2023年02月09日(木) |
日記を書くことがこのところとても難しい。書き残す、ということに対して畏れのような、懼れのような、そういったものがあって、書き出すことさえもができないでいる。何だろうこの感じ。 そんな私に構わず、時は過ぎ行く。容赦なく過ぎ行く。おかげで畏れ/懼れだけが増殖してゆくばかり、だ。 何処かで分かってもいる。そんなものは私の心が勝手に作り出した代物であって、誰も私に何かを強いているわけでも何でもない。充分分かっている。 分かっているのに、地団駄踏んでいる。
いや、日記を書く、とはちょっと違うかもしれない。今気づいた。言葉、だ。言葉に対して、畏れ/懼れがどうしようもなく私の中に生じて来るのだ。
言葉。それは諸刃の剣。ひとを生かしもすれば殺しもする。そういう代物。私自身、その諸刃の剣である言葉に、生かされ、同時にずたぼろにもされてきた。 最近見聞きするニュースはどれもこれも、言葉の危うさを私に訴えて来る。そのニュースに群がる人、ひと、ヒト。まるで飢えたハイエナのようだ、他人の粗が餌だとしたら、それに群がり、瞬く間に食い尽くす。 正しいことだけをして生きて来られたひとなんてどれだけいるんだろう。時に間違いや過ちを犯して、悔い改めてそれでもと立ち上がって。人生なんてその繰り返しなんじゃないのか。何度でもやり直しできるのが人生じゃないのか。 それが今、赦されない社会になっているのだな、と。そのことを痛感する。 私は、自分の子どもに、やり直しのきかない社会なんだ、人生なんだ、なんて冗談でも言うつもりはない。それはこれまでも、そしてこれからも、だ。何度だって、思い立ったその時がスタートだと教えているし、私はそれを精一杯励ましもする。私自身に対しても必死に、たった一度のことでへこたれてたまるか、ここからもう一度踏ん張って這いずって、生きよう、と、自分を鼓舞してきた。そうでもしなけりゃ、生き残ってはこれなかった。 そんな私を、支えてくれたのが友の言葉だったり仕草だったりする。 だから、たまらないのだ。友の言葉や仕草とは正反対の、刃としか使われない言葉や仕草を見ると、たまらない思いにさせられるのだ。
どうしてひとは、こんなにも残酷になれるんだろう。
そもそも何故私たちは言葉を与えられたのだろう。隣人と対話するためじゃぁなかったのか。言葉を交わし、お互いを労わり合い、励まし合い、そこからまたさらに生きるために言葉が与えられたのではなかったのか。他人を罵り、嘲り、引きずり落とすために言葉が与えられたのだとしたら、なんて道具を愚かな人間に与えたんだろう。そんなもの与えられたがために、ひとはこんなにも容赦なく残酷な生き物と化している。
確かに、私だって言葉の使い方を誤ることがある。間違えることがある。私の言葉によって傷つき倒れ伏したひとだってこれまでどれだけいただろう。そんなつもりはなかったのだよ、と言ったって、相手にとってはそうだったことに変わりはなく。もう謝っても謝り切れないものがそこにはある。 でもだからこそ、せめて意志的に用いる言葉は、刃として用いることのないよう、言葉を吐くその前に懸命に逡巡するのだ。ひとはそういう能力を持って生まれて来たはず。
私は自分が生き延びてこれた分だけ、親しい友たちから言葉をいただいてきた。恩師からも、言葉を操ることの怖さと同時にいとおしさを教えてくれた。レイプ被害後、どれほどセカンドレイプに苦しめられてきたか知れないけれども、同時に、それを補って余りあるくらい、親しい友たちから大切な言葉をいただいてきたんだ。 そういう体験が、今の私を作っている。生かしている。
だから、どうしても躓いてしまうのだ、こんな社会、おかしいと思えてしまうのだ。ひとの怖さ、言葉の怖さを、思ってしまうのだ。そのあなたの一言が、一刃が、相手の心臓を貫き、結果殺してしまい得るのだよ、と、声にならない声で叫ばずにはいられないのだ。 お願い、その言葉の使い方を、誤らないで。その言葉に託す思いを間違わないで、と。
言霊とは、そのくらい、重い。 |
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