てくてくミーハー道場
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今日も「しょうろく」です。
例によって中年ダジャレですいません。(_ _ )
今日で三月が終わってしまったのだが、またもや国立劇場だけ行きそびれ(そもそも千龝楽は27日だったんだけど)
松緑がおじいちゃん(二代目松緑)のド当たり役である魚屋宗五郎を演じたのですが、とうとう観れずじまいとなりました。
(当代)尾上松緑。
ぼくは彼の子役時代には間に合わなかったんだけど(なので「嵐クン」と呼ぶのは、本当はフェイク)、ほぼ「最初に好きになった歌舞伎俳優」と言って良い。
まだ「尾上左近」だった。
NHKの劇場中継で観た『外郎売』で、タイトルロールを演じていた。
もちろん下手だったが(オイ)、まさに「動く五月人形」だった(ホントに「むきみ」の似合うくっきりとした目をしてるのだ)
声変わりが終わったばっかのガラガラ声にも、ノックアウトされた。
すみません! ショ(もう聞き飽きたぞ!/怒)
年を考えると、彼は当時13歳か14歳だったはず。
なんで『外郎売』なんて大役をやってたのか、今になって考えると不思議である。
おそらくおじいちゃんがらみの、ご祝儀興行だったんだろうな。おじいちゃんが工藤演ってたから。
ところで、その放送自体、「二代目尾上松緑の追悼番組」だったのである(涙)ということは、1989年ですな
すなわち、昭和の「歌舞伎界の巨星」二代目尾上松緑も、その2年前に亡くなっていた伝説の名優・初代尾上辰之助(二代目の倅)も、ぼくは一度も生で観ていないのだ(T_T)ぼくの「カブとも」は、辰之助の最後の舞台『お祭り』を観ている。羨ましい・・・
この、大きすぎる二人分の期待と、超名門藤間流勘右衛門派当主という重すぎる地位を、まだ幼いその身に背負うことになってしまった嵐クンこと二代目尾上左近。
そのドラマみたいな身の上に、おばさんは勝手に萌え上がるのであった。(←迷惑です)
直に彼はお父さんの名前を襲って二代目辰之助となった。
ぼくが歌舞伎を観始めて初めて遭遇した「大名題の襲名興行」であった(それ以前に、尾上松助丈の襲名興行も経験したのだが、名前がやや小さかったのでね)
時に、日本経済はバブルのまっただ中。
大企業は余った金を「メセナ」の名目で芸術文化につぎ込むという、(ぼくらみたいな浮かれた連中にとっては)実に良い時代がやってきたのと、「平成の三之助」が誕生するのは、ほぼ同時期であった。
今考えても、ほんとーにバブルな月日だった。
歌舞伎本の企画なんかも、スイスイ通った(^^ゞ
楽屋にも、スイスイ行け(以下略)
さて、今こうして落ち着いてみると。(あら、中略が早い)
嵐クンも、はや34歳。
男盛りド真ん中である(もう、子供が二人もいるしね)
確か、ぼくが歌舞伎を観始めた頃そんぐらいの歳だった人と言えば、中村勘九郎(現・勘三郎)、坂東八十助(現・三津五郎)、中村時蔵丈、中村芝雀丈・・・あたり。
百花繚乱の「花形スター」(つまり、人間国宝よりは手前)の皆さんである。
多分、現在の松緑、海老蔵、菊之助の「元・三之助」なども(あと、ソメソメとか)、今の若い歌舞伎ファンから見ると、当時のぼくらが勘九郎たちを見ていたように見えるんだろうと思う。
菊吉じじい感覚だから、「昔のスターの方が、スケールが大きかったよ」と思ってしまうんだと思う。
だが、それでもぼくは言ってしまうが、松緑は、まだまだ「脱皮」していない。
どうにもある種の「不器用さ」が未だに彼を覆っている。
少年時代には、そんなもの誰にでもある“薄膜”だと思っていたので、気にならなかった。
でも、もう34歳だぞ・・・(えっ? いけないの?)
“奇跡の御曹司”海老菊と比べちゃいけない(って、松緑も御曹司だから!)のは分かってるのだが、とにかく「初めて好きになった役者」なもんで、どうしても、何とか頑張ってほしいという感情は、ずっと抱いている。
その不器用さを、愛しいと思う部分と、「もうちっと洗練されてほしい」と思う部分が葛藤している「紀尾井町ファン」(代表みたいに言うな!)なのである。
とか言って、結局大事な初役(魚宗)を、観そびれてんだもんな。
もしかして、これで「化け」てたかもしんないのに。
えーと、次に松緑が見られるのは、五月の歌舞伎座か。
所作事ばっかだな(所作事はまあまあだと思う)
まぁ、歌舞伎ファンの極意は「長い目で見る」ですから。
あせらずいつまでも追いかけるつもりですよ。
そういや27日に藤間紫さんが亡くなった。
お年がお年だから、最初は「そうか」と思った程度だったのだが(すみません)、その後すぐ、「澤潟屋、思いっきり気落ちしちゃってるだろうな・・・」と思った。
お正月の「さよなら歌舞伎座顔寄世手打式」の様子を見た感じでは、舞台復帰はかなーり(略!)という感じだったので、今月の『獨道中五十三驛』の「演出」のところに名前が出てるのを見た時には、本当にびっくりし、また嬉しかったのだ。
なんとか元気を出して、必ず舞台に復帰してほしいものだ(宙乗りやれなんて、ムリは言わないから)
そうかと思うと歌舞伎界、今年最大の(?)慶事もある(*^^*)
彼ももうそんなお年ごろなんですねー。
考えてみれば、お父さんも結婚早かったもんな。こういうのも、やっぱ遺伝すんのかな?
時の経つのは早いよ、ほんと・・・。(結局年寄り臭いシメかよ)
といっても、小学六年生のことではなく、「小学生の六郎くん」である(*´-`)
今日は、半端なく長時間放送だったので録りっぱなしで視るのを躊躇していた『黒部の太陽』前後編の編集をするついで(こらっ)に、それにくっついていた(こらこらっ)『帰ってくるのか!? 33分探偵 六郎小学生』(サブタイトルはどうやら『古畑中学生』のパロのつもりであろうナ)を、視ました。
驚くべきことに、
本編より、面白く視てしまった( ̄△ ̄;)まじ? うん、まじ。
なんでだ。
実はぼくは、福田(既に呼び捨て)の感性が嫌いなのではなく、レギュラー版の出演者が、嫌いだったとでも言うのか!?(自問)
いや違う。(自答)
ショタだからです! すいません!!!(開き直り)
いや、毎度こんなこと書いていて本気にされても困るので、正確に書きますが、
“子供がやることだから”(アホくさ満載のとんちんかん推理に)腹が立たなかった、ということなのだろうな。
要するに、福田(だから、呼び捨てに、すんなって)に言いたいことは、
「『無邪気』と『無軌道』は、別物だぞ」(河野先生(ヤスケン)の口調で)
ということだ。
子供がやることなら「無邪気」、大人になっても同じことやってれば「無軌道」ってことだ。
最近、「大人になっても“少年の心”を保ってる男」をもてはやす輩が跋扈しているが、いい年した無軌道を「少年の心」とは言わない(書いてるうちに、またヒートアップしてきたな・・・)
「成長してない」と言うんだ。
ふー、ふー、ふー。(落ち着け落ち着け)
小学生バージョンの回が面白かったのは、事件そのものがいつもの殺人事件でなく、「大玉がなくなった」とかいう深刻性の薄いものだったこと(おそらく、「誰かの給食費がなくなった」などの犯罪性の強い事件だったら、ぼくはやっぱり怒ってただろう)と、やっぱ「子役」を可愛いと思うぼくのショ・・・じゃなくて、大人心のせいだろう(ガキは基本的に可愛いもんな、残念なことに/コラ)
だが、意外なことに、全編に律儀にちりばめられた「本編のパロディ」も、余さず楽しんでしまったぼくがいる。
文句タラタラ言ってるくせに、本編も意外と好きなのかも知れない(うん、多分、あのドラマのギャグ感覚自体は好きなんだと思うよ。「明らかに無実の人に、屁理屈でもって濡れ衣をなすりつける」というところだけが、どうしても感情的に許せないのだ。それだけだ)
「クローズゼロか!」は、ぼくも一緒につっこみました(^^ゞ
特にパロディ部分で一番面白いと思ったのは、いつもの大田原警部のポジションに、黄川田将也という、克実さんと正反対(克実さん・・・ゴメンなさい)の俳優をもってきたところ。
マヌケさ100%キャラは、いい男である方が効果的なのだ(か、克実さん・・・ゴメンなさいっ!)
あと、情報屋への報酬がビックリマンシールだったり、「廊下を走ってはいけません」と叱られて急ぎ歩きになるところなんか、小学生らしくて好きだ(*^^*)
小さなとこでは、ヤスケンが走り去る時の走り方が茂木刑事とおんなじだったところに「チーム愛」(?)を感じた。
残念だと思ったのは、リカコポジションの女の子が、全然かわいくな(略)
水川あさみレベルまでとは言わない。でももうちっと美(略)
それと、この小学生バージョンに出てきた「たくみくん」ポジションのキャラが、本編にもいる方が面白いような気がしたのだが、そうすると、主人公が主人公でなくなってしまう恐れがあるなー。
そして、まえだまえだ弟はさすがに達者でした。
子役としてしっかりしてる、という意味以上に、ちゃんと鞍馬六郎の小3時代になってる。
口調の小児らしさが、結局「六郎っぽい」ってとこが可笑しい。
「なるほろ」ってセリフは、むしろ彼の方が自然だった(天然で舌が回らないのだから、当たり前なのだが)
これを一つのドラマとしてちゃんと評価しろ、と言われたら正直言って困るのだが、『33分探偵』のパロディとして過不足なく面白かったとぼくは思います。
そして、
「なんやかんやは」「なんやかんやですっ!」
ってギャグは、ぼくは全然好きじゃないことを再認識しました(おぃおぃおぃ・・・)
何やっても許せたこの『子供版33分探偵』の中で、この部分だけは「ぜんっぜん面白くねぇんだよ!」と大人げなくつっこんでしまったからです(ホントに大人げねぇなー・・・)
ええと、『帰ってこさせられた』の方は、・・・いずれ・・・・・・また・・・(こらっ!)
本日、所用あって出かけましたが、都内、いよいよ桜が咲き始めたこともあり、どこ行っても人ごみですっかり疲れてしまいました( ̄△ ̄;)
そんな中、早々に家帰ってごはん食べながら思わず視てしまったのが、『DOOR TO DOOR 僕は脳性まひのトップ・セールスマン』
ニノの“感動シリーズ”三部作の三作目だそうですが、第一作『少しは、恩返しができたかな』は、長時間&感動(させようという意図が感じられる)ドラマが苦手なぼくは、視ませんでした。
特に、「主人公が最後に死ぬので、そこで泣いてください」というドラマは、どんなに暇でも視たくないです(いきなり暴言)
(でも実は、そういう実話を本で読むのは好き。書いた人が、本人であっても、関係者であっても)
第二作『マラソン』は、基になった韓国映画を公開時に観ていたので、日韓のスタッフの自閉症への取り組み方を比較してみようかなと思い(それと、『光とともに・・・』が好きだったので)、録画はしたんだけど、今に至るまで実は視ていない(すまぬ)
この『マラソン』に関しては、ぼくの個人的なツボがひとつあって、実はそれとニノが関係してる。
ほんとーに、ぼくの個人的感想なのだが、韓国映画版に出てくる主人公の弟(ペク・ソンヒョン)が、すっごくニノに似ているのだ。
顔がじゃなくて、雰囲気がそっくり。
劇中で彼は高校生なので、半袖シャツにネクタイというよくある私立高校の制服姿で出てくるのだが、その、肩をちょとイカらせた、首をかしげたやせっぽっちな姿が、昔ドラマで高校生をよく演じていたニノに、激似だったのである。
当時ニノファンだった友だちに、
「ニノそっくりの子が主人公の弟役で出てくるから、観てみなよ」
と勧めたくらいである。
(はたしてそれだけのために彼女が『マラソン』を観に行ったかどうかは、定かではない)
日本版のドラマでは、弟でなく主人公そのものを演じたニノであったが、どのような演技を見せてくれたのか、今んとこ未確認である(←いーかげんにしろ)
で、今回も、別に視る気はなかった。
偶然、家に帰ってテレビつけた時に始まったから、家事と食事の片手間に視ただけである。ほんとーにすまん(誰に謝ってるのか?)
制作者側が意図したようにぼくが感動したかは、ここでは言いません。って書いたら、もう答えを言っちゃってるようなもんだが、一ヶ所、すごく印象に残ったシーンがあったので、それについて今日はエントリしようと思いました。
それは、英雄(主人公)が浄水器を売り上げて社長に褒められたとき、同僚の男が、
「じゃあ、オレも障害者のフリしてセールスしようかな」
と言って、加藤ローサ(役名覚えてない)にひっぱたかれるシーンである。
このシーンて、このセリフを言った男を、
「ああ、いるんだよね、こういう下劣な人間」
と視聴者に思わせるシーンだと思う。
人間、基本的にはみんな「自分は、差別なんかしない、いい人」でありたいと願ってる(はずだ)
でも、どうしても、精神的に弱ると、まさか口には出さなくても、こういう卑怯なことを考える時もある。
気取らず、ぶっちゃけて言えば、そうではないだろうか?
ドラマだから、「普通口に出すか?」ってことを言ってしまうんだし、普通なら「カッコつけすぎだろ」と揶揄されるような、あんな正義の鉄拳はふるわない。
でもこのシーンを見て、「安いドラマだ」と吐き捨てられないものを、ぼくは感じた。
ぼくがこのシーンでもう一つひっかかったというか、「おっ?」と思ったのにはもう一つ理由があって、そういうことを言われた当の英雄が、
「無理だと思うよ」
と笑って返したところ。
「無理」とは、どういう意味なのか。
「健常者が、脳性マヒのまねするなんて、無理」(これは、これが「ドラマのセリフ」だということを考えると、すっごく皮肉なセリフである)なのか、「キミがぼくのマネしたって、無理」(この意味だと、英雄のプライドを表すセリフになる)なのか。
ちょっと意味合いは違うのだが、ぼくはこのシーンを視て、ぼくの知り合いの、ある難病の人(Aさんとします)が、昔ひとから言われた言葉と、それに対する彼の感想を思い出していた。
彼は、ぼくの地元ではけっこう有名な人で、ラジオのパーソナリティをやってたのだが、その番組には、“悩める”若者からのお便りも届いていたそうだ(普段の放送では、どっちかというと芸人ノリであって、アホなネタの方が多かった)
そのお便りの中に、
「自分が、どう生きていいか分からない。何不自由のない自分の、先が見えない。いっそAさんみたいに、自分が難病だったら、例えば、不自由な体に生まれついてたら、“必死に生きる”という目標ができる。それを望んでる自分がいる」
というのが、あったそうだ。
ぼくがその話を聞いた時、ぼくもまだ若かったので(でも、そのお便りの主よりは年とってた)
「なんて情けない若人なんだ」
と、即座に憤った。
「ばかじゃなかろうか。そして、生まれながらにハンデを背負ったAさんを深く傷つけてることに気づきもしないで、ほんとに、若さ故の無知な残酷さだ」と。
まあ、それが“普通”の考えだと思う。
もしくは、さらに分別のあるフリで、
「そんなアホなことを自分が言ってることに気がつかないほど、心が疲れてるんだね。かわいそうだね。でも、辛いことは永遠には続かない。だからがんばって」
と、「おっとなー」なことを言ってあげることもアリかな。
で、Aさんに「この人に何て言ってあげますか?」と訊いたら、Aさんは、(ぼくにとっては)すごく意外な言葉を返してきた。
「うん。じゃあ君も、障害を持ってみればいいんじゃないかな、って言うね」
それは、怒りのために自棄になって言ったセリフではなかった、ように聞こえた。
「僕はこの体に生まれて、本当に色んな経験をさせてもらったんですよ。だから、この人が言ってることを否定できない。だって、彼女が言ってるとおり、僕はホントに必死に生きてるからね。そして、それをホントにありがたいと思ってるからね」
その時ぼくは言えなかったが、それって、カッコつけてない? Aさん、と実は思った。
「でも、その病気を持たずに生まれてきてたら、少なくとも今よりは“楽”に生きてこられたんじゃ?」
みたいなことを、なるべく彼に“怒られないように”まだるっこしい言い回しで訊くと、
「そりゃあそうでしょう。やっぱ“楽”に越したことはないよ。でも、『もしこうだったら』って話は、無意味だからね」
Aさんは物事をずけずけ言うタイプの人だったんだけど、それを「障害を持ってるから、強くなったんですね」みたいに言われると怒っていた。
車いす生活だったが、それを子供が無邪気に見つめたりすると、「おじちゃんの車、かっこいいだろ」とか言う人だった(某ベストセラーを書いた『五体不満足』の人みたいだけど、彼ではないですよ)
もう一人、車いす生活してる知り合いがぼくにはいるのだが、その人は逆に、
「車いす生活してると、子供が無遠慮に見てくるのが、キツイなあ」
と言ってた。正直だ(笑)
それを、親が「見ちゃダメよ」とかひそひそ言ってると、なおさら腹立つんじゃない? とぼくが訊くと、
「いや、『そうだよ、しっかりしつけろよ、親!』と思う」
という答えだった。
なんか、何書いてるか分かんなくなってきたが、要するに、どういう結論に近づいてきたかというと、障害者とか難病の人とかを、一束ひとからげにしちゃいかん、という当たり前の結論である。
だって、障害の種類も、病気の種類も、程度も、千差万別なんだから。
「“こういう人”には、“どういう”風に接すると、一番いいんですか?」と、単純な答えを求めるな。「いい人」「優しい人」のマニュアルなんかない、ということである。
こんな偉そうなこと書いてるぼく自身、気を使いすぎて逆に迷惑な接し方しちゃったこともあるし、街中で遭遇した障害者の人に、「何だその態度。特権意識、持ってんじゃないの?」と、悪魔な思いがこみ上げてきた経験もある。
結局、「人間同士のつきあい」だからねー。
ドラマに話は戻ると、最後の方で英雄が、
「やりたいことと、出来ることは、必ずしも別じゃない」
というセリフを言う。
このセリフには、縋ってみたいと思う今日この頃の自分(^^ゞ
そもそも英雄のお母さんが息子に与えた「父が遺したポジティブ思考」群の中に、なぜここだけ「多くを望むな」思考を紛れ込ませたのか、ちょっと疑問ではあったのだが。
おそらく障害を持って生まれた子の母というものは、気が強いことを知らず知らず「自分自身からも」期待されてしまうのだ。
でも、だからといって100パー「絶対に、諦めない闘い」だけで生きられるはずもなく。
その、たった一つの弱気な本音が、「やりたいことと、出来ることは、別だ」だったのだろう。
そもそも、この言葉、ほぼ全ての人間が日々実感してることだもんな。
正直、かぁなりご都合主義かな(昨今の「障害者ドラマ」は、昔の「可哀相だよね」「みんな、助けてあげようよね」思考は失礼、「彼らはちゃんと力を持ってるんだ」「明るいんだ」という思考でいこう、という極端から極端へと走りすぎな傾向がある)という感想を抱かせたドラマではあったのだが、このセリフがあったことと、やはりニノの力演で、後味は悪くなかったです。
『マラソン』・・視てみるか(可能性はハーフだな)
2009年03月28日(土) |
「Secret Agent Man」 |
記録魔のならいで、今日は昨夜の『Mステスペシャル』で最も印象に残った「Secret Agent初登場の回」(2000年3月10日放送)を、掘り出してきました。(当時は諸事情あって、リアルタイムでこの番組を視ていない。録画だけはしていたのを、今回9年ぶりに初めて視ました。だからビデオレコーダーは捨てられないのじゃ( ̄^ ̄;))
視たらびっくり! 同じ日にきんきっずも出てたんや。(←失礼)
楽曲がフォーク調の「好きになってく 愛してく」だったので、衣裳が思いっきり地味☆\(−−;)
二人の髪も、そろって濃い茶色の普通な感じできんきっず史上最も“一般人”ぽい男の子っぷり。
歌はカラオケと生演奏(FIVEの第一期メンバー)のかぶせ+生唄という、当時のKinKiパターンで、懐かしいというか新鮮というか。
ま、その話は今回どうでもよい(何だと!?)
あっ!(?)
光ちゃんこの日も歌詞間違えとる・・・(×_×)(←き、気にするな/汗)
Secret Agentの時とかぶってるメンバーのような気がしますが、途中からJr.が30人ぐらい周りで踊り出すのが、これまた懐かしい(ハセジュンとか、亀とか、いますねー/笑)
さ、SAの方に話を戻そう。
何で当時こんなユニットがあったのか、という話からになります。
正解は、この時期日テレ(別局じゃないか!)で放送されていたドラマ(けっこう視聴率高かった)『平成夫婦茶碗〜どケチの花道〜』(主演はヒガシ、奥さん役は浅野温子)の主題歌だった。です。
ですが、ぼくは当時、このドラマを視てなかった。
なので、この曲に関するぼくの知識は、
「当時、日テレ日曜朝のJr.番組(これは、時々視てたんだなあ・・・)でこの直後の時期に放送していた『SPACE ANGEL 2001円宇宙の旅』のエンディングテーマだった」
であります(ショタです! すみません!!←昨日に続いて逆ギレ2)
この時は既に亮ちゃんが“顔出し”で歌ってる映像だったので、Secret Agentの話題性には、全然関知してなかったっすね。
あと、その時はヒガシが参加してないバージョンだった。
楽曲そのもののお話しになりますが、この曲はそもそも1966年にアメリカで放送されてたドラマ『秘密諜報員ジョン・ドレイク』の主題歌だそうです。
そういわれればなるほど、当時流行ってたゴーゴー(古い!)のリズム。GSっぽい雰囲気がノスタルジーをそそりますな。
しかも、日本でのカバーはこれが初めてではなくて、1988年にRCサクセションがカバーしてます。歌詞が(○○な意味で)すっばらしいです(さすが清志郎)ところがこの歌詞も、2009年の今になって聴くと、なにやら複雑なのよね。世の中って単純には出来てないということを、思い知らされますよね。
当時モロモロ話題沸騰だったアルバム「カバー」に入っておりますので、興味のある方はぜひともご一聴されることをお勧めします(お前はユニバーサルの回し者か?!)
翻ってジャニーズ版(?)は、松井五郎が人畜無害な(コラ)ラブソングの歌詞をつけており、それを当時美少年全開の(なんでそう、いつも、棘なの? アナタは)ボーイソプラノ亮ちゃんに歌わせとるあたり、ジャニーは根っからの▽▽(はっきり書くと、大変なことに←なら書くなよ)だと確信させられます。
あー、この時のまま時間が止まっ◎※☆〓ば△*★のにね(←ほんとーに、大変なことに、なるぞ!!/怒)
う、嘘です。今の亮ちゃんも、カッコいいです(←適当に言い繕うな!)
ショタのたわごとなので、本気にしないでください。
あのさ、亮ちゃんこの時12歳ぐらいにしか見えないけど、15歳だったのよね。
だから、見た目は小学生みたいだけど、中身(頭脳や性格)は既に中三(もうじき卒業)だったわけ。
言ってみれば、江戸川コナンよね(違う!)
亮ちゃんのバックは「関西Jr.(今の関ジャニ∞の前身)のそのまた予備軍」(でも、五関くんとかも、いるなあ)という、もう覚えきれない連中+その他大勢のJr.。
ヒガシのバックは、何とMA(ヤラヨネ、アッキー、原君)でした。
ヒガシも脂が乗り切ってた時期だし(いや、今がどうとは/汗)、むしろジャニーズにとりたてて関心のない人の方が、このパフォーマンスには諸々感動する気がします(たとい全部口パクでも←こ〜ら、こらこらこら!)
ジャニーズ、すげぇ(◎_◎;)って。
だから処分できないわけよ昔のテープが( ̄^ ̄;)どうしようホントにどうしよう
2009年03月27日(金) |
『MUSIC STATION SP>>>あなたが選ぶ もう1度見たいMステ秘蔵映像BEST50』 |
連日の締め切りから解放されて、久々に3日間もお休みです!\(^▽^)/
なので気が大きくなって、帰ってテレビつけたらやってた『日本テレビ開局55年企画・読売テレビ開局50年企画 特別金曜ロードショー「ルパン三世 VS 名探偵コナン」』を最後まで視て、その後Mステの録画を(削除すべきところを確認のため←余計な一言)この時間まで視ております。
(軽くコメント)「ルパン VS コナン」、録画するほどじゃないけど、面白かった。
一頃よりルパンに思い入れがないのと(山田康雄さんじゃなくなって以来、ルパンは視てないの。意地になってるわけじゃないけど)、コナンはそもそも視てないので、偶然テレビつけた時に終わってたり、まだ始まってなかったら、多分視なかったであろう。
でも、さすがだ。やっぱりそれなりに面白い。
それと、二つの作品のキャラクターが、違和感なく“共演”していた。
絵には少し隔たりを感じたが、お話として成り立っていた。双方の主要キャラクターの性格も、「この人はこういう場合、絶対こんなことしない」っていうところがなく(といっても、コナンの方をぼくは全然知らないんだけどね)
五ェ門お約束の「またつまらぬものを斬ってしまった・・・」もあったし(*´-`) 楽しく視ました。
さて、本題。
『ミュージックステーション』て、もう23年もやってるんですな。
ぼくが初回から視続けている(毎回視てたわけじゃないが)、数少ない番組です。
この番組、始まった当初は、当時各局で花盛り(盛り過ぎかけてた番組もあるが)だった音楽番組の中で、一番後発で「弱かった」。
他局には『ザ・ベストテン』があり、『ザ・トップテン』があり、『夜のヒットスタジオ』があった。
ところが、今残ってるのはこの番組だけなんだから、たいしたもんだ。
タモリ、すごっ(それか?)
まあ、他にも色んな要因はあると思うが。
んで、23年もやってると、もう一度見たい場面なんてとても決められない、というわけで、ぼくは投票しなかったんですが(だいいち、視たいのはその場面全部であって、細切れにポイっと一部だけ映されたって、逆に不満が残るだけだし)、今考えれば、あれ投票しとけば良かったかなーと。
「あれ」って?
そうれす、J-FRENDSが少年隊「湾岸スキーヤー」のバックダンサーをした、アラフォージャニオタ垂涎の名場面っす。ピンクが光ちゃん黄色がツヨちゃん(*^^*)
でも、今日出てきた「ベスト50」にも入ってなかったということは、やっぱぼくごときが投票してもムダでしたでしょう。
ジャニオタの主流は、既に「嵐の初登場シーンが見た〜い!」(つまり、当時を知らな〜い!)という世代なのれす(−−;)
悔しいです!(×_×)
ま、時は流れゆくもの。いつまでも菊吉じじい(←ジャニオタ的には、何て言うのか? たのきんババァ?)ががんばっててもしょうがないってわけで。
だが、今日見ててしみじみ思ったことは、
「ジャニーズだけのスペシャルをやってほすぃ(1時間枠でいいから)」
であった。
けっこう視聴率とるんじゃないかと思うんだが。
実は『ミュージックステーション』が始まってまだ数年(1年かも)しか経ってない時にやっぱり名場面総集編をスペシャルで放送したことがあって、その時は、ゲストが光GENJIのみで、内容も光GENJI天国(?)だった記憶がある。
傍若無人(こら)
こわいものなしのジャニーズ事務所であった。
きんきっずがらみでは、歴史に残る「3回うちひしがれ事件」がやはりランクインしていましたが(×▼×;)
実言うと、Mステ歴23年、ジャニオタ歴28年3か月(アホやろお前)のわたくしておどるが、今日の放送時間中最も盛り上がったのは、
「錦戸亮15歳メインボーカルとして初登場」
の回であった(≧∇≦)亮ちゃん、かわいすぎるっ!(←東山様を完全無視)
すみません! ショタで!!(←逆ギレ)
それと、タモリが休んだ回。これはとんだハプニングであったが、当時ぼくがこれを見ていて思ったのは、
「芸能人て、すげえなあ」
だった(堂本剛って、では、ないのか?)
出演者持ち回りとはいえ、全員集まってのリハーサルなんておそらく前日か当日だけだったろうから、ほとんどぶっつけ本番だったろうに、ちゃんと回せちゃってるんだもんなあ。
22歳という若さで(←やっぱ、「堂本剛って」じゃんか/もしくは「KinKi Kidsって」か)、この、テレビの中での振る舞いの玄人っぽさに、
「見た目の若さにごまかされちゃ、いかんな」
と実感したことである(←何言ってんだか分かんない)
実年齢はぼくの半分強(当時)でも、精神年齢と言うか「社会人年齢」は、一般人に換算すると高卒で27歳、大卒で31歳てところだったわけですからな。そらー安定感があるわけだ(それどころか、世の中には、上記の年齢になってもまだまだ頼りないヤカラも、いないではない、もんなー。自分のこと棚に上げて言うけど)
KinKi Kidsの「老成した」感じというのは、これ以前からぼや〜んと折々に感じてはいたのだが、この時に決定的になった気がする。
ショタとしてはマイナス要因な気もするが、むしろ、このアンバランスさに惹かれ続けて十ン年ということも言える。
実際、冷静になれ、彼らは、ぼくの息子世代なんだぞ、と時に思うのだが、なんか、ジェネレーションギャップを感じないような錯覚をしてしまうのは、このあたりにあるのだろう(昔は少年隊にさえ、「若い人って、やっぱ少し考え方が違うんだなあ」と思ってたぐらいなのに)
このごろ、内容が理屈っぽくてスミマセン(もともとそういう人間なんです)
さて、3日間の休み、どうやって過ごそう(*^^*)
明日あさっては世間も休みだから、人ごみの中には出たくないなあ・・・(上野公園が、ちょうど桜の見頃なんだけどね)
花粉症の症状も最近ほとんど出ないから、外の空気が吸いたいんだけどな。
とりあえず、寝たいだけ寝てから考えよう。(ぐうたら)
2009年03月22日(日) |
『マルグリット』(日生劇場) |
歌舞伎、歌舞伎、歌舞伎、ジャニ、ジャニときて、てくてく連チャン6Daysの締めは、輸入ミュージカル(ホリプロ制作)となりました。
主演は、一昨年のクリスマスイブに宝塚を卒業した(当時の)マイ・モースト・フェイバリット・ジェンヌ、春野寿美礼嬢(いや、もう“嬢”というお歳でも・・・っと、ごほっ、ごほごほ・・・☆\(−−;)こりゃっ!)
退団後初の「女優」のお仕事になりますが、去年、青山劇場のコンサートで半“女”半“男”の歌声は聴かせてもらってます。
だがしかし今回の役どころは、オペラで言うところの『椿姫』──かといってソプラノなのかどうか、とかの事前知識は相変わらず全く仕入れずに、無心で臨みました。
無心で観ての感想です。
うん、男役トップさんの退団後第一作って、みんなこんなものだ(←毒?!)
あのね、やはり「歌」というものをナメちゃいけない(いや、誰もナメてないと思う)
まだ女性としての肉体が成熟する前に(なぜいやらしい書き方をする?)皆さん歌劇団に入団されて、男役の方は、それまでの少女らしい細い澄んだ声を(そうでない人もいるが←いつものことながら一言余計です!)低く、太く、つぶしてつぶして幾星霜。十何年もそういう訓練をして、テノールの音域で唄い続けた挙げ句にお退めになるわけ。
それが、一年かそこらで、ソプラノになれるわけがない。
そりゃあおさは“歌の人”であった。
誰でも(?)知っている。
だが、「歌のトップさん」というのは、退団後第一作では意外とみなさん「見えない小石につまづく」というのも侮れない事実なのである。
主に、あれ? 高音が今イチ? という小石である。
でもご安心召され(何様?)
男役だった期間の半分も経てば(もちろん、その間人並み以上にボイトレをすればこその話だが)、もともと唄える人なんですもの、驚異の歌唱力が復活するものです。
そういう上級生たちがたくさん実在しますので、何の心配もしていません。
(娘役だった人の場合は、そもそもずっと高い声で唄ってきてるので、男役よりもずっとスムーズに現世(?)に帰ってこられる)
ただ、客席を占めるほとんどのお客さんが「おささんファン」であろうとも、高いお金をとる一般興行に変わりはないのだから、「トップさんのリハビリ公演」であっては困る訳だ(なんだか、すごい毒ですね今日は)(_ _ )女優・春野さんの今後に期待するが故なんですよ(本心)
残りの「作品を観にきた人」「他の出演者がお目当ての人」からすると、「主役の女優さん、ずいぶんほっそい裏声ですこと」という手厳しい感想を抱いたのではないか、と恐縮せざるを得ない出来ではあった。
実際、寡聞にして知らなかったが、主役のマルグリットのキーは、思っていたよりも相当高かった。
ファルセットを使えば充分に出るキーではあったのだが、「出ている」だけで、その声に酔えるほどの余裕の歌唱ではなかった。
ミスキャストだったのかもしれない。これほどキーの高い役じゃなくても、妙齢の(なーんか、棘があるなあ・・・)女性が主人公のミュージカルはたくさんあるしね。
でも、本邦初演作で主演ができたのは、やはり「元宝塚のトップさん」ならではの栄誉なのだから、一介のファンに過ぎないぼくが文句を言ってはいけないのもわかってる。
最初に高いハードルを越える機会があったことも、今後のおさにとってはむしろ良いことなのだと思うし。
と、おさファンの繰り言はここまで。
実は、繰り言を言いたくなるのも当然であって、作品自体(事前の煽り文句の割りには)あんまり傑作と言いがたいと思った。
劇中のマルグリットの「持ち歌」である「チャイナ・ドール」は美しい曲だが、ミシェル・ルグランと言えば思い出す大名作『シェルブールの雨傘』ほどの盛り上がりはない。他の曲も、一回しか観ないぼくのような観客にとっては、はなはだ印象の弱い曲ばかりである(ただし、『レ・ミゼラブル』や『エリザベート』とかの大傑作に比べてのことなので、話半分で聞いてください)
舞台面は、時代背景的に仕方ないのだが、常に暗いし(でも、ぼくは暗いのはむしろ好きなんですがね)
しかしそれよりも、何つっても一番感じたのは「内容、浅くない?」ってことだった。
作詞と脚本が、あの『レ・ミゼ』や『ミス・サイゴン』のコンビだというのに(でもまあ、『サイゴン』は、脚本自体はそんなに名作じゃない、という評価が多いが)、何だこの薄っぺらさは。
原作『椿姫』なんでしょ?(ただ『椿姫』も、オペラが有名だけど、話の内容自体は・・・どうだろ? ぼくはオペラは観たことないし、小説もちゃんと読んでないけど、国内制作のストレートプレイは観たことがある。主演は大地真央様でありました(*´-`) )
いえ、ストーリーはなかなかドラマチックではあったのだが、登場人物の行動とそれに至る心理が、なんか「適当っぽい」というと言い過ぎだが、出てくる人がみんな、考えが浅くて萎えた。
元人気歌手とはいえ、四十のおばさん(こ、こらっ)に、いくら昔ぽーっとなってたからと言って、今さら付き合いたいと思う若僧も、ちょいとスゴイと思うし(そのおばさんの、人間として、大人としての魅力、「さすがだ」とひれ伏すほどの品格を示すエピソードがちょっとでもあれば納得できるのに、出会ったその日に、爆撃の恐怖に乗じてキスしたくらいで、なんであんなのぼせ上がるんだ? 「吊り橋効果」ってやつ?)
そんな、大して思慮深くもなさそうなビンボくさい若僧にのめり込んでいくおばさんもおばさんで(「私の素顔の部分を、唯一まっすぐ見てくれるヒト」なんていう、中年女が若い男によく抱きがちな幻想に取り憑かれたのでしょうか)
二人で「危険な不倫(マルグリットはオットーの「奥さん」ではないんだが)ゲーム」にハマってやめられないだけにしか見えない、スキだらけの密会(見張られてるのが明らかな男の部屋に、ラブレターなんか残すな!)をだらだらと続け、案の定ばれて。
確か『椿姫』では二人は駆け落ちするのだが、女はのめのめ家に戻ってあっさり軟禁されて。嘘の三行半に若僧は怒りまくるだけで、女を命がけで連れ戻しにも行かない(この行動力のなさ)
『椿姫』でも、手紙で嘘のあいそづかしをするんだっけか。現代人の感覚なのか、「手紙なんて、いくらだって嘘書けるじゃん。何で信じるの?」と思っちゃうんだよな。普通そういう手紙もらったら、血相変えて会いに行かない?
ダンナ(いや、オットではない、オットー\(−−;)今そういうダジャレは要らん!)はいかにも類型的なドイツ人で、堅くて、面白みがなくて、いかにも享楽的な情婦にナメられてる。でも、金も権力もあるから、それで女をつなぎ止めようとしていて、明らかにそれは逆効果なのに。
批判の的が役者に飛んでしまうが、オットー役の寺脇“相棒”康文さん(←何だその余計なミドルネームは)、なぜ「ミュージカル」なんかに出ようと思ったの? 地球ゴージャスとはシマが違うんですぜ?(こらっ)
歌えないのは覚悟してたし、ずっこけるほど酷い歌唱ではなかったのだけど、オットーって、ナンバーはそんなに多くない代わりに、彼が歌う曲は、そのシーンシーンですごい重要な意味を持つ曲ばかり。普通に「歌える」レベルを超えて「セリフのように歌う」ことのできるレベルの俳優さんじゃないと、この役はやっちゃいけないって思った。
ビジュアル的には、ハンサムだし長身だし軍服も似合ってかっこいいのに、唸ってるみたいなソロを聴かせられて・・・こっちが唸りたくなりました(×_×)
地芝居は大丈夫かと思ったんだけど、ミュージカルではよくある「さんざん怒ったかと思ったら、急に態度を変えていやらしく女を責める」みたいなシーンがオットーにはございまして、その振り切れっぷりが今ひとつ。
こういう役は山路和弘がめっさ上手いのだ、彼にやらせろ! と悔しかったのだが、彼には身長的な難点が(−−;)また都合の悪いことは隠す〜
芝居、歌、身長全てを考慮したら、鈴木綜馬さんが最適と言うておどるデータが出ましたが、叶わないものだろうか・・・。東宝ミュージカルじゃないから、ダメ?(−−;)こらっまた
閑話休題。
おや、こうやって悪口をたらたら書いてきて気づいたのだが、マルグリットの周囲のフランス人たち(代表・ジョルジュ)が、なんであんなに狡い人たちに描かれているのか(オットーが死んで貧乏になったマルグリットを、ジョルジュがあまりにもストレートに罵倒するので、ぼくは鼻白んでしまった。日本的感性なら、あのシーンではジョルジュはあくまでも慇懃無礼にマルグリットを追い出すところだと思う。あんな風に「君の時代は終わったんだよ! メスブタさん!」みたいなことは言わない)、制作者側の真意が見えてきた気がする。
彼らは、マルグリットが羽振りのいい時は、腹ん中では「敵方のドイツ人に取り入って、甘い汁吸ってる売国奴、淫売女め」と思いつつ、自分たちはその淫売にたかる寄生虫。でも、売国奴なんだから、たかったっていいよね。と思ってたんだな。
でも、彼女が浮ついた不倫ゲームの果てに落ちぶれると(本人がどう思ってたかは別として、実はマルグリットは、その敵国ドイツ人将校をレジスタンスに暗殺させる手引きをした、ある意味フランスの英雄なんだがなー)、もう「吸える汁」がなくなったからとして、手のひらを返す。
そして、過去の罪(ドイツ人の愛人だった)を糾弾、リンチする。
そういう、当時(パリ解放後)の、狡猾で日和見主義の、いささか感心しない方面のフランス人たちの姿を、描きたかったのではないだろうか(占領されていた可哀相なフランス側にも、ズルいやつはいたんだ、っていう主張。作詞・脚本コンビは二人ともフランス人なのに、なんか偉いかも←単純思考)
単に、マルグリットを悲劇のヒロインにするために、最後に彼女を死なせる小道具としてのリンチではなく。
さすがだ。(いつものように、勝手に納得)
前日に、純粋に「愛」に突っ走る瑞々しい十代カップルの芝居を観てきたせいか(笑)、四十女と若僧の一時の気の迷い(待て)に、ついつい拒否反応を示してしまった未熟なわたくしですが(な〜んか、ひねくれてるな)、そう考えれば、マルグリットの「気の迷い」も、回り回って祖国のためになったってことか?
ただ、今だからこうやって脚本を深読みして様々にぶっとんだ解釈をしていられるので、観ている最中は、やはり「登場人物のみんなぁ。もう少し他人を思いやったり、世の中のことを考えたりしようよ・・・」と萎えてしょうがなかった。
ということは、言いたくはないが、やはり役者の表現力が、ちいと不足していたのかもしれない。
おさや寺脇さんに、もっと役を深く表現できるよう頑張ってほしかったのもあるが、他の人たちだってそうだ。
アルマン役の田代万里生くん。うたぢからは出演者の中で一番と言っていいと思う。
ただ、やはりオペラ(本業)とミュージカルは、親と子のような関係ではあるが、だからこそ違う点もいっぱいあるわけで。ミュージカル役者が「セリフを歌う」ようには歌えていなかった(でも、素質は満点だから、今後もミュージカルに出るとしたら、すごい楽しみ)
あと、ピアノが上手いのにはびっくりだった。
お父さんがテノール歌手でお母さんがピアノの先生という、いわゆるサラブレッドなのだった。
それにしてもアルマン、ソロ曲の多さはマルグリット以上なので、実はこっちが主役なんじゃないかと。
だからこそ、ソロ曲は「上手に歌う」こと以上に「セリフのように歌う」ことが大事だよ、と、遠くからエールを送るのだった。
アルマン自身が、あんまりよく脚本に描かれていないせいなのか、田代くんが「描かれている以上の人物造形」ができなかったのか、今イチ感情移入できない“主役”ではあった。
『レミゼ』のマリウスなんかも、あのジェットコースター・ミュージカル(笑)では、いささか人間性の浅いトンデモキャラクターなんだが、曲の良さと歴代のマリウスさんたちの積み重ねのおかげで、とっても魅力的な役になっているのだから、アルマンも今後どんどん「いい役」になるのかとは思うんだけどね。
逆に、よく描かれていて「役得」と言っては言い過ぎかも知れないが、アルマンの姉・アネットとその恋人・ルシアン、そしてバンド仲間のピエロが秀逸。
アネット(飯野めぐみ)とルシアン(tekkan)がパーティの帰り道で歌う曲がすごくキレイなハモりで、二人とも上手いし、是非もう一度聴きたいと思った。そして、ピエロは歌の聴かせどころはないのだが、芝居しがいのある役で、これまた山崎裕太が上手かった。この三人は、役どころも良かったが、役者も良かったです。
あーなんだか、またもや無駄に長くなってしまったので、この辺で終わりますが。
何度か観たら、さらに色々発見があって、浅いと思った脚本にも、見抜けなかった深さがあるのかもしれないが、今回の上演中はもう行けそうもない。
でも、もし再演があったら、また行くと思う(同じキャストであっても、別のキャストであっても)
同じキャストで再演になったら、役者の役の掘り下げも深くなるであろう(←何で偉そうなの?)
そしたらまた観たいと思うし。
ただ、(舞台はフランスじゃないが)同じ時代同じ状況(ナチス政権下)のミュージカルで、ぼくはあんまり好きじゃないが(また一言余計)『キャバレー』の方が、やはり何かと名作な気がする。
登場人物(主役とその恋人ばっかじゃなく、周囲の人たち)の描き方も深いと思うし。
音楽的にも(うわっ、それ言っちゃうか・・・)
さて、今月のてくてくはあと1本(ぼくにしては少ないな)
仕事も増えてきたので、また数々のてくてくが放置されるかもしれませんが、気長にお付き合いくだされば幸いです(保険をかけるな!)
2009年03月21日(土) |
『ロミオとジュリエット』(東京グローブ座) |
いやはや、先入観はホントにいかん。と思い知った連休中日。
これがあるから劇場通いはやめらんねー\(^^)/
嬉しい誤算(?)でした。
正直、わかるでしょ? ほとんど期待してなかったです(なのに、何故行った? と問われると、「内緒の事情です」と言うほかない)
ジャニ舞台、という先入観(昨日も言ったな、同じこと)
それだけではなく、脚本が、テレビドラマの人(彼女が書いたドラマは正直あんまり視たことがない。映画版の『電車男』ぐらい)という先入観。こっちの方が大きかったな。
ところが、それが逆に全てをいい方に変えてしまった。
そうか。そういう手があったか。心から感心しました。
歌舞伎とシェイクスピアに対するぼく自身のこだわりの違いもあるのかもしれないが、あれだけ大幅に原作と違うセリフを繰り出されても、その大胆さに舌を巻くことはあっても、「違う!」と苦虫を噛み潰す気にはなれなかった。
その理由の第一は、彼女(金子ありさ)が、主人公たちをいかにもイマドキのチャラい若者風に描いていても、原作の芯を全く失うことなく、描いていた点にある。
それどころか、何度かこの作品をいろんなアレンジ(正統派の演出で観たことは、逆に少ない。ヒガシ版ぐらいか)で観た中で、いつも最後にちょっとだけひっかかる点──なんでロミオは、“あそこ”でもうちょっと落ち着かないのか(\(−−;)コラ)──が、今回は「あーなるほど」とキレイにクリアになっていた点にも嬉しいショックを受けた。
ロミオって、もともとそういうおっちょこちょいなのである。(えぇ〜っ?!)
最初の方で、ロミオが街の女の子たちとチャラチャラしてるシーンを作ったことにより(もちろん原作にはそんな場面はない)、ロミオがどういう性格か、注意力はある方なのか(笑)をきちんと見せていた。
シェイクスピアは、歴史的にも世界的にも「劇聖」と称される戯作者だが、意外と細かいところがテキトーな作品も少なくない。ご都合主義なところもたくさんある。
こっち(観客)は、そんなところも「昔の偉い作家が書いたお芝居なんだから、変だと思っても言わないでおこう」という殊勝な考えで観ることが多い(出た。ておどる的決めつけ)
この『ロミオとジュリエット』も、原文には変なところやくどいところがいっぱいあって、時間的な流れもおかしいなってところも随所にある。
古今東西の才能ある演出家たちは、そういうところと闘っていくつかの名上演を果たしてきた。
逆に、その矛盾点にそのまま負けてしまって「シェイクスピアって、わけわかんないし退屈」という汚名を、かの劇聖に着せてきた力不足の人たちもいる。
そういうこともあるので、ぼくはシェイクスピア作品を観る時に、変なところやムリのあるところは省いたり入れ替えたりしてあっても、それが原作の精神をレイプしてるのでなければ、全然問題ないと思っている。
今回も、主要な登場人物以外(モンタギュー一派、キャピュレット一派の荒くれ者(?)たちがほとんどいなくて、モンタギュー側はロミオとマーキューシオ、ベンヴォーリオだけ。キャピュレット側はなんとティボルトだけ)をほとんど省いてあって、そういうのが必要な場面は、何役も演じるコロスの皆さん(これがみんな上手い! 祝着!)にやらせたりしていたところは面白いと思った(これは演出の吉川徹先生のお力かもしれない)
それどころか、ロミオの母親が彼を産んですぐ死んだ設定にしたり、ティボルトが、ジュリエットを好きな設定にしたりと、ある意味むちゃくちゃな「独自の解釈」もあったのだが、その一つ一つがトンデモ設定ではなく、その背景が本人たちの行動にちゃんと意味をなすように作り替えられていたことにも感心した。
いや、ティボルトのくだりは、正直ちょっと疑問だったのだが、まあいいでしょう。腹が立つほどでもなかったし。
※後日わかったことなのだが、金子氏は下の方に書いてあるフランス版ミュージカルをご存じだったようで、そのミュージカルの中でティボルトがジュリエットを好きだっていう設定をパ(略)らしいなどうも。※
ティボルト(ハセジュン、ちょっと見ないうちにびっくりするほど美形になっていた!・・・ジャニーズに入りたては確かに美少年だったが、ちょっと育ったら十人並みになってた気がしたのだが・・・。斗真といい、侮れんなージャニーズ←?)が、ロミオと争って死ぬとき、わざと自分から刺されたのは、この「ジュリエットのことが好きだった」という設定とリンクしてくるのだが、この点はぼくにはちょっと余計に思えた。
ただ、このシーンの殺陣の作り方が面白かったのと、演じている役者の持ってる雰囲気もあってか、正統『ロミオとジュリエット』というよりも、『ウエストサイドストーリー』のトニーとベルナルドのシーンが再現されているような、ある種面白い効果を生んだと思う。
とくればリフなのだが(笑)、そのマーキューシオ(翔央は毎週テレビで顔を見てるので、特に「育ったなあ」とかいう感慨はないのだが、実際に見ると、なんと顔がでかいこと!(あっ・・・言った/汗)舞台人に向いてて、いいと思うよ/笑)の生い立ちも複雑に作り変えられていて、金子ありさという人の作劇の姿勢というものを面白く感じた。
本当はマーキューシオが「モンタギューも、キャピュレットも、滅んでしまえ! 畜生!」と両家を罵倒しながら死ぬのだが、それがティボルトに置き換えられていたのも、この辺と矛盾しないようになっている。
登場人物を単なる「ストーリーを動かす駒」としてではなく、一人ひとりにバックボーンを持たせる細やかさが、この人の基本姿勢なのかも知れない。今までほとんど視ていなかったが、今後ちょっと注目したい作家である。
ただ、「ちょっとやり過ぎではないか?」と思ったところも、ないではない。
ロミオがマンチュアに追放されてからの生活は、原作には特に描かれていない(たいして重要ではないとシェイクスピアは判断したから。ぼくもそう思う)のだが、今回金子氏は、ロミオが貴族を捨てて貧乏暮らしをしてるという設定にした。
ロミオは運送屋のアルバイトをして(ホントだよ!)せっせと金を稼いでいるのである。
これには驚いた。現代人(ことに、上田のファンであろう若い娘さんたち)のリアル思考に訴えるためだったのかもしれない。
この辺は要ったのか? 正直疑問に思う。
舞台が突然、14世紀のイタリアから、21世紀の日本になっちゃったからである。
要ったのかなあ? ここだけがどうも引っかかった。
現代人にも分かる、等身大の若者として描きたかったという気持ちは汲めるんだけど・・・。
ついでに(?)これは演出に対するちょっとした疑問だが、ラストシーンであの有名な映画のテーマ曲(ニーノ・ロータのやつ)を流したのは、ヒキョーではないだろうか。あれでは、ぼくなんかの世代は条件反射の犬のごとく泣いてしまうのだから(T_T)←いやなの?
だって、できるなら、脚本の力で泣かせてほしかったのだもん。
さて、キャピュレット側に話が移るが(ロミオについての詳細は、主役なのでまた最後に/笑)、まず、乳母をすごく若くして「ばあや」というより「姐や」にしていた。これには深い理由付けは感じなかったのだが、なにしろ演じたのが超絶実力派の入江加奈子なので(ソロ唄がなかったのが、残念無念)、出てくるたびにうっしっしと喜びながら観ました。
それとジュリエットの母親、初めてお顔を見た気がしたのだが、パンフレットで名前を確認してびっくり!
ミュージカル界ではその名を知らぬものはない岡崎亮子先生であった!(現役の女優さんとは知らず、失礼致しました)
そしてジュリエットの父親(梅津義孝さん。時々拝見する)、彼が娘ジュリエットと大公の甥であるパリスとの縁談に複雑な心境であったことを今回は見せたのが、これまた面白かった。なんだかやっぱり金子ありさという人は、連ドラの脚本家らしいところが多分に見える。
実際には、ロミジュリにおいてジュリエットの親父の苦悩なんていらんのじゃないかな(コラ)とか思ってしまうわけだが、今回、この親父が「お前が男の子(跡取り)じゃなくても、オレは喜んだ」「お前を幸せにする(偉い人と結婚させる)ことだけが、オレの何よりの願いなんだ」「そのために、どんないけ好かない連中とも本心を隠して付き合ってきたんだ」と胸中を吐露するところで、唯一、ぼくは泣いてしまった。
そういう父親の「愛」が娘を殺してしまうことにも気づかない愚かさに、泣けた。
親って、本当に、ありがたく、そのありがたさが時に最高の重圧になる。
人間て、せつないな(T△T)←泣くとこ、普通の人と違いませんかね?
その父親の言葉を聞いて、ジュリエットはパリスとの結婚を承諾すると、嘘の約束をする(ロレンスのところに行くためでもあるのだが)
ジュリエットが、単に一途にロミオ、ロミオと言ってるだけの単細胞な娘ではなく、親を安心させるための嘘までを、たった一人の男を愛したために覚えてしまった──この脚本の深さに、ぼくは心底感動したのです。
ストーリの順番を無視してしまうが、このジュリエットの人物造形も、なかなか良い。
通常ロミジュリを観ててジュリエットに対して抱く感想は、「早熟だ」(なにしろ13歳だもんな。ただし、14世紀の13歳ですからな。その点は考慮しないと)「なんか、性格がよく分からない」(あんまり自分というものがない感じ。行動は時に大胆だが)て感じなのだが、今回のジュリエットは、最初はすごく引っ込み思案の女の子なんだけど、ロミオに恋した以降、どんどん強い女の子に変わっていく感じがすごく上手く描かれている。
原作では「この物語の発端ですから、細かいところは気にせず納得してください」的な(こらこら)、ロミオと初対面でいきなり恋しちゃうシーンも、自分に自信の持てないジュリエットが、ロミオのどんなところに惹かれて短時間のうちに恋してしまうか、また、ロミオが、それまでロザラインロザライン言ってたのに(苦笑)、ジュリエットに会って、なんでいきなり好きになっちゃうのかも、ちゃんと描けていた。
この辺、女性脚本家のなせる技なのかもしれない。
さて皆さんお待ちかね(笑)ロミオでございますが、さっきもちょこっと書いたように、まーそもそもロミオは「王子様」でも「貴公子」でもない。
ぼくもまだシェイクスピアをちゃんと読んだり観たりする前は、大昔のヨーロッパの貴族の息子さんなので、品行方正な男子をイメージしていたのだが、初めてロミジュリを観た時(改変モノではなくて、ほぼちゃんとしたやつは、『子供のためのシェイクスピア』だったかも。場所もまさにこの東京グローブ座で、演出は花組芝居の加納幸和さんだった)に、意外とアクティブな悪ガキであることを知った。
今回は、それにプラス、女好きでチャラい性格(そして、マーキューシオほど乱暴者ではない)
パンフレットを読むと、これは金子ありさが上田竜也のソロコンを観た時に抱いたイメージが元になってるそうだ(笑)
「チャラい」ってのはかつん全員のパブリックイメージではあるが(こっ、こら)、特に上田は「ギャル顔」なのも、そう思われる要因の一つだろう。
テレビで、常に斜に構えててしゃべらない(というより、かつんではしゃべる担当の人が別にいるからしゃべれないだけなのだが)せいで、「気取ってる」ととられる場合もある。
ホストっぽい、とか(笑)片ピアスだし(−−;)
その、いけ好かないイメージを(こ、こらこら!)どうやって払拭させ、観客に「主役の人」としてアピールするか、スタッフはその点に大変心を砕いたのではないか。
・・・と書いてきて、ふと思ったのだが、待てよ。今回観に来るのはほとんど上田のファンなんじゃないか? ぼくみたいに(略)なのは少数派のはず。
じゃあ別に、イメージ戦略なんか、必要じゃないんじゃん(身も蓋もないことを、言わないでください!)
ともあれ、上田のロミオは、まず、チャラいには違いないのだが、何より「ひねくれていない」のが一番の美点だった。
これはロミオの人物造形であるとともに、上田本人が(これは、ジュリエットの小林涼子にも言える)演技者として変にスレてなくて、自分の力で役をモノにしてやろうなんておかしな力みがなく、演出家に「こういうのがロミオなんだよ」「これがジュリエットだよ」と教えられたとおりに、素直に演じていた(ように見えた)からだと思う。
ほんに、実に、この一点だけで、ぼくは嬉しかった。
褒めてオトすいつものパターンで申し訳ないが、正直主役の二人(+マーキューシオ)には、演技の実力なんかない。学芸会に毛の生えたような芝居っぷりである(脚本家が、セリフを彼らの等身大の現代語に翻案してくれたからこそ、ちゃんとしゃべれていたのは明白である。いや、それでも時々ロレたり、がなりすぎて聴き取れないところさえあった。それでもぼくは満足した)
なのに、今回の作品、本当に感動させてもらった。
何故か。
主演の二人が、まさに「ピュア」だったからである。
「ピュア」なんて単語、こうやって書くのも恥ずかしいのだが、今回主演した二人の何が魅力だったと言って、この「ピュアさ」ほど感動したものはなかった。
願わくば、今回の成果に慢心せず、今後演劇に携わっていくつもりがあるのなら、この素直さを忘れず(そうしたって、知らんうちにちょっとずつ失っていってしまうもの──それが無垢というものだから)に芸道に邁進していただきたい。
かように願うものであります。(終わり?)
そんなわけで、予想してたはるか上行く出来の『ロミオとジュリエット』であり、これはひょっとしたら伝説の舞台になるのではないか(おそらくだが、同じメンバーで再演したとしても、今回と同じ感動は味わえない気がする。さっきも書いたとおり、主役二人の「ピュアさ」がその鍵を握っているからである)とも思った。
(ぼくにとっての正統派ロミジュリ決定版“藤原竜也×鈴木杏”バージョンとは、まず脚本そのものが違うので、今回比べることはいたしませんでした)
いやはや、ほんと先入観は抱くものではない。(最初に戻る/嘘)
ところで、『ロミオとジュリエット』といえば、最近(つっても初演は2001年なのだが)フランスでミュージカル化された作品があって、ぼくはむろんちゃんと観たことはないんですが、その中の何曲かを、去年大阪の梅田芸術劇場で聴かせてもらいました。
舞踏会シーンの曲のかっこよさにびっくり仰天した覚えがあります。
日本でもやってくんないかな(来日公演でもいいのだが)と思ってるんだけど、来ませんねえ・・・。不況だし、しょうがないか(?)
この中の曲(確か、ルカス・ペルマンが当日唄ったと思う)を、フィギュアスケート女子のエレーナ・ソコロワが2005-2006年と2006-2007年のシーズンで使っていたそうなんだけど、実は覚えてないっす(^^ゞ
フィギュアの選手はミュージカルの曲を使うことが多い(ドラマチックが曲が多いからね)から、スポーツ観戦が全然好きじゃないぼくも、フィギュアだけはよく観てるんですが(新体操と並んで、ダンス観賞みたいなノリ)
まあいいや。要するに、ロミジュリは(シェイクスピアは、かな)人気あるなあってことです(?)
以上、蛇足な豆知識でした。
2009年03月20日(金) |
『カゴツルベ』(青山劇場) |
うーん、これはぼくが悪いわー。
頭が固いぼくが悪い。
主演・安田章大ですが、決してジャニーズ演劇(なんてジャンルがあるのでしょうか?)ではなかった。
が、終始「ちがうなー」と思わずにはいられなかった。
タイトルでもうお分かりのように、基になったお話は、歌舞伎の『籠釣瓶花街酔醒』(通称「籠釣瓶」)です。
人気狂言なので、よく上演されます。観る度に(その時の役者の演技の違いにもよるのだが)新しい点を発見できる(深い意味で)複雑な話で、ぼくも大好きな演目の一つです。
その思い入れが強過ぎたのだろうか。本来なら「原作とは違う」ストーリー展開を若い(のよ、ぼくから見れば(^^ゞ)劇作家(毛利亘宏氏)が華麗に展開すれば、「血気(と才能)を感じ」て感心するべきなのだが、今回はむしろ「ものがたりの捉え方が(ぼくと)違う」点ばっかりが気になって、どうにもダメだった。
一番ダメだった点は、「分かりやすい悪役」(兵庫屋お辰&九重夫婦)が出てきてしまったところ。
二回目を言ってしまうが、ぼくは『籠釣瓶』というお話の、「誰が悪かったのか、何度観てもわからない(観るごとに、その印象が変わる)」という複雑なところが好きで、それは原作者のお手柄というよりは、何度も上演してるうちに、その時々の事情(道徳観の移り変わりとか、身も蓋もないところでは役者同士の上下関係とか)によって、演出が煮詰まってきてるせいでそうなってるのだと思う。
何度も上演してるうちに“その時の観客の感性”にジャストミートしていくってところが歌舞伎の素晴らしいところでもあり、しょうもないところでもある。この狂言も、それの典型だとぼくは思っていつも観ている。
そういう特異な演劇と比べちゃいけないのかも知れないが、今回観させてもらった『カゴツルベ』は、結局そういうところが演出家一人の解釈によって明快になりすぎていた。
毛利氏の解釈と、ぼくが『籠釣瓶』に対して魅力だと思っているところ(ここにこだわるところが、ぼくの頭の固さなんだろうと思う)が合わなかったというだけのことなのだ。
もう一つ、上記に関連するところではあるのだが、描かれている風俗の不正確さも、どうもダメだった。
そもそもぼくは、「歌舞伎」と銘打ってあっても、野田演出や渡辺演出、串田演出(いや、演出にはそんなに文句言わないの。衣裳に違和感を感じちゃうの。いつも)にも違和感を感じるぐらいのガンコ者だから、「こぉの、菊吉じじぃめ」と一蹴していただいてもいいのだが、今回も、衣裳の色合いのきつさに(主人公は絹問屋の若旦那なのに、なんでその本人が、あんな化繊みたいな安っぽい着物着てんの?!)、どうしてもなじめなかった。
それと、ものがたりの舞台がほぼ90パー吉原なのに、その舞台の基盤になっている吉原の制度や風俗が嘘だらけってのも、かなり気になった。
いや、花魁の髪型のデザインなんかは、あんくらい斬新でも面白いしかわいい(役者が若い女の子たちなので、むしろ歌舞伎みたいに「本物」のデザインにすると、全く似合わなくて逆に違和感が出る)し、ところどころミュージカルみたいな歌が入ったり(楽曲のレベルも演者の歌唱力も今イチだったが)ダンスが入ったり(こっちは逆に、ジャニーズなり(笑)、元ジェンヌなり、ミュージカル女優なりでレベル高し/笑)なんてところは、逆に良いと思った。
だが、ストーリーの土台となる「制度に関する嘘」は、お話から真実味をどんどん削いでしまうので、いただけないと思う。
一番「ありえへん」(←こら、ヤスのファンに媚びるな!)事例は、客が刀を預けないで堂々と見世に上がっちゃうところ(それどころか、座敷で刀抜いちゃってる(これは斬るためじゃなくて、刀身に自分の顔を映しているのだが)のに、大騒ぎにならないって・・・)
原作では、次郎左衛門が籠釣瓶を座敷に持ち込むときは非常に厳重に隠し持っている(まー、あの程度では普通バレるんじゃないかと思われるが、一応「隠し持つ」という気持ちが重要)
それぐらい吉原というところは、「刃物の持ち込み」に厳しかったのだ。当たり前である。そもそも岡場所ってところは、「男と女」の駆け引きに金が絡んでくる、この世で一番「ごたごた」が起こりやすい場所なのだ。つまりこの世で一番「用心」しなきゃならない場所なんだから。
こういうところでもう、ぼくはダメだと思った。
これから起こるドラマの全てが荒唐無稽になってしまうことを確信した。
観ていくと、「荒唐無稽上等」な作劇であったことがわかるのだが(次郎左衛門が、肌身離さず籠釣瓶を持ってないといけないストーリーだから。あれはライナスの毛布なので)、ぼくは元来「一番大きな嘘を人に信じさせるためには、細かいところでは絶対に嘘をついちゃいけない」という詐欺師の定法は、演劇にもそのまま当てはまると思っている(演劇は「合法的詐欺」だから←コラ)
「ここはウソでもいい」「この点に関してはウソをついてはいかん」というラインが、演出家とぼくとの間で食い違っていたのだろう(これは、他の演出家でもたまにあるので、もちろんいつでもぼくの方が正しいとかいうつもりはない)
さらに、花魁言葉の中途半端さ。
若い女優が覚えきれなかったなんて理由はさすがにないだろう。脚本家がちゃんと書けなかったのだと思う。もしくは、ちゃんと書く気がなかったか。
でも、八ツ橋の愛想尽かし(ってほどそもそも長いセリフではなかったが)は、木で鼻をくくったような花魁言葉だからこそ迫力があり、残酷さが増すのだ。
一番大事と言っても過言ではないのでありんす(←お前こそ中途半端!)
うーん、「権勢を誇った吉原一の花魁」を、「歌舞伎町No.1のキャバ嬢」ぐらいにしか思ってないのだろうか。
それこそ“格”が全然違うんだけど。
そう。「吉原」が「歌舞伎町」にしか見えなかったのも、何だかなー、と思った原因だったのだろう。
もちろんぼくも現実を知らずして当時の「吉原」をいたずらに「夢みたいにきれいだったんだろうなー」なんて思ってはいない。
だいたい、電気のなかった時代である(?)。いかな「不夜城」とはいえ、夜の吉原なんて、今の歌舞伎町どころか、国道沿いのコンビニほどの明るささえなかったであろう(ちょ、ちょっと・・・/汗)
そういうことじゃない!(自分ツッコミ)
歌舞伎町っぽいっていうのは、ぼくらが今の歌舞伎町を見て感じる「夜中までも賑やかでどこもかしこもデンキがついてるけれども、いかにもヤ○ザで淫靡な空気が充満している、物騒で下品な街」(歌舞伎町をクリーンな繁華街に盛り立てようとしている新宿区商工会の皆さん、すみません/汗)みたいにしか見えなかった、という意味である。
いかにも吉原自体、「政府公認売春街」だったのであるから淫靡なのは当然なのだが、それは内部を知るようになって初めて感じることであって、当時、夜が暗いのが当たり前だった時代に、初めて「江戸」を見たイナカの人の目に映った「吉原」の、圧倒されるような“非現実さ”が、舞台上に再現されていなかった、とぼくは言いたいのだ。
次郎左衛門が初めて八ツ橋を視た時に、「こんなキレイな人と、お金出せばSEXできるんだ・・・」なんて思ったみたいに観客に思わせちゃ(いや、そんなこと思ったのはアンタだけでしょうが)ダメなんすよ。
ただひたすら、「こんなキレイな人、初めて見た・・・」と思っただけにとどめないと。
つまり、八ツ橋の登場シーンは、「こんな美女が、こんなに着飾っていても、しょせん売春婦」と思わせるような背景(美術)では、台なしなのだ(のっけに吉原を「淫売の巣窟で〜す!」みたいに描き過ぎ)。これは『近松心中物語』ではないのだ(あっ、コラ/汗)。『カゴツルベ』なのだ。その違い、分かりますか?(←こんな説明じゃ、わかんないだろ)
きっと『近松心中物語』に出てくる梅川のような女郎と、八ツ橋のような花魁との“違い”を、毛利氏は知らなかったんじゃないだろうか。
それか確信的に「同じだろ」と思っていたか。
それっていかにも「人間は平等である」と信じて疑わない現代人の感性だよね(いや、ぼくだって基本的にはそう思ってる現代人ですよ?)
栄之丞のキャラ設定も、やたら年齢が上すぎる理由がいまいち分かんない(西岡徳(←文字化けするので常用漢字にします)馬、今回の役はいまいち「?」だった。まあ、確かに上手いんだけど)
彼が死ぬところはメロドラマみたいな浅い展開(と、ぼくは思った)ですごくしらけたのだが、場内で何人ものお嬢さんたちが洟をすすっていた。・・・そうか、原作知らないと(決めつけ)、こういうところで泣けるのか。
そうなのよね・・・どうにも、人間描写が「浅い」と感じたのよね。
次郎左衛門の狂気も、原作から感じる得体の知れない恐ろしさより、無差別大量殺人なんかに対して我々が「きっとそういうことなんだ」という理由付けをして納得してしまう「それらしい」要因──主人公のコンプレックス──に落ち着いてしまっている。
それは別に間違ってはいないのだが、それを答えにするには単純すぎやしないか、と長年生きてくると思ってしまう(まあ「コンプレックス」ってのは「複雑な」って意味なんだけど)
顔は醜いけど、心はきれいな純朴な男が、その劣等感のせいもあって、大人の世界であっさりと騙されました。金もどんどんむしり取られ、身上を失いました。失うものは何もなくなりました。そして、そんな目に遭わせた人を一人残らず殺しました。殺人は犯罪だけど、主人公の気持ち、わかるなあ。
・・・『籠釣瓶』って、そんな話じゃないっすよ!(もうそれぐらいにしといたら?)
顔は醜いけど、それに対して劣等感はあるけど、心は別に純朴ではない、いい年をした金持ちの男が、別に全財産を失うほどトチ狂いはしないで、余裕をもっていい気持ちで女郎を囲おうとしたら、吉原のしきたりを無視した女郎に、満座の中で恥をかかされました。数ヶ月後、男は女郎を始め吉原で大勢人を斬り殺しました。当の女郎はともかく、どうして、何人もの罪のない人を男は殺さなきゃならなかったのか。わからん、どうしてもわからん。
そういう、不可解な、だからこそ恐ろしい話なんで、長年上演されてきたんだとぼくは思うのだ(江戸時代らしい「因縁話」が基礎にあるから、現代人から見るとつじつまが合わないんだよね)
話がどんどん逸れていってる(つうか、まとまらなくなってる)感じだが、役者連中はみんな真面目に(真面目すぎるくらい)取り組んでいたし、目を覆うほど下手な人は、そんなにいなかった。
(ほんと言うと、八ツ橋役の藤澤恵麻には全く感心できなかった(見た目が子供っぽく、吉原一の花魁としての風格がまるでない、歌が下手、芝居はそんなに下手ではないが、感心するほど上手くもない)のだが、それはぼく自身の「八ツ橋」という役に対する期待のハードルが高過ぎたからだと思い、ガマンします)
ひたすら、脚本に感心しなかっただけですので。
「それじゃ意外性がなくてつまんない」と言われると思うが、ジャニーズの若い役者が演じるなら、佐野次郎左衛門なんかよりも、やっぱり『女殺油地獄』の与兵衛の方がぴったしだろう。意外性がなさすぎるが。
ついでに言うと、与兵衛を演じるのに一番ぴったしなジャニッ子は、ぼくの独断ですが雰囲気と演技力では錦戸亮(^^ゞ ビジュアルなら横山裕(≧∇≦)と宣言しておきます(いずれにしても、大阪弁ネイティブが大条件です)
派手な立ち回りするなら『伊勢音頭』の福岡貢なんかもいいけど、大量殺人に至る背景が、現代人には伝わりにくいかも(お家再興とかお家の重宝とか絡んでくるからね)
といった感じでした。
いや、最後の最後にあれだけど、ヤスはずいぶんしっかり演じてましたよ。
風ぽん(風間俊介)とのコンビも、しっくりしてたし。
風ぽんは例によって熱演系ではあったけど、芝居のうるささはなく、きれいな脇役ぶりでありました。
芝居全体の中ではさほど主筋ではなかったのだけど、この二人が上方目指して旅するシーンを、二人だけのジャニーズダンス(笑)で運んでいくところがあって、ここが正直全編中一番面白かった。
役者の持っている特性を怖じずに見せる、といった点では毛利氏はいい演出家だと思う。
まさえちゃん(舞風りら)は、一幕と二幕では全然違う人に見えた。これは彼女のせいではなく、ぼくが一幕では舞風りらだと判らずに観ていたせいだ。視力がひじょーに落ちているのもあるが、声で分からなかったのは何故なんだろうなあ?
二幕の冒頭ですあま(変な名前だ。おそらく「八ツ橋」をお菓子の名前だと思って、同じようにお菓子の名前をつけたんだろう。「桃山」もそうだ)が位が上がって花魁として踊るシーンがあるのだが、ここの扇さばきの上手さはさすがだった。
以上、例によって前後不覚(←意味不明)な感想でした。
なんて美しい。 (−−;)な、なんか悪いもんでも食いましたか?
(無視)
(−−;)? あ、あの・・・(汗)
どうして、涙が出るのだろう。 ( ̄□ ̄;)○紫さんのエイキョーですか?
ちげーよ(怒)
花粉症だよ。
なぁんだ(ちょっと安心)
またも一人漫才をしてしまいましたが、昨日今日と東京地方、びっくりするぐらいの快晴で、さぞや花粉に苦しめられるかと怯えていたら、実は意外と、そうでもなかったのよ。不思議で、逆に不安
もー、発作的に山登りとかしたいくらいいい天気ではあったのだが、アーバン中年のぼくは、所用あっていつものように銀座へてくてく(といっても、何か観に行ったわけではなく、真実「所用」)
でも、鼻づまりもなく、目もカユくない春うららって、何てステキvと足取りも軽かった(ただし徹夜明け)
スギ花粉はお休み(って何?)だったのかしらね?
で、夜は当然宿題で、すっごい変な生活時間のため、今日もあとちょっとで連続覚醒22時間になってしまうので、明日に備えてもう寝ます。
明日も暖かいみたいだ。
嬉しいのだが、花粉が復活しないか、それが心配だ。
ついでに、○紫さん(一青窈に「名前に色が入ってるって、いいよね」って言ってたのは、あながち適当発言じゃ、なかったのね!←そういうこと?)がどこへ行きたいのか、それも心配だ(←コラ)
たぶん、奈良だね(意味が違う! ような、ある意味完全に正しいような・・・)
先週より何倍も面白かった昨日の『新堂本兄弟』の感想は、睡眠時間の確保のため、結局書けない(情けないよ、ホント)
そして今週は、毎月恒例「てくてく連チャンWeeeek!」
明日から日曜日まで、連日てくてくいたします。
『歌のおにいさん』の最終回と昨日の『新堂本兄弟』と、ベイベが出た『正直しんどい』(まだ諦めてない)の感想は、来週何とか時間をとって書きたいものです。
あさっての『正直しんどい』を観たら、きっとぼくも奈良行きたくなるだろうなあ。
(むしろ、文化財よりも)吉野山・・・。いつになったら行けるんだろう?(自分で実行に移さない限り、ダメだわね)
2009年03月13日(金) |
戦国シェイクスピア第一弾『BASARA−謀略の城−』(俳優座劇場) |
『マクベス』を戦国時代に置き換えてやる?
それはまさしく『蜘蛛巣城』だな。(ワクワク)
実は映画は観ていないんだけど、新橋演舞場で劇化された時(2001年6月)に観に行きました。
主演(マクベス)中村吉右衛門、妻の浅茅(マクベス夫人)を麻実れいと、ぼくにとっては黒澤映画以上の感激のキャスティングで、舞台ならではの様式美と迫力、役者陣のまごうかたなき実力に酔いました。
今回のキャストを見ると、主役のマクベス=松永弾正に天宮良、マクベス夫人=艶の方に加納幸和と、そこそこ(こ、こぉらあ!)のキャスティング。
作・演出の脇太平氏のことは全然知らなかったんですが、加納さんのマクベス夫人は是非観てみたかったので(それと、花組の実力派ベテラン役者があと3人出てるので)勇んで参りました。
そしたら、『蜘蛛巣城』では、なかった。(ここでやや、がっかり)
脇さん独自の、新構想によるものだった。
基本的なストーリーは、『マクベス』そのものだったのだが、登場人物に、実在した戦国武将を配しているところが『蜘蛛巣城』とは違っていた。
実在した人物を登場人物に当てはめれば、当然史実と違う部分が出てきて「時代劇マニア」の不評を買うことになってしまうと思うが、その辺はまあ鷹揚に・・・ってことで(←お前は宣伝担当か?)
で、この「実在した人物を当てはめた」ことによって、ひとつ思いがけない(脇さんにとっては「思い通りの」かもしれないが)効果が生まれた。
それは、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の三人が話に絡んでくるという点である。
三人の魔女が弾正に「お前は城主になる」と予言すると同様に、光秀と秀吉の二人に、「お前は天下をとる」(ただし“期間”を言わない)「お前も天下をとる」(ただし“どんな方法で”とは言わない)と、誰でも知ってる歴史的事実(笑)を告げ、消える。
これによって、『マクベス』が、遠いスコットランド(でなくても、戦国時代という大昔)の話ではなく、普遍的に人間社会がある限り「繰り返される」ものがたりであることを示す。
なかなか面白い構成だった。
ただ、ほめるのはここまで(こら! 相変わらず偉そうだな)
実は、前日の徹夜が響いて、第一幕の途中からすっかりタイムスリップ(つまり・・・気がついたら、休憩だった(_ _ )す、すまぬ)してしまった。
第二幕は、一応全部観た。
別にかったるいとかそういうことではなくて(おい! そう言ってるようなもんではないか!)、なんつーのか、気分が高揚しないまま終わってしまった。
イケメンの役者たちが(半分本当)体力と運動神経にもの言わせて(だから、そういう皮肉っぽい書き方をするな!)殺陣に芝居にがんばってるのに、悲しいかな、ところどころ「ねむたい」
誰でもいいから、登場人物に深く感情移入したいのに、その要素が、ちょっと足りなかった。
みんな、お話の「駒」として動いてるだけだったのである。
主演・天宮良は、グローブ座の『サド侯爵夫人』サン・フォン夫人で「このキャリアでこの演技力って・・・」(こっ、こら今ごろ!)とがっかりしたのを巻き返す出来で、なかなかよろしかった(思うに、サン・フォンて役が難しすぎるんですよね。そーですよね←必死)
ちょっと三津五郎を彷彿とさせる芝居でしたよ。
加納さんは予想どおりの感じで、がっかりもしなかったが、感動もせず。加納さんだったらこういう芝居をするだろうなー、と思ったとおりで、それだとやっぱり、「0.1がっかり」してしまうな。
(植本)潤ちゃんも同様。
原川さんと山下さんも、やっぱり同様。
ただ、この四方は、普段の芝居がそうだけに、時代劇のセリフと所作が板についており、実に安心して観ていられた。
他の出演者で知っていたのは、森田順平(『三年B組金八先生』の乾先生)・浩平(ミュージカルでは度々拝見)ご兄弟なのであるが、これが初共演とのこと。それにびっくり(^^ゞ
それどころか、このお二人が加納さんと親戚と初めて知って、それが今回最大のびっくり(≧∇≦)
いや、もっとびっくりしたことがあった。
『ヘブンズ・ドア』に二○○○が出ていた100倍のびっくりである(←相当尾を引いてる/笑)
三好長慶の息子・之康(『マクベス』でいうとマルコム王子)を演じていた、ひょろりとしたあんちゃん(←失礼)、その名も颯太。
新人だろうか? 歳もだいぶ若いし(プログラムによると21歳だそうだ)初めて見た役者なのだが、あごがしゃくれてて(こっ、こら!)金子貴俊にちょっと似た風貌。
別に下手ではないが、いかにも「初めてこういうセリフ言いました」みたいな感じで、逆の意味で気になりました。
で、ちょっと目の前の便利なハコで検索してみたら、
なーんと。
・・・そうだったのォ。ふーん。(−−;)あのー、自分だけで納得してないで、答えを言いなさい。
言われてみれば、そっくりだ。(−−メ)だから、言いなさいって!
いや、本人がそういう気持ちで頑張ってるのなら、ぼくもそれに敬意を表しますよ。
(念のため書いときますが、金子貴俊くんの弟とかではないです(^^ゞ)
それでわかった。あの楽屋花の訳が。
(颯太くんに来てた花の贈り主が、他の出演者たちに比べて)違和感ありまくりのメンツだったもんなー。
城田優&純兄弟からのお花も颯太くん宛に来ておりまして、そっち関連かと思ってた(いや、そっち関連と言えばそうなのだが)
何だか、色々「兄弟」関連でびっくりさせられる舞台でありましたが(苦笑)
舞台の話に戻るけれども、次作は『ハムレット』を戦国時代に置き換えてやるとのこと。
うーん・・・どうしよう(アレ?)
出るヒト次第かな・・・(色々褒めといて、結局それ?)
一応、参考ページ→新感線版『メタルマクベス』(2006/6/17観劇 青山劇場)の感想
予定外の仕事が1本入ってしまい、どうにも時間がとれなく、昨日のエントリで予告した更新はできなくなりました。
明日(13日)は夜にてくてくしてきますので、更新はその後になります。
すんません。
これだけでは何なんで。
今日の『5LDK』に深キョンが出演したので、コメントゲストとしてヤッターマン櫻井翔(何だそのネーミング?)、堂本兄弟レギュラーメンバーが出演。
プライベートでも仲がいいのはYUCALIだけみたいで(まあ、他のメンツがプライベートでも仲が良かったら、色々と問題が起きそうだ)、まともなコメントをしていたのは彼女だけ。
光一さんは、前もしてた「TOKIOリーダーがすごい話」
KinKiが出てる番組を何度もリピートしてる身からは「またその話?」(たかみーとトムに向かって一所懸命話してたけど、以前も彼らの前でした話だって分かってる? 光一さん)と思ったんだけど、この話を今回TOKIOメンが聴いたことが価値だったのかなと。←むりくり(コラ)
『メントレ』に光一さんが出た時のビデオが突然視たくなってしまったのだけど、そんなことしてるヒマはない! と自分に言い聞かせ、今仕事に励んでおります。
それにしても深田恭子さん。(?)
光一さん→Gackt→ミッチー→YOSHIKI→翔くん→マボ(えっ?)と、キミの言う「王子」のストライクゾーンは、広いなあ!(←何故お怒り?)
まあ、ぼくもヒトのことは言えませんが(分かってるなら、それでいい)
水曜日。
仕事は早く終わった。
花粉が飛んでない(←これが一番嬉しかったの(^▽^))
行こう。
映画へ。
というわけで、『チェンジリング』も『ヤッターマン』も観たかったのですが(話題の『おくりびと』は、去年の公開時に既に観ています←自慢)、もうすぐ上映終わっちゃう(こら)この作品を選びました。
でね、感想を一言で書くとね。
予想通りの“中途半端さ”だった(×_×;)どよん
(以下、まじでしらける完全なネタばれを書きますので、未見の方は読まないでください。本当に)
いちいちドイツ制作のオリジナル版と比べるのも意味がないし、本作は「比べる以前」の出来(あちゃー)でもあったのだが、既にぼくはオリジナル版『Knockin' on Heaven's door』を観ちゃってるので、どうしても「あ、ここはこうだった」とか考えてしまうのもダメな原因だったのかもしれない。
ただ、ぼくはドイツ版自体、そ〜んなに名作とは思っていない。
設定とストーリーを「雑だ!」と思ったのと、主人公の男二人が全然いい男じゃないので今イチ不満だった(こらっ)という記憶がある(なんか、青春映画にはつきものの「画面のビジュアル上の美しさ」も、なかったと思う。最後の海ぐらいだ、美しい画が出てきたのは。洋画にしては珍しいくらいだ)
ただ、音楽の入り方がキッチュでおステキと思ったのと、主人公が「もうすぐ死ぬ二人」なのに、演出はクスクスできる明るさに満ちていて、ストーリーも、笑えるところと深刻なところ、泣けるところが無秩序に出てきて、何となく現実離れしてるところもあって、そこがまたこの映画の一番いいとこだった(ぼくの大好きな邦画『チンピラ』に雰囲気が似ていた)
で、つまり残念なことに、今回の日本リメイク版は、その「雑」なところはそっくり残っていて、変にビジュアルのきれいさは向上して(だって、ベイベ(勝人)はめちゃ男前だし福田麻由子ちゃん(春海)は可愛いし)非現実さが悪い方へ転がってしまい、「都合の良さ」がオリジナル版では「そこがいい!」だったのに、リメイク版では「だから、都合よすぎるんだってば!」になってしまった。
例えば、逃げてる二人が警官に変装するところなんて、ドイツ版でも「うっわ、都合いい〜!(でも楽しい!)」と思ったところ。日本版では、ムリがありすぎる(だって、春海は中2の女の子なんだよ?)
このシーン辺りから、「この映画は『ファンタジー』だと思って観るんだ!」と自分に言い聞かせたのですが(それは間違ってないと思う)、それにしても、ここは洋画だからこそ通じるファンタジー部分だと思う。
日本映画ではファンタジーはムリ、と言ってるのではなくて(黒澤映画なんて、ある意味ファンタジーのオンパレードだし、他にも、立派なファンタジーを撮ってる監督はたくさんいる)、日本映画ならでは、日本社会ならではの、素敵なファンタジーに造り変えてほしかったのだ。
病院の食堂でレモンをばらまいたり、雨の中でダンスしたりとかいう絵ヅラ的なかっこつけなんか、むしろ逆効果で、「日本にこそある絵的な美しさ」を監督が撮れていないのが、非常に残念だった(って、監督のマイケル・アリアスは、アメリカ人じゃないか! そういう偏見で観たわけではないんだけど。だって、観てる間は、誰が監督だっけ? なんて一切頭になかったし←本当)
どんなに「洋画風」にカッコいい構図を撮っても、日本人俳優が出てて、日本の風景じゃ、恥ずかしいだけなんですよ。
だったら、日本ならではのカッコ良さを撮らなきゃ。ぶつぶつ。
ドイツ版でぼくが一番「ステキだなぁ」と感心したのは、トウモロコシ畑でのカーチェイスで、気持ちいいぐらいに薙ぎ倒されるトウモロコシと、その中をモグラみたいに必死で進む車が、のろまでおかしくて、警察とギャングの両方に追われてるのに、警察とギャングも敵対してるもんだから、三つどもえになっちゃって、わけわかんなくなっちゃって、涙流して笑ったもんです(このシーンを観て、「この映画、絶対ハリウッドとかでリメイクさせちゃダメだ! 絶対台なしになる!」と確信した・・・のだよ)
そういうところを、冬のリンゴ畑とかにしちゃったもんだから、全然面白くないわけよ。
そりゃ、日本で、たわわに実ったリンゴの木(か、もしくは黄金色の稲穂とか)をバリバリ薙ぎ倒しながら逃げたら、気持ちいいどころか、いやーな破壊感が残るだけだしね。
だからこそ、日本で作るファンタジーには、日本のルールが適用されなきゃいけないわけで。
トウモロコシ→リンゴという安易(失礼)な発想じゃなく、もっと、どうにかならんかったのかな? と思ったわけです。
ただその代わり、最大の“ファンタジー”っぽいところ──劇中でバンバンバンバンピストルぶっ放すのに、「一人も死なない(いや、たった一人だけ死ぬ。最後に脳腫瘍で事切れる、主人公のマーティン=勝人。ここが皮肉)」ところ──が踏襲されていたのは救いだった。まあ、日本版ではそんなにピストルぶっ放さないんだけど。
とにかく、こんだけ次々に犯罪が巻き起こるのに、“殺戮”がない。
そこがこの映画の一番ステキなところなので、そこは良かった。
あと、どっちにも言えることだが、マーティン(=勝人)が、都合のいい時にしか発作を起こさないってのが(黙れ!)
だって、現実は・・・ですよね?
下手すると、車運転してる最中に発作起こすことだって、ないとは言えないんだからね。
だから、この映画は、(何度も言うが)「ファンタジー」なわけよ。
しかしやっぱり一番思ったのは、日本人にとっては、「あとわずかの命」を、ドイツ版のように「豪快に無駄遣い」する価値観はなじまないんじゃないか、ということだ。
やっぱ日本人の場合、「残り少ない命」をどう使うか? と問われれば、何か、後世にまで残る、すっごい素晴らしいことまでは行かなくても、誰かの胸にいついつまでも残る、ささやかな功績(それこそ『生きる』みたいな)を成し遂げたいみたいな“欲”があって、やはりそういうストーリーじゃないと素直に受け入れてもらえないような、そんな土壌が社会にあるのでは、と思った。
いや、ドイツ人と日本人は勤勉さという点ですごくよく似ている、とか言われてるけれども、でもやっぱ、違うのじゃないか。
(まあ、ドイツ版映画が、ドイツだけじゃなく、日本やその他の国でも大いに受け入れられたことを思うと、そんな仮定はあっさり覆されてしまうのではあるが)
逆にドイツ版の方だけで「えっ? なんでそんな都合良く?(悪い意味で)」と思ったところもある。
最後の方で二人がギャングに捕まってしまい、絶体絶命のところにギャングの「ボスのボス」が現れて、
「海を見ないで死んじゃったら天国で仲間はずれになるから(これは最初の方でマーティンがルディに言うセリフ)、行きな」
みたいに、あっさり許してくれちゃうところ。
この「ボスのボス」の役を演じていたのがルトガー・ハウアーで、つまりいわゆる「大物のチョイ役特別出演」だったからこその「ここで、チョーカッコ良いセリフを一言!」というご趣向なのだった。でも、すっかり映画音痴になっていたぼくは、この人がそんな大物俳優だと知らなかったので、全然その趣旨が伝わってこなかったのだった(←つくづく残念な人)
で、今回のリメイク版ではここは踏襲されてなく(まあ、どっちにしても意味不明になるだろうからね)、その代わりに、ギャング(じゃないけど日本では)の片割れの渋いおじさんの方(田中泯)が、ボス(長塚圭史。今作中、ぼくにとっては大倉孝二と並んで二大“やったー!”キャストだった/笑)を裏切って勝人と春海を助けてくれる。
最初の方で、このおじさんが、そろそろボス(正確には「なんかあくどいことやってのし上がってきたベンチャービジネスの社長」)に見切りを付けようとしてるのかなー? ってところを見せていたので、この展開は実は読めた。
だから、二人が見逃してもらえる爽快感が今イチだったのかもしれない。
だいたい、刑事部長・長谷川役の三浦友和が「大物俳優のおいしい役どころ」を持っていってしまっていたからね。
ギャング(じゃないって、だから)のもう一人の方・大倉孝二が、オリジナル版でのお人好しで愛しい下っ端ギャングをそのまま踏襲していた感じで、多分、オリジナル版を観ないまま日本版を観てたら、こんな人が“敵役”で出てることに、もっと感動しただろうと思う。どっちにしても、今作中「一番好きなキャラ」です(^^ゞ
それはそうと、長谷川が、春海と同じくらいの娘を持ってて、離婚されて、親権を元妻に持ってかれて・・・っていう設定は必要だったのかな? と疑問である。だって、その設定がほとんど活かされてないのだ。
この設定を活かすとしたら、彼と勝人(春海を誘拐した、と勘違いされている)の間で、もっと心情的なゴタゴタしたものが生まれてくるはずではないのか? それこそ、顔見たとたん射殺されるぐらいの(それじゃストーリー変わっちゃうだろ)
もしかしたら、救急車のくだりで「わざと」二人を逃がしてやったあたりにそれが出てるのかも知れないが、それだって、春海に同情してじゃなく、勝人との間で「男同士の心意気」みたいなものを感じて逃がしてやった方が、この映画の主題に添っているのではないかと思う。
逆に、日本版の方がよく出来てたなあと思ったのは、勝人の母親に会いにいくシーン。
ドイツ版では、マーティンの「死ぬまでにやりたいこと」第一位が「プレスリーファンのママにピンクのキャデラックをプレゼントする」で、ギャングの金を使ってそれを実行するんだけど、いくら何でも、犯罪の金でもらった車を喜ぶ母親って・・・と、残念に思った。
この母親が、せがれが“誘拐犯”としてニュースにバンバン出てるのに、それも知らないってとこが、あまりにも不自然だったし(どんだけ辺境に住んでるんだよ、ってことだ)
(あ、ひょっとしたら、ママは全てを知っていたんだけれども、もうじき死んじゃう息子のことを思って、何も言わずに喜んだフリをしてみせたのかも知れない。一回しか観てないから分からないけど)
そしたら日本版では、さすがに、実家の近くまでは行っても、ついに母親には会わずに(正確には「会えずに」)終わってしまうのだ。
そして、このシーンで「死にたくねぇ・・・」とつぶやく長瀬智也の、超絶演技力に瞠目すべし! である( ̄Λ ̄°)
このシーンが見られただけで、1000円(や、安っ←すいません。水曜日だったので(^^ゞ)出した甲斐があったというものだ。
ただ、ここで春海が勝人に“例のこと”をするのは、あまりにも読め過ぎて鼻白んだのだけれども。
ここが、元々男二人のロード・ムービーだったのを、「男と少女」にしちゃった功罪と言うか・・・。
二人の歳がかなり離れているので、「やっぱりくっつくのかこの二人」的なことにしないで終われると制作者側は主張するのかも知れないが、『レオン』の例を待つまでもなく、28歳の男と14歳の女の子なんて、精神年齢的には充分すぎるほど釣り合うのだからね。
「やっぱそうなるか」と、かなりがっかりさせられましたよ。
また、このシーンでの福田麻由子が、良い! 良すぎる演技をするのだ。
だからなおさら、「そんな流れにしてほしくなかった」と、逆に思ってしまうのだ。
ラストシーン、(さあ、最もネタバレな箇所ですよ〜)ゆっくりと春海に身を預けるように倒れていく勝人。
美しい構図なんだと思う。
でもぼくは、ドイツ版での同じシーン──マーティンが座ったまま「どたっ」と倒れ、ルディはそれに気づいているはずなのに、まるでそれを見ていなかったかのようにその辺をゆっくり歩いている──が、サイコーに、マーベラスに、良い! と感動しただけに、
「うわー、日本的な湿っぽさが、ここで出たか」
と、げんなりしてしまった。
肝心のラストシーンが、一番がっかりだった、という、(違う意味で)泣ける映画になってしまった。
監督アメリカ人のくせに!(こ、こら)
なんで一番肝心なところを「日本ならではの弱点」で終わらせるかな〜?(怒)
なかなか「これ!」という映画に出会えないもんですねえ・・・(選ぶ基準が悪いんじゃないの〜?)(−−;)は、反論できない
そうそう、この日本版、ルトガー・ハウアーほどではないが(笑)ちょこちょこ面白い人たちがカメオ出演しています。
原宿のショップ店員にPAFFYの由美ちゃん、ホストクラブでベロベロになってる客に土屋アンナなど(*^^*)
彼女たちの登場シーンでは、客席から温かい笑いが起きてました。
あと、春海の母親役が薬師丸ひろ子だったりと、なにげに豪華キャスト。
しかし、その誰よりも、わたくしておどるを“固まらせた”豪華カメオ出演者が!
ホスト役の○○○○!(−−;)あれっ? 見えない・・・
(これはホント、観た人だけの「お得」)
いや〜、出てきた瞬間、「まじっ?!」と叫びそうになりましたよ(^^ゞ
映画宣伝のテレビ番組をけっこう視たつもりだったけど、どこにもこの情報は出てなかったよね?(と、思う)
いやー、やられた。
マイケル・アリアス(のコネだと思う。多分)、ありがとう!(←ゲンキン)
最後に軽く、主演の二人の役者について。
福田麻由子については、『女王の教室』を視ていなかったので(『SUMMER SNOW』にも出てたそうな! でも、幼な過ぎて覚えとらんぞ!)、『演歌の女王』がほぼ初見です。当時はまあ、いかにも子役上がりの達者さだなと思って視てました。
で、今作では、「まー、芝居が上手いな」と。
眼力があります。
ただ、育ってみたら、田中麗奈とキャラかぶりまくり。
これからが勝負かもな。
ベイベについては、今さら何を、って感じですが。
ただ今回は、ベイベが最も得意とする(?)「バカかっこ良さ」が突き抜けている役でもなく、かといって、意外とやってこなかった二枚目でもなく、ベイベの役どころとしてはありがちな「だらしなくていい加減、だけど純粋なヤツ」だったわけで、さほど新機軸でもなかったので、新鮮な感動がなかった。
そろそろ、本人のイメージとは離れた、「どんな風に演じるんだろ?」とドキドキするような役を見たいものです。
てな感想でした(長い!)
よし、明日こそ、『正直しんどい』(ゲスト・長瀬智也)の感想をアップしますからな。
乞うご期待(と、自分を追いつめるておどるであった)
ゲットしました!『アラシ☆タツノコ animation film of Believe』by Dwango!
600円もした。(←せこいぞ)
PVというより、全編「Believe」がBGMになっている短編アニメーション作品なんですね。
ぼくが嵐ファンだったら「うっそぉ〜、高い!」と思ったかも知れないけど、残念ながら嵐オタではなくアニメオタなので、満足です(^^ゞ
ただ、一回観てすごーく違和感があって、「?」と思ってもう一回観たら、その謎はすぐ解けた(←はじめちゃん?)
ドロンボー一味が、一切声を発していない!(ショック)
はたして問題は著作権なのか、制作費なのか(こら)
最大の残念でした(−−。)しょぼん
ただ、現在テレビで放送しているヤッターマンを視ていないので現在のテレビ版の絵のクオリティはよく知らないのだが、この配信版の絵は実にきめこまかくて丁寧に作ってあり(昔の雑(こら)な絵のアニメを視ていた年代として)心底感動。
きちんと嵐メン各自にも似ているし。
竜の子プロ、いい仕事しました(*^^*)
しかし・・・600え(←しつこい)
2009年03月08日(日) |
『新堂本兄弟』(ゲスト/千秋) |
もっと書くべき『兄弟』をだいぶん保留(なのよ、一応)しておりますが、更新グセをつけるため、本日の放送の感想を書きますん。
ぼくはトシのせいか、高い周波数の声の人がしゃべってるテレビ番組が苦手なんです。最近よく聴き取れないので(←嘘。小学生の時から、声の甲高い人は苦手だった)
千秋もその一人なんですが、ただこの人、「ぷぅ〜♪」とか言ってるわりに、話す内容はしゃっきりしている。見た目と違って、きっぱりとした性格だと思う(かと言って、別に好きってわけではない。出てるとチャンネル変えるほど嫌いではないって程度)
まあ特筆したいような話はしていなかったが(こらこら)
・・・『ウゴウゴルーガ』が出てきたのが、ちょいと嬉しかった。
『ウゴウゴルーガ』、毎日録画してまで視てたなあ(放送時間に起きられなかったから)。あの番組は、実に90年代を象徴していた。
スクリーンセーバーに動くミカン星人をダウンロードしたら、重すぎてよくフリーズしたっけ(←アホ)
ぼくは『ノンたんといっしょ』で千秋を知ったので、この人は(当時出現し始めていた)アイドル声優だと思ってたのだ。
今日出てきた大坪千夏との漫才は、まえだまえだ以下だったが(×_×)
と、あんまりきんきっずらばーらしからぬ視聴態度で視ていたら、最後にスポンと一発だけロケット花火が上がりました(何だその例え)
そうですか。29年と11か月生きてきて、「それ」が一番楽しかったことですか。良かったですこと(←なぜか皮肉口調)
いいよね、毎週のように「色あせない楽しい思い出」が更新できて。(あの〜。なぜ、そんなにも、不機嫌なのです?)
おらも欲しいよ、そういう「人生の楽しみ」が(なーんだ、単なる嫉妬か)
そういや「黄色いさくらんぼ」をつよっさんが口ずさんでいたことに、びっくりした。
なんで知ってるんや? こんな古い歌。
ぼくらの頃は、ゴールデン・ハーフが歌ってたんだけどね(←だから、話題が古い!)
あ、次々に思い出してきた(構成がわやくちゃだがね)
つよっさんのお父さんの「窓開けたまま洗車機に入った話」は、昔からよくテレビでしてたから知ってたんだけど、なんか、つい最近も聴いたよなーと思ったら、コンサートのMCで話してたんだよね。
その時に、「ゴルフの打ちっぱなしで、おとんをクラブで殴ってしまった話」もしてたんだけど、その話してる途中で早速観客放置が始まり(笑)、ひろぅいステージの上で二人ピッタリくっつきーの、二人だけで『プロゴルファー猿』の主題歌を歌い出しーのして、全然話が進まなかったことを思い出しました。
んー、ぼくの4x年間の人生の中で、一番楽しかった思い出って、それかな( ̄ー ̄ )←こらっ
とーなりどぉしアーナーターと、アーナタさくらんぼ〜♪(*^-^*)(←別の歌になっとる上に歌詞まで違うし)
久しぶりに『兄弟』の感想を書いてみましたが、すっかりカンが鈍っていることを実感いたしました。
ワナナバニ園。(←意味不明な締め。しかもこれはトムの言い間違いだし)
2009年03月07日(土) |
『ヤッターマン』宣伝番組を何となく視まくりました |
結局『ヘブンズ・ドア』を観にも行かないうちに、うちのDVDレコーダの中身は『ヤッターマン』宣伝番組のオンパレードとなっております。
ついでに(?)今日はなぜか『チューボーですよ』が録画されており、ナイツがキンキの煮付けを作るサマを律儀に視てしまいました(−−;)絶妙!「単語登録」
いや、予想通りBGMにKinKiの楽曲が使われており、それはそれで楽しかった(^^ゞ
閑話休題。
『新堂本兄弟』はもちろんのこと、『嵐の宿題くん』や『バニラ気分』、『ニュースZERO』制作の特番ももとより、深キョンが出た『さんまのまんま』まで思わず視てしまった後で、
「ちょっと、テレビ視過ぎちゃうか? 自分」
と今さらな反省をしとるわけですが。
なんか全体的に『ヤッターマン』、主役のはずの櫻井翔よりも、深田恭子(のコスプレ)の方が、圧倒的に大々的に注目されていると思ってさしつかえない(それは当然だとぼくも思った/笑)ただこれ、原作ファンには納得いかないんじゃないか?
もちろんまだ映画自体観に行ってないのだが、実際本編の方もドロンジョ中心にお届けされてるみたいな情報もチラホラ。これ、原作ファンには(以下略)
ぼくはテレビアニメの方は、そーんなにハマって視てたわけではなく(実を言うと、竜の子プロ作品は、その絵のバタ臭さが若干苦手)、映画化&実写化に対しても、思い入れや期待感、「変なの作ったら許さないかんな」感が薄い。
だから正直、観に行く気限りなく「ZE〜RO〜♪」(こらっ!)であった。
ドロンボー一味の毎回お約束のしょうもないメカ、ドロンジョやボヤッキーのお約束のセリフ、お約束の「お仕置きだベェ〜!」はもちろん知ってるし、それが実際出てきたら嬉しいと思うけれども。
あ、70年代に発生した元祖アニメオタクの特徴として、ぼくは声優マニアでもあるので、ますます実写化=興味範囲外ではあったのだ。
そしたら今回、ドロンジョの声をあててる小原乃梨子さんが一瞬出てくる(どういう形でかは知らない)という情報を得て、それだけのために(こら)俄然観に行きたくなってる今日この頃なのである。
それより、元々バラエティというか吉本新喜劇のような『ヤッターマン』(毎週同じことの繰り返しが、この作品の眼目だった)を長編映画化するのはなんでなんだ? (よりマニアの厳しい目があるかも知れないが)『ガッチャマン』の方が作り甲斐があるんじゃないんか? とかねてよりぼくは思っていたのだが、『ZERO』の特番で、『ガッチャマン』実写化の企画も進行中であることを知った。
それも、アメリカ制作らしい。
ハリウッド産といえば、ついに『DRAGONBALL EVOLUTION』が封切りになるのだが、テレビで予告を見る限りは、キャラクター造形力(つまり、原作に似てる力)は明らかに『ヤッターマン』の方が勝ってる(こういうところは日本人て世界一だと思う)
そもそも、3頭身が基本の鳥山明のマンガを実写化する時点で、どう作っても失敗だと思ってるんだが、ドル札束でほっぺたひっぱたかれたのか鳥(ピ──ッ)
そのデンでいけば、前述のように竜の子プロ作品は絵がバタ臭いのが特徴だし、『ガッチャマン』はハリウッドで作った方が良いのかも知れないが、作品中に流れる非常に日本的(と日本人には感じる)な「サムライスピリット」みたいなものを、果たして“ガイジン”に再現できるのかが危惧される。
別にSMAPでやれとは言わないが(ただ、中島哲也でやってほしいとは思っている)、『ガッチャマン』は日本で制作した方がよかったのじゃないかと思うのだ。
(そもそも『マッハGO! GO! GO!』の実写化って、成功したの? あんまりその実感がないが)
原作がマンガの場合、やはりコスプレの違和感がないかどうかが、原作ファンに受け入れられるかどうかの第一の決めてであることは確かだと思うのだが、第二にどころか最終的には、「原作の中に流れているスピリット」をはずしてないかどうかが最重要であろう。
だから、現在見た目では『ヤッターマン』>>>『DRAGONBALL EVOLUTION』なんだけど、実際にはしっかり本編を観て、中身がちゃんと原作レイプになっていないかを確かめてからでないと、あれこれ言ってはいけないのだよな(『DRAGON〜』の監督がこれまた、アメリカ人(中国系)なのに“OTAKU”らしいので、むしろ下手な日本人より「コダワリ」は持ってるかも知れない。その辺はよく知らないが)
と、まだ映画を観てもいないくせに長々書いてきて、そういう結論に達した休日でありました(←一番しょうもない客)
そうそう、話は『ヤッターマン』に戻るけれども、嵐が歌う主題歌「Believe」(よりも、やはり原作世代(より10歳ぐらい上だが)としては山本正之氏歌唱の「ヤッターマンの歌」こそが本当の“主題歌”であると主張したいが)は、このところの歌番組で聴かせていただいております。
嵐がダンス付きで歌ってるのを視た印象は、
「V6の「サンダーバード」にそっくりやないか」(曲がじゃなくて、その「造り」が)
だった。
ジャニーズって、永遠に同じこと繰り返すんだな・・・日本芸能界の偉大なるマンネリ文化だな、と、改めて感動したことである(←おおげさ)
そういや、こないだ偶然街中で「Ultra Music Power」(Hey! Say! JUMP)が聴こえてきた時、普通に「あれっ? 光GENJIにこんな曲あったっけ?」と思ってしまった。光GENJIの楽曲を全て聴いているこのオレ様(?)を勘違いさせるくらい、声も曲調もそっくりです。20年以上も経ってるのに、全く同じことをやってそこそこ成功させちゃうジャニー喜多川って人は、まじで天才だと思いました。
いやそれより、この「Believe」のPVの方が、実写版ヤッターマンより「ヤッター!」感(もちろん、実写版制作というご縁があったからこその快挙だと思うのだが)があるのはやはりぼくが元祖オタク世代だからでしょうか?(多分、日本では、実写の映像作家よりもアニメ作家の方が技術力が遥かに上だからってのも一因だろう)
このPVは是非とも手に入れたい!(←オタク丸出し)
2009年03月05日(木) |
(今ごろ)『歌のおにいさん』第一話〜第六話 |
史上最も寒い(?)おひなまつりでしたが、皆様どうお過ごしになりましたか?
ぼくはボチボチ仕事も再開し始めまして、土日は宿題を抱えながらも両日てくてくしたのですが、変な時間の使い方をしたせいで、またもやカレンダー上丸一日がどっかへ行ってしまいました。
日曜日の夕方から仕事を開始し、月曜日の早朝に一丁上がり。
それをメールで送って朝食作った後就寝(←変だぞ!)だって、月曜日は朝食作らなきゃならないんだもん。自分は食べなくても
起きたのが、午後3時。
その日の夜までの仕事があったのだが、担当者が「明日の朝まででいいですよ」と言ってくれたので、ここでぼくの最大の敵「なまけ虫」が目を覚まし、いきなり録り溜めていた『歌のおにいさん』を視始めてしまった!
これが、おもしろい!☆\(−−;)今ごろ何を言っとる?
いや、正直第三話ぐらいまでは、主人公・健太のやる気のなさ加減が苦痛だった。
自分を見てるようで(←情けない)
いくら主人公だからって(?)、なんでこんなやる気のない、自分の役立たずを棚に上げてぐずぐず不満ばっかり言ってるやつを、真鍋P(木村佳乃)はガマン強く使い続けるのだろう? ご都合主義だなー、と思っていたのだ。
「おもちゃのチャチャチャ」のくだりも、正直都合良すぎると思ったし(現実は、あんなに甘くねーぞ!←知ったかぶり)
でも、健太が何となく仕事に対してやる気を見せ始めて以降は、(ご都合主義は実は相変わらずなんだが)話がぐんぐんおもしろくなってきて、次週以降が、今から楽しみでしょうがない(って、あと2回で終わりなんだけど!)
最初の方は、多分健太自身のどよ〜んとした心理で描かれていたから、周りの人間たちの性格も、極端に異常すぎて、ついて行けなかったんだと思う。
それが今となっては、その極端さが愛しいぐらいだ(笑)特に、うららが(^^ゞ 片瀬那奈、サイコ──ッ!! 高松塚歌劇団、ばんざーい!(笑)
すっかり“おいしいキャラ担当”の新進俳優ぶりが板についてきた戸次重幸の「王子」も、まさか早々にいなくなるなんて、嘘だろ?! と悲しんでいたら、今週帰ってくるようだし(一時いなくなったのは、ひょっとして、大人の事情か?)
仕事を愛し始めて、周りの人間たちと真剣に付き合い始めると、「変なやつ」「やなやつ」ばっかだった周囲も、「それぞれに事情があり」「付き合ってみれば意外といい人」になってくる。その辺の描き方が、このドラマは(ちょっと甘くはあるが)上手いのだ。
まあ、未だに価値観として「?」なところはあるけどね。
二色刷りのチラシの小劇場ミュージカルなんか(こらっ、「劇団シーズン」だぞっ←わかりやすすぎるネーミング/涙)出るより、テレビで歌のおにいさんやってる方が、世間的には明らかにメジャーだろ、とか、思わないでもないし(こら、こらっ/汗)
第一、“歌のおにいさん”自体、いかに狭き門か、イマドキ素人でも知ってるしな。
まじで、音大出てないとダメのようだし。
チャイルドマインダーの資格は、要らないんだっけか? とか。
あ、そういやおーちゃんは、資格持ってたね(^^ゞ←それは関係ない!
ねえちゃん(須藤理彩)の見合い相手の、絵に描いたようなマザコンぶりもどうかと思うし。
安斎P(吹越満・・・今期ドラマ出過ぎ!)のマンガのような悪役っぷりもどうかと思うし。
いや・・・案外あれは実録版エイベッ(略)
ごほごほ。
まあ、最終回どうなるか、すごく楽しみです。
予定調和なニオイがぷんぷんするんだけど(褒めて、落とすな!)、ここまで都合良く「最後はみんないい人」になるドラマも、ある種清々しいもんでね。
んん、今まで視てきてふと思ったのだが、このドラマ、ストーリーは全然違うのだが、テーマが『夢のカリフォルニア』に非常に似ている気がした。
あのドラマは基本路線が暗く、途中すごい突拍子もない展開になったりもした(こらこらっ)のだが、お先真っ暗でうろうろしてた主人公(たち)が、最終回には何とか自分の行く先に光を見つけるってところで終わってたあたり、テーマがとても近い感じがする。
あれと同じテーマを、ギャグ満載かつお気楽な(?)雰囲気で描いたのが、この『歌のおにいさん』て感じがする。
『夢のカリフォルニア』が純文学なら、『歌のおにいさん』は青年マンガってとこかな。
別に『歌の〜』が落ちるってわけじゃなくて、表現上そうだっていうことね。
それにしても、満を持して主演した『魔王』の後に、がらっと性格の違う役の仕事を持ってくるあたり、嵐のマネージャー(つうか、嵐の仕事持ってくるのはジュリーちゃんだと聞くが、ホント?)ってウデあんじゃねーの? と、ちょっと羨望(こらこら)
いやいや、隣りの芝生隣りの芝生(呪文)
てなわけで、結局徹夜して火曜日始発で出勤(アホ)、仕事は午前中に終わったのですぐに帰れると思いきや、次々に仕事を言いつけられ帰ってきたのが午後4時。
意識モーローなはずなのに、また夜10時ぐらいまでHDDの整理を始めてしまって(アホ2)11時にやっと就寝。
昨日の夕方に仕事を受け取りに行くはずが、リスケになったとメールが入ったので、「やれやれ」と思って昼頃起き出したら、あらまあすごい頭痛と吐き気。
寝過ぎだろうか? と思ったのだが、起きててもどうせやることがないので(おいっ)また寝て。
いつまでも寝てられないので、薬が効き始めた頃に起きて、掃除したりご飯食べたり仕事したりしつつ、現在(5日朝)に至る(また今日が、辛いぞ?)
つまり、3月3日夜から4日夜まで、意識を失ったまま過ごしてしまったわけです。
空白の24時間(そんな、カッコいいもんじゃない!)
おかげで『どんなもんヤ!』聴き逃した(T_T)自業自得
うぬう、「てくてく」は一日置きにしないと、やっぱどうしても感想が書けなくなるな・・・(つうか、ムダな日記書いてるからだろ?)
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