ささやかな日々

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2023年05月24日(水) 
微妙に霞む朝焼け。でもそのピンクから青へのグラデーションは実にきめ細やかで美しく、しばし見惚れる。ベランダの紫陽花もその陽光を浴びながら、静かに佇んでいる。
今日は若い友人ら二人と会う。全員が何らかの性暴力被害体験を持っている。でもたぶん、私たち三人をはたから見ていたら、誰もそんなこと思いもしないに違いない。何故なら私たちはよく笑うし、よく喋る。もちろん途中具合が悪くなったりもするが、でもそれはそれ。今ここ、を、存分に楽しむ。
それは或る意味、被害者にも加害者にもなったことがないひとたちからすると、「被害者らしくない」姿なのかもしれない。実際私たちはめいめい、被害者らしくない、と揶揄された体験も合わせ持つ。
被害者らしい、とはじゃぁ、一体どんな姿なのだろう。いつも俯いて、怯えて、具合が悪くて、泣いている。そんな姿でいたら、「あなたは真の被害者」と認めてもらえるのだろうか。
もしそうだとするならば、私は、そんな承認は要らない。笑ってぶんっと投げ捨ててしまうだろう。
十人いれば十通りの被害体験がある。そしてまたその体験から獲得するものもめいめい違う。どんな酷い体験を経ていようと笑いを忘れない被害者もいれば、何もかも麻痺してしまう被害者もいる。もちろん時期によってそれらが現れ出る頃合いとそうではない時ともあったりする。
ある一側面だけを見て「あのひとって被害者らしくないよね」と揶揄することは容易だ。いくらでもできる。でも、人間は平面ではない。決して一側面だけでできあがっている生き物ではない。いくつもいくつも、表情を持つ、それが、人間の全体像だ。
たとえば今日集ったCちゃんは今本当に具合が悪い。半ば引きこもっている。それを心配した主治医がヘルパー派遣を検討するくらいだ。でも、今日のCちゃんは実によく笑っていたし、喋っていた。
たとえばもうひとりのSちゃんは、今まだ裁判中だったりする。それでも彼女はきびきびとよく喋るしご飯もたんまり食べる。お茶の時ひとりでケーキを注文しパクついていたりする。
被害者は被害者らしくあるべき、というのは世間の押し付けであって、真実ではない。実情を何も知らないのに、こうあるべき、というイメージの押し付けは、要らない。今目の前の被害者が笑っていようと泣いていようと、被害は被害であり、なかったことにはならないし、被害者であることを否定されるいわれは全くない。

俯いて怯えて泣きわめいていれば誰か助けてくれるのか?
震えて慄いて立ちすくんでいれば誰か代わりに生きてくれるのか?
んなことしてくれる他人なんて、何処にもいやしないじゃないか。

私たちは、どんな状況に置かれようと、自分の生を自分自身で背負い全うするしかない。その為には、泣きもするし笑いもするし倒れもするし走りもする。私達は被害者であると同時に、人間なのだ。

それにしても今日はよく晴れた。頭上にひろがる青空はあまりに眩しすぎてくらくらしそうなほどだった。私達の笑い声も、実によく辺りに木霊した。きっと今日仲間から得たエネルギーがあれば、しばらくは踏ん張っていられそうなくらい。
被害者であることは、別に他人に認められる必要はない。認められようと認められなかろうと、被害はそこにあって、誰かによって消せるものなんかじゃぁない。
そして私たちは、今日もこうして、生きている。


浅岡忍 HOMEMAIL

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