てくてくミーハー道場

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2010年02月25日(木) 『二月大歌舞伎』夜の部(歌舞伎座)

「壺坂霊験記」

今月のラインナップの中で一番地味(こら)な演目でありましたが、なかなか良い出来ではなかったかと思います。

ジェットコースタードラマを好む現代人にはいささか食い足りない、こじんまりとしたストーリーである(あら、断言しちゃう?)

観世音菩薩(なのに沢市つうか三津五郎が「南無阿弥陀仏」と唱えてたのが若干気になった)の威徳と敬虔な信仰心によって夫婦のものが幸せになる、という結末は確かに、せちがらい現代人には通じにくい。

でも、夫がそのコンプレックスによって妻の愛を疑う→疑った心を恥じて死のうとする・・・あたりの心情は、なかなか身につまされるものがある。

現代のお話だったら、目が見えるようになった沢市がそのままストレートに幸せにならず、お里の「美人さ」を、それまでの“想像”でなく、“現実”のものとして実感するようになって、ますます独占欲や猜疑心に苦しむことになる・・・なんてことになりそうだなあなどと考えてしまったひねくれまくった現代人のぼくなのであった。

そんな穢れきったぼくの心情とは無関係に、三津五郎も福助も丁寧に演じていて好感が持てました。

観音様役の玉太郎も、可愛かったです。←心なしかやっつけっぽい感想



「高坏」

これも初めて(1990年1月浅草公会堂)なかむら屋のを観て以来、大好きな作品・・・なんてのを超えた作品であります。

(この間ソメソメも二回上演しており、それも一応観ており、感心した。勘太郎が初役でやった公演は、残念ながら見逃してるが、今後たくさん上演されることを期待)

この所作事は、よく「ゲタでタップを踏む、日本舞踊としては画期的な作品」と簡単に紹介されることが多く、確かにおっしゃるとおりのものなのだが、単純にそうは言い切れないものでもある。

単純な「ゲタップ」だったら、HIDEBOHが『座頭市』で見せたアレの方が、よっぽどテクニックが高度であり“タップ”である。

成立した時代のせいもあるが、『高坏』のタップ部分自体は、さほど高度なもんではなく、あくまで“風情”で見せるものだ。

で、その“風情”の方が、断然大切なのである。

どっちかというと、「上手にやんない方が」面白いんである。

踊ってるのは、酔っ払った次郎冠者だからなんである。

タカタカタカタカ・・・と鮮やかにタップするんじゃなくて、

「ああっ! 足元危ないっ!」

と見せる方が正解なんである。

4年前に観た時も日記に書いたが、まさに「春爛漫のニオイ」が感じられる『高坏』でありました(スピードスケートのまねをするサービスとかもアリ(^^))



「籠釣瓶花街酔醒」

去年、毛利亘宏氏の『カゴツルベ』をけちょんけちょんにけなして以来(す、すんまへん)の観劇だったので、ぼくも力が入ってしまいました。




ちから、入りすぎたね・・・(←ま、まさか・・・/悪い予感)




なんか、違った。

なんか、ぼくが記憶してる『籠釣瓶』じゃなかった(T_T)

いえね、実を言えば、玉さんの八ツ橋には、以前から若干の疑問を抱いてはおったのです。

例えば、見染めの“笑い”とかね。

玉さんの“笑い”は“神秘の微笑”であって、なぁんか「八ツ橋の“見染めの笑い”」とは違う気がするの。

“(醜悪なまでに)お歯黒をむき出しにして”ニーッと笑う歌右衛門型の笑いの方が、ぼくの期待する八ツ橋なんですよ。理論的に理由を述べられないバカ客で申し訳ないんだが・・・。

あと、愛想尽かしでもね、ぼくが思う愛想尽かしってのは(やっぱなぁ、「最初に」観たフクのが基準になっちゃってるのかなあ)、もっとヒステリックなものなんですよ。

理不尽な愛想尽かしなんですよ。

だから八ツ橋は殺されたってしょうがない(お、おいおい)・・・そんなふうに客に思われる愛想尽かしでないとね・・・。

玉さんの八ツ橋は、「自由に生きられない遊女の哀れさ」に焦点が合いすぎてるような気がする。

歌右衛門の芸談なんか読むと、もっとすごい乱暴というか大雑把な解釈なのよね(ぼくの「読み方」が間違ってるのかもしれないが)

八ツ橋って、酷い女じゃないですか? って訊かれて、

「だってしょうがないでしょう。八ツ橋は栄之丞が好きなんですから」

と、キッパリとお答えになってる。

例え「売り物買い物」の女郎であれ、「お金」よりも・・・いや「廓のルール」や「社会」「人間関係」よりも、「愛」を私は選ぶのよ! 「愛」より大切なものはないのよ! 「命」よりもね!

みたいな、「ま、参りました!」みたいな迫力をそのお言葉に感じた。

玉さんの八ツ橋の造形は、悪く言うと、「可哀相なアタシ」に重きを置いてる感じがする。

「あちきゃつくづく、イヤになりんした」

ってセリフに一番感情込めてるところからも、それを感じる。



玉さんばっかり悪く言ってしまったが、なかむら屋の次郎左衛門にも、ぼくは疑問がある。

今言ったこととすごく矛盾するんだが、彼の次郎左衛門は、「嫌われどころ」がなさすぎる。

この男は確かに、廓のみんなが噂するように、御面相以外は「いい人」なんである。

お金はたんまりあるし、遊び方もイナカの人にしちゃスマートである。性格もいい。

だけど。

だけど、である。

そういう「社会的には」立派なお人なのに、「ダンナさまにするには」なんかやっぱり・・・ヤダ、みたいな男の人って、いません?(←最低!)

そうなんです。最低な考えです。

でも、そこが女心なんです。(おいおい・・・/涙)

一方、栄之丞を見てごらんなさい(?)

取り柄といったら「ハンサム」ってとこだけ(お、おいおい・・・/号泣)

金なし、職業なし、性格は子供!(だってそうでしょ、権助の分かりやすい嘘にまんまとひっかかって、立花屋まで乗り込んで来ちゃうんだから)

でも好きなんです、八ツ橋は。

そういう、可哀相な女なんです。

まあね、仁左サマの栄之丞見てたらね、「どう考えたって、こっち(の男)とるよな」と、納得せざるを得ませんでしたが(だから、役者で判断しちゃ、ダメッ)

八ツ橋も、栄之丞も、子供っぽい未成熟な若者同士という点で、お似合いのカップルと言えるんだ。

そんな中に、

「男は顔ではありません。誠実さです。それと、将来を考えれば、社会的な力(つまりお金)も、とても大切です。ぼくはキミを幸せにしますよ」

なんて言って割り込もうとしても、所詮ムダなのである(おばさん、だんだん何を言ってるか分からなく・・・)

世間(このお話の中では、廓の人々)はみんな次郎左衛門の味方なのに、肝心の八ツ橋だけには断固拒否されるというその理由は、その「傲慢な誠実さ」にあったのではないだろうか。

他の人を比較に出すという、悪い評論をしてしまうが、吉右衛門の次郎左衛門を見ていると、ほんとうにこのあたりのことがよく分かるのである。

佐野の絹商人仲間を連れてきてうかれているその野暮ったさ、物腰は優しいのに、すでに八ツ橋のことを「自分の女」扱いしているいやらしさ。

「この人、女にはモテないわ・・・」

と思わせる吉右衛門の上手さったら、ゾッとするぐらいである。

なので観客は八ツ橋(主に福助)の愛想尽かしになると、次郎左衛門に同情したい気持ちはたんまりあるのに、どことなく心の底で、「いい気味じゃ」と思ったりする、自分の心の底の残酷さに気づいて、アンビバレンツな快感(変態?)を覚えるのである。

だから、最後の殺し場でも、100パー次郎左衛門の味方になれない。

モヤモヤする。

この、最後にモヤモヤしちゃって終わるところが、この狂言の最大の魅力だぐらいにぼくは思ってしまうのだ。

送り手が、「こっちの方が正しいです」みたいに、はっきり言って来る演出が、ぼくは好きではないってのも、大きいのだろうな。

・・・と、今回の『籠釣瓶』に、というよりも、昨年の『カゴツルベ』に対して、どうしてあんなに不満だったのかを今さら述べるような感想になってしまいました。

大変失礼いたしました(←?)



蛇足だが、殺し場のなかむら屋と播磨屋の違いについて、もう少々。

なかむら屋の次郎左衛門は、八ツ橋が玉さんだからこっちがそう思うのかもしれないが、なんか、

「好きすぎて殺した」

みたいに見える。

それと、斬るときに刀に引っぱられるようにして八ツ橋に向かっていくので、「妖刀だ」ってことをあからさまに表現しすぎる気がする。

これも誰かの芸談だったと思うが、籠釣瓶が「妖刀」なのを見せるのは八ツ橋以外の人を斬るときであって、八ツ橋を斬るのは、あくまで次郎左衛門本人の「憎悪」じゃないといけないとか聞いたことがあるのだが・・・。

吉右衛門の場合は、「この世の名残だ」のあたりがとにかくコワイ(T_T)

全身から殺意がにじみ出てる。

もう「好きだった」ことすら忘れてるぞ、このおじさん。

「男のプライドを傷つけると、こわいんだぞ〜」

と、地の底から聞えてくるような感じである。

「女は愛に生き(死に)、男はメンツに生きる(殺す)」

男と女は大切にするものが永遠に平行線だってのがこの狂言の主題だとぼくは勝手に思ってるので(正直その主題自体はさほど「正しい」とは思わないんだけど、それはまた別)、ここの吉右衛門のやり方は本当に好きだ。

そして、殺される八ツ橋にはなぜか同情するよりも、「今頃男の怖さが分かったか」と言ってやりたい気持ちにかられる(いったいお前はどっちの味方なんだ?!)だからぁ・・・モヤモヤすんのよ。どっちの気持ちも分かるし、どっちの気持ちも「間違ってる」と思う。そこが快感なの!(←末期)




最後に、ぼくが特筆したいお二人への感想。

まず、今回、勘太郎初役の治六。

理に勝ちすぎてる役作りというか、主人想いなところは良かったのだが、佐野のイナカ者っぽさが残念ながら不足気味。まぁ、現に垢抜けた東京生まれの現代っ子ですしね・・・(役者に対してその感想は無意味だぞ)

それより、ぼく自身つくづく自分で「ショタですが、何か?!」(←開き直るな! 毎度のことだが)と思ってしまったのが、鶴松。

初菊役でめでたく吉原デビュー(こ、こらこら/汗)

きっと、田舎の両親や弟妹たちを助けるために吉原に売られてきた少女の初めてのお仕事なのであろう。(←妄想)

ここに出る前に、遣手のおばあさんに手取り足取り教えられたのであろう、

「一服飲みなんし」

と治六に煙管を差し出すそのポーズが、なんとも健気。

いたいけ過ぎて、涙が出ます(T_T)   (おーい、帰ってこーい)

いやなんかね、今までいろんな初菊を見てきたが(たいていはこの狂言に初めて出る若い女方が演じる)、そのほとんどには、

「うまくやんなさいよ」(将来八ツ橋演るんでしょ? しっかり)

みたいな目で見てきたの。

でも、なぜか今回は、

「キミみたいな初心な子がこんなところにいちゃダメーッ!」

みたいな気分になりました。

いえ、決して鶴松が将来八ツ橋を演っちゃいけないとかいうことではなく(むしろ、ぜひおやんなさい。梨園の掟をお破んなさい)、とにかく、ムラムラ(何?!)・・・あっ間違えた、ソワソワ・・・いや、なんつーか(しどろもどろ)

おそらく、これは鶴松の超絶天才少年ぶりがそうさせたのであろうと確信する。

「若い役者の初役を見守る」なんぞという感情がすっかり飛んでしまって、普通に舞台上の「初めてお座敷に出た遊女」の背後にある悲しい身の上を慮って感情が乱れてしまったのだと感ずる。

うーぬ、末恐ろし、中村鶴松。

そして、つくづく恐ろし、我がショタ魂( ̄△ ̄;)←バカかお前は(呆)






あー、今日も長々と書いてしまった。


2010年02月23日(火) 『二月大歌舞伎』昼の部(歌舞伎座)

歌舞伎座さよなら公演 兼 十七代目中村勘三郎二十三回忌追善興行でございます。

ご観劇料、強気です(いきなりソレ?(−−;))

そりゃあね、行きますよこっちは。

なかむら屋だもの。

仁左玉勘だもの。(←なんとなく憤然)

でも、正直迷った。

演目がさ、確かに「勘三郎(十七代目&十八代目)得意狂言」の定番であることはわかるのよ。

でもなー・・・、今まで何度も観たぞ正直(エンゲキは、上演されるたびに“新作”なのだということを知らんのか!)いや・・・知ってるけどさ


こんなぶつぶつ言う客に観られたくもないだろうが、やっぱこれだけの顔合わせを見逃すわけにはいかないので、結局今月も、安い席が売り切れになってから(だからそこがアホ)行ってしまいました。





「爪王」

で、いきなり初めて観る所作事。

なんと主人公は“鷹”。

原作が動物小説で名高い戸川幸夫先生で、脚色はそのお弟子の平岩弓枝先生。

鷹と狐との戦いをとおして自然界の厳しさを描くと同時に、鷹と鷹匠との絆を叙情的でありながらもセンチメンタルじゃなく硬質に描いている。

なので、鷹が主人公とはいえ、擬人化してしゃべったりはしない(当たり前だぞ)

擬人化ではないが、着ぐるみではなく(当たり前だろ!)、銀色の振袖を着たキレイな女方の姿で鷹役の七之助登場。

狐役の勘太郎も、歌舞伎ではおなじみの火焔のぶっかえりという“狐衣裳”で奮闘。

二人ともいわずもがな体がよく動くので、見ごたえのある面白い舞踊劇であった。

ただ、長唄の歌詞が、いつも聴きなれている古典的な古語でなくて、どことなく違和感があった。

リズムが・・・口語的だったのよね。

この所作事は、この兄弟の伯母さまである波乃久里子丈が六代目猿若明石を襲名したときの記念の作品だそうで、その時“狐”を踊ったのは、なんと宝塚歌劇団のトップスター・スータンさんこと真帆志ぶきだったそうだ!

かつてはタカラヅカの生徒さんは、今のようなダンス偏重じゃなく、日本舞踊に長けた方も多かったというから、それも納得である(「女六代目」と称された天津乙女さんとかね)

そんなことも合わせながらミーハーに楽しんだ一幕でありました。



「俊寛」

以前も書いたかと思いますが、ぼくが生まれて初めてナマで観た歌舞伎(1989年12月歌舞伎座夜の部)が、この「俊寛」であります。

そして、高校時代「現代国語」(あれ? 「古典」じゃなかった?)で『足摺』(平家物語)を履修したこともあり、思い入れは一入なのであります。

あれ以来本興行だけでも30回ぐらい上演されているが、さすがにぼくはそのうち半分ぐらいしか観ていない。

そして、そのうち5分の1ぐらいしか記憶に残っていない(バカもの!)

中でも一番記憶に残っているのが、その“一番最初に観た”「俊寛」で、しかも、一番記憶に残っているのは、主人公の俊寛じゃなく、千鳥を演じたなかむら屋の、夢のような可愛さである(これも、以前しつこく書いた気がする)

ほんっと、可愛かった。(遠い目)

今目の前で、ヒゲ面の、よぼよぼのじいさんの扮装をしているおじさんと同一人物とはまったく信じられぬ(20年前だぞ・・・)

もうまさか千鳥は演んないだろうが(実際あれが最後だったみたいだ)、ぼくにとっては、未だにしつこく「なかむら屋」=「千鳥」なのである。

今回の七之助も初々しく瑞々しい、良い千鳥だったが、どうしても“菊吉じじい”(ではない。正確には。世代的には“孝玉おばさん”なんだろうなーぼくは)の「記憶の美化」により、未だにあれ以上の千鳥にぼくは出会っていないのだ。

ちなみに、俊寛僧都その人は、幸四郎→吉右衛門→幸四郎→吉右衛門→時々なかむら屋・・・みたいな感じなのだが、さすがぼくというか、今まで観た中で最高の俊寛は仁左サマが演じたときのものである。

と言っても孝夫時代。

「孝夫さんの『俊寛』よぉお〜!!!」

と、気合入りまくりだったのだろう。我ながらミーハーの権化である(その後仁左衛門を襲名した後のも拝見しているはずだが、こっちはなぜか覚えてない・・・スミマセン/泣)

で、どこが一番印象に残っているかというと、最後、俊寛が独り残って、船が見えなくなったのでとぼとぼと庵に帰ろうとするのだが、その後突然思い返して、また浜に向かって駆け出すところ。

竹本の、

「思い切っても凡夫心」

をきっかけに、全身から燃えるような思いを発しながら下手に向かって駆け出す孝夫さんを見て、ぼく自身も全身鳥肌立ったことをありありと覚えている。

あの一瞬の、俊寛の絶望、慟哭。

今思い出しても震えが来るほどだ。

もちろんあれは仁左さま一人の力ではなく、太夫の名演もプラスされてのことだと思う。

俊寛役者が、全身で「やっぱり帰りたい!」と心情をバクハツさせるタイミングと、ここの義太夫のタイミング、そして盆を回す大道具さんのタイミング、それがすべて奇跡のように一致したからこそ、あの名場面が発現したのだと思っている。

あれ以来、ぼくにとっての『俊寛』のマストチェックポイントが、この場面になってる。



さて、なかむら屋に話は戻る。

彼のこの演目に関する芸談で有名なのが、この役を十七代目に教わってたとき、最後の俊寛の表情を自分の解釈で微笑んだ感じにしたら、先代に、

「新解釈は僕が死んでからにしてください」

とバカ丁寧に言われたって話。

ぼくは先代が亡くなってから歌舞伎を観始めたので、ぼくが観ているなかむら屋の俊寛は、そういやいつも“微笑んで”終わっている。

このラストシーンの俊寛を微笑んで終わらせる方を、なかむら屋の他にぼくは知らない。

“笑う俊寛”は、果たしてありやなしや。

この演目を『平家女護島』の通しとか半通しで観ると(昔国立劇場でやったのを一回だけ観た)、俊寛の妻・東屋が瀬尾に(命令したのは清盛だが)殺されるシーンがあるので、この物語の中での俊寛への同情心が半端なく湧いてくる。と同時に、俊寛がこの島へ残る決心をした理由が、千鳥への同情心とか、「若い人たちに未来を託す」とかの気持ちよりも、とにかく何よりも、

「もう都なんか帰ったって、俺には何にもないんだ」

という絶望感が一番大きいことを実感できる。

そう考えると、ここで俊寛が微笑むことは、やはり考えにくい。

なかむら屋式の終わり方に、ぼくが納得できる日は、くるのだろうか。

なんか、アタマで考える“よくない客”に今日はなってしまった。

余計なことを考えさす役者がいけない←(――;)ん? なんかよく見えないんですが。


・・・次いきましょうか。



楽しい「口上」の後は、「ぢいさんばあさん」

小品ながら、これもけっこうよく上演される人気作。

歌舞伎の演目にしては(おい)理論的なストーリーで、そこが新歌舞伎たるゆえん(というか、原作が文学作品だからね)なのか、ぼくも好きな作品です。

いろんなカップルで観たけれども、今回は決定版の仁左玉プラス、下嶋甚右衛門になかむら屋が初役で出る(なかむら屋にしてはお軽い役だが、さすがに上出来)ってんで、最も期待の演目であった。

うん。

夜の部に『籠釣瓶』があるんで、今月のベストはそっちかな? と思ったんだけど、結局夜まで観ての感想は、

「今月は『ぢいさんばあさん』が一番よかったかしら」

であった(問題発言)

今さらではあるが、とにかく舞台でいちゃいちゃいちゃいちゃするのがこんなに眼福な美男美女の組み合わせは仁左玉しかいない。

あと何年かしたら海老菊(この二人が初めて「久弥」と「きく」で出演したときは、主役コンビ(お父様同士です/笑)そっちのけでキャーキャー言ってたミーハー客)コンビが取って代わるかもしれないが、とりあえず今のところはこのお二人が最強である。

考えてみれば、お二人ともすでに、若いころよりも“ぢーさんばーさん”になってからの伊織とるんの歳に近いのだ!(あわわ・・・考えたくない)

それでもやっぱり、若いころの場面の方がしっくりくる。

ただそれは何でかっていうと、歳とったあとの玉さんの「おばあさんぶり」が今イチ(うわぁ)だからってのもあるのだ。

玉さんの解釈としては、「るん」は凛とした女性だから、例えおばあさんになっても、腰は曲げない、ということなのだろう。が、それだと、おじいさんになって中腰になってる仁左サマよりも背が高くなってしまうのである。

そりゃあ、若いころにすらっとしてた女性はおばあさんになってもそれなりに大きいはず。

だがなぁ・・・と、思うのである。

(なんか、今月ってこんな感想ばっかりね)

それと、これぞジャニオタという感想を今回ぼくは抱いたのだが、若いころの伊織の口調が、なんとなく「ドラマの草なぎ剛」の口調にそっくりだと思ってしまった。

すっきり鼻筋の通った、ハンサムな、優しく甘えん坊口調の(笑)伊織・・・僭越ではございますが、このお芝居、いつか「新劇」(新派でもいいっす)で上演するときに、ツヨぽんで上演してほしいかも、なーんて思っちゃったのでござるよ(≧∇≦)←ジャニオタ丸出し

きっと『瞼の母』の100倍良いはずでござるよ(←何気に毒発言)






というわけで、超激戦だった夜の部へつづく(こら)


2010年02月19日(金) 『飛龍伝 2010 ラストプリンセス』(新橋演舞場)

三連チャンは・・・さすがにキツい(−−;)





あのねぇ(いきなり文句)

ここ数年の日本映画ですごーく気になってることがあります。

それは、意味不明なサブタイトル。

邦画ですよ? 日本の物語ですよ?


・・・なんでもかんでも“ラスト○○”とかっての、やめろっ!!!(怒)←蛮勇


ぜぇぜぇ(知ーらないぞ♪知らないぞ♪)






失礼ぶっこきました。


うん、多分ね。わざとつけたんだろうねつかさんは。

恐らく、つか氏自身が、「なんでもかんでも(以下同文)」と思っておられたんじゃないかと思いますね(違ってたら、ごめん)

それを逆手に取ったと。

もちろん、この「ラストプリンセス」という単語は、ちゃんとお話の設定とリンクしています。

語感だけで意味なくつけたタイトルではございません。

そこんとこ、まずコメントしておきます(理由は、特に、ありません)





さて、一昨年このコヤで“石原さとみの『幕末純情伝』”(と書いてしまいたいくらい、さとみちゃんにヤラれたぼく(^^ゞ)に深く感動しまして、今回は“黒木メイサの『飛龍伝』”。

ぼくは『幕末純情伝』は藤谷美和子版を1998年、1999年の二回、2003年の広末涼子版を一回観ているのですが、『飛龍伝』は、その2003年の「ダブルス」上演の時に初めて観ました。

当時の感想はこの日の日記の最後の方に書かせていただいております。

ただ、この公演には“後出しジャンケン”のようなヒキョーな(こら)後日談がございまして、それは皆様もご存じのとおり、ヒロスエ嬢(いや、当時既に「岡沢夫人」だったのか? 入籍はまだだったのか?)は、この時既に、まさに神林美智子のように、腹に子を宿していたのです。

妊娠しながら、つか芝居をやっとったわけです。

通常なら、昭和の価値観のぼくは苦々しく思うはずなんですが、このときは逆にカンドーしてしまいました(お前は、役者が「芝居第一」なら何でも許すのかっ?!)

技術的には大したことのなかったヒロスエの、あの神々しいまでの腹の据わった芝居っぷりは、まさに「腹に」一つの生命がどしんと座っていたせいなのかと。(←武田義晴の口調で)こら\(−−;)


てなエピソードはともかく、この芝居、つうか、つかこうへいという人は、主演女優の「技量」とは無関係に、その女優をすばらしく美しく見せる天才である、と、わずかな観劇歴から思うものであります。

(もちろん、その女優が「つかの言うことを素直に聞いて、一所懸命に演じている」場合に限る)


そんで、黒木メイサ。

彼女のデビュー作がつか作品だったとは知らなかったのだが、『あずみ』での好演も記憶にあるので(そうそう、去年から感想ペンディングしている『女信長』ですが、今とっとと書いちゃいますが、メイサは全然悪くなかった。脚本がサイアクだった。もうこれだけです言えるのは)、けっこう期待して出掛けました。


・・・うん。←おや?


芝居は、いいね。普通に。まぁ神林美智子って役は、誰が演ってもカッコいい役だしね←おいっ!!

でも、ダンス力、こんなもんだった?

「SHOCK」(つっても、アッチの方じゃなくて、去年彼女がリリースしたシングルの方)でのキレのあるダンスは、映像でごまかしてたのか?

それとも、つか芝居では「ダンスはわざと下手に」ってのがルールなんだっけ?(これは、かつてつか芝居に出ていた役者たち(風間杜夫さんとかの世代)が本当に下手だったことに準じたらしい・・・ぞ・・・?)

まあ、今回は他の方々も、タテ君(舘形比呂一)以外はみんな「しろうと〜」だったわけだが。



して、今回“伝説の”山崎一平を演じたのは、「21世紀の裕次郎」徳重聡。

テレビドラマで視てても若干ダイコ○気味の人なので(遠慮ないっすねておどるさん)どんなもんやら、と思ったら、まさに、そのまんまダ○コンだった(あわわわ(×_×;))

しかし多分あれだ。(どれだ?)

これは恐らくつかは今回、わざと、山崎一平を「朴訥の権化」にしたんではなかろうか。

“伝説の”筧利夫が、“伝説の”芝居力で作り上げた“伝説の”山崎一平は、悲しいかな、既に「現在の」筧利夫ですら、もう再現できないであろうことが想像できる。

2003年に観て、そう感じた。

だから、もう“あの”山崎一平をまた観ようなんて期待は持っちゃダメなんだ。(勝手に決めるな!)

新しい山崎一平が芽を出すのを、つか自身がじっと待っているんじゃないか・・・徳重の山崎一平を観て、そう感じた。

本音を言わせてもらえば、「不満でした」の一言なんだけどね。


ほんで、桂木順一郎はミッキー(東幹久)

こちらも、“伝説の”春田純一が作り上げた“伝説の”桂木順一郎なんで・・・あ、でもミッキーは多少春田さんの役作りに近かったかな・・・でも、ほとんど届いてはいなかったけど。

なんというか、お二人どちらも、つか芝居特有の荒々しさに欠けていたというか。

映像畑の俳優さんというのは(また舞台オタクの偏見?)、一にビジュアル二に雰囲気、三、四がなくて五に(細かい顔の表情の)演技力、みたいなとこがあるのではないかと。だからしょうがない部分もあるのではないかと。

(今いきなり思い出したが)あ、でもそのわりに、一昨年の『幕末純情伝』で高杉晋作を演じた吉沢悠クン(久々の俳優復帰だったと記憶している)の発していたパワーは素晴らしかった。

もともと力のある子だったのか(『青の時代』と『動物のお医者さん』ぐらいしか視てなかったからなー)、それともいわゆる“女優”的な鍛錬をつかから受けた効能だったのかは判らんが。





と、こんな具合に感想もとっちらかっております。



で、最後に、やけに気になったこと。

「つか芝居」を観に来るような感じじゃない客層が散見できました(いわゆる「いつもの演舞場」の客層)

あの・・・舟木一夫さんが出るのは来週ですよ?(こらこら)

でも、まさにそんな感じ。

・・・あ、でも、全共闘世代・・・?(いや、もっと上に見えたが・・・ゴメンナサイ)

どういう経路でいらっしゃったのだろう? 気になっちゃった。

(逆に、すごい若い客層も混在。なんか面白かった)


2010年02月18日(木) 『THE 39 STEPS−秘密の暗号を追え!−』(シアタークリエ)



めっさ笑ろた!(≧∇≦)




傑作です!



実は、そんなに期待してなかった。

「多少でも笑えるならいいかな」程度の期待で行ったのだ。

単に、浅野和之さんが出てるからってだけの理由で。

行って本当に良かった。



出演者は全部で4(?)人。←この「?」にも、意味があります(笑)

登場人物は、139人ぐらい・・・らしい(ここで既に期待できるっしょ?)

元ネタは、ヒッチコックの『三十九夜』という映画らしい。

しまった! 観たことない!

・・・大丈夫。

予備知識、必要ない。

でも、もし観たことある人は、百倍面白かったのかも。

ロビーで、その映画版のDVDを500円で売っていた。

安い!

これ観て、もう一回行こう! て気にさせる。

商売上手い!!(こら)



原作はサスペンス・ミステリーなのに、やたらと笑える。

でも、ここをぼくは一番強調してほめたいのだが、作り手が、「面白いでしょ? うへへへ」みたいに、自分で喜んでない。

最近時折テレビの中で散見される「やってる本人たちが笑ってしまってるんで、客もつられて笑ってしまう」みたいなんが、ぼくは正直大嫌いである。

時々、思わずつられて笑ってしまった時など、心底うんざりしてしまう(なら見んなよ・・・)

なので、今回の芝居には、実に満足できた。

出演者は、どんなギャグをやっても、自分では笑っていないのである。

いわゆる「キートン or チャップリン方式」(そんなネーミングあるのか?)である。

こういうのは演者に力がないと成立しないから、ますます好きなのである。


そう、思いがけず(と言っては失礼だが)、演者全員が素晴らしかったのも、今回の大収穫であった。

お目当ての浅野さんはもちろん、石丸幹二(たとえ「歌」がなくても)と今村ねずみ(たとえ「ダンス」がなくても)には何の心配もなかった。

だが、高岡早紀って大丈夫なのかいな?・・・と、失礼な危惧を抱いていたのだ。

主に映像畑で活躍している彼女のナマ芝居は、『表裏源内蛙合戦』や『蜉蝣峠』など、いくつか拝見しているはずなのだが、実はほとんど記憶に残っていない。

で、その「映像」自体もほとんど観たことなく、むしろ、失礼ながら、ここ数年は、なんか本業より“週刊誌方面”でのご活躍ばっかり印象に残っている。

なので、

「女優としてはどうだか知らないが、いかにも男ウケする雰囲気だよね彼女。それで生き残ってるんじゃない?」

という大変失礼なイメージを抱いていたのだ。

ところがどっこい。

思った以上にすごく達者な女優さんであった。

で、なおかつ「男ウケ」する。

ヒッチコックの映画によく出てくる、「演技力はどうかわかんないけど、とりあえずブロンドの美人」というヒロインに、まんま、びったしハマっていたのである(しつこいようだが、高岡早紀本人には、間違いなく「演技力」はありました)



いやーとにかく収穫の舞台であった。

唯一、残念なことは、こういうシャレたコメディがどうしていつもウエストエンドとかブロードウェイ産なんだろう・・・? と思ってふと気づいたのだが、日本産のこういう作品だって、本当はたくさんあるのだ。

いや、あったのだ。

たった数人で『レッド・クリフ』を完全(?)再現できる劇団も、かつて存在したのだ(いや、今でもどこかに存在するのかもしれない。ぼくが知らないだけで)

ああ、また観たいな・・・、惑星ピスタチオ(あっ、名前出しちゃった)


2010年02月17日(水) 『かげぜん』(あうるすぽっと)

・・・全部ひらがな。←別にいいでしょうが。




そうです。別にいいです。

さて、このお芝居は、お正月の浅草(公会堂)にチラシが置いてあったのを見て、芝居巧者の亀鶴丈の“現代モノ”ってどんなやろ? と興味がわいて、行ってきました。

実を言うと、作・演出(出演もされてました)の増沢望氏のことは全然知らなかった(ごめんなさい)

どんな内容のお芝居なのかも、全く確かめずに行った。

100パーセント亀鶴丈への期待のみではせ参じたのである。


始まって、どうやら戦時中の話だとわかった。

亀鶴丈の役は、どうやら詐欺師らしい。

莫大な財産があるに違いない老女の(20年近く会っていない)孫に成りすまして、その財産をせしめようと乗り込む。というのがお話の導入。

この詐欺師、一見荒んでいるように見えるが、明らかにツメが甘そうな、お人よしな感じが透けて見える。

この詐欺は、おそらく9割以上の確率で“失敗”するであろう、と客は最初から期待している。

そう、「詐欺師が出てくるハートウォーミングストーリー」の黄金パターンなのである。

だが、その予想は、決してこの芝居への「期待」は裏切るものではなかった。

“どんな風に失敗するのか”を、観客は楽しみに待っているのだが、願わくば、後味のよいものでありますように、と期待しているのであった。

そして、その期待は裏切られなかった。


もちろん芝居の内容は、そこまでふんわりおとぎ話ではなくて、主人公がもしかしたら命を落とすことになるのでは?(詐欺がばれたと同時に、徴兵されてしまうのである←めっちゃネタばれ・・・)というところまで話が進む。

でも、エンディングは見事にハッピーエンドであった。

ほっとした。

登場人物みんなが善人、というほど甘くはなかったが、みなそれぞれの人生を誠実に生きていた。

それが嬉しかった。

時に理不尽な話で打ちのめされたいなどと思う時もあるMな客(?)であるぼくにとっては、若干「フツウのお話だったな・・・」という食い足りなさもあったのだが、この話は「これでいいのだ」という気分に満たされて観終えることができた。



ところで、亀鶴丈の他に見覚えのある俳優さんが出ていて、それは主人公の詐欺師を追い詰める刑事役の八十田勇一氏であった。

ぼくが去年観た『きらめく星座』(こまつ座作品)でも、同じような役(特高)をやっていたのだ。

こういうイメージがついちゃうのは、ちょっとかわいそうかな(両方観てる客は、そんなにいないかもしれないが)

でも、ものすんごいハマリ役であった(^^ゞ←どこが「かわいそう」だ!



他の出演者の皆さんも、どの方も達者で、綻びのないステキなお芝居だったのだが、ただひとつだけ、「余計なお世話」な感想を抱いた。

それは、このお芝居のタイトルである。

この、人情噺のようなお芝居の、いわば「サゲ」とも連動しているタイトルなのだが、なんか、いかんせん“小劇場臭”が強すぎる気がするのである。

ホント、「おーきなお世話!」「小劇場だったら、悪い?!」と反発されるにやぶさかではないが、若干、気になりました、とだけ記しておきます。


だってね、上にも書いたように、時代背景もあって、井上ひさし作品とカブる部分がけっこうあったのよ。そうすると、井上作品の、すごく文学的なリズム感のあるタイトル群とどうしても比べちゃうとね・・・。(大いなる蛇足)


2010年02月11日(木) DANCE GALAXY vol.2『Rose Adagio』(銀河劇場)

vol.1は例によって見逃しているのですが、気にはなってました。

わたちゃん(湖月わたる)のことは、現役時代は“それほど”ファンではなかったんだけど(やっぱ「唄重視」なヅカファンなので)、退団後の舞台は、けっこうよく観に行ってる。

ぼくの興味をそそる内容の作品が多いのです。

今回の舞台も、言葉が一切ないダンスパフォーマンスという、ぼくにとっては不得意なジャンル(ダンスショーであっても、唄も混じった宝塚のショーっぽいモノの方が、ぼくは好きなので)であるにも拘らず、いそいそとファーストナイトに出かけました。



出演者はわたちゃんと西島千博君しか知らない(大真みらんちゃんは、プログラムを観てやっと気づいた)という無謀な観客であったのですが、ストーリー性の高い構成と、出演者皆さんのぶっ高い(日本語変だぞ!)ダンス力のおかげで、一時間半のパフォーマンスを全く退屈することなく堪能いたしました。

構成・振付・演出の川崎悦子さん(これまた「先生」とぼくが呼ぶのは僭越なので)の世界観も、甘すぎず辛すぎず、すばらしかった。

実を言うと、もっと「お耽美」な、ぼく的には「か、痒い・・・」かも(震)、という危惧があったのだ(題材が、「眠れる森の美女」だったので)

逆にむしろ、想像以上に「硬派」な世界観だった。

さすがデビューが「そいやそいや」の川崎さんである(いつまでもソレを言うのも失礼だが)



ただ、こういったジャンルに関しての全くの素養のなさが祟って、ぼくちん、これ以上ろくな感想が書けません(−−;)

「人間て、こんなにも身体が自由に動くんだね!」

と、瞠目するばかりでありました。

運動神経限りなくゼロに近い人間の、情けない素の感想でございます。

昔このブログでも書いたことがあるが、まさに、

「跳躍力と柔軟性が自慢です!」

な人達の集団(褒めてるんです!)

そして、優れたダンサーというものは、それだけに止まらず、「言葉が一切ない」中で、あらゆる表現ができるんだね、と、感動を新たにしたのでございました。

いやそれだけじゃない。

言葉を一切使わない、という共通項の中で、マリンビストSINSKE氏の表現力にも瞠目いたしました。

良かったです。


2010年02月07日(日) 『CURTAINS』(東京国際フォーラム ホールC)

ヒガシの舞台って、ぼくはいつ以来だろ?(『覇王別姫』だ。多分)

それにしても、“ミュージカルのヒガシ”は超久しぶりである。

PLAYZONEを別にすれば、『クリスマス・ボックス』以来だもんね。

まぁ、そんな個人的な思い出話はおいとこう。

さて、今回のヒガシの役=フランク・チョーフィ警部補は、ミュージカル大好き(下手の横好きで、素人劇団にも入ってる)超ミーハー公務員、という、大変親近感をおぼえる人物(*^^*)

そんなチョーフィ警部補、プレビュー公演中に殺人事件が起こった某カンパニーのもとへ捜査にきたはずなのに、なぜか作品の手直しにまで口を出し首を突っ込み、でらお調子者と思わせといて、最終的には鮮やかに真犯人を突き止め逮捕する・・・という、まるで喰いタン高野聖也のようなお方なのでした。

この基本的なストーリーはぼくの好きな世界。

ただ、ちょっと残念だったのは、ミステリー(謎解き)部分が、若干弱かった。

推理モノとしては、いささか物足りない感じ。

真犯人が判ったときの爽快感がいまいちだった。

伏線が足りないからなのかな・・・?

良いミステリーって、その真犯人が最初に登場するときに、よーく見とけば良かったぁ〜っ! みたいに思うものじゃないですか。

それがあんまりなかった。

変に僭越な感想ですが、思わず「三谷幸喜に脚本書かせろ〜っ!」と思ってしまいましたよ(そういやチョーフィ警部補のキャラクターって、古畑任三郎に若干似てたな・・・)



ミュージカルとしての本作品の出来としては、時代設定が1950年代なので、わざと素朴で古典的な音楽や演出にしてるんだけど、それが(同じ狙いで造られていると思われる)『プロデューサーズ』ほどうまく行ってなくて、なんとなく(劇中劇というか、手直し中のシーンが)スカスカな感じを受けた。

確かに、現代のミュージカルの世界を舞台にしてたら、殺人自体、あんな簡単なトリックで遂行できはしないのだ、それは理解できる。

でも・・・なんかやっぱり・・・(特に音楽)

ただ、その“素朴な”メロディ&アレンジ(とはいえ、音楽は“あの”ジョン・カンダーなんだけどね)に乗っけられた歌詞はなにやら微妙に可笑しくて(“あの”フレッド・エッブ。つまりこの作品は、『キャバレー』『CHICAGO』と同様カンダー&エッブ作品なのだ)ぼくは好きだった。ただ、これは多分に日本語詞の高平哲郎さんの御手柄とも言える。

とりあえず全体的に(劇中劇の『ロビンフッド』というミュージカルからして、『オクラホマ!』とか『アニーよ銃をとれ』のパロディみたいな感じなので)「なんか(『オペラ座の怪人』を思わせるようなシーン、『検察側の証人』の台詞なんかが出てくる)のパロディ」っぽい作品ではありました。そんな意味で舞台オタク向けかも。

例えば「Show People」っていうナンバーの前に、ツレ(鳳蘭)ちゃん演じるカルメンが「Show Must Go On!」と高らかに宣言するんだけど、多分、アメリカ人は『キスミー・ケイト』を連想して笑う意図で書かれてる台詞だと分かる。でも日本人は・・・お判りですね?(^^ゞ(原作者たちの手を離れちゃってるぞ)



そんなわけで、ミュージカル作品としてのクオリティはなんじゃもんじゃ・・・なんて生意気な感想を抱いてしまったのでありますが、出演者の皆さんは、日本劇界が誇る実力派ばかりで(←もちろんヒガシ含む)それなりに面白く観ることができた。

ツレちゃん、貫禄( ̄− ̄)歌詞飛んじゃったけど(←シーッ)

(大澄)賢也クン、役にぴったり。

(鈴木)綜馬さん、非の打ちどころなし。

芋洗坂係長、期待通りの出来!(ダンス力含む)

岡千絵ちゃん、実力発揮!


そうだ、若干マルシアのセリフが「・・・」(日本語ネイティブじゃない人って、何年経ってもアクセントだけは直らないのかしらね・・・?)ではあったが、歌の上手さでプラマイゼロ。

あっいかん(な、何?)肝心な人を忘れておった。おやおや? 誰ざんしょ?(←わざとらしい)

そうです。今回女優デビューの、タニオカ君こと大和悠河ちゃんどぇす(関係ないけど、この芸名あんまり“女優”っぽくないぞ・・・でもヘタな改名は逆効果だし・・・←大きなお世話)

これがね。







(また出た。無駄な改行)





あのー、あのセリフのトーンは、もちろん「わざと」ですよね。それはわかってます。

でも何だろ・・・どういった狙いで?(知るか)

あのね、最初タニがこのセリフ回し(観た人にしかわからんだろが。つまりね、ずっとファルセットのぶりっこトーンだったんれすよ。なぜか)したのは劇中劇の女の子の役作りとしてだと思ってたの。

そしたら、“素”である“ニキ・ハリス”に戻っても、ずっとこのトーンだったの。

思わずワタシ「???」でしたの(←ずっとこーゆー調子のセリフ回しだったの)

逆にね、ニキは人前ではこんなしゃべり方をしてるけど、実は・・・みたいなオチを期待してしまったの。

でもそれは、単なる深読みだったの。

ニキには、別に裏の顔はなかったの。

それもあって、この作品の脚本に「物足りない」なんて感想を抱いてしまったの。



(疲れてきたのでそろそろ口調を戻そう)



つーことは、この“ニキ・ハリス”って役には、実は100パーぶりぶりアイドルの方がふさわしかっ(それ以上言うな!)

いやいや、でも、ニキはチョーフィとデュエットで「フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズみたいな」(チョーフィのセリフ)ダンスナンバーがあったので、やはり踊れる子(≒元ジェンヌ)じゃないと。

つうか、ブロードウェイ版では、チョーフィはあくまでも「下手の横好き」なので、こんなに上手には踊らない(その代わり、マシンガントークで圧倒する。ここはヒガシも大及第点だった)とか聞いた。

つまりこのシーンは、東山紀之主演ならではの、日本版独自のサービスシーンらしい。

タニも、現役時代は別にダンス巧者じゃなかったんだけど(おいこら)、こうやって娑婆(こらこら)に出ると、やっぱ“元ジェンヌ”の基本的技術は、そこいらへんのダンサーを圧倒しちゃうレベルなんだってことが証明されたのであった。

そういや二人とも『雨に唄えば』のドン役を演ってるんだよね。そんなマニアックな可笑しさもありました(^^)

しかしタニ、プロポーション良過ぎ。

“あの”ヒガシが中肉中背に見えるって、どんだけなんだよホント。

これまた連想しちゃって申し訳ないが、この「男優圧倒しっぷり」は、『プロデューサーズ』でのさえこ(彩輝なお)に近い“女優デビュー”に感じました。

でも、次(作品)ではさすがに地声で話さないとね。

その時がタニの本当の評価だろうな。(唄は相変わらずだったし/こらこら)



てなわけで、全く肩の凝らない、楽しいムジカルではござんした。

ただ、例によってチケット代クソ高いぞ!

この点だけは、何とかしてほしい、ホントに。


2010年02月04日(木) 豆をあなどっちゃいけないマメ

2月に入ったその日、「降る降る詐欺」だとばかり思っていた雪が、都心に本当に降りました。

朝は寒いなりにもカラ天気だったので、例によって傘持たず。

夕方、外に出たらあらびっくり。大きなボタン雪が盛んに降っていた。

ふぐすまではこだのゆぎさはいんね(訳:福島では、このような雪は雪のうちに入りませんよ)、と見栄を張ってみたものの(ふぐすま出てから何年経つんだ?っつうの)、やっぱ寒い。足元危ない。

途端に行動力ミニマム。

でも、そこはやはり都会の雪で、翌朝には融けてじゃりじゃり状態になっておりました。



さて、2日も早朝出勤をして早めに帰宅。しかも翌日の節分はお休み♪

翌日が休日となれば、悪い癖を大発揮して、録画を視ながら大夜更かし。

3日起きたらすっかり日は昇っており(朝の最低気温がこのところ低いのがツラい)、クリーニング出しに行ったり恵方巻きと豆を買ったりして一旦家に戻り、夕方から義父のおうちに豆まきに行こうとしたら、また雪!

くじけそうになりましたが、縁起物なので執行せねばならん。

とりあえず豆まき(掃除が大変なので、実際には撒かない。袋のまま掛け声とともに放り投げて即回収するという方式です)やって恵方巻きを一緒に食べて帰ってきた。

そして家に戻るとつれあいが帰宅。

つれあいにご飯と恵方巻きを食べさせて、食後に年の数の豆を食べました。



この、「年の数の豆」のせいなのか、雪の中あっちこっち駆け回ったせいなのか、それともそのコンプレックスなのか、ヂゴクが翌朝やってきたのであります。





そう、本日。

朝(ぼくにしては珍しく7時に)目が覚めると、異常な腹痛が。

何者か(って、マメしか考えられん)が胃を内側からぐいぐい押してくるような。

家人はいつも朝は全て自分で支度して出て行くので世話は要らないのだが、今日はぼく自身も急ぎの仕事がある。これは困った。

「病院行く?」と心配するのを「寝てれば治るよ」と送り出し、職場には「ちょっと腹痛が」と電話して、とりあえず寝てた。



ごろごろ体勢を変えつつもだえていたが、一向に治まらず、どうしようなー? と悩んでいたら、昼前ににわかに吐き気と寒気が。

ありゃー、食いすぎじゃなかったのか、風邪か。いや、食いすぎでも吐き気ってあるよな。と、思いつつ、トイレでゲ(←自粛)

見ると、マメの(←自粛2)ばっかり。

これにより、胃が破けんばかりの痛みもいくらか和らいだので、夜までぐっすりと寝てしまいました。

いやーヒドイ目に遭った。

この年になって「年の数」のマメを食べちゃダメだな(縁起まるで無視)

やはり正直に、本当の年の数(24個)だけ食べれば良かった。  今何か、おっしゃいましたかな?(怒)

・・・冗談です。

で、命の危険(大げさ)を体験してふと思ったのだが、世の中の皆さんにお尋ねしたい。

「年の数だけマメを食べる」という風習、何歳までが“安全”なんでしょうか?(80歳の義父には、さすがにやばいと思い、豆は10個ぐらいで食べおさめてもらった)

ともあれ、来年からは豆腐にしようと思いました(意味分からんぞ)


2010年02月01日(月) ちょとしたお知らせ

現在まったく手付かずで放置してある某アイドル考察サイト「もっちともりん」なのですが、2月末日をもって、アクセスできなくなります。



別に、サイトを消したくなったわけではないのです(何のメンテもせずに3年くらいほったらかしてきたわけだし)

そもそものオオモトの、23ku.netさんが、運営をおやめになるのです。

だったら、さっさと引越しせんか! とのお叱りはごもっともなのですが、なにせこの、生来のメガ無精。


メンドクサイのです☆\(−−;)開き直るな


まぁ、メインサイトが消えても、困るのは仔ヒツジ飼い(会)の皆さんだけですし(その方たちが一番の上得意様なんだろうが!/叱)

・・・ま、いずれひっそりと転居して、ご案内をさしあげますので、こらえてつかあさい(新ネタをアップした時がその時と思し召しください)



よろしくお願いポヘー(何なんだ今頃)





結果的に、2015年6月時点でもまったく転居も復旧もしておりません。元々「腐」要素もあった個人サイトでしたので、諸事情に鑑みて復刻はしないことといたしました。「腐」要素以外のコンテンツについては、今後関連した内容をエントリする際にちゃっかり再公開するつもりではあります。


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ておどる 【昔書いていた日記はこちら】Kin-SMA放言