2023年02月20日(月) |
地平線が橙色に染まり始める。拡がる濃紺が少しずつ少しずつ薄らいでゆく。やがて少し緑がかった青色に変わった頃、地平線に棚引いていた雲の下側がピンク色に燃え始める。それは桃色ではない、まさにピンク色。燃え上がるその色はこれでもかというほど鮮やかで目を射る。私は一瞬にして釘付けになる。じっと見入る。この色ばかりは写真では再現できない。あとで調整すればいいという考え方もあるのだろうが、それでも正確に再現は無理だ。そういう唯一無二の色。 やがて雲の一部が黄金色に変わる。明るい黄金色に。そして。太陽が現れるのだ。 一刻一刻変化し続けるその空の様を、ただじっと、見入ることのできる幸せはたとえようのないものだ。たいてい何かをしながら片手間になってしまうのだけれど、それでも一瞬でも長くその前に佇んでいられると、その日一日が輝かしくなってくれるような錯覚さえ覚える。きっといい日になる、そんな気持ちにさせられる。
小松原織香さんの番組を録画でようやく見る。チープな物語にしてはいけないと繰り返し言う彼女の切実さがひしひしと伝わってきて胸がぎゅうとなる。被害者の語りというのはたいてい、そう求められる。回復の物語を求められる。でも、彼女が言うように、そんな簡単なものじゃないしそんな単純なものでもない。ひとつ語れば何か一つ二つこぼれ落ちる。語りの陰に、いくつもの物語が本当は存在する。そういうものだ。 番組を見ながら、私はまだまだ彼女の著書から読み取れていないことがあったなぁと思い知る。近いうちにもう一度読み直そうと自分に言い聞かす。
私は自助グループに馴染めなかった人間だ。何度かトライしてみたが、無理だった。必ず解離を起こし意識が遠のいた。最初の頃は、誰かの語りが私の中に入ってきてしまって私を圧倒するせいで、私自身が語ることが出来ない状態になってばかりだった。最近はそれとは違う、こう、何というか、邪険になってしまう自分を発見した。 だから何、と言ってしまいそうになる猛々しい自分を発見した、とでも云おうか。聞きっぱなし言いっぱなしに、私はどうしても馴染めなかった。 小松原氏は、その言いっぱなし聞きっぱなしにこそ意味を見出し、自助グループに救われたと語っていた。この差異は、何だろう。 ずっと、考え続けている。
私はひとが好きだ。 でも。もしかしたらそんな私はとことんのところでひとを信頼できていないのかもしれない。ああやっぱり、と、誰かの裏切りを諦観をもって受け容れてしまえるのはそのせいかもしれない、と、ふと思う。どうなんだろう。 いやでも私はこんなにもひとが好きで人間が好きで、人間に絶望すると同時に、それでも、と思ってもいる。 それはそれで真実だ。 でも。 信じる、という言葉や、受け容れるという言葉の意味が、もしかしたら私と周囲とでは大きくことなるのかもしれないと思う時が、あるのだ。
信じるとは。受け容れるとは。その言葉の意味をまずすり合わせたうえでしか、だから、他人とこの部分を共有できないのだな、と思う。よくもわるくも、そういうこと、だ。
絶望の先にこそ真の希望がある、と言ったのは誰だったか。映画監督の言葉だったと記憶しているのだけれど今とっさに思い出せない。でもこの言葉だけはくっきりと覚えている。そして、それは私にとっても真理だと、そう思う。 また、ひとは絶望に圧倒されて、それが実は小さなこれっぽっちの絶望に過ぎないのに、絶望に圧倒されてしまってその先にまで目を向けられないことが多々ある。これっぽっちの絶望の先にこそ、これほどの大きな希望が輝いているのに。 そう。 絶望の先にこそ真の希望がある。 |
|