ささやかな日々

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2022年11月17日(木) 
大の苦手な渋谷の街外れのギャラリーへ掛井五郎先生の展示を観にゆく。ヒトでごった返す街を必死の思いで潜り抜ければ、静かな住宅街。その隅っこにギャラリーはあって、二階と三階がギャラリースペースになっていた。吹き抜けの、気持ちの良い空間で、光が燦々と降り注いでいた。先生が最期に作られていた作品もあった。「これはまだ途中なんですけど、これを作られている最中に亡くなられたんです」とギャラリーの方が教えてくださった。先生らしいなぁと思いながらそれを眺めた。
三階のスペースに先生のスケッチブックが何冊も並び、そしてまた原稿用紙に綴られた奥様の文章も置かれていて、そこはまるで掛井先生と芙美さんの寝室のようだった。私が昔々取材させていただいた折、奥様はお団子ヘアで、長い長いワンピースを着ておられたことを思い出す。掛井先生の傍らでまっすぐに立つその立ち姿に、ああこうやって先生をずっと支えてらっしゃるのかと心震えたことが今もありありと蘇る。その部屋の端っこには、先生が出会いの際に奥様をスケッチしたというその素描が、ひっそりとでもくっきりと、飾ってあった。
アトリエを再現したのだろう部屋もギャラリーの入口のすぐ脇にあって、制作風景がありありとうかがえた。とても親密な空間がそこにあった。会期中にもう一度ここを訪れることができたらいいのだけど、と思うくらい、上質な展示だった。

これを書いていたら、また地震。この間ワンコの散歩をしていた時も地震があって、立ち止まって空を見上げた。もくもくと鼠色の雲が空を覆ってる日だった。地震の直前、一緒にいた他の犬たち(全員ラブラドール)もくるくる回って騒いでいた。かつて阪神淡路大震災の直前、当時一緒に暮らしていた猫が大騒ぎしたのを思い出した。彼らにはきっとアンテナがあるんだ。地震アンテナ。
地震があると私はどうしても、自分の被害のことを思い出してしまう。阪神淡路大震災の直後に被害に遭ったからなのか、どうしても地続きで、蘇ってしまう。何とも言えない嫌な感じ。

昨日はKO監督やKさん、Oさんらと暗室へ。まさか本当に暗室に入ることになるとは実は私は思っていず、ちょっとどぎまぎしながらこの日を迎えた。でも、暗室に入った途端、引き伸ばし機を見た途端、ああ、と時間がフラッシュバックした。
FくんやMさん、OO先生に手伝っていただきながらプリントするというのも新鮮で何とも照れ臭かった。私にとって暗室作業はいつだって孤独だったから、だ。
私にとって暗室作業は当時、夜を越える為に必要な作業だった。眠れない夜毎、風呂場暗室に籠って次から次に写真を焼いた。夜明けが来る頃にはベランダに濡れた印画紙が何十枚も揺れていた。ああ今夜も無事に夜を越えた、そう思いながらその光景を眺めてた。十階の部屋のベランダには空しかなかった。十階の部屋のベランダから身を乗り出せば簡単に死ねるよなといつも下を覗いた。下には何も知らぬひとたちが行き来しており、そのひとたちを巻き込んで死ぬのは違う気がしていつも飛べなかった。あの、北側の部屋から見上げる空はいつも灰色だった記憶がある。北の部屋にはだから、もう住めない。
暗室作業というものがあの頃私の傍らにあってくれて、本当によかった、と作業をしながら心の中で思っていた。もしこれがなかったら私は夜を越えられず、今頃ここに居なかったかもしれない。今こうしてみんなといっしょに暗室でわいわいするなんてあり得なかったかもしれない。
夜を越えることが本当に毎晩しんどくてつらかった。眠れればよいのに薬を飲んでも椅子に座ってしかうとうとできなかった私は一時間二時間もすれば目が覚める具合で。夜は長すぎた。暗室作業はそんな私にちょうどよかった。私に簡易暗室セットを買って与えてくれた友よ、いまさらだけど本当にありがとう。
何か違う何か違うと言いながら焼いていて、あ!と思い出したのは、フィルターを何枚も重ねていたこと。5のフィルターだけじゃ足りなくて4や3を重ねて焼いたりしていたのだ、当時。「5、もう一枚ありますよ!」とMさんが差し出してくれた時には、思わず笑ってしまった。そうかここは私の独りきりのお風呂場暗室ではなく、大学の、引き伸ばし機が幾つもある暗室だからフィルターも何セットもあるのか、と、感動してしまった。

生きていると本当にいろいろなことが起こる。思ってもみなかったことに出会う。あり得ないと思い込んでいることが覆ったりもする。それもこれも、生きて在るからであって、生きてなかったらあり得ない。
生きてるって、もうそれだけで、ギフトなんだな、と。そんなことを思った。


浅岡忍 HOMEMAIL

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