2023年05月19日(金) |
じっとりとした空模様。大気が湿り気をたっぷり含んでいる。これで風がなかったら、さぞや心地悪かったに違いない。せめて風が吹いてくれていることに感謝。 我が家の紫陽花、新たな蕾が綻び出したのだけれど、こちら、何故か色づかない。もしやこれは白?と驚いている。そして、ピンクに染まり始めていた子らまで、何故か色が退色し、白くなっていっている。この不思議。こんなことってあるんだろうか。 植物はいつも、不思議。私が弱ると植物も弱る。私が元気だと植物も元気になる。まるで呼応するかのようだ。どこで繋がっているのだろう。私と彼らは。
性加害報道がこのところ騒がしい。男性の詳細な被害を知り、男性の尊厳が奪われたことをようやく納得できた、と言う声を聴き、愕然とする。被害の詳細を聴かなければその想像ができないのか、と呆然とする。 あれほど語らなければならなかった現実がそこにあった、ということ。そして、それを語るほど、それはいずれ彼らの肩に圧し掛かってくるのだということ、そのことを、どれほどのひとがちゃんと考えてくれているんだろう。 被害を語ることは時にとても必要な過程だ。語ることでしか自分の中の膿を掻きだすことができなかったりする。でも、それを記者が詳細に記事にする必要があるのかどうか、と、私は思う。 それは必ずデジタルタトゥーとなって、本人に跳ね返る。そういう時が必ず来る。それがどれほど回復の足枷になってしまうのか、を、誰が今、考えてくれているだろう。 そもそも、男性の尊厳が奪われた、と、男性の被害の告白を聞きようやく認識した、というひとたちの多くが、女性の被害を聞いても女性の尊厳が同様に奪われ蔑ろにされたとちゃんと認識してくれるのだろうか。 女性も男性も関係ない、と私は何度も言っているのだけれど、本当にそうなのだ、性の別なんて関係ない、性被害というものがもたらすものは、男性女性関係なく、魂の深部を抉る。そういう代物だ。それまで培ったその個人のアイデンティティーが木端微塵になってしまう。そういう代物なんだ。
自分を顧みて思う。途方もなく長い時間がそこに横たわっているな、と。被害を受けてから、ここに至るまで。長い長い時間が。それは見方によっては、人生を棒に振った、と言ってもいいくらい長い時間、だ。 私は、自分のようなひとをひとりでも減らしたい。減ってほしい。そう思っている。こんな長い時間病院に通い薬を服用し日々を過ごすことのしんどさ。心がぼろぼろなのはもちろんだが、身体も日増しに薬によってやられてゆく。心も体もしんどさを越えて、いつしかそれがデフォルトになってしまう。もはや、ふつうのひとたちの言うところの「健康」が分からない。実感できない。 たとえば、匂いや味を感じられない日々が日常となる。たとえば眠れない夜が日常となる。たとえば体が強張るのがもう当たり前になる。 そうやって、基準線が、すでに、通常のひととズレてゆく。それをもはや悲しいとも寂しいとも思わない。そういうものだ、と甘受する。 性加害者ひとりに対し、被害者は380人ほどはいる、と言われている。それが本当だとしたら、毎日毎瞬どこかで誰かが悲鳴を上げていることになる。そういう現実が今ここにあるんだということ。それをわがこと、自分事としてどれだけのひとが受け止め考えているんだろう。 必死に被害者が訴え出て、何度も何度も訴え出て、そうしてようやく被害が被害とされるこの現実も、いい加減変わってほしい。被害を訴え出ることの大変さをもっと、きちんと分かっていってほしい。 そして一度被害者という看板を背負ってしまうと、それを外すことは容易ではないという現実も。もっと知られてほしい。 |
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