2023年03月09日(木) |
映画を三回観た、といったら、よほどいい映画なのだろう、レビューをぜひ!と友に云われた。たぶん私も、友が三回同じ映画を観に行ったと言ったら同じことを言うに違いない。そう思う。 でも。私にレビューは書けない。
映画館に再び行けるようにはなったものの、私はとても大きな問題を抱えている。解離だ。 映画を最後の最後まで、一瞬も見逃さずに見通せたことが、実はない。折々にふわっと、解離に襲われて、私はそのたび意識が遠のいて、俯瞰でしか記憶がなかったりする。そういう時映画のスクリーンは、遠いところにある。 どうしてもこの映画は映画館でちゃんと見通したくて、私は三回通った。でも。結局三回とも最後まで見通せない自分を痛感した。 情けなかった。誰より何より、この映画を一瞬残らず一滴残らず味わいたいと思っているのに、私の意識は私の意志に関係なく遠のくのだ。一度遠のいてしまうとしばらく戻ってきてくれない。映画が終わる前に戻って来てくれれば御の字、という具合。一度目観て、穴ぼこだらけで、だから二回目観に行ってその穴を埋めたくて、でもやっぱり穴ぼこだらけで、どうしてもちゃんと味わいたいからもう一度と思って三回目観に行った。でも。必死に手の甲をつねったり何したりして解離しないよう努めたけれど。結局途中解離して、気づいたらエンドロールだった。 被害に遭って、映画館という暗闇/密室が怖くなって映画館に行けなくなった。それが再び行けるようになった。けれど。私は、まだ、一度も解離しないで映画を最後まで楽しめた試しは、ない。こんなに大好きな映画を、映画館で楽しむという行為を、堪能したいといつも思うのに、それができない。そんな自分が悔しいし情けないし、張り倒したくなる。でも。 それが私の、今の私の、現実なんだ。 そう。私は映画が大好きで、学生の頃は毎日毎日映画館に通っていた。その為にアルバイトしてたと言っても過言ではないくらいに、毎日毎日飽きずに映画館通いをしていた。これはと思う映画は片っ端から映画館で観た。 だから、再び映画館に行けるようになって、もうとんでもなく嬉しかった。 でも。 一番後ろの左端の席にしか、まだ座っていられない。そして、私は映画を観ている最中でも何度でも解離する。
映画館に行けるようになったことを誰より喜んでくれた友に、そのことをそっと打ち明けた。すぐ汲み取ってくれて、そうなんだねと返してくれた。その友が、自分は解離が日常的にあることの意味をまだ分かっていなかったのかもしれない、と言った。それは無理だと思う。私だって実際解離になってみてはじめて、こんなにも厄介なものなんだと知った。解離を背負っていないひとが、その面倒くささを実感するなんて、それはもう、無理としかいいようがない。 そして気づいた。私が映画館に行けることを誰より喜んでくれた友が誤解していたように、他の大勢の人々も、私が解離なしに映画を最後まで観て楽しむことができている、と思っているのかもしれないと思ったら、複雑な気持ちになった。
そうできたら、誰より私が嬉しいのに。
解離を抱えている大勢の彼/彼女が、今私がぶつかった思いと同じ思いを味わった/味わうかもしれない、と思ったら、悲しくなった。これは、書いておかなくてはいけないと思った。 映画館に三回行ったよ、という言葉の、意味の違い。三回行っても、解離なんて味わうことなく一度きりしか観てないという誰かよりも映画をちゃんと味わえてないんだろう自分。 解離とは、そういう、厄介なものなのだ。
いつか。 死ぬまでに一度でいい。一瞬も解離することなく、映画を映画館で観通してみたい。昔のように。今改めて、そう思う。 |
|