2023年01月01日(日) |
元旦。
遠慮がちにこっそり昇り来た太陽、息子を呼んでふたりで太陽を仰ぐ。「今年もよろしくねん!」と手を合わせる息子の横で、ぼんやり考えた。今年一年私はどんな年にしたいんだろう。考えてもよく分からない。どういう年にしたい、という欲がそもそも無い。なるようになるさ、と思っている自分がいる。 三人で初詣に出掛けおみくじを引く。吉なのに「他人からの誹謗中傷に晒され」云々と書いてある。おいおいこれが吉なのか?と三人で笑う。何とも凹む元旦である。 初詣から戻ってから、私は何故かばたっと床で寝てしまった。何時間も。途中息子が遊んでくれ遊んでくれとせがんできたその声だけは覚えているのだが、起きられなかった。気づけば午後2時。慌ててワンコの散歩へ出掛ける。 散歩しながら、ワンコにとっては元旦だろうと何だろうと関係ないよなとふと思う。そんな、特別なことのない淡々とした日々をこれまた淡々と生きているワンコに心の中敬礼しながらちょっと考える。 こころが疲れてる時は間違いなく身体もぼろぼろになってる。PTSD急性期、私は休むことができなかった。それがPTSDが酷い時の症状だったりもする。三十年近く経てようやく、身体が疲れを発信してくれるようになってきた。こんなに身体って疲れてるものだったのかと今更ながら思い知る毎日。新発見。 こころとからだは繋がってる、とよく言われる。なのに、こころが優先されてばかりいる。もしかしたら違うのかもしれないと最近よく思う。からだという器を元気にしてあげることを先に為す必要があるのかもしれない、と。大丈夫な器があってはじめて、こころも元気に泳げるのかも。たぶん、そうに違いない。身体が元気じゃないとどうやったって心も元気に笑うことはできない。まさにこれぞ、こころとからだは繋がってる、ということなのだな、とひとり納得する。 たとえば刑務所で、規則正しい生活を強いるのは、そういうことなのかもしれない。言葉にするとケッと思うけど、でも、要するに、健康な体に健康な心は宿る、という、それなのかも。 私は。健康、という言葉が正直好きじゃない。何を持ってして健康というのか、と思っている。健康、不健康。嘘くさい。それに、そもそもそれらは強いるものではない。強いられるものでも、ない。自らがこころとからだの関係に気づいて行為するものであって、他人から強いられたり強いるものではない。それはほぼ絶対に。他人から強いられたり強いたものは、身につきはしない。 気づき、って、そもそも、誰かに強いられて得られるものではない。
去年を思い出そうにも、もうほぼほぼ去年のことを思い出せない自分に気づく。振り返ろうにも振り返りようがない。去年もおととしも十年前も、もはやごちゃごちゃに入り混じって、遠くに霞んでいる。 それなのに。何故なんだろう。被害に遭った前後のことだけは、今ここ、に、ありありと蘇るのだ。セカンドレイプに晒された日々のことも。生々しく。 これこそがPTSDなのだろうな、と、言い方おかしいけれどもPTSDの醍醐味とはそこにあるんだろうな、と、納得する。 これでもずいぶん、いろんなものを過去にしてきたつもりなのだけれど。それでもこうやってフラッシュバックするものたちが幾つも。もうそれらを重いと感じることにさえ疲れたというか、重いと感じることにさえ麻痺してきた、というのが本音だ。ああそういうものなのね、と、そうやってスルーする。それが、やり過ごす術のひとつ。
明日は実家へ行く日。息子がずっと「じいじばあば、お年玉くれるかなー?!」とどきどきしている。子どもにとってお正月って、そういう心持ちなんだな、と、改めて気づかされる。 |
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