2023年01月19日(木) |
茨城県近代美術館まで清宮作品を観にゆく。展示は「戦後日本版画の展開/照沼コレクションを中心に」。Yさんを誘ってでかけた。Yさんは遠くからくる私のためにわざわざ事前に街を下見してくれていて、そのおかげであれやこれやがスムーズに運ぶ。ありがたすぎて言葉も出ない。こういう気遣いは私にはできないなぁと、尊敬と羨望の眼差し。体調が万全ではないはずなのに、それもおして気を配ってくれるYさんにはただただ感謝。 戦後日本版画の展開。その展示を眺めながら、私は頭の半分で昔居た編集部のあれこれを思い出していた。 本作りのひとになりたい、と、幼い頃から思い続けて来た。そうしてようやく夢が叶った。だからこそ絶対にやり遂げたいと我武者羅に仕事にしがみついた。かぶりついた。それが祟って被害に出食わした。当時はまだ性被害なんて口に出すものではなく、むしろ隠しておくべき代物だった。そういう時代だった。それを私が口に出したものだから、編集長やその周辺のひとびとは辟易したに違いない。 結局数か月かかって加害者だった上司は辞めていったが、その頃には私の、PTSDの症状は激しく現出しており。幻聴、幻覚、幻味、眩暈、息切れ、頭痛、身体痛、そして何よりフラッシュバックやパニック。果てしなく襲って来るそれらを、それでも自分は大丈夫と言い聞かせ続けて這うようにして日々を過ごした。一年後、自分はもう気が狂ったのだと思い病院に駆け込むことになる日まで、ひたすらに。 もしあの時。すぐに病院に駆け込んでいたら。何か変わったろうか? どういう方法を使っても相手を訴えていたら何か変わったろうか? 今というこの時代ならば変わり得たこともあったろう。でも私の出来事は二十八年も前のこと。被害者という言葉が現れ出るのだってその年の1995年。それが「被害者元年」。性犯罪被害に対して時代のあらゆることたちが閉口していた。私がたとえあの当時叫んだって、何処にもその叫び声は届かなかったに違いない。 それが分かっていても、もしも、と考えてしまうのだ。もしもあの時、と。そんな、たらればな話は何の役にも立たないというのに。 でも、私が清宮展を企画プロデュースしたり深沢先生との対談を改めてテープ起こしし一冊の冊子に仕上げられたのは、あの編集部で培ったあれこれがあったからだったのではなかったのかな、と。ぽつり思った。そもそも版画に親しくなったのはやっぱり、あの編集部に就いたからだったな、と。 そう思いながらも、否、と言いたい自分もいて。心の中はぐるぐると様々な思いが渦巻いた。 清宮先生のアトリエの机を再現した場に立って、ああもう私が知っているあの部屋はないのだなと思うと同時に、今目の前にある机も絵具も灰皿も何もかも、別物になってしまっているなぁと感じ少し寂しくなった。 すべてが少しずつ少しずつ、変化してゆく。変化し続けている。何もかもが。生きて在るということは、そういう変化とも関係し続けてゆくということなのだな、と、改めて思う。 時がただ黙って淡々と降り積もるように、ひともコトもモノも黙って降り積もる。そうして少しずつ少しずつ色を変え匂いを変え、重さを変えてゆく。 たとえば十年後、今この、ここの時代を、十年先のひとたちは何と称するのだろう。あの時代はまだこうだった、と云うのだろうか。私が今、「あの時代はこうだった、今とは大きく違っていた」と云うのと同じように。 たぶん、きっと。
Yさんがプレゼントしてくれたお茶を淹れ、夜に佇む。あと一週間もすれば自分の被害のあの日になる。今年は偶然にもその日はあの時と同じ金曜日で。ああ、と思い出すのだ。まざまざと、その日、を。 |
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