ささやかな日々

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2023年03月19日(日) 
身体痛が酷いのでテニスボールで痛む箇所をせっせとケアする夜。家人と息子はぐーかー寝息を立てて眠っている。もちろんワンコも一緒に。ありがたいことだ。
彼らが安らかに眠っている、というだけで、私はずいぶんほっとする。そのまま朝まで無事に眠れますようにといつも思う。もちろん時々「どうして君たちばっか眠って私は眠れないんだろう」と思わないわけじゃない。でも、そう愚痴った直後、やっぱりありがたいなと思うのだ。自分の大事なひとたちが規則正しい寝息を立てて眠ってくれる。それは圧倒的な安心だ。世界はこんなにも軋んで痛んで歪んでいるのに、そんな中でも彼らがちゃんと眠れるということ。この眠りを守る為なら何だってできるとさえ思わせる。そういう、もの。

ムスカリがようやっと咲いた。下から色づき始めたその紫がかった青。大好きな色のひとつだ。イフェイオンもやっと蕾が出て来たと思ったら俺も俺もと次から次に花が開いてゆく。よほどこれまで姿を見せることを我慢していたに違いない。ようこそ光の下へ、と花弁をちょんちょんと指で撫でる。もちろん花は実際には言葉を私にかけてくるわけじゃないけれど、でも、「はいはい、ちゃんと咲いてみせますよ」「今年も来たよ」と、そんなふうに声が聞こえてきている気がするから不思議だ。
樹は遠く離れた樹同士、ちゃんと会話ができているという。虫に葉を喰われたら喰われたで、瞬時に毒を生成して懸命に抗っているのだという。その話を聞いた時、私は世界がぐわんと拡がった気がした。心臓がばくばく脈打った。どきどきした。その声を聴いてみたい。心底思った。今も思う。
宿根菫が種を飛ばしに飛ばして、薔薇のプランターの中にも次から次に芽を出し始めている。最初は放置していたのだけれど、或る日薔薇の葉がくたっと弱っていることに気づいた。慌てた。菫はちょうど今花盛り。でも薔薇の葉はもう声なき悲鳴を上げている。
ごめんね、と声を掛けた後、菫を引っこ抜く。いや、引っこ抜いたつもりが根が思った以上に太くて抜けない。吃驚した。こんな強力な根だったのか、と。だからしつこく菫を揺らし、太い根をごっそり抜いた。ああこれじゃぁ薔薇の樹がヤラれるわけだ、と納得がいった。手遅れじゃなければいいのだけれど。
そして今日、暇を持て余していた息子と、トマトの種や朝顔の種を蒔いた。息子が「僕はトマトの種を植える名人だぞ」と言いながら種を蒔いているので彼に見えないところでぶふふと笑ってしまった。そうか名人か。じゃぁ今年の夏はトマト穫れ放題だよね、と心の中彼に言ってみた。いや、実際には言わなかったけど。
風が強く吹くとベランダは冷たいけれど、でも、午後の日差しはそりゃもう暖かくて。きらきら眩しくて。太陽と北風、だったか。その話を思い出していた。

Aさんが教えてくれた記事を読みながら、やり直しを許容しない不寛容な社会についてあれこれ思い巡らす。
その不寛容さは、加害者にだけではない。被害者にも、だ。私はそれを、痛感している。
たとえば「模範的な被害者」を、もっと別の言い方をするなら「優等生的な被害者」を、世間は求める。悲しみに暮れ、俯いている被害者像。何処までも清廉潔白で、か細い像。決して社会にNOなど突きつけない、弱々しくおとなし気な像。そこから一歩でも外れると、社会は被害者を弾きにかかる。排除にかかる。被害者は何処までも被害者でいろ、と、抑えにかかる。
特に性暴力被害者においては、清廉潔白であることが求められ、もし針の先程でも汚点を見つけたら徹底的にこちらを糾弾しにかかるのが社会だったりする。
何なんだろう、この、不寛容で窮屈な社会。
被害者がこうなのだから、加害者においてはもっと、だ。
やり直しを何処までも挫こうとする社会にあって、それでも、と立ち上がると、「被害者らしくない」とブーイング。
一体何を「被害者らしい」というのか。そもそも、被害者は被害者だけでいなければいけないのだろうか。
否。被害者であることは、被害者その人の一部であって全体ではない。決して。
取り返しがつかない過去がある、でもそれはきっと今を照らす光になってる。そんな言葉をとある記事で読んだ。私はまだ自分の過去の体験をそこまでに思うことはできないけれど、いつかそんなふうに思えるようになるといいなぁと思うのだ。そして。その頃には、社会がもっと、やり直しを当たり前に受け容れる社会になっていてくれたらいいなぁ、と、そう思う。
やり直しができない社会なんて、誰にとっても生き辛いに違いないのだから。


浅岡忍 HOMEMAIL

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