2023年01月17日(火) |
天気予報は曇りのち晴れ。東の空は鼠色の雲にすっぽり覆われている。でもその雲は地平線のところだけ隙間があって、そこから朝陽が零れてくる。きれいな橙色。だから私は窓を開けて挨拶する。おはよう世界。今日もよろしく。
阪神淡路大震災から28年という年月。つまりその日から十日後の自分の被害のはじまりからも、数えて28年ということ。そうか、ひとひとり成人しても余りある月日が経っているのだな、と、改めてじっと思う。私にとってそれは、長かったと同時にあっという間でもある時間。 そう、それはつい今しがた起こった出来事のように生々しく、ありありと蘇る。いつだってそうなのだ。私は途中から解離を起こしたせいでそこからの記憶がほぼほぼ残っていない。にもかかわらず、残っている短い記憶の、その鮮明さや重さは、他のどんな記憶とも比べ物にならないくらい、鮮やかで重いのだ。 一月は、早く過ぎて終わってくれないかな、と毎日毎日思っている。思いながら、気が遠くなる感覚もあったりする。あらゆる現実感が消失されていて、それを一体どう捉えていいのか、受け止めていいのか、いまだよく分からなかったりする。同時に、それはまごうことなき現実であることを、私は知ってもいる。 この両極の感情の真ん中で、私はいつも両極に引っ張られ引き裂かれ、声なき悲鳴を上げるのだ。 地上から4、5センチ浮遊している感じ。そういう感じが常に私につきまとっている。どうしようもない現実の前で、それでもそれを受け容れられない時の感覚。一体いつまでこんなことやってるんだ、もういい加減受け容れればいいじゃないか、28年だぞ、28年も経っていながら何やってんだおまえは。そう思う。 思うのに。どうにもならない。 でも。 そういったことすべてが、どこか他人事でもあって。どうしようもなく現実でありながら、同時にどうしようもなく他人事でもあって。生温いプールにぷかぷかと浮かんで漂っているような、そんな感覚。私の輪郭は、現実と非現実の間で曖昧になってゆく。 そういったこと一切合切が解離なのよ、と主治医は言う。だから、くれぐれも浮遊しすぎて怪我しないように気を付けてちょうだいね、と。いつだったか階段落ちしたことあるのだから、今度はもう怪我だけはしないように、と。 私も、あんな怪我はもう嫌だなあと思う。思いながら、その思いさえもが何処か他人事で、硝子戸の向こう側で。手を伸ばせば届きそうなほどありありと確かに見えているのに、手を伸ばしてもそれに触れられることは決して、ない。 無限ループ。 日記を書こうにも書けない日々。「今ここ」を生きるので精一杯で、しかもそれが一瞬でも過去になると私は次々失ってゆくからだ。覚えていることがほとんどできない。「今ここ」に在ることで精一杯で、それ以上のことが何一つできない。 いや、今ここに居るだけでいいじゃないか、と思ってみたりもする。が、28年なのだ。ひとひとり成人しても余りある時間がそこには歴然と在って、それはどうしようもない時間でもあって。それなのにいまだ自分がこんな不安定なところにいるなんて、とてもじゃないが言えない。 私の周囲のほとんどのひとたちがきっと、あのことなんて忘れている。過去にしている。当たり前だ、ひとはそうやって生きている。私だけがそれらを過去にできないだけで、当事者以外にとっちゃそれは間違いなく「過去」であり大昔の出来事なのだ。 だから一年、一年、さらに口にのぼせることが躊躇われるようになる。どんどん喉元に何かが詰まってゆく。 頼まれれば私はきっと、平然と語るんだろう。こんなことが昔あって、一月は記念日反応で忙しいのよねえと笑ってみせることなど、どうってことはない。どうってことなく為すことができる。でも同時に、それらすべてが私には嘘くさく、向こう側、だったりする。この矛盾したモノ。一体誰が、理解できようか。 |
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