が、貴方をやさしく抱きしめてくれる光景であってほしい。

さあ。朝だ。私はまた、動き始めよう。


2020年07月25日(土) 
濃紺の朝顔(宵の月)が一番好みだと思っていた。でも水色の朝顔(ヘブンリーブル―)が咲いて初めて、ああこちらの色合いの方が今の私にはしっくりくると気づいた。淡く澄んだ水色。昼過ぎには色が変わってしまいそれと共にあっという間にしぼんでゆく朝顔。たった一日きりの命。
友人からもらった花束に入っていた薔薇の枝を試しに挿してみたら、うまいこと繋がり新芽が出てきた。今日のこの陽光が、つい先ほどまで降っていた雨の粒をきらきら輝かせ、新芽を生き生きとさせている。アメリカンブルーはいつも通りに咲く。そのいつも通りにというところ、すごいなあと思う。当たり前のものなんて何もないことが分かっているからなおさらにそう思う。
遊びにやってきた女友達が珍しく酔っぱらい、結局我が家に泊まってゆくことになった。丑三つ時目を覚ました彼女が、饒舌にあれこれ、繰り返し繰り返し話をするのに、相槌をうちながらずっと耳を傾ける。きっと明日の朝に目を覚ましたら彼女は今夜のことなんてほとんど覚えていないに違いない。そう思いながらも。
それにしても今年は梅雨が長い。だからこんな、今日のような陽光が愛おしくなる。いくらでもぱくぱく食べれそうな気がしてきてしまうくらいに。

文通相手から「一通目」「二通目」とそれぞれ封筒の表に書かれたものが届く。つまり二通まとめて。一通に七枚分の手紙が入っており。最初流し読みし、その後でじっくり読む。小さめの字をぎっしり書いてくる彼の手紙は、持つだけで重い。何というか、彼がこれらを書くのにかけた時間や労力がそのまま手紙に宿っている気がする。
もう一人の文通相手さんからも先日手紙が届いた。怪我をして安静の日が続いていたと書いてあった。いつも端正な文字を書いてくる彼の手紙はだから、まだ怪我の箇所が痺れるという言葉通り、微妙に歪んでおり。珍しく短い手紙だった。
もう一通、南の方に住む友人から手紙が届く。彼女が描いたのだろう素描も二枚入っており。封筒裏面に走り書きで「何とか生きてる、描いてる」と書いてあった。あの本を読んできっと、彼女はすごく拓けたに違いない。いろんなものが拓けたに違いない。そう信じている。長い時間がかかったけれど、彼女はきっとひとつ、大きなトンネルを抜けたんじゃなかろうか、と。

空模様が刻一刻変化する。陽光が煌めいたと思っていた直後ざあっとスコールのような雨に見舞われ。雨がまた突然止んだと思えば青い空がぱあっと広がり。目まぐるしいことこの上ない。一日のうちに幾つもの天気の下を歩いている。

ねえ、あなたは今、何処にいますか。そこに、いますか。


2020年07月19日(日) 
熱いお茶を淹れる。夜がじっとりと横たわっている。
ひと一人死んだからって、世界は揺るがない。淡々と過ぎ征く。そういうものだ。それでもふと思う。そんな世界に抱かれた誰かの心には、誰かの死の分だけぽっかりと穴が開いてしまうかもしれない、と。穴を抱えたまま、そのひとはここから生きてゆくのかもしれない。だからこそ世界は、これ以上揺れないよう揺るがないよう、黙ってここに在るのかもしれない。

水色の朝顔が咲いた。赤紫や紫色、紺色の隣に、うっすら染まった水色の朝顔。それだけで美しい。思わず見惚れてしまう。6月の展示の際にいただいた花束から挿し木した薔薇の枝、まだ頑張ってくれている。このまま根付いてくれるかな、と願うのだけれど、季節は夏、いつ干からびてしまってもおかしくはない。がんばれ、挿枝。
ラベンダーが半分枯れてしまった。ちょっと具合が悪くて手入れができなかった間に。悲しい。ちょうど半分。鉢の半分が枯れた。鉢の前にしょぼんと座りしばらくじっと枯れたラベンダーを見つめる。ごめんね。そう言いながら枯れた株を引き抜く。
アメリカンブルーはそんなラベンダーの傍らで、淡々と花を咲かせている。青い小花が幾つも風に揺れる。その姿はもう当たり前のようになっているけれど、どれ一つとっても同じ花は、ない。

少し疲れた。
余分なことはもう、今は考えたくない。

嘘つきは嫌いだ。たちが悪いのは、その嘘や誤魔化しさえ、嘘や誤魔化しということを凌駕して平然と「真実」のように宣うこと。そういう輩にはもう、ついていけない。ついていこうとも思わない。昔の私だったらそれでもと思ったのだろうけれど。今はもう。
切り捨てて、ゆく。

縁は。
大事な代物だ。でも。それが足枷になるのなら、切り捨てることも大事なこと。何でもかんでも「大事だから」と抱え込んでたら、明日を迎えられないこともある。
生きてなんぼ。生き延びてなんぼ。

生きて、なんぼ。


2020年07月15日(水) 
ヨーグルトにシナモンと蜂蜜をかけて食べる。別に小腹が空いたわけでもないのに。何となく。そう、ただ何となく。ヨーグルトの味がちょっと、恋しくなった。
受刑者さんの一人から手紙が届く。運動をしていて右手を怪我したそうで。手紙の文字が歪んでいる。
ひとつ、問いかけが記されていた。それを続けた先に、受刑者である私のその先に何があると考えられますか?と。それ、とは、私が前の手紙に書いたことを指し示している。
手紙の封を開けてからずっと、この彼の問いを心の中ころころ転がしている。

私が先の手紙に書いたのは。「Yさんが今その場所でできることは、魂の殺人に遭った性犯罪被害者たちの中を滔々と流れる絶望と声なき悲鳴の共通項に、耳を澄まして、それを常に常に反芻し、Yさんの魂にまで刻み込むことだと思います」と。
これを続けた先に、何があるのか、と彼は問う。

私は。たぶん。彼のこの問いに、彼の満足がいくようには応えられないだろう。それはあなたがこれから生涯かけてずっと考え続け、探し続けなければならないことなんだと思う、と返事するだろう。無責任に見えてしまうかもしれないが、それが私の応え、だ。

被害者と加害者。そのそれぞれの立場から書かれる手紙は、時に切ないな、と思う。特に彼が、加害者ゆえに被害者である私に「何も言える立場にない」と書いてくる時、私はぼんやり心の温度が下がるのを感じる。
彼はすでにこの場所で、刑を全うすべく過ごしている。それで十分なんじゃないのか? それ以上に彼から、言葉まで彼から、奪ってしまうのは何故なのか、と。そんなことを、考えて。
そういうことを言うと、被害者なのにおかしい、と思われるかもしれないが。私は、被害者である前に一個の人間だ。人間としての尊厳を被害に遭うことによって奪われた、木端微塵にされたことのある、一人間だ。だからこそ、思うのだ。人間としての尊厳を奪う権利は誰にもない、と。奪ってはならないものなのだ、と。
いや彼は加害者で、そもそも性犯罪加害者で、私が言うところの人間の尊厳を奪い木端微塵にした張本人ではないか、という声がする。
確かにそうだ。でも、歯には歯を、と、自分がされたから同等のことを相手にしていい、とは、どうしても私は思えない。それをし始めたら、人間の世界なんて殺戮の世界に容易に変貌する。そんな、憎しみや怒りの、恨みの連鎖する世界なんて、私は望まない。

…と。話が少しずれてしまった。
私は。罪を憎んで人を憎まず。という言葉を、心の中心に据えている。そのことを、改めて確認する。罪を憎んで人を憎まず。
その為に自分が、延々と心の中自問自答を繰り返すのだとしても。

さあ。お手紙に返事を書こう。今夜のうちに。


2020年07月14日(火) 
雨だというのに律義に朝顔が咲く。陽光の欠片もないような空の下。その朝顔をいたぶるかのように容赦なく風が吹きつける。この風のせいで薔薇の葉たちはすっかり傷だらけになってしまった。自らの棘で傷つく薔薇の葉を見ていると何とも切ない気持ちにさせられる。
リカバリープログラムに一被害者として参加。今回も新たな発見があった。こういう発見があるから、対話はやめられない。
帰り道、Sさんの様子がおかしいことに気づき、彼女の住まいの最寄り駅に降り立つ。珈琲屋で彼女と向き合う。
もうぎりぎり、限界ぎりぎりだったんだろう。ひとりで耐えられる限界ぎりぎり。ぼろぼろと涙をこぼす彼女を見るのは二度目だ。一度目は展示の時。展示に寄せた私の言葉を読んでいろんなことが思い出されてしまったと彼女は泣いた。今回は、次々襲い掛かる重責にもうどうしていいのかわからないという彼女だった。
私や彼女のような体験を一度でも経ると、人間に対する信頼感が失われてしまう。自分に対する信頼感はもちろん、世界に対する信頼感、そして今言った人間に対する信頼感が、木端微塵になってしまう。彼女も私も被害から二十五年と長い年月をすでに経ているが、これら不信感は、もはや私たちの細胞レベルにまでこびりついていて、拭うことなんてできない。
男性全員私を騙しに来るって思えてしまう。どうしてもそこから離れられない。彼女は泣く。
私は、うんうん、と頷く。
それでも。歩き出さなきゃならない。歩き続けなきゃならない、私たちは生きている限り。だから、ねえSちゃん、一歩踏み出してみようよ。
珈琲をちびちび飲みながら、私たちいい歳こいて今こんな話してるなんてね、笑っちゃうね、と、彼女が泣きながら笑う。
年齢なんて関係ないわな。辛いものは辛いししんどいものはしんどい。でも、生きて在る限り歩き続けなきゃならない。だったら笑おうよ。いろんなことひっくるめて、丸ごとひっくるめて、笑ってしまおう。笑いながら、ここを越えてゆこう。ね!

こんなになる前にSOS出してくれればよかったのに。
それが出せないんだよ私、いまだに。
気づいてよかった。
気づいてくれてありがとう。

店を出る頃には外は雷雨になっており。雷がぴかぴか美しく。手を振って別れ、彼女は家に、私は電車に飛び乗った。
帰り道、Sちゃんと知り合ってもう二十五年以上が経つのか、と改めてしみじみ感じ入る。あの当時、国際電話でこちらとむこうと必死に命を繋いだ。まさか今日のような日が来るなんて、当時は思ってもみなかった。そもそもここまで生き延びる予定は、私もそしておそらく彼女も、なかったに違いない。
でも。
しぶといのだ。私達は。人間の尊厳を木端微塵にされたことがある私たちは、だからこそしぶといのだ。這いつくばってでも、今日を越えるのだ。

Sちゃんが今夜、少しでも眠れますように。
車窓の向こう流れる夜景に、私はじっと、祈る。


2020年07月04日(土) 
風がびゅうびゅう唸っている。窓を細目に開けているけれども、その窓の縁でまるで口笛を吹いているかのような、そんな音がする。一日中雨が降ったり止んだり。その間中風は唸り続け、今も。疲れを知らない子供みたいだ。
去年の夏みやさんに会いに行った時の写真を久しぶりに見返す。みやさんとはこの時が会うのは初めてだったけれど、それより十年近く前から電話では繰り返し喋っていたから、初めてという気がまったくしなかった。ああ知っている、私は彼女を知っている、そう思った。
いや、もちろん、私は彼女の声やそこで話される事柄、その背後に横たわる彼女の痛みしか知らない。それでも。何故だろうなあ、懐かしい人に会うかのような気がしたのだ。
絵描きでサバイバー。彼女は私の目の前でクレパスで画用紙を塗りたくった。青が好きだ、と言いながら、全面青に塗った。所々水色が混じったりしたけれど、まさに全面青。
私はその青の底に沈む彼女の傷を想像しながら、その絵を眺めた。
有明の海辺には蟹がこれでもかというほどいて、息子が走り回るその足音に合わせるかのように、ざざざっ、ざざざっと蠢き続けていた。
抜けるような青い空がそこにはあった。それは夏の色をしていたけれど、でも、まるで明日夏が終わるかのような気配を漂わせてもいた。もう終わるよ、もう終わるよ、と鳥が囀りながら私たちの前を横切っていった。
まだ一年しか経っていないなんて、あれからたった一年、か。もう五年も六年も前のようにさえ感じられる。歳を取るというのはそういうことなのだろうか。

みやさん。きっとみやさんとはもう、会えることはないんだろうと私は思う。よほどの機会がない限り、私が彼女のところに出向かない限り、体の不自由なみやさんと会えることはないんだろう、と。でも。
私はあの時、「またね」と言ったんだ。
理由を改めて問われてもうまく応える自信はない。でも。おのずとそう言っていた。
みやさん、病気や薬のせいで杖なしではもう歩けないし、顔半分が麻痺して水を飲むのさえストローなしでは飲めない。そんなみやさんの手は、若い頃みやさんがどれだけ美しい女性だったかを示すかのように実に美しい線を描いて在り、私はカメラを向けずにはいられないくらいそれは美しくて。
みやさん、もう会うことがなくても。きっとまた会えると私はあの時思ったんだ。心と心はきっとまた、何度でも出会う、と。
だから。

みやさん。元気ですか。元気でいますか。生きていますか。
私は。
元気です。


2020年07月02日(木) 
朝から洗濯機を三回廻す。梅雨の貴重な晴れ間、洗濯をせずして何をする、とばかりに。相変わらず風が強く、干した洗濯物はびゅんびゅん風に嬲られている。
解離なのか更年期障害のせいなのか、とにかく意識がない時間ばかり。あっという間に一日が過ぎてゆく感じがする。朝息子を送り出してから息子が帰宅するまでの間の記憶がほぼ、ない。
齋藤梓先生の著書「性暴力被害の実際 被害はどのように起き、どう回復するのか」を入手。早速頁をめくる。これは、被害に遭ったことのないひとが読むのはちょっとしんどいかもしれないと思いながら見つめる。私から見るとそれは当たり前なのだけれど、その私のいう当たり前を当たり前としていない人たちから見たら、これは、かなり読み進めるのが大変なんじゃなかろうか。そのくらいリアルに被害について記されている。貴重な本だ。性暴力について知りたいというひとにはうってつけの本だと思う。休み休み読めばいいだけ。

息子と犬と散歩に出た夕方。犬が草を喰らっていると、バッタがびょこびょこ飛び出してきて、息子が慌てて捕らえる。写真撮って、と言うので持っていた携帯でぱしゃり。それが終わると息子はさっさとバッタを逃がしてしまう。「元気でねー、またね!」なんて言いながら。息子のこういうところが、私は好きだったりする。
散歩の道途中に、電線も何も遮るものがない、すこんと抜けて空が見渡せる場所があり。今日もそこを通る。あまりにきれいな水色の海の中に白い月が浮かんでいるのを見つける。息子に教えると、「でっかいねえ!」と。ねぇ母ちゃん、どうして月はいつ見ても僕のことついてくるんだろう? どうしてだろうねえ。なんて会話をしながらてこてこ夕暮れた道を歩く。

就寝前、いつものくすぐりと相撲。くすぐりは二回。「母ちゃん本気出してよー!」と言われたけれど、くすぐると全身でげらげら笑ってくねくねする息子の足や手を避けながらくすぐり続けるのって結構至難の業だったりする。それだけで実は汗だくになる。
でも。ひとしきり儀式が終わって彼のおしゃべりが尽きると、こてん、と寝てくれるからありがたい。息子よ、いい夢を。


浅岡忍 HOMEMAIL

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