ささやかな日々

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2020年06月28日(日) 
朝から土砂降り。見事に降るのでちょっと見惚れてしまった。そんな雨も午後には止んで、空がきらきらしてた。
朝顔は息子が植えたものから順に花を付け始めている。今日で四つ目。ハダニにやられ葉をすっかり落してしまった薔薇の樹から新芽が少しずつ出始めている。アメリカンブルーは雨の中でも花を開かせ、午後の明るい日差しの中風に花を揺らしている。今心配なのはラベンダー。ちょっと元気がない。水をやりすぎたか?

手放す時を間違えてはいけないな、と改めて思う。心が何処かで「それでも、それでも」と言って手放したがらないのが聞こえる。でも。
それじゃだめなんだ。もう、手放す時期なんだよ。私は心の中で何度も繰り返す。

プールから帰ってきた息子が「僕は一生、6級受からないんだ、だめなんだ!」とぶーたれるので、家人とふたり、「ダメな時ってあるんだよ。そういう時も辛抱して練習してると、いつか受かるよ」と言い聞かす。
本当に。ダメな時ってあるんだよ。ダメダメな時というのが。そういう時は何をしたって駄目なんだ。石の上にも三年、って言葉があるんだよ、息子よ、辛抱してそれでも努力し続けた先に咲く花っていうのがあるんだよ。
とはいっても、その時はそこしか見えていないから、なかなか気づけないのだけれども、ね。それもそれで、わかる。

一日中ぼんやりしていた。意識がぼんやり。家族でゲームをしていても、ゲームに集中できず、ぼんやりぼんやり。「母ちゃん、順番だよ!」という息子の声さえ聞き逃すほど、ぼんやり。

犬と散歩していたら、もう暮れ始めたはずの西の空がふわあっと明るくなって、雲が、伸びてきた陽光に照らされて輝いているのに気づいた。一瞬立ち止まって見上げる。でも、犬がすかさず私をひっぱって、「俺、匂い嗅ぎたいの。立ち止まらんといて!」と言うので仕方なく歩き出す。ねぇ、たまにはさ、時々でいいからさ、立ち止まって10分15分、並んで空見上げるっての、どう? と声に出して犬に言ってみる。が、もちろん犬は私の言葉をスルー。完全にスルー。
ま、そんなもんだよね。

明日は今日よりもっと、いい日でありますように。


2020年06月26日(金) 
「人間万事塞翁が馬」「災難に逢った時は災難に逢うのがよいのでしょう。死ぬときには死ぬのがよいのでしょう。これは災難を逃れる妙法です」と。葉書に知人が書いてきてくれた。繰り返し読みながら、本当にそうかもしれない、と思う。

 恩師から電話が入る。皮膚病にかかって九度越えの熱を出した、と。ホームが大騒ぎだった、と。左手しか動かせなくなってからの先生の衰えは激しい。今すぐにでも飛んでいきたいのだが、それが叶わぬ距離。早く息子の学校が午後までになってくれるといいのだけれど。そうしたら何とか行って帰って来ることができる。それまでは、辛抱。
補聴器が壊れて数か月、先生の声はますます大きくなって、かつ聞こえ方が極端になって、おそらくは私の声はほとんど先生に届いていないに違いないと思われ。歳を重ねるというのはそういうことなのだな、と深く頷く。先生とは四十の歳の差。今年先生は九十。長く生き過ぎた、というのが最近の先生の口癖。こんなに生きるとは、と、かかか、と苦笑する先生に、まだ生きててもらわなきゃ困るからね、と畳みかけるのが私の役目。
おまえがもっと近くに住んでたらなあ、近くにいたらなあ、もっと楽しいだろうなあ、と言う先生にかける言葉が思いつかなくて黙り込む。私も、もっと近かったらすぐにでも飛んでいけるのに、と思うけれど、言えない。

S先生と次回の加害者プログラムの打ち合わせ。やはりメールのやり取りだけでなく実際に顔を合わせると新たに生まれるものがあるよねと実感。ここはこうして、あれはああして、と話し合いながら、次回のテーマを絞り込む。前回の別の曜日のプログラムへの返信も頂戴した。読み込んでまたお返事しなければ。

家人と息子が冗談のように「最近母ちゃんの愛が足りない!」と喚いている。しつこく喚くので「愛はあります!愛がなけりゃご飯なんて作りません!」と言い返すとすかさず「ご飯は別物!」と返って来る。いやいや、君たちね、毎日ご飯を作るって大変なんだよ? 栄養考えて、冷蔵庫の中身確認してメニュー決めて作ってって、君たち知らないだろうけど大変なんだよ? 私は心の中、言い返したいのを我慢して呟く。

今朝朝顔が今年初花を開かせた。息子が朝起きて一番に声を上げた。「朝顔咲いた!うわーい!」。待ちに待った花が咲いて嬉しそうな息子の表情。よかった。朝顔よ、ありがとう。

展示の最後、会えると思っていなかったひとたちに立て続けに会うことができた。奇跡のような数日だった。どつぼに落されたと思ったら、直後拾い上げられた、そんな気分だった。
いいこともありゃ悪いこともある。悪いこともありゃいいこともある。生きていれば、そんなもん、さ。


2020年06月18日(木) 
途方もないことが降りかかって、その理不尽さに呆然となってしまった。一体これをどう切り抜けろと言うんだ、と、一瞬喚きたくなった。なのに。
それをこちらに吹っかけてきた相手に対し、私は怒りを覚えなかった。怒りというものが欠落しているのは自分にはよくあることだけれど、ここまで理不尽なことをされてもなお、怒りがわいてこない自分に、正直絶望した。
でも。
そんな私の隣で。友人が怒り狂ってくれた。

何だろう、ぼおっと、怒り狂う友人を見つめていたら、ああもういい、大丈夫だ私は、と思う瞬間があった。こんなにも私ごときの人間の為に全身で怒ってくれる友人がいるというだけで、私はもう、十分だ、と思えたんだ。

だから、もういい。手放すことに決めた。

これ以上この件で、自分の「今」が蝕まれるのは、私は望まない。私にとって「今ここ」と「家族」が大事。そのどちらもが侵される可能性があるのなら、そんな代物、とっとと手放してやる。それがひとから見て、「どうしてそんなこと」と思えるような事柄であっても。

昔は。優先順位をつけるのが嫌いだった。どれもこれも全部、大事だった。どれが一番とか、考えることができなかった。考えることを拒否していた。どれが一番でどれが二番、なんてつけてしまったらいけないと思っても、いた。
でも。
今は違う。

友よ、ありがとう。私の為にこんなにも怒ってくれてありがとう。怒り狂ってくれてありがとう。おかげで私は、この場を離れることができそうだよ。
きっと時々思い出して、唇を噛んでは悔しくなることもあるだろうけれど。それでも。後悔はしないと思う。後悔しないくらい一生懸命やってきた自分を知っている。それをちゃんと見続けてくれていたあなたを知っている。あなたも家族も、ちゃんと私を知っていてくれている。

だから。明日はちゃんとまた、笑えるよ。


2020年06月16日(火) 
日記を書こうとして、今日という時間を辿れない自分に気づく。時々こういう状態に陥る。陥るとやっぱり凹む。いくら解離が酷いからってまともに時間を辿れないのは悲しい。でもそれが現実。
記憶の断片は。朝写真を撮ったこと。久しぶりに朝の写真を撮ったからかもしれない、覚えているのは。ちょうど太陽が昇り始めたところで、あ、今のうちに、と思ったのだ。太陽の上に真っ黒な雲の塊があって、太陽とその雲のコントラストが美しかったことを覚えている。
それ以外のことが辿れない。今日は何を誰と食べたのか、とか、今日は一体何をしていたのか、とか、そんな「当たり前」と言われることがことごとく辿れない。そもそも今日が何曜日で何日だったのか、スマートフォンの日時を見てようやく納得する次第。

見事な記憶の欠落にため息をつきながら、とりあえず犬にトイレをさせる。犬が私の手をぺろんと舐める。きれいにしたトイレに早速ぺたんと座り込む犬。頭を二、三度撫でてやる。二、三度のつもりが、彼がぺろんと腹を見せてひっくり返ったので、延長。しばらく腹と顎の下を撫でてやる。くかぁっと欠伸をする犬。
風が強くて開け放した窓から窓へ冷気が流れている。壁に貼り付けてある息子の絵が、ひらひらと闇に舞っている。

SNSは相変わらず賑やかだなと何となしに眺める。眺めるのだがちっとも頭に入ってこない。たぶん私の心がここに在らずだからなんだろう。眺めるのを諦めて目を窓の外に移す。
耳を澄ますと近くの動物園からだろう、動物の鳴き声が途切れ途切れに聞こえる。そういえば中島みゆきに「真夜中の動物園」というタイトルの歌がなかったか。聞いた覚えが微かに残っているのだが。

とにもかくにも、今日はあと数分で終わる。覚えていない今日はあと数分で終わる。それでいい、もういい、十分だ、生き延びたんだから。
明日また生きればいい。今ここしか生きられない生き物なんだから。今ここ、を、精一杯生きればそれで、いい。


2020年06月15日(月) 
 我が家の朝は相変わらず早くて、午前四時には始まる。息子と家人が犬の散歩にでかけ、その間に私は繰り返し洗濯機を廻す。ここしばらく雨で洗濯が溜まる一方だったのを、とにかく片づける。
 二人が帰ってきたら今度は朝食と珈琲の準備。犬のご飯も。あっという間に時間が過ぎてゆく。
 カブトムシは四匹目も無事羽化し、現在虫籠が四つ並んでいる。残念ながら二匹の雄の羽根が曲がって乾いてしまった。可哀そうにと思うけれども、無事羽化しただけでもよかったということか。何せ紙コップの中で羽化したのだから。
 朝顔は元気に弦をぐんぐん伸ばし絡ませている。でも、向日葵は今日も一本ぐでんとひしゃげてしまった。オクラとコンボルブルスは何とか頑張ってくれているのだけれど。薔薇の樹のひとつに葉ダニがびっしりついてしまって葉の色がすっかり変わってしまった。細目に薬を噴きかけていたのだが、だめ。指で必死に拭う今日この頃。
 カウンセリングで、先週、こんなことを話した。何からそういう話題になったのかを思い出せないのだけれど、被害直後、私は恐怖と無力感にずっぽり呑み込まれた、と。「怒りはなかったの?」と問われたが、怒りは、なかった。何故怒れるんだろう? そこがいまだ私にはわからない。
 そして、「被害直後の恐怖と無力感を引きずりながら、それでも上司にSOSを出したにも関わらず受け付けてもらえなかったこと」が私を「絶望」させた、という話になり。カウンセラーが「もしかして、被害よりも、被害後の方が衝撃が大きかったということなのかしら?」と問うてきたので、考え込んでしまった。
 被害直後の恐怖と無力感、これはもうどうしようもなく巨大で、私を圧死させるに足るくらいの代物だった。でも、それでも私はSOSを出した。必死の思いでSOSを出した。にもかかわらずそれがはねつけられたことで、私は絶望したのだ。私の世界は木端微塵になったのだ。
 被害で受けた衝撃と、被害後受けた衝撃とを、比べることなど、できない。ただ、被害後受けた衝撃によって私の息の根は止まったのだ、とは思う。

 怒り。被害に遭い怒りを覚えるひとというのは、何処でどう、怒りを持つことができるのだろう? 私にはいまだ、被害から二十数年を経てもまだ、それが分からない。怒りを持つにはどうしたらよかったのだろう、と今も悩んでいる。
 怒りを持てたら。
 もっと回復がしやすかったんじゃないのか?って思うからだ。怒りを持てたら、そのエネルギーでもっと容易に前に進めたんじゃないのか?と思うからだ。
 実際はどうなんだろう。

 私には。怒りを持つ術が、なかった。


2020年06月11日(木) 
 あまりに風が強くて窓もまともに開けていられない。丘の突端に建っている我が家、吹き付ける風がぶつかり合って細目に窓を開けていても壁に貼っているあらゆるものが翻るという具合。参る。
 ネモフィラは全滅しそうだ。息子とふたりプランターの前しゃがみこんでがっかりする。せっかくあそこまで育ったのにね、と言い合う。それに反しコンボルブルスや向日葵は必死に葉を伸ばし懸命に立っている。ありがたいことだ。朝顔は弦を順調に伸ばし、この強風にも負けじと絡まり合っている。
 カブトムシ四匹のうち三匹までが羽化成功。雄、雌、雄の順に羽化。残り一匹、さてどうなることか。無事に成虫になってくれることを祈るばかり。それにしても。友達のところはまだ蛹にさえなっていないと聞いた。うちはフライングか? にしてもフライングしすぎでしょ、と息子と顔を見合わせる。カレンダーはまだ六月。
 雨が降ってきた。粉のような雨。唸る風に乗ってあっちこっち飛び回るから、これ以上窓を開けていられずすべて閉めた。一気にむわっと部屋の中が蒸し暑くなる。仕方なく、家人がいないことをいいことにクーラーをつける。
 分散登校。何とか今日まで続いてる。でも、学校からは、放課後友達と遊んだりしちゃだめというお達しがきて、息子が困っている。遊び盛りの二年生に一体何をして過ごせというのだろう、と心の中思わないではない。これもコロナだから仕方がないと流せばいいのだろうか。私はそんな容易に流す気持ちになれない。
 伊藤詩織氏が提訴した件を受けて、SNS上に彼女を応援するメッセージが溢れている。彼女を支持します、連帯します、というメッセージ。声をあげなくちゃ、ひとりにさせちゃいけない、とみなが口々に言い、そのメッセージが掲げられている。
 それをぼんやり眺めながら、時代は変わっていってるのだな、としみじみ感じている。私がネット上に性犯罪被害の体験記をアップした頃は、こんな空気、あり得なかった。嘘つき呼ばわりは当然、セカンドレイプ発言が後を絶たず、結局私はサイトを閉じた経験を持つ。三年踏ん張って、アップした三年後に削除した。丸ごと。

 時代は確実に、ちょっとずつかもしれないけれども確実に変化し続けている。それはとても素敵なことだし、応援したい。
 でもそれと同時に、性犯罪者にGPSを装着義務というニュースが流れ、複雑な気持ちになる。卜部敦史監督が描いた映画「SCOPE」と似通った世界が現実になろうとしている今。それは本当にいいことなのか? どうなのか? と、私は自問自答し続けている。


2020年06月08日(月) 
 ようやく完熟の梅が出回り始めたので購入。早速息子とヘタ取りを為す。楊枝でちょんっと突くだけで容易に取れるヘタ。こんなに簡単にとれちゃうの?どうしてないのもあるの?息子の疑問は尽きない。梅のジャムは甘い? うーん、甘酸っぱいかな、梅だから。ふぅん、ジャムなのに? そうだよ。変なの! そうか、息子にとってはジャムは甘いものなのかとこの時知る。私は甘酸っぱいジャムの方が好き。
 ヘタを取り終えたらあく抜き。ひたひたになるくらいたっぷりの水に浸して一晩置く。明日になったらまず水をよく切って、砂糖をまぶしてしばらく置いて水分が出てきたらとろ火で煮込む。という具合。
 砂糖を加えるのは最後の最後でいい。息子用と私用と別に作ろうかななんて思いつく。その方がいいかもしれない。
 本当は、梅ジュースも作る予定だったのだけれど、今年はそこまで手が回らなそう。諦めた。
 息子のマスクの内側がほつれてきたので、百円ショップで布を買い、再びちくちく縫う。黄色いクレヨンしんちゃんの布があったのでそれで作ることにする。息子は顔が小さいから、小さめのマスクを。
 カブトムシは、外側の殻が少し透けて中が見えるくらいになっている。息子が顔をくっつけながらじーっと、ひたすらじーっと見つめ観察している。時々指でちょんっと触って蛹がぐいぐいっと動くのを確かめている。母ちゃん大丈夫、みんな生きてる。息子がにまっと笑う。
 ネモフィラの芽はひょろひょろと伸びたのに、すべて水と風に倒れてしまった。これは全滅かもしれない。悲しくなってプランターの前にしゃがみ込む。隣の向日葵は何とか育っている。コンボルブルスも順調。何故ネモフィラだけが。悲しい。
 息子のオクラは本葉を拡げている。でも、何本が倒れてしまった。私たちの水のやり方が豪快なせいかもしれない。これでも気を付けて優しくやっているつもりなのだけれど。息子と二人顔を見合わせ、しょぼーんとした表情になる。僕のこと嫌いなのかな、オクラさんは。息子がそんなことを言い出すから、そんなことないよ、淘汰されただけだよ、自然のなりゆきだよ、と慌てて全力で否定する。
 犬の散歩はどんどん遅い時間に。陽射しが強すぎてうちの犬はすぐバテるから、せめて暑さが和らいだ夕方以降じゃないと。でも、そうして暗くなってから散歩すると、彼は大好きな桜の落ち枝を探してはがしがし食ってしまう。暗くて私が確認できないのをいいことに、もう勢いよく次々食べる。あんまり食べるので、知り合いのこれまた犬の散歩の方が「よっぽど桜の枝好きなのねえ」と呆れている。
 この間のカウンセリング。不思議な感覚が残っている。幼い頃に穿たれた楔が、ひとつ、ふっと消滅したような、そういう感じ。しかもそれは、無理矢理抜かれたわけでも何でもなく、私が手放した、そういう感覚が強く残っている。
 そう、サイン帖に書かれたあの言葉がずっとずっと、幼かった私の心に刻まれて、それはずっと血を流し続けていたんだ。「あなたは何でもできるから、できない人の気持ちが分からない」「あなたはひとの半分以下の努力で満点とれてしまうから、努力してもできないひとの気持ちが理解できていない」「もっとやさしくなりなさい」。とある先生からの言葉。
 私は。
 私はそんなに冷たい人間なのか。努力してる人のことを理解できないような人間なのか、気づけない人間なのか、そんな最低な人間いる価値もない。―――幼かった私は、先生からの言葉を真っ向から受けて、自分を、最低で居る価値もない人間、と定めてしまった。あの日からずっと。
 でも。本当に、そうなの?
 努力してなかったわけでも、努力がひとの半分で済んだわけでもない。私は見えないところで努力していただけで、それが気づかれなかっただけで。
 幼かった私は、自分を認めてやることがまったくできなかった。先生からのその言葉を抹消面から受け止めて、傷付いて、身動き取れなくなってしまった。
 でも。
 違うんだよ。私。いいんだよ、もう。あなたがあの頃置かれていた環境についても、あなたの陰の努力についても、私がちゃんと知ってる。今なら言える。ちゃんと認めてあげられる。だから。
 もう泣かなくて、いい。


2020年06月04日(木) 
 まるでスイッチが切れたみたいに、数時間睡眠を貪った。ばたり、と布団に倒れ込んだその瞬間意識がすでになかった、と言っても過言ではない。そのくらい、張り詰めていた気が突如切れた。
 おかげで、目が覚めた瞬間爽快で、この爽快さが続くならもっと布団に丸くなっていてもいいんじゃないかとさえ思えてにんまりした。もちろん起きたのだけれど、それまでうっすらグレートーンの中に在った世界が、一気にフルカラーになったかのような鮮やかさでもって立ち現われた。ちょっとびっくりしながら、でも、まぁこういう日もあるよな、なんて無理矢理自分を納得させ、とりあえずやれることにとりかかる。
 息子は分散登校四日目。学校はあまり楽しくないようだけれど、友達に会って遊べるのはたまらなく嬉しいらしい。友達と遊んでくる!と言う時のあの、弾けんばかりの笑顔。こちらまで楽しく嬉しくなってしまう。
 搬入を二日後に控え、最終チェックの段階。でも最後までプリントで悩んでいる作品が一つある。納得がいかないのだ。こうじゃない、もっとこう、目が立つような、そういう仕上がりにしたいのに、それができないでいる。粒子の目が寝てしまうのだ。昔の銀の含有量が多かったあのフィルムと同じ仕上がりにしたいのに。あのフィルムが生産中止になって以来、私の写真の状況はずいぶん変わった。変えなければならなかった。仕方がないこととはいえ、いつもこの、仕上がりの粒子の様子には悩まされる。最後この一枚。一枚が決まればそれで完了なのに。くそっ。
 そして明日は自分の誕生日。かつ通院日。これで半世紀生き延びたことに、なる。あっという間だったような気もするし、とんでもなく長い時間だったような気もするし。どちらでもあるというのが正しいんだろうと思う。
 二十代に入ったばかりの頃、私は自分は三十代前半で死ぬんだと思っていた。思っていたというか、そう信じ込んでいた。長生きなんざくそくらえ、冗談じゃないと思っていた。それが三十代後半になり、死に損ねて、四十代を迎え。四十になってはじめて、年齢が自分についてきた、そういう実感があった。ようやっと自分と年齢が噛み合ってきた、というか。
 そして五十。ちょっと信じられない。五十年も生きてきたのかと思うと、ぼーっとしてしまう。まだ全然実感が沸かない。別に早死にしたいわけじゃ今はないけれど、でも、自分の身体を自分でちゃんとコントロールできるうちに死にたいものだとは思う。最後までそうであるために、運動は適度にしておかないと。
 ネモフィラの芽が、強風に負け、ほとんどが根元から折れてしまっている。丘の端っこに建つ我が家の風の具合は半端ない。可哀そうに、と撫でてみるがもとに戻るわけもなく。ごめんね、と言いながらそっとプランターを端に寄せる。ひとつでも生き残ってくれる芽があるなら、それだけでも育てたい。
 朝顔は、息子の芽がもうぐいぐい伸びて無事弦が絡まり始めた。私のは、まだ。向日葵は向日葵で、ダメになった子三つほど、他は何とか無事育っている。コンボルブルスは今のところ大丈夫そう。
 空が霞んでいる。ぼんやり輪郭線が蕩けている。暑さのせいか、それとも埃のせいか。どちらだろう。もう少ししたら犬の散歩に出掛けなければ。とりあえず白湯を一杯。


2020年06月01日(月) 
 酔っぱらって帰ってきた家人が布団に潜り込んできた。息子は「重いよお!」と叫んで布団を飛び出していった。家人の布団の方に転がっていったらしい。残された私の方に家人の足が乗っかってきた。これこそ重い、だ。だから跳ね返して私の足を乗せ返してやった。そしたら今度は家人が「重い重い、これは重い!」と重いを連呼。むかついたので足に重みをつけてぎゅっと押してあげた。
 朝起きると、義母からメールが届いている。家人と喧嘩をしちゃったの、謝っといて、と。謝るなら自分で直接謝るべきだろうにと思いつつ小さくため息。私は厄介ごと引受人ではないのだ。そんなことを思いながら洗濯機を廻す。
 分散登校が始まって二日目。今日は午前中のみの登校。いつになったら通常の態勢に戻るのだろう。この数か月ですっかり学校から遠のいてしまっている息子は、朝からぐずぐずしている。まぁ今更「学校だよ」なんて言われたって嬉しくないよね、と私も心の中頷く。
 朝顔の弦が伸びてきて、いつのまにか自ら絡まり始めている。コンボルブルスは順調に本葉を拡げ始めた。植物の成長は本当に早い。こちらがちょっと目をそらしていると、その間にあっという間に姿を変えてしまう。気づかない私たちのことなどちっとも気にしていないかのように。そうやって淡々と、営みを続けているのだな。
 今週末は搬入・設営が待っている。その準備でこのところばたばたしている。プリントが最終的に気に入らなかったり、パネル貼りが微妙にズレたり。そのたびすべてやり直し。搬入には間に合うのだろうけれど、それでもちょっと気が立っている。
 久しぶりに友人から電話。あなたのこと好きなんだよねぇ、と言われる。別に性的に好き、じゃなくて、こう、ひととして好きなのよぉ、と。恋じゃないのよね、むしろ愛なのよねえ、としみじみ言われると、こちらもこちらで「そうかあ、ありがとねー」と応える他思いつかない。こそばゆいというか何というか。
 そういえばあなたってこれまでも同性から好きだとか言われたことあるでしょ、と突っ込まれる。まぁないわけじゃない、と応えると、やっぱりねーと彼女。男前だもんねー。え、そうなの? え、自覚ないの? ・・・。
 そんなこんなで一時間近くおしゃべりをしていた。家族以外とこんなに長くしゃべるのはどのくらいぶりだろう。これからもとに戻ってゆくのだろうか? それとも。
 家人と息子がポケモンGOをし始めたのは気づいていたが、ふたりがくすくす笑っているのでどうしたのと問うたら、「母ちゃん、カビゴンに似てるって!」と嬉々として息子が教えてくれた。どうも家人が言いだしたらしい。よく見せてもらうと、とんでもなくおデブなポケモンではないか。
 「カビちゃんのお顔がかわいいんだよ!」と言い訳のように主張する家人を張り倒し、今後カビちゃんなんて呼んでも返事しないからね!と宣言。まったくもってうちの家族はろくなことを思いつかない奴らなんだから。失礼しちゃう。


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