てくてくミーハー道場

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2013年02月28日(木) 春のやつが来る前に

(本当は3月1日、映画版『レ・ミゼラブル』を観る前の時間つぶしに書いた日記です)






やっておきたいこと、やらねばならなかったことがてんこ盛りだったのだが、例によって漫然とすごしているうちに、2013年も春がご挨拶にきてくれました。



花粉です。

そして、南の強風です。



ようこそ、春。

あーかゆいね、今年も(←ご機嫌ななめな52歳)

そして、雨が降り出したね。

傘持ってないね(怒)

でも、給料出たし、仕事は一段落ついたし、明日は休みだし、猫はかわいいし(←)、幸せといえば幸せ。

ふと見ると、土日月火と4連ちゃんのチケットが今わたしの手に。(おいっ! byつれあい)

手始めに、今日はこれから映画を観るよ(1000円Dayなので)

帰ったら、こないだの『しゃべくり007』を編集しなくちゃ。

あれでますます喜矢武さんが好きになったよ(≧∇≦)←なぜだ

さて、あと30分か。

『淳子の部屋』でも視よう。





映画が始まるまでの時間つぶしで更新しているので、まったく中身のないエントリになってしまったことをお許しください。




2013年02月22日(金) 禁断症状

猫の日ですね。

最近うちの近所、夜になると猫が盛んにさかってる(←)

春ですね。

普通の人は「うるさい」と思うのかもしれないが、ぼくはあの声を聴くと(←STOP!)



・・・おいっ!(怒)

違うよ!(←何が?)あの声を聴くと、どこで鳴いてるのか気になって極寒の中鳴き声の主を捜しに行きたくなって困ってると書こうとしたのだ。

どんな猫でも、一応顔を見てみたい。

エサで釣るというのは社会人のマナーとしてできないので、数分間ぶらぶらと近辺をさりげなく捜索してみるのだが、会えたためしがない。

向こうにも、人間に対する警戒心があるからね。



しかたないから、猫カフェで猫不足を解消したいところなのだが、最近は時間がなくてそれもできてない。

・・・あと一週間猫に触らないと、挙動不審になってしまう自信がある。

来週はとるものもとりあえず行きつけの猫カフェに行ってやるぞ。

そのためには、今抱えている仕事を片っ端から片づけなければ。

それと、早くも本棚から溢れ出してる書籍類をきちんと分類して、本棚に収まらない分は泣く泣く×ック○フに売らなければ。

・・・やることたくさんあるじゃねえか(泣)



ゴールデンボンバー演奏しろ!(←???)

・・・あ、すみません、ゴールデンボンバーの作業用BGM流しながら書いてたもんで。

そうだそうだ、Blue-rayレコーダのHDDの中身(特にゴールデンボンバー出演番組)も整理しないと。

『TORE』は何度視てもおんなじところ(って、どこかはおわかりですね)で失笑してしまう(「ひ○は○めは忘れろ!」by喜矢武さん/笑)よくカットされなかったもんだ(^^ゞ

『さんまのまんま』は予想していたよりずっと良かった。

思ってたよりさんちゃんが金爆をバンド扱いしてくれたことに感動。

ミュージシャンの友達が多いからかしら?

もっと斜め方向からメンバーをいじると思ってたのよね。

話の中で興味深いと思ったのが、事務所としては金爆を「サザンみたいな売り方をしたい」らしいこと。

デビュー曲(つっても金爆の場合、くどいようだが未だインディーズ)はコミックソングみたいなノリノリ曲だったけど、それがひとしきり落ち着いた後に出した佳曲バラードでアーティストとしての地位を確立した。

60年代生まれより年上の人なら知らぬものはいない“サザンオールスターズが一流アーティストになった一連の流れ”――そういう方向に持っていきたいらしい。

つまりキリちゃんが「いとしのエリー」ばりの名バラードを書けるかどうかが着目点となっていたが、ぼくに言わせりゃとっくにその曲はできている。

「春が来る前に」がそれである(このほかにも金爆には良いバラードはいっぱいあるが、ぼくは特にこの曲が一番「へぇ〜?! こんな曲あるんだ!」というインパクトを与えると思う)

時期的にも、今ぐらいから3月前半ぐらいにかけて売り出すのに最適な曲である。

つうか、今ぐらいの時期から売り出さないと、また来年まで売り時を逸してしまうこと請け合いである。

実にもったいないので、何とかならないだろうか。

『ミュージックステーション』(←なぜ名指し?)でこの曲を歌うことができないだろうか。

いえね、曲間のパフォーマンスをことさら強要期待されない音楽番組っていったら、『MS』しかないからさ。

・・・だが、今年前半は歌活動を控えるという去年の宣言が、ここへきて足枷となるとは!

惜しい。実に惜しい。←お前は事務所の人か!

インド行ってる場合じゃないよ、鬼龍院さん。(いや、行ってもいいけど)


2013年02月16日(土) 『アンナ・カレーニナ』(ル テアトル銀座)

ぼくが個人的に、一路真輝の一番の当たり役(このアンナほど一路真輝に似合いの役はなく、一路ほどアンナを的確に演じられる女優は現在の日本のミュージカル界に存在しない)だと思ってるのが、このアンナ・カレーニナであります。

初演、再演ともちろん観ておりますが、今回の三演目でどうやらファイナルらしい。

なんで? 超ハマり役なのに。

と残念な気持ちです。




原作はご存じトルストイの長編小説でありまして、絵に描いたようなものぐさのぼくが、いやがらせのように文字数が多いロシア文学なんか読破するわけもなく、原作はもちろん読んでおりません(←恥ずかしげもなく自慢げに書くな!)

いやまぁ、長編ロシア文学であると同時に、「激情的な愛に生き、死んだ女の物語」だと思ってたから、大恋愛モノアレルギーのぼくとしては、のっけから全く食指が動かなかったんです。

だが、ミュージカルミーハーであるおかげでこの初演を観て(昔タカラヅカでも上演されたんだが、何か都合が合わない時期で、観られなかった。けっこう評判良かったらしいんだが)

「そうか、ぼくが思ってたほど、アンナが激愛に突っ走ることを礼賛した話じゃないんだ」

と思い至り、気に入りの作品の一つとなりました。

すごく田舎のおばちゃん的道徳観で申し訳ないんですが、結局「若さと情熱で突っ走って、世間への配慮(なんて要るかは分からないが)を失くした行動は、しょせん幸せに成就しない」ということなのね、と思ったわけです。

だからと言って、ぼくがベッツィーみたいな価値観の持ち主かと思われても困るんですけど・・・、あ、何を言ってるんだか分かんなくなってきたぞ、まずい。



初演以来、ぼくが一番共感してるというか、愛しくてたまらないキャラクターは、アンナの夫ニコライ・カレーニンである。

やまじー(山路和弘)の演技が素晴らしいってのも大きな要因だと思うが、鈴木裕美さんの演出(か、小池修一郎の脚本かもわからんが)によるカレーニンは、類型的な「冷たい、世間体だけを気にする機械のような夫」ではなく、「恋愛ごとに“だけ”能力皆無の、同情せずにはいられない不器用な男」であった。

こういう、地位も金儲けの能力もあり、自分を律することに長けており、人から尊敬されることが得意なくせに、「恋の仕方が分かってない」男って、大好きなんだなあボクp(≧∇≦)q(ただし、ものがたりの中に限り。現実に付き合うのは勘弁)

実際カレーニンは、元々の原作でも、単純な「妻をちゃんと愛さなかったせいで若い男にとられた間抜けな夫」ってわけじゃなく、アンナがヴロンスキーとの間に産んだ女の子を、アンナの死後、自分の娘として引き取って育てている、「変わった人」という描かれ方をしているらしい。

「変わった人」か・・・。

ぼくには解る気がするんだけどな。

アンナが産んだ娘なんだもの、自分の娘同様に愛しいに決まってるじゃないか。

それを、「自分から逃げて行った女房と、それを奪った男との間に生まれたガキ」としか思えないような男も世の中にはいる(というか、多い?)のかもしれないが、ぼくにはそっちの気持ちの方が理解できない。

またはカレーニンの行為を、「世間体ばっか気にしてるんだな」という風に考えちゃう人も、ぼくには悲しい人にしか思えない。

カレーニンが世間体ばっかだけの人じゃないところを随所に見せるこのミュージカル作品のストーリーがぼくは好きだ。

セリョージャの10歳の誕生日に、甘々しい「家族愛」の姿なんか微塵も見せることなく、父と子が二人っきりで厳格なお勉強に励む様子を見せておきながら、その中に溢れかえんばかりの「親子愛」を見せる。

セリョージャがカレーニンに抱きつくシーンは、おばさんもう、最初の涙腺決壊ですよ(T^T)

そういや再演までは、この後セリョージャが階段をのぼりながらすらすらと聖書を暗唱していたんだが、今回はただ黙って寝室へ向かって行ったな。ここはセリョージャが秀才だってことを表すシーンだと思ってたので、なくしたのが若干疑問だった。



というわけで、観客層を鑑みたのか(?)、日本版『アンナ・カレーニナ』は、アンナにしてもカレーニンにしても、ひたすら良き母、良き父であることにはとにかく全力を傾けていて、それなのに良き妻、良き夫であることが非常にへたくそで、それがゆえに彼らの幸福は崩壊するという構成のお話になっているとぼくは思っている。

アンナにしても、自分の中の“女”を満足させてくれる情熱的な男と決死の覚悟でかけおちしてはみたものの、結局精神を病んでいくのはひとえに、残してきた息子を自分の手元に取り戻したいから、という一点に尽きる。

それ以外の、ダンナが一向に離婚してくれないこととか、ロシアの上流社会からハブられたこととかは、一路アンナはさほど気にしてないように見える。

ひたすら、セリョージャ、セリョージャ、なのである。

まぁ、そんなに息子が可愛いんだったら、なんで若い男になんか走ったんだ、という言い方もできるんだけどね。

ただ、そうやって、アンナという女が、結婚しちゃった後に“本当の恋”に出会って、後先考えられずに逃げちゃうというところをフィーチャーしちゃうと、やっぱり、保守的な日本のおばさまたちには、あんまり共感してもらえないというか。

若い王子様に熱を上げて、というよりも、夫の冷たさに耐えられずに、という方がおばさまたち(←いちいちそういうこと書くと、反感買うぞ!)に理解してもらえそうではある。

一路さんは、自分から激愛に飛び込むというよりも、よろよろと流されていくような雰囲気を強く持っているので(今頃言って申し訳ないが、ぼくとしては、エリザベートは全然彼女のニンじゃなかったと思ってる。ただしヅカ時代のスカーレット・オハラはめっさ良かったと思ってるので、ぼくの感性もあてにはならないが)、彼女のアンナには、そういう「おばさま受けのいい」要素が大きいような気がする。

そういうわけで、一路さんとやまじーが自然に演じると、アンナにしても、カレーニンにしても、やや老成した雰囲気になってしまう危険性がある。

それでなのか、今回(初演と再演はそうでもなかった)裕美さんの演出では、やたらアンナの動きがオーバーアクションに思えた。

ほんまはアンナはヴロンスキーにとっても「きれいなお姉さん」ではなく、普通に恋愛対象の若い女性(ただ人妻だっただけ)だと思うのだが、そこを強く出そうとしたのだろう。

ただ、それだと、一路さんの大きな武器である“動きの優雅さ”がかなり打ち消されてしまって、シリアスに駆け去るような場面でも、なんか、ドジッ子がバタバタしてるみたいに見えてしまった。

若いころの一路さんならともかく(お、おいっ/激汗)、現在のお歳になってアレは、けっこう○○いぞ?(←こらぁ!!!)



というようなわけで、アンナとカレーニン(というより、一路さんとやまじー)の感想だけ書いてるうちに疲れてきてしまったので、いったんここで終わります。

もう一つの幸せカップル、レイヴィンとキティ(と、それを演じたお二人)についても何か書くべきだとおもうのだが、

葛山信吾・・・初演が初ミュージカルだったんだよね。ぼくも当時はご多分にもれず「歌えんの?」と懐疑的な目で見ていました。上手だったんで括目。以来、テレビドラマでも舞台でも、安心して観ていられる実力派俳優であると認識しております。

遠野あすか・・・再演からのキティ。初演のキティの新谷真弓嬢が、歌はまぁ「意外に上手いじゃん」レベルではあったが、芝居がさすがに手練れですごくかわいいキティを形成していたので、その記憶で観てしまうと、あすかちゃんのキティは、彼女の声質のせいか、なんか「きっつい」感じがする。遠慮なしに言うと、キャラがうるさい。キティって笑わせる部分も多分に背負ってるわりに、後半に向けて「女性のどっしりとした強さ」を出していかなきゃいけないので、なかなかその塩梅が難しいんだよねー。

レイヴィンとキティって、単純に「かわいいカップル」じゃいけないらしいんだ、原作では。

でも今作品では、なかなかそこから抜け出せてない気がするなー。

まぁ、この二人の成婚までをじっくり描いてしまうと、本当に大長編になっちゃうし、話が分断しちゃうからなー。難しいところなんでしょうな。



そして、ヅカでは主演男役がやった役、アレクシス・ヴロンスキー。

初演は(井上)芳雄くんで、まさしく王子王子してましたが、再演からの(伊礼)彼方は、さらに若さバクハツで、突っ走りキャラというか、『椿姫』(というかミュージカル対比だから『マルグリット』)のアルマンみたいな役作り。

女としての人生にひと段落ついた主人公の前にさあっと現れて、やけぼっくいに火をつける役、みたいにぼくも思ってたし、彼もそう演じてるのかもしれない。

だけど、上記のごとくつらつら考えてくると、ヴロンスキーって、そんな、マンガの主人公みたいなキャラではいけないんじゃないだろうか。

アンナと、カレーニンと、ヴロンスキー。

この三角形がきちんと形成されるには、ただ若くてハンサムで、貴族で財産もあって、軍人としての知力体力もあって、みたいな、条件だけが整っててもダメな気がする。

なんか、うまく言えないけど。

まぁ、やたらカレーニンの方に感情移入しちゃってるぼくだから、ヴロンスキーが「あなたたちご夫婦をひっかきまわしに来ました!」みたいなキャラに見えてしまうのかもしれない。



まぁ、こうやって、ひたすら理屈で話を理解しようとするぼくのような人間が、一番扱いにくい観客なんだろうな。

そんなぼくでも、とにかく一路さんが歌う「セリョージャ」には、嗚咽が込み上げてなりませんでした。

この曲は、彼女の2001年のリサイタルで初めて聴いた。その時は「やっぱイチロさんて歌上手いわぁ♪」としか思ってなかったのだが、ミュージカルの中で聴くと、単なる歌じゃなくて、本当に感情のバクハツなのである。

この時のアンナは明らかに幻覚を見ているのだが、一路さんがそこでこの曲を歌うと、その幻覚が、観客にもはっきりと見えるようになる。

ミュージカルの醍醐味です。

うぅ、これでファイナルなんて言わないで(涙)お願い。

まぁ、新しい役を開拓したいのだろうという気持ちは分かりますが、この役は折に触れて演り続けてほしいし、この作品自体、定期的に観ていきたい作品だと思っています。はい。


2013年02月14日(木) きさらぎの

いい感じのスパンでてくてくしつつ、仕事も若干立て込んでまいりました。

そして、哀しい出来事が続いた歌舞伎界にも、落ち込むファンの胸の痛みを慰めるがごとく、おめでたいニュースが。

菊坊、おめでとう。

播磨屋さんも、おめでとう。

平成の三之助も、これでやっと全員妻帯者か。

別に何の関係もない一贔屓だけど、おばさん、何となくホッとしました。

そして、梨園同士のご結婚というところに、なんか、菊坊らしいなぁ(三之助の中で、一番の優等生)と思ったり(まぁ彼も、過去、いろいろなかったわけでも・・・ご、ごほごほっ)

堀越んとこと、お父さんとせがれの性格が、てれこなんだよなあ(こ、こら/汗)



そういや、月乃助も結婚したんだよな。

こっちは家柄のせいか、そんなに大きく取り上げられてなかったけど、相手が何とかしげちゃん(貴城けい)だったことに実はびっくり。

そういうことに疎いもんで、全然知らんかったわ。

どうか末永く(どういう意味っ?!)添い遂げてほしいものです。おめでとうございます。

あとはラブ(ご、ごほっごほっ)←いや別にごまかす必要はないよね?

そうそう、もうだいぶ前の話題になってしまうが、あさこ(瀬奈じゅん)も噂の彼(つっても、あさこと噂になって初めて名前を知ったんだが)と結婚したんだったな。

こっちもぜひ末永くね。←偏見を持つなぁ!(叱)





いくらミーハーブログとはいえ、あまりに女性週刊誌的ネタはぼくの本意ではない。

だが、てくてく記録を書こうにも、若干溜まりすぎてて、どれから手を付けて良いのやら・・・(出たぞ、例の悪い癖が)

ああ、明日は首都圏、朝から雪かもしれないんだねぇ。

こないだ(6日)は予報通りにいかなくて、雨なのに電車の本数が減ってて駅(特にJR)が大混雑してしまったようだけど(ぼくは早朝に地下鉄で帰ったので、全く混雑に巻き込まれなかった)、結局午後からは雪になったんだっけ。

そのころにはぼくは家でのんきにテレビ視てた。申し訳ない。

今回は、雪の中出勤しなきゃならないだろうな。

電車混むかな・・・?

・・・・・・仕事しなきゃ。(←)


2013年02月10日(日) 『テイキングサイド〜ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日〜』(天王洲 銀河劇場)

題材は20世紀最大に重たい歴史的事実と関連している事件だが、作者が言わんとしているところは、時代やシチュエーションに関係なく、普遍的であり、現代に生きるぼくらにも、少なからず関係してくるものだ。



って、いきなりしかつめらしく書き出してしまったが、ほんとに、そんな、仰々しく考えるようなものじゃないとぼくは感じた。

そもそも、このサブタイトル、よくないと思う。観る人に先入観与えまくりだもの。

不明にしてぼくは知らないんですが、このサブタイトルってハーウッドの原作にもあったもの?

もし、今回の上演に際して日本側スタッフがつけたものだったら、「蛇足じゃないですか?」と言いたい。

「ヒトラー」という固有名詞に、どうしてもぼくたちは反射的にある感情をもって反応してしまうからだ。

お話は、20世紀前半のドイツの大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの「非ナチ化」裁判を描いたもので、芝居的には、彼を尋問するアメリカ人将校のスティーヴ・アーノルド少将役の役者と、フルトヴェングラー役の役者との、がっぷり四つの舌戦が見どころになっている。

テーマとしては、「芸術と政治は切り離すことができるのであろうか」というのがやっぱり一番わかりやすく提示されてると思うのだが、ぼくはもう一つ、「人が人を裁くときに、その人間の“価値”と、彼が犯した“罪”とは、切り離して考えなければならないはずではないだろうか」ということを強く感じた。

この二つのテーマは、実はナチスとも戦争とも関係ないところでも充分に起こり得るものだ。

題材がナチス関連だと思うと、どうしてもそっちに思考が引きずられてしまうのではないかとぼくは危惧した。

とはいえ、タイトルがどうであれ、内容的にはナチの大罪がどーんと中核にきてるのだが。



演出が映画監督の行定勲で、かといって、これが彼の初めての舞台演出というわけでもないのだが、ぼくは今回初めて観させてもらったので、どんな演出をするのか楽しみでもあった。

最近では、ずっと舞台畑で来ている演出家でも、ばんばん映像を使ったりするから、映像を使ったらいやだなとかいう偏見もなかった。

そしたら、彼は、一番効果的というか、悪く言うと、一番グロテスクな方法で映像を使いやがった(←言葉が汚いですよ!ておどるさん)

はっきり書いちゃうと、ナチスがアウシュビッツで行った、人類史上最悪と言ってもいいユダヤ人虐殺の映像を、アーノルド少将の悪夢として映し出したのだ。

あれを見せちゃうのか。免疫のない現代の観客に。

と、行定さんを責める気は、ぼくにはない。

彼が伝えたいことが理解できた(ように思った)からだ。

行定さんは、その映像に、フルトヴェングラーが振ってるベートーヴェン「交響曲第七番」をかぶせていた。

つまり、ぼくが思うに行定さんは、

「どうですか? この残酷極まりない風景のバックに、この大芸術家が作り出した名曲・名演奏が流れていたら、皆さん、どんな気分になりますか?」

と、大衆であるぼくたちに問いかけたかったんだと思う。

そして、その効果をいやんなるほど知っていたのが、当時のナチス中枢部の連中であって、優れた芸術家であればあるほど、そうやって利用される運命に引っ張られてしまうのだと。

かといって、芸術家にその爪を隠して生きろ、とはやはり言えない。

これって、「アインシュタインのせいで原子爆弾ができた」って言ってるのと同じだから。

でも、「芸術家(もしくは科学者)には罪はない。利用する方が悪いんだ」で、済む問題なのかな? という複雑な気持ちもあるのが正直なところ。

あの映像を見た(見させられた)とき、ぼくは『時計じかけのオレンジ』で、ルドヴィコ療法を受けるアレックスが、

「やめてくれ! ルートヴィヒ(ベートーヴェンのこと)には罪はないんだ!」

と泣き叫ぶシーンを思い出した。

甚だしい暴力的嗜好の人間であるアレックスがベートーヴェンをこよなく愛すってポイントは相当ふざけてる設定なわけだが、「芸術家には罪はないんですよ!」っていう主張は、なるほどと思ったからだ。

だけど翻れば、芸術家は、優れた芸術家であればあるほど、大罪の片棒を担がされる運命も背負っているわけだ。

それを、芸術家の一端(←失礼かな?)にいるロナルド・ハーウッドや行定勲が主張していることが、なんか奇妙だった。



さてさて、出演者たちについて。

期待はもちろん、筧利夫と平幹二郎との一騎打ちなわけでしたが。

素直なところ、筧くんの芝居が、ぼくの期待してた感じじゃなかったな。

おそらく、“芸術を理解しない、粗野な、はなもちならない戦勝国人”であるアーノルドを、分かりやすいハイテンションで演じることを、筧くんも行定さんも良しとしなかったのではないかと思う。

ラスト近く、抑えたセリフ回しでフルトヴェングラーを追いつめるアーノルドの切っ先の鋭さは良かったが、いかんせん、そこに到達するまでが長かった。

はっきり言ってしまうと、精彩を欠いてるように感じた。

なもんで、芝居の冒頭は、“名人”小林隆に完全に場がさらわれてる感じだった。

はっきり書いてしまうと、小林さんが引っ込んだ後はもう、「早く、平幹二郎出てこないかな・・・」と思ってる客だった。

舞台上では小島聖が熱演してたのに、ごめんなさい。



で、待望の(おい)平幹二郎登場。

押し出しはさすが。

決して役者としての格とかではなく、アーノルドとフルトヴェングラーの対比としてのアレだと思うのだが、この二人の“在り方”はすべて対照的。

だけどぼくとしては、筧くんがもっと卑小なアーノルドであればなぁ、と思ってしまうのであった。

最後まで観てみたら、結局、小林さんが一番すごかったんじゃね? とぼくには思えたことである(全く逆の立場の人間を演じた『国民の映画』での名演も加味されてるのかもしれないが)



残った二人の若い役者、福田沙紀ちゃんと鈴木亮平くんに関しては、悪目立ちもせず、お行儀のよいお芝居だったと思います。

・・・全然関係ないけど、鈴木亮平くんて、今度映画化される『変態仮面』で、主役やるんだね。(←!!!)

ま、まさかあの、「それは私のおいな(ピ――――――――!)だ!」をやってしまうのか? 実写で((((('−')))))

まあ、万が一にもなかっただろうが、光一さんが主演じゃなくて、本当に、よ、良かった・・・(本音/笑)

ごめん、最後こんな話で終わってm(_ _ )m



あ、じゃあ、もっと爽やかな(こら)話で終わろう。

今回、プログラム売り場のお兄ちゃんが、すっごく感じが良く、「銀河劇場のスタッフなのか? それとも主催者側の人?」と気になっていたのだが、どうやら声優の吉田智則さん(でもなんで?)と判明。

販売スタッフの愛想が良いと、それだけで客は気分がアガりますな。

意外と大事なことです。

他のコヤでも、プログラム売りとか、フライヤー配りとかを若い役者さんがやってることがあるけど、ただイケメン&可愛いだけじゃダメなんで。

恥ずかしがらずに明るくはきはきと接してくれると、心の中で「君はきっと売れるよ!」と念を送りたくなります(←ゲンキン)

そして、その念はまとまると現実化するんよ。

そんなシアターゴアーのたわごとでした。


2013年02月09日(土) 『L'OPERA ROCK MOZART-indigo ver.-』(東急シアターオーブ)

本日開幕! というか、今日明日はプレビュー公演です。

今日はモーツァルトを(山本)耕史君、サリエリをアッキー(中川晃教)のインディゴバージョン。





まーこの作品が上演されると知った時に、誰もが思ったことだと思うんだけど、エンゲキに『アマデウス』という巨大なる名作があり、ミュージカルには『モーツァルト!』という傑作ありで、その大きな二つの壁を、この作品は越えられるのか? いささかの心配は否めず。

でも、とにかく本国フランスで大ヒットした作品だし、フランス製ミュージカルといやぁこのところ次から次へと日本人も好むロマンティックな良作を生み出してるしで、きっと期待をズタズタに裏切るようなことはあるまい。

と、先入観だらけのよろしくない客として参上。

ただ我ながら偉かったのは、上記の二人以外の出演者を予習していかなかったので、そっちへの先入観がなかったこと。

純粋にまず作品の音楽のみを味わうことができました。



そんな、まっさら(でもないか)な気持ちで受け取った『ロックオペラ モーツァルト』の作品への感想は、まず、音楽と衣裳と装置はすごくスタイリッシュでカッコいいということ。

ただ、ストーリーには『アマデウス』ほどの深遠さはない(これは、セリフだけで成立するストレートプレイと、音楽が入るミュージカルとじゃ成立からして違うのだから、比べること自体がいけないんだけど)

んで、日本のミューオタ大好き(こら)なクンツェ&リーヴァイ作品の『モーツァルト!』と比べますと、第一、アッキーが出演してる時点でイメージがダブるのはしゃーない(だから、わざとアッキー=サリエリの方を選んだのだ。・・・いや実はもちろん両方観たかったんだけど、時間的金銭的事情があって叶いませんでした)

主人公・ウォルフガング=モーツァルトの描かれ方は、『モーツァルト!』まんまで、これは現代の研究家がモーツァルトの性格をほぼこういう具合のはねっ返りで享楽的な天才だったとしているので、変えようもないんだろうが、話の進み方が(まぁ史実だからしかたないんだけど)あまりにもダブっているので、心配になった。

あれだけの傑作があるのに、改めて似たようなものを作る必要があるんだろうか? と。

まぁ例えば、『モーツァルト!』(以下何度も出てきてめんどくさいので、『!』と表記)ではコロレドにサリエリの性格も含ませてあったり、父親レオポルドの比重がずっと大きかったりと、若干の違いもある(こっちにはヴァルトシュテッテン男爵夫人やシカネーダーが出てこない)

そうかと思うと、『!』では少年の姿をしたもの言わぬアマデがずっとウォルフガングの傍に寄り添っているのに対して、こっちでは“運命”という影がずっとモーツァルトとサリエリを高いところからずっと見下ろしている、という風に、ありがちな設定がすごく似ていたりする。

構成(特に第一幕)があまりにも似ているので、そこで歌われるナンバーもついつい比べてしまうのだが、こちらの作品では70年代プログレッシブ・ロックが主体で、『!』ほどバラエティに富んではいない。

ただ、雰囲気はすっごくカッコいいのだが、歌詞が抽象的すぎて、劇中歌というよりも、どこでも使えることを目指してるような、つまり、“一般的にヒット”するように作られたような感じがちょっとイヤだった。

これはぼくの勝手な決めつけで申し訳ないのだが、ミュージカルのナンバーって、セリフと同等のものじゃないですか。

その場面の状況や、その登場人物の心境をメロディに乗せるものだと思うんですが。

それを離れて、誰がどこで歌っても「一般大衆の共感を呼ぶ」みたいな、汎用性のある歌詞をつけるのって、なんかぼくはイヤで。

「果てしない時のかなたへ〜」だとか、「何者にも縛られずに生きてゆーきーたーいー♪」なんて歌詞、飽き飽きなんだよっ!(こ、こら・・・/震)

それと、ちょっとこれはどうか・・・? と思ったのは、モーツァルト本人の曲を使いすぎてる気がした点。

現代作家(今作のナンバーは、一人の作曲家が全部作っているのではなく、何人もの作曲家が楽曲を提供している)が作ったカッコいいロック・ナンバーはどれもけっこうな秀作なのだが、モーツァルトの曲が流れてしまうと、「結局、モーツァルト本人が作った曲にはかなわねぇ!」って気になっちゃうのだ(先入観かもしれないが)

要所要所で使うのはかまわないと思うのだが、その曲も、ちょっと、長く使いすぎな感じがする。

まぁせっかくプロの二期会のプリマ(北原瑠美)が出演してるので、長く歌わせなきゃもったいないってのは解るけど。




他の出演者さんたちに関して言うと、オタケさん(北村岳子)とコング(桑田)さんのソロナンバーがないに等しかったのが、もったいなさすぎ。役自体はでかいんですけど二人とも。

コロレドは、『!』ほどの大役ではなく、単純にザルツブルグでモーツァルト一家を苦しめた暴君という位置づけ。

アンナ・マリアは、セリフすらなかった『!』よりもずっと大きい役で、マンハイムとパリでヴォルフにさんざん苦労を掛けられる可哀相なおっかさん。

確かに出番は多かった(お母さんはナンネールお姉ちゃんより出番が多い)のだが、二人とも“歌いどころ”がないのに、こんな立派な役者さんをあてる必要があったのか? って失礼な感想を抱いてしまいました。

お母さんの分レオポルド父さんは『!』よりちょとだけ役が小さくなってはいたが、ソロはあるしやっぱり重要な役(ヴォルフにとってレオポルドの存在って大きいもんね)

だけど、うん、正直に申し上げます。

芝居はダイコン、歌は中途半端に下手だった(完全に、ではなく、中途半端に、ってとこが、ぼくにとってはこれまた「むぎゅう」って感じだった)

どなたでしたんじゃろ?(←わ、わざとらしい!/震撼)

あの・・・本当に全然知らずに観に行ったんですよ。だから決して先入観じゃないんです。

プログラムで確認して、「・・・え?」と絶句。

ん、まぁ・・・いろんな方がいるんだろうよね。あの世界にもね。(結局名前出さんのか。臆病者め)



ウェーバー一家は『!』とほとんど同じ性格づけで(ホントにこんなたかり一家だったんだか? 一応音楽一家だったと聞いたことがあるのだが)、ただ、アロイジアの役が大きくなってた。

アカネちゃん(AKANE LIV)は容姿にしろ歌唱力にしろ日本人離れしており(まぁ、半分スウェーデン人だし)押し出しもあるので、役的にでかくなったアロイジアにはぴったりだった。

そのアロイジアに負けずヒロインじゃなきゃいけなかったコンスタンツェ(秋元才加)は、最初誰が演じてるのか全然判らずに観てまして、歌がうまいしスタイルもいい、と感心してました。

AKBってほんと玉石混交なんだよな(←こ、こっちは勇者!)

え? いや大丈夫でしょ? 事実だし。(←ゆ、勇者・・・!)

ちょっと「・・・」だったのは、キムラ緑子さんがせっかく熱演してたにもかかわらず、とにかくセシリアのキャラクターが『!』の阿知波さんと丸かぶりだったところかな。



キャラクターでお見事だったのは、『アマデウス』での同役にも劣らないヨーゼフ二世。酒井敏也さんの個性バクハツだった。

ローゼンベルク。・・・わかる人にだけわかるように書きます。

次回こそマリア・マグダレーナ様に会いにいきます! お会いしたいとずっと思ってるんですが、どうしても、その・・・怯えてしまって(何でだよ?!)

あと、さっきも書きましたが“運命”・・・あの方が演る必然性って何なん?

バレエダンサーかモデルさんが演るべき役だと思うんだが?

そういう固定観念がいけないんですかね?




疑問点ばっかりでアレなんで、最後に、主役のお二人について。

(以下、ネタばれっす)

第一幕ではモーツァルト、第二幕ではサリエリに比重があります。

第一幕でのはねっかえりモーツァルトを観ながら、

「うーん、やっぱルージュバージョン(モーツァルト=アッキー)にすべきだったか」

と思いつつ小一時間。

この作品ではその辺はさして重要じゃない感じになってるんですが、サリエリってモーツァルトより年上だったじゃないですか。

アッキーって、実年齢と関係なく、どんな相手役でも「相手より年下」に見えるからねぇ・・・。

それと、耕史君はキャラ的に「はちゃめちゃなやつ」に見えない。

歌も芝居ももちろん充分満足できるレベルなんですが、やっぱどこか、その端正さが、モーツァルトっていうキャラクターの邪魔をしている感じ。

見た目はぶっちぎりにカッコよく、最盛期(どゆ意味?)のTERUみたいだったのだが。

そうそう、コンスタンツェとの結婚式での白い衣裳なんて目も眩むほどの美しさで、思わず後ろに倒れるところだった。後ろの人の迷惑になるから堪えたが(←)

さすがにあの美しさはアッキーには出せ(略!)

でも第二幕になると、サリエリの聴かせどころ続々で、それまでじらされてた分、アッキーマニアのリビドー(おい!)が爆発。

クセが強い声なんですけどね、ここが堪らんところなのよね(*^^*)





総合的に評しますと、ビジュアル面(上にも書いたが、衣裳と装置がめっさおステキ!)はすごく豪華でスタイリッシュ(ダンスもおステキ!!)で満足できる作品でしたが、歌詞世界に若干の疑問あり。ストーリーはさほど目新しい切り口はなく、まぁ「トリコになるほどでもないが、がっかりもしない」という感じ。音楽は『!』ほど傑作ではないが、全然悪くはない。

ミーハー的意見で申し訳なさ100%なのだが、アッキーが出演していることが最大の評価点。

とにかく、ぼくはもう観に行けないので、そんなぼくのために、同じキャストでぜひ再演(今から?!)をお願いします!

次回は逆のキャストで観に行って、もしかしたらもう1ターンしますので!

これから行かれる方には、絶対がっかりはしない公演ですので、ぜひお楽しみに、と申し上げておきます。


2013年02月06日(水) 休むつもりだったのに

今日は首都圏、今年二回目の大(?)雪という予報だったので、昨日のうちに二日分の仕事をやりきって、本日は自宅であんなことこんなこと(c インドア王子)しようと思ってたのに。



都心は雨やんか。←ご不満なのですか?



いえとんでもない。

助かりましたよね。

まぁどっちにしても、ぼくは今日は楽しい自宅待機。

昨日はいつもの山野楽器銀座本店へ参じて「アレ」(いわずもがなのモノ)を買ってきたし。

ゆっくり視ようぞ。

実際の舞台が観られるのはずっと先だし。

(今年の自分への誕生日プレゼントは、別のてくてくにしました!←毎年ながら、自分に甘いですね)





いやそれもだけど、ここんとこHDDを圧迫(こら)しているゴールデンボンバー出演番組(しかもやたらSPとかの時間拡大版に出やがるので、すごく圧迫してるのよね。ゴールデンボンバーのくせに(?)生意気だぞ!(c ジャイ○ン))を、早いとこ編集→ダビング→消去しないと。

ざっと十数時間分あるんだよな。

本人たちが出てる時間だけかいつまめば、かなり短くなるんだろうけど、それをやってる時間が、なかなかとれず。

『中居正広の金曜日のスマたちへ』みたいに、そっくり残しておける番組の方が、楽なんだよね。

う〜ん、『キンスマ』良かったな。

作家たちが、金爆についてめっちゃ調べまくったのが分かる構成だった。

血祭さんにまで会いに行ってるあたり、キンスマスタッフ自体が金爆に“ドはまり”してる感じだったな。

ちょろっと背景としてしか出てこないチョコサラミが、ちゃんと実在した「邪念」ネタをやってたり、再現VTRに出てくる役者が本人(すっぴんの研二、天さんのメイクのクオリティ!)にやたら似てたり、うぱ(ちゃんと髪がツートン!)が加入する前に見てたゴールデンボンバーのホームページの壁紙が実物のとおりだったりと、

「そんなとこまで忠実にする?!」

みたいな、オタク感満載のこだわりに胸が熱くなりました(笑)

なぜか喜矢武さんがやたらダメ人間評価だったけど、どうもそれは自己申告(キリ申告も含む)だったみたいだ。

昔のブログを読んでたので、全然そんなことないことを知ってたから、この辺りはぬるく笑って視ることができました。

あと、ぼくが最初の頃、どうしても疑問に思ってた点(なんでユタカ君は結成当時に「お前(翔くん)とじゃなきゃバンドやらない!」なんて、青春バンドマンガみたいなことを言ったのか←これは本当に言ったらしい。ここ入れてほしかったな。腐オタが増えそうだからやめたのかな?・・・ってオイ)の回答はこの番組ではありませんでしたが、去年視た『渋谷LIVE! ザ・プライムショー』でその答えをもらっていたので、そこも気にならず。

限られた時間の中に詰め込んだ割には、よくエピソードを網羅できてたと思う。

それと、メンバーがインタビューされてる画が、昔特典DVDでやってた“『○熱大陸』風”インタビュー映像で見たことある感じで、

「そういやこの人たち、昔からこういうことを“勝手にやってみて”ばっかいたんだよな・・・」

と、感慨ひとしお(^^ゞ





あとスカパー!無料放送のおかげで視ることができた(契約しろよ!)『オールナイトニッポン45周年感謝祭 ALL LIVE NIPPON』も良かったなぁ。

各アーティスト2曲ずつのオンエアというえこひいきのない構成の中で、GACKTの1曲目「REDEMPTION」にキリショーが乱入(?)した部分と「オレンジの太陽」をほぼノーカットで放映してくれた。

このシーンが当日のハイライトだったって事実に、なんかざわざわする。(←なんでお前が)

3年前には、こそこそ「Gocktさん」を演ってた人がだよ? 本人と一緒に歌って、それがその日一番の呼び物になってるなんて。

衣裳まで本物を借りちゃって!(おかげで裾余りまくり(≧∇≦))

そのくせマイクスタンドは、やたら完成度が高い喜矢武豊制作のダンボールで(^^;)←泣ける

こういうのを本当の「胸熱」って言うんだろうね。

それもそうだし、ここんとこ、“おどおどした芸人のなりそこない”(オイッ!!!)みたいな体でテレビに出まくってる鬼龍院翔が、本当はシンガーなんだってことを、この、GACKTとのデュエット映像を視て、久しぶりに再認識しましたことでありんす。

やっぱ、歌ってナンボなんだねキリちゃんは。

全国ツアーのスタートまで、あと3か月か。

意外とあっという間。

ちゃんとリハビリしてんだろうな?(←鬼心理)

ハンパなことしたら、アーティスト生命が(略)ぞ!(←お、鬼・・・)

しろうとのくせにちょっと言わせてもらうと、本当は歌じゃなくて、ギターソロの煽りで“がなる”のが、ノドに負担をかけてるんじゃないかとぼくは思ってるんだよな。

普通、他のヴォーカリストって、しなくない? ああいうこと。

まぁ、本人は専門家のご指導の下、粛々とリハビリ(ボイトレ)に励んでいることを信じて、あと6か月(なんだよな、ぼくが行きたいと思ってる日までは)を待つことにしよう。









あらま、また例によって話がとっちらかっちゃった。

最後にネガティブなネタを書くのもアレなんですが、ここんとこまた気になる規模の地震が頻繁に起きてます。

備えをおろそかにしないよう、気を付けないとね。


2013年02月04日(月) 危機

まさか年も明けてひと月足らずの頃に、またもや歌舞伎俳優の訃報を聞くとは思わなかった。

言葉がありません。



ぼくはオカルティックな思想は好きではないので、最近一部でかまびすしく囁かれている縁起の悪い噂話はあまり本気にしたくないのだが、今が歌舞伎界にとって21世紀最大の危機だってことは分かる。

だが、それをどうやって克服するのか、については、門外漢のぼくとしては、外から見守るしかない、と思っている。

ただ、ぼくが少しだけお付き合いさせていただいている関係者の方と先月ちょっとお話ししたときに、

「去年は悲しいことがありましたけど、今年は新しい歌舞伎座もオープンしますし・・・」

と申し上げたら、

「それは“おめでたいこと”というよりも、我々にとっては“正念場”のような気がしています」

と答えられたのが気になった。

そして、

「私たちにとって、最大の頼りは“ご見物”なんですよ」

とも。

その言葉には、どんなに提供する側が頑張っても、受け手にそっぽを向かれたらどうしようもない、という経済原則が、今の歌舞伎界(もっと言えば演劇界全体)に大きくあてはまってる、という意味が痛切に込められているのだと分かった。

名優が少しずついなくなっているから危機なのではない。

現実問題、観客が、減っているのだ(目に見えて激減しているというわけではないらしいが←ぼく自身、しばらく行ってないから判んない)

それは、不況のせいなのかもしれない。

ぶっちゃけ、面白い舞台が減っているせいなのかもしれない。

ミーハーゆえに、「一般大衆」のバロメーターと自負しているぼく自身、毎月歌舞伎を観に行く観劇リズムを、一昨年あたりから徐々に崩してきてる。

別に震災がきっかけだったわけじゃない(その前からちょっとずつ、興味が薄れ始めていたのだ)

もちろん、行けば行ったで満足できる舞台もたくさんあった。

だけど、「これはマストだ!」というような座組みがだんだん減ってきていたのも確かなのだ。

とにかく残された“これからの”役者たちには奮起してほしいし、ぼくに言われなくったって皆さんそうするつもりなのだろうが、ぼくは一観客として応援する気は山々あるのだけど、それは気持ち上のことであって、実際問題では、足を運ぶのにふさわしい舞台を見せてくれなけりゃ、行動には結びつかない。





とりあえず、通り一遍の「ご冥福を祈る」という言葉はぼくは嫌いなので言わない。

成田屋が安心して眠れるように、脇目も振らずに精進してほしいです
 ↑
注※ご長男にだけ言ってるんじゃありません。


2013年02月03日(日) 『熱海殺人事件 40YEARS' NEW』(紀伊國屋ホール)

1982年、映画版『蒲田行進曲』の大ヒットとともにつかこうへいを知り、単行本『いつも心に太陽を』を何度も何度も読んで、『ロマンス』『広島に原爆を落とす日』『幕末純情伝』『飛龍伝』と舞台作品を観てきたが(この他、映画も何本か観ている)、これでお判りのように、ぼくはつか作品のごく一部しか未だに体験していない。

そして、あまりにバージョンが多いため、

「今さら改めて新参するのも気がひける・・・」

と、無意識に避けてきた『熱海殺人事件』を、今回初めて観に行くことができた。

遅れてきた観客なので、つか作品をつか演出ではなく、杉田(成道)演出や岡村(俊一)演出で観ることが多かったのだが、数少ないつか演出作品を観た体験で言うと、

「つかこうへいが残したセリフを“本”にして保存しておいて、それを基に作った舞台作品は、つか作品には違いないが、でも、それを観ているぼくたちは、本当に“つかこうへいが作った芝居”を観ているんだろうか?」

と、今さらどうしようもないことを考えてしまうのである。

上演される時代が進むたびに、俳優が変わるたびに、ガラリと変わってしまうつか芝居。

「決定稿」として残された台本で上演される“つか作品”はつか芝居じゃないやい、なんて、詳しく知ってもいないくせに言ったら、きっと泉下のつかこうへいは「生意気言ってんじゃねぇよど素人が」と怒るだろう。

だが、正直なところ、本当に、観劇後感が違いすぎるのだ、つか演出で観たあのときの芝居と、現在見せてもらってる“つか作品”とでは。



要するに、つまんなかったんですか? と訊かれるかもしれない。

いや、全然つまんなくなかった。

むしろ、スイスイ入ってきた。

だがしかし、だからこそ、その「スイスイ」が、物足りなくて困っているのだ。

贅沢すぎる感想なのだろう。

多分、「女性や初心者向けに、臭みをとって食べやすくしてあります」と看板を掲げたもつ鍋やさんに行って、

「俺はもっと内臓臭いのが食いたいんだよ!」

と文句つけてる性質の悪い客なんだろう。





しかしそれにしても(意見が180度転回します)馬場徹、めっちゃすごい俳優である。

彼が出ている舞台を、つか作品に限らずぼくは何本か観ているのだが、最初に瞠目して観たのは、当然といえば当然の『新・幕末純情伝』である。

あの、真っ赤なブラジャーをつけた坂本竜馬の凛々しい(?)姿が、今でもまぶたに焼き付いている。

いや、焼き付いているのはブラの色だけではない(た、頼む、そうであってくれ・・・)

鮮烈としか言いようのない、パワァ漲る演技力に、ぼくはすっかり魅了されてしまったのだ。

「つかこうへい最後の愛弟子」なんだそうであるが、むべなるかなである。

地の力が、なんかものすごい俳優だな、という印象がある。

それこそ、若いころの筧利夫を髣髴とさせる。

今回の木村伝兵衛部長刑事も、まさしく“ザ・つか作品の主人公”らしい演技(捉えようによっちゃ褒めて聞こえないかもしれないが、もちろん褒めております)で、芝居をリード。

出演者たちの中で最年少と知ったときにはびっくりした。

彼で幕が上がり、彼で幕が下りるのだが、そのあまりにも堂々とした座長っぷりには、本当にまったく言葉が出ない。



実はほかの出演者のうち、NAOKI(from EXILE)以外の二人もぼくは予備知識がなかったのだが、こちらのお二人(牧田哲也と大谷英子)も、実に達者な俳優さんでした。

ぶっちゃけていうと、NAOKIくんが一番、長ゼリフに苦心していたようだった。舞台経験が少ない人によくあることだが、セリフを「間違えずにしゃべる」ことがやっとで、役として言えていないところがところどころあったのだ。

体はさすがによく動いていたのだが、そこがちょっと残念だったな。

だが、総合すると、今の日本の演劇界って、こんなにも人材豊富なんだね、と、熟年客としては思わず安心してしまう出来栄えなのであった。





しかしそれにしても、もし(そういうことは、書いちゃダメなのよ?)まだつかこうへいが生きていたら、2013年のニッポンへ向けて、どんな『熱海殺人事件』を創っていたのだろう? と、残念に思う。

いや、今こうして若い役者たちが作り上げている「つか作品」こそが、まぎれもない“今の”つか芝居と言えるかも知れないが。

そんなわけで、変なフラグを立ててしまうが、実は先日、新進気鋭の演出家・中屋敷法仁が演出した『飛龍伝』を観て来ているので、近日その感想をアップ・・・できるのかな?(←オイッ!!!)


2013年02月02日(土) 『Piaf(ピアフ)』(シアタークリエ)

この舞台を観ずして「エンゲキが好きデス」なんてほざけようか! ってくらいの傑作であります。

初演を(貧乏暇なしのため)観逃したおのれの不明を恥じる。

いや〜、再演ありがとう東宝さん!

ただし、このタイミングで田代万里生を『シラノ』にキャスティングするとは何というバカヤロー!と罵りたいです。マリオのイブ・モンタン見たかった・・・(;;)(あ、もちろん『シラノ』もちゃんと観に行きましたよ)

い、いや、藤岡(正明)君のイブもステキだったけどね(汗)

でもやっぱ、ナポリ民謡を朗々とベルカント唱法で歌ってこそのイブ・モンタンではないか、この作品では(あ、だから藤岡君もちゃんとベルカント(っぽい感じ)で歌ってましたよ)

初演を万難を排して観に行かなかったおらが悪いだ、どうせそうだ(←いじけるな!)



だがしかし、こんなこと言って申し訳ないが、この舞台、「エディット=大竹しのぶ」であれば、他はもうほんとどうでもいいのではないだろうか、そんぐらい大竹しのぶで“もってる”作品と断言しても差し支えないような気がする。

『新堂本兄弟』にしーちゃんが出たときに、光一さんが、

「ホント“化け物”ですよね」

と、最大の賛辞(なの!)を送っていたが、まったく同感の十乗である。

この人の演技を表現するのに、これ以上ふさわしい単語はないです。

ちなみに大竹しのぶさん(なんで急にフルネーム呼び?)は、歌に関しては、いわゆる“役者歌”であって、“歌手”としてのテクニックはそう巧みではない。

「歌は音程の正確さじゃないよ、どんだけ心を打つかだよ」

などと、ことこういう舞台での歌唱の場合言われがちだし、しかもエディット・ピアフだし。

美声でお上手に歌ったりなんかしたら、逆にぶち壊しな題材ではある。

そういう意味では、しーちゃんの歌に文句をつけるのは「わかってない」ってことだと思うのだが、この一連の歌を、ぼくはいっぺん新妻聖子で聴いてみたいと思う。

彼女の超絶歌唱力でもってピアフを聴いたらどんな感じになるのか、想像してみたら何かすごく細胞が躍り出したのだ。

聖子ちゃんは演技力もあるし、将来的には彼女が演じるエディット・ピアフを観てみたいなーと思ったりもした。



話が全然整理されてないが、まーとにかく、「愛の讃歌」ではご多分にもれずぼろぼろ涙がこぼれた。

初演のときに彼女が告知で『EXILE魂』に出た際、この「愛の讃歌」を歌ったのをぼくは予期せず聴いて、まーびっくりするほど泣いてしまった。

愛の歌とかだいっき(略)な、このぼくがである。

日本語詞の「愛の讃歌」と言えば、コーちゃん先生(越路吹雪さん)が岩谷時子先生のつけたあま〜い歌詞で歌ったのが大ヒットしてそれが定着しちゃってるが、これが、原詞と全く違うというのは有名なエピソードである。

原詞に近い訳詞(つうか、前半完全に「語り」だが)で歌ってるので有名なのは、かの美輪明宏氏である。

このほかにも、シャンソン畑の歌手の皆さんはもちろんのこと、歌唱力に覚えのある皆さんがこぞってこの曲を歌っているが、正直ぼくは、この歌、昔から「My Way」と並ぶ二大“歌い上げ系”楽曲として、非常に苦手であった。

だが、しーちゃんの「愛の讃歌」には、もう気持ちいいほど泣いてしまう。

やっぱり、「迫力満点に歌い上げてやろう」みたいな押し付けがましさがないからだろう(えっ? 言外に他の方の/略)

あ、ついでに、清水ミチコ女史が歌う「愛の讃歌」(ミ〜○ア〜キ×ロ〜でゴザイマス〜♪ってやつ)は大好きですが(←関係ねえだろ!)





全然ちゃんとした感想が書けていないが、とにかく、

大竹しのぶ

これにつきる。つきた。

他の出演者たちのステキなところも一々検証してみたいのは山々なのだが、とりあえず今日は一人だけ。

さえこ(彩輝なお)。ディートリッヒが眼福のあまり笑えるくらい綺麗。そして全く性格の違うマドレーヌ役もお行儀がよく、「美しいって、正義よね」と、ヅカOGさんを見ると必ず吐いてしまういつもの持論をやっぱし呟いてしまうアタシであった。

ディートリッヒとピアフの友情を描いた芝居は以前にも観たことがあるが・・・これからその話をしてたら徹夜必至である。今日もまた視なきゃならない録画がいっぱいだし、明日もてくてくがあるので、とりあえず本日はここまで。


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