2022年11月21日(月) |
10月の個展の時に約束したUさんとの約束の日。久しぶりにお会いしたUさんはマスクを決して外さず、お茶を啜る時だけちょこっと外すといった具合で、私には彼女の表情はあまり分からなかったのだけれど。でも、彼女が今企画している事柄を聴かせていただいた。実現にはいろんなハードルがあるのだろうけれど、でも、それが実現したらとても面白いし拡がっていきそうな気がした。応援したい。 きっともともとUさんはとても理知的な方なのだろうなといつも感じている。もし被害に遭わなければ、もっと、こう、第一線で活躍していたんじゃなかろうかと思う。被害に遭ってしまったことによって退かなければならなかったモノがいっぱいあったに違いない。でも彼女はあまりそのことについて口にしない。いつも、これから、の話をしてくれる。すごいなぁと思う。だからなおさら、彼女の企画を、彼女を、私は応援したくなるのだ。 彼女と被害の話を少ししていて、一次被害に終わりはあるけれど、二次被害に終わりはないね、という話になる。終わりがないから余計に辛いよね、と。しかもそれが、同じ「被害当事者」からのものだと、傷つきも深くなるよね、と。「どうして被害者にこんな、派閥みたいなものがあるんでしょう?」とUさんが言う。どうしてなんだろう、私も思う。私が被害に遭ってからもう三十年近くが経とうとしているけれど、その間この、派閥みたいなものって変わらずある気がする。足の引っ張り合い。傷つけ合い。果てしなくある。 でも、別に「被害者」に限ってそれらがあるわけじゃないという気もするのだ。ひとはいつでも、何かしらに拠っている気がする。そうしていないと怖いというか不安というか。だから、いつでも何かしらに拠って、それによって何とか自分を立てている、というような。つまり、こうしたものは、ひとがひとであるが故のものなのかもしれない、と。私にはそう、思える。 「できるだけ巻き込まれないように、線引きをしっかりしようと思っているんです、ふだんから」。Uさんが言うので、私も大きく頷く。それがいいと思う。それしかできないとも、言えるのだけれど。 本当はもっとゆっくり時間を過ごしたかったのだけれど、息子の帰宅時間が近づいてきて、仕方なく別れる。また会おうね、と手を振って。
書き忘れていたのだが、先日映画「宮松と山下」を観た。不思議な映画だった。幾重にもレイヤーが重なって重なり合って、一体何処までが宮松で何処までが山下で、いやそもそも宮松も山下も越えて彼は一体何者なんだ、とすっかり混乱してしまうような。でもそれが、いやな混乱ではないのだ。それはひとえに、香川照之の「静」の、徹底した静の演技によるものなんじゃないかと感じた。そのくらい、この映画で観られる香川照之の演技は徹底していた。ああこれが、演技なのか、と改めて思わせるくらいに。 もう一度観たい。
Uさんと別れて乗った電車に揺られながら、何度も何度もこれまで思ってきたことをまた思う。ひとはひとによって傷つき、同時にひとはひとによって癒されもする。絶望を味わうのもひとによってなら希望を抱くのも同じひとによってだったりする。そうした相反するものを同時に抱えているのがひとなのだと半世紀生きてつくづく納得する。傷つき傷つけ、癒し癒され。ひとはそうして関わり合ってる、と。 |
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