ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年12月31日(土) 
あっという間に12月も31日になっている。時間が飛ぶように過ぎてゆく。怖いくらいに早くて吃驚する。

ワンコと散歩している道筋にでーんと墓地がある。丘一帯がお墓で覆われている。こんな見晴らしのいい場所にこんなに墓碑が立っているのは壮観だなといつも思う。住宅街のど真ん中にある。だからいつも、その周囲のお家の窓を見てしまう。この窓から見る光景はどんなだろう、死者と生者とのあわいが見えるのだろうか。それはどんな光景だろうか。毎朝毎夕それを感じるのはどんなものなんだろう。考え出すと次々不思議が浮かんでくる。日常的に死の形が間近にあるのとないのとでは、きっと明らかな違いがあるに違いない。そう思うからだ。

年末になって友人の死とY先生の死と、その知らせが立て続けに舞い込んできて少し気持ちが沈んだ。でも、良くも悪くも私は死に、どちらかというと慣れてしまっていて、誰もが死にゆくことに抵抗がない。その一人が自分であることも含めて。
生まれ堕ちた瞬間から私たちは、死に向かって駆け出してゆく。それは誰にも等しく与えられていることのひとつ、だ。どう抵抗しようとどうにもならないことがある。それなら、抗うよりも、どれだけその流れに乗っかって思い切り泳げるかを考える方がいい。私にはそう、思える。
今泳ぐと書いて、いっとう先に思い出したのは清宮質文先生の泳ぐひとという作品と流れという作品。あの作品が生まれた時代の背景を考えると、私が今思い浮かべたそれとは微妙に異なっていることは分かっている。でも。
あのふたつの作品は、ひとの生き様を端的に表している気がする。

30日は娘と孫娘がおせち料理の手伝いにやってきた。といっても寝坊したのか来るのがかなり遅くて、彼女らが到着する前にお煮しめは作ってしまっていた。伊達巻を作りながらおしゃべりし、遅い昼食を食べる。もうそろそろ帰ろうかなと言い出した時に私がはっと思い出す。栗きんとん作ってなかったじゃない!
慌てて準備を始める。「栗きんとんは買わないでおいたんだよ。ママの栗きんとん食べたら他の食べる気しないから」。嬉しいことを言うじゃないかと心の中思う。せっせと準備。芋を茹でている間娘と息子はゲーム対戦に興じている。そこで私の隣にやってきたのが孫娘。「ばあば何やってるの?」。くちなしの実をちょうど割るところだったので、孫娘にこれがきれいな黄色になるんだよと伝える。一緒に割ってみる? うん!私上手に割るよ! 割った実の下に黄色い粉がはじけて飛んでいるのを見た孫娘が、「うわぁきれいな黄色だ!すごい!」と。ああそうだよなぁはじめて見るんだよなきっと、と思いながら、包んで鍋に入れる。
孫娘がひとつひとつに躓いて質問してくるので、私もひとつひとつ応える。これは何に使うの? これはどんな味がするの? これは何色になるの? 質問攻めだ。でも、嫌じゃない。私には当たり前の事柄でも、まだ五年しかこの世界で生きていない彼女には何もかもがどきどきなのだろうから。
裏ごしを一緒に始めるも、力が足りない孫娘はあちこちに芋を飛ばしてしまう。まぁそれもありかなと思ってとりあえず任すことにする。そうしているうちに気配を察したのか対戦が一区切りしたのかで娘と息子が台所に戻って来る。今年の栗きんとんはそんな訳で、全員で作った代物になった。
朝から台所に立ちっぱなしだったせいで、すっかり草臥れてしまった夕刻。ああこれが歳を取るということかな、とぼんやり思う。

明日は残り2本伊達巻を作って、お雑煮の準備をして、植木の手入れもせねば。息子の遊び相手にもならねばならぬし、やることは満載。たった一日でどれだけできるだろう。ちょっと不安。

新しい戦前、という言葉に出会った数日前。ああまさしく、と頷いた。恩師が同じ言葉を言っていたことをありありと思い出す。私は戦争を知らない。祖父母や恩師、関わりを持った老人たちが辛うじて私に伝えてくれた事柄しか知らない。でもそうやって伝えてもらったことたちから思い巡らしても、今ここはきっと、いずれ、新しい戦前となるに違いないと思えてしまうことが、恐ろしい。
人間はどうして、争わずに生きられないのか。力を誇示せずに生きられないのか。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加