てくてくミーハー道場
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2007年09月17日(月) |
『KEAN』(日生劇場) |
そのうち行ければいいや、と油断していたら、スケジュール的に今日しか行ける日がなくなっていて、慌てて観てきた。
“宝塚歌劇団星組日生劇場公演”と銘打ってあるんですが、違うでしょう。「轟悠とその他下級生たちの日生劇場公演」でしょう。ヾ( ̄^ ̄;)ちょ、ちょっとお待ちになって(汗)
いーえ、ぼくが正しい(何ムキになってんの?)
なんか轟悠さんという人は・・・(え? どしたどした?)ぼくは彼女が雪組の3番手だったころから生タカラヅカを観始めまして(テレビ観劇はその数年前から)
当時イシちゃんは、当時国民的ハリケーンアイドルだった光GENJIの大沢樹生そっくりのジェンヌがいる、ということでジャニオタからも注目されておりました。
ほんとそっっっっっっっっっっっくりだった。
ミキオ本人も認めたほどそっくりだった(無論赤の他人)
雪組にいた当時のイシちゃんは、ミキオに似てたってことからもご想像の通り、とっても美貌な男役ではあったのだけど、すぐ上に「生きてる少女マンガ」みたいな高嶺ふぶきという二番手さんがいたこともあり、背もやや低くて声が太くこもってたせいもあって(そして地黒だった(^^ゞ)、今イチ垢抜けないというか、野暮ったい雰囲気の人だった。
あたり役と言えば、『JFK』のキング牧師とか、『エリザベート』のルキーニとか、『風と共に去りぬ』のバトラーとか、『猛き黄金の国』の岩崎弥太郎とか、とにかく「色黒」「ヒゲ」「おっさん」(お、おいおい/汗)のイメージ。
なんか、世間一般でいう「タカラヅカのトップ男役」の正統派ラインとは、ちょっとズレた人だった。
でも、トップになることは確実視されてたし、結局その後順当に雪組トップに就任したのである。
ところがその後に、イシちゃんは他の人たちとちょっと違う方向へ進んだのである。
普通は何年かトップを務めると、結婚するとか、女優になるとか、その他とか、とにかくタカラヅカに長居しないで退団するのだが、彼女はなんと、「ずっとここにいてほしい」という歌劇団上層部のご要望のため、「専科」に異動したのだ。
それも、いわゆる「年齢が行ってないとできない役」のために駆り出される一般的な専科さん(ちょ、ド失礼じゃない? そういう言い方/怒)と全く違って、「年に1、2度、どっかの組に主役か上置きで出演」するという、唯一の「トップ専科」に就任したのである。
で、今日の公演を観てぼくが改めて思ったこと、それはとにかくイシちゃんは、いわゆる「各組のトップさん」とは立場的にも「俳優としての質」的にも違う、という事実である。
通常のタカラヅカの公演ていうのは、本公演にしても、トップ以外の人が主役を務めるバウホールものとか特別公演にしても、良きにつけ悪しきにつけ、主役をてっぺんに頂くピラミッド形式なのである。
下から順に上方向へリスペクトの連鎖で成り立っており、温かいというか、ぬるいというか、何となくほわわ〜んとしたムードが全体を覆っている。
これには、いい面もあれば悪い面もある。
内容がグダグダでも、最後にはなんとなくまとまっちゃうってとこが、ある面ではいい点だ。だが、演劇的な質でいえば、なんかプロっぽくないというか、よくいわれる「仲良しゲーム」的な感じになってしまう。
今までの「轟悠とその他下級生たちの公演」を全て観たわけではないのに言い切っちゃうのは実に乱暴なのだが、今回の『KEAN』を観て感じたことは、イシちゃんが主演する「特別公演」は、他の通常のタカラヅカ公演と違って、正味「轟悠の独り舞台」だということである。
彼女が雪組トップ時代には、こういうことは感じなかったので、もしかしたら決まった相手役がいない、ということがイシちゃんの「孤高っぽさ」を強調してしまっているのかもしれない。
要するに、今回の下級生たちが「使えなかった」ってことでは決してない。今回のヒロイン、南海まりはびっくりするほど上手かったし、蒼乃夕妃もすごい達者だった。他の娘役たちも良かった。男役だって、ぼくが星組で一番好きなちえちゃん(柚希礼音)をはじめ皆それぞれ好演してた。
でも、それでもなお、やはり「舞台の上には轟悠しかいなかった」と、ぼくは感じたのである。
もしかして、この『KEAN』という作品が、“役者もの”だったというのも大きく影響しているのかもしれない。
バックステージもの・・・まではいかないのだが、主人公の職業が「俳優」という作品は、なかなか観客の興味をそそる。
作品の中で、登場人物が「演じている」その上に、現実の俳優が「その登場人物」を演じている、という二重構造を覗き見することができるからだ。
ハムレットを演じるキーン、ロミオを、オセローを演じるキーン、そして、そのキーンを演じる轟悠。
観客は最終的には、その「轟悠」という虚構の(宝塚の男役ほど虚構満載の“俳優”はないからね)奥のイシクラトモコの本質までを覗き見したいという、悪趣味で甘美な誘惑に対峙することになる。
そして、そんな誘惑をしているのは、他でもない轟悠本人であり、演出の谷正純なのである。
本来、“現役の”タカラジェンヌだったら、恐ろしくてとてもできないはずのことを、あえて突きつけてくるという、実にスリリングかつ大胆な作品なのであった(そこに谷先生とイシちゃんの、演劇人としてのプライドや気概を感じた)
このミュージカルは、ぼくとほぼ同級生という古ーい(書いててショボン)作品であります。
19世紀初頭に大人気だった実在の俳優エドモンド・キーンを題材にした演劇作品としては、『キーン、或いは狂気と天才』が有名で、日本でも数年前に江守徹氏の主演で上演された。
それはぼくは見逃しているし、今回のミュージカル版『KEAN』に関しても、予備知識まるでなし。
エドモンド・キーン本人に対する知識も、ほぼ皆無でした。
事前の勝手な予想としては、シェイクスピア役者だし、理屈っぽい、躁鬱の激しいおっさん(といっても、ご本人は45か6歳で亡くなっていて、物語時点では38歳の設定──ま、おっさんだけど)が長々した哲学的なセリフをまくしたてる、高麗屋の芝居みたいな(こ、こら/焦)ものなのかなと思っていた。
膨大なセリフをまくしたてるって点は合ってた(^^ゞ
ただ、全然哲学的ではなく、なかなか色事師(そして、ご多分にもれず放蕩人)だったようで、愛だの恋だの借金問題だのと忙しい。
思ってたより、ずっと軽妙な内容だった。
ただその分、ラスト近辺にキーンが自分のアイデンティティと直面するあたりになると、ちょっと弱いかなと感じた。
脚本自体は弱くないのだが、残念ながらやはり「女性」ならではの線の細さが出たのかもしれない。
タカラヅカきってのおっさん役者線の太い男役と言われる轟悠にして、この点難儀していたのだから、相当な難役だったのだと思う。
セリフも(ところどころ聴き取れなかったけど←しーっ)達者だったし、難しい楽曲もよく歌いこなしてた(イシちゃんだけじゃなく、みんなが)ので、惜しかった。
ただ、途中まで観ていて、ぼくはこの役、是非いっちゃん(市村正親)で観たいな、と強く思ったのも事実である。
多分今の日本で一番の適役ではなかろうか(『ペテン師と詐欺師』なんてやってる場合では☆\(−−;)不穏当発言!)
だがやはり上の方に書いたように、もしいっちゃんだったら、「板の上の役者の本質の本質までを見たい」という観客の悪趣味な欲望を、ここまで甘美に掻き立てることはできたであろうか。
やはりここはタカラヅカならではのイケナイ魔力なのではないだろうかと思ったりして。
だって、本物のおっさんの本質なんて見☆☆☆\(−−メ)暴言二発目!!
作品そのものに対してもう一つ感想ですが、音楽がすごくいい!
ぼくとほぼ同級生(しつこい)のミュージカルということは、ブロードウェイの黄金時代なんだよな。いわゆる「ミュージカルミュージカルした」ロジャース&ハマースタインコンビの後の時代で、音楽的にもバリエーションが豊かになり始めた時代。
その時代そのものの楽曲ではなくて、当時からみた「粋な古典」という感覚の音楽でした。
なので、2007年の今聴くと、「相当な古典」(ほぼロマン時代のクラシックみたいな)なんだけど、そこが非常に俗っぽくなく、ぼくはとってもシビれました。
最初の期待値が低かったおかげかもしんないけど(今日も暴言三昧!!!)、観られてすんごく得した作品でした。
2007年09月08日(土) |
『ロマンス』(世田谷パブリックシアター) |
「ロマンス」と聞いて、
「アナタおーねがーいよ〜♪」と歌ってしまう人
は、30年前に青春真っ盛りだった人。
「ローマーンースーッ! ゥヲイッ(←かけ声)」右、左、右、右、左、右、左、左と体が動いてしまう人
は、ヲタ芸人。
今回の正解者は、
チェーホフの主だった作品と、チャイコフスキーの歌曲『ロマンス』を知っている、教養人。
でなくてはならないわけだが、
もちろんぼくは知らないのに、無謀にも行ってしまった。
知らなくても、大丈夫だった。
御大井上ひさし先生と、実力派の俳優陣のおかげです。
何といっても、台本が初日に間に合ったてのが快挙!(こ、こら/汗)
えと、基本的情報を記しておくと、内容はチェーホフ版「知ってるつもり?」。ロシアの偉大なる劇作家にして小説家、アントン・チェーホフの一生を、ほのかにおかしく、物悲しく、チャイコフスキーの『ロマンス』のメロディに乗せて、描いている(歌に関しては、やはり(井上)芳雄くんとお松(たか子)の若手二人が安心して聴けた。他のベテラン4名様の歌は・・・味があった(^^ゞ←ごまかすな!)
ステキだったのは、出演した男優4人が全員、チェーホフ役を演じるという仕組み。その変り目もナイスだった(特に、段田(安則)さんから木場(勝己)さんに変わるところがロマンティックだった)
演出の栗山民也先生には、実はつい去年の『MA(マリー・アントワネット)』で少々がっかりさせられたこともあって、あまり期待してなかったのだが、こういう、“派手禁物”の作品だと良いなーと思った。
ところで、この無教養なぼくがチェーホフで思い出すのは、YMOの散開アルバム『サーヴィス』の中でS.E.T(スーパー・エキセントリック・シアター)がやってたコントの一つ。
どっかの劇団の人気役者がテレビドラマに出ることになって、「それ、しらんかっとってんチントンシャン」というくだらないセリフを言わされるのだが、全然ウケない(当たり前)。なのに、ADが代わりにそのセリフを言うと、周囲が爆笑・・・という不条理コントなのだが、監督が繰り返し、「お前、劇団ではなんていうあだ名だって?」とその役者に訊く。すると役者がその度に「“チェーホフ”です」と答える、というギャグがあった。
つまり、「つまんないエンゲキ人」=「チェーホフをリスペクト」みたいな皮肉がぼくの脳裏にその時植え付けられたわけである。
チェーホフって小難しい、観念的で退屈な芝居なんじゃない? という先入観を持っている人にこそ、『ロマンス』の創り手の方たちは観てほしかったのじゃないかと思うので、そういった意味では正解だった。
だが、ぼくがチェーホフ作品を一本も観たことがないかというと、実はそうじゃなくて、8年も前になるが、岩松了氏演出による『かもめ』を観たことがある。
岩松氏に対しては、先日『シェイクスピア・ソナタ』の感想でかなり失礼なことを書いてしまったのだが、この『かもめ』は実のところすこぶる面白かった(そのくせ、岩松さんの演出だってことを、今日まで忘れていた(_ _ )スマン)
「チェーホフ作品は、難しくてセンチメンタルな悲劇などではなくて、本当は喜劇なのだよ」という、まさに『ロマンス』で井上ひさし先生が伝えたかったであろう要点を見事に体現した、実に面白い『かもめ』だったのだ(なのになぜ演出家を忘れたのかね?)
要するに、「人間て、身勝手でアホやよなぁ?」という、きっとチェーホフ先生もそういうのを伝えたくてこの戯曲を書いたのであろうなぁ、とよく分かる内容だった。
伊佐山ひろ子さんの、「湿気が出てきたわ」というセリフ回しの面白さが、未だに耳に残っているくらいだ。
つまり、ぼくはチェーホフの作品を、“意外に笑える”『かもめ』しか観てなく、S.E.Tが揶揄していたような“正統派(でも実は、こっちの方がチェーホフ先生の本質に添ってない)チェーホフ”を知らない。
だから、劇中のチェーホフが、モスクワ芸術座の(あの、20世紀的演技メソッドで超有名な)スタニスラフスキー(舌咬みそう)に「君はぼくの『三人姉妹』を台なしにしてしまった!」と怒る場面を、実感として理解することができなかった。
この、ぼく自身の勉強不足が、このせっかくの傑作を弱くしてしまった。そこが残念である。
だからと言って、『ロマンス』の良さを実感するためだけに、わざわざ“観念的”で“退屈”なチェーホフの上演を観に行くことはしたくない(金もヒマももったいない)
となれば、文字でチェーホフにふれるしかないだろう。
読んでみるしかないだろう。
本当に読むか否かは、ご想像にまかせます←ご想像どおりになるだろう、多分。
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