ささやかな日々

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2023年05月27日(土) 
加害者プログラム出席の日。そのことについて書こうと思っていた、今日の夕方まで。でも今、それ以上に気になることができてしまった。赦す・赦される・救われる・受容する。それらについて。

それもこれも、薬丸岳著「最後の祈り」を読み終えてしまったためだ。途中から、まだ続いてほしい、まだ終わらないでほしいと願いながら読み進めていた。読み終えてしまった瞬間、ああ終わってしまった、とそう思った。こんな読書は久しぶりだ。
赦すとは何だろう。どんな状態だろう。私には正直まだわからない。わかるのは、私はすでに自分の加害者らを受容しているんじゃないかということだ。そして改めて炙り出されるのは、私が赦せないのは他の誰でもない私自身だ、と、そのこと、だ。
主人公ははじめ復讐のために歩み出す。しかし彼は最後、加害者を受け入れる。私が赦す、と言ってしまう。私達はこの分厚い本の一読者として、その主人公の揺れ動く心の有様の、立会人となる。
主人公が復讐のために一歩を踏み出した時、ひとはやはりそういうものなのかもしれないと思いながら主人公に伴走した。被害者家族だからこそそうあるであろう、と誰もが納得できたに違いない。
でも私はいつしか、ひととして揺れ動く主人公の様子に、ああどうかもう手放し受容してこの先を生きてほしいと祈っている自分がいることに気づかされた。それは、加害者本人に対しても、だ。
加害者の犯行動機や生い立ちについて、この作品の中ではたいして触れられない。概略くらいしか触れられていない。むしろ、犯行その後の加害者の、揺れ動く心が描かれる。死刑囚となり死刑執行を言い渡されるその時までの、心の有様、が。
赦すとか救われるとか、言葉にしてしまったらあまりに安っぽいそれら。それでもその言葉以外に言い表しようのないものがあり、私たちはだから、いつしかその言葉に縋っている。救われてほしい、赦されてほしい、主人公と加害者と。共に、と。
ああでもそれは私だけかもしれない。主人公と加害者と共に救われ赦されてほしいなどと願ってしまうのは、今ここを生きているかつて被害者となった私だけなのかもしれない。ふつうだったら。この作品の中で描かれるもう一方の被害者家族と同じく、ひたすらに復讐を、でき得る限り残酷な復讐を願う塊になってしまうのかもしれない。
私は最初に、受容するという言葉を使ったが、そもそも受容するというのは、相手の言葉、感情などを、自分の価値観で批判したり評価をしたりせず、そのまま、ありのまま受け止めること、その状態を指す。これこそが、私が思うところの赦すという行為に他ならない。
主人公が、君の罪は許されている。私が、許した。そう言う時、死刑執行直前の加害者の震えが止まる。そう、作品の中では描かれている。そして、自ら、お願いします、と死刑執行を促す、と。
主人公と加害者本人ふたりともが、互いを受容し、今ここを受容したからこそ、この画が出来上がったのではないのか。と、私にはそう思える。
正解は、そもそも何処にもない。誰の在り方が、どんな在り方が正解かなんて、誰にも分からない。でもこの時、ここにともにいた主人公と加害者との姿は、一つの到達点だったのではないのか、と。私にはそう、思えるのだ。
読み終え、それでもまだ読みたいと本をそっと握り締めてしまう一読者の自分は、果たして最後の最後、死ぬその時、この赦せずにいる己自身を、受容することはできるんだろうか。今正直、それについての答えは何も浮かばない。でも。
きっとその時、おのずと答えは訪れるのだろうな、と。思う。私が今ここを精一杯生きてさえいれば、いつかその時がきた時、おのずと私は行為するに違いない。それがどういう行為であったとしても、おのずと行為し、そしてそれに対し私は納得するに違いない。
まだもうしばらく、この作品の世界の中を泳いでいたい。そう思えるほどの、そしてまたそれができるほどの、悠然と流れる大河のような作品だった。


浅岡忍 HOMEMAIL

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