ささやかな日々

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2022年11月24日(木) 
家人の個展の初日に私は私で服役経験を持つふたりと打ち合わせ。といっても、ほぼおしゃべりになってしまった感は否めないのだが、でも、それもまたよし、かと。
Jさんは相変わらず忙しそうにせかせかしていて、出てくるのはとある会の活動への愚痴ばかり。よほど溜まっているんだろう。次から次に出てくる。最近性犯罪での対話申し込みが増えたという。ご時勢だよなぁと思う。
そしてもうひとり、Sさんも同席。

Sさんはいつ会っても、ぴりっとしている。常に気をぴんと張っている感じ。それは過度な緊張というわけではないと思う。ただ、自分はかつて服役した経験をもつ人間だからこそ、しっかり生きねば、という気概というか何というか、そういうものに全身が貫かれている感じがする。
私は幸か不幸か服役経験はないから、彼女のその気を張らざるを得ないところがたぶん、いまひとつわかっていないに違いない。隙を見せないぞとぴしっと背筋を伸ばして常に姿勢を崩さない彼女を見ていて、時々ふっと、心配になる。
いや、私が心配したからとてどうにかなるものではないことは重々承知だ。だからもちろん、何も言わない。言えない。言ってもたぶん、「それは私が元受刑者だからですよ」と真っ向から言われるに違いない。

「被害者だから」
「加害者だから」
私は被害者だからこうだ、私は加害者だからこうだ、という言葉。本当によく聞く。被害者だろうと加害者だろうとどうでもいいんだよ、ひととしてどうなの、と時として詰問したくなることが、私には、ある。それは私自身に対しても、だ。
私被害者だから、に続く言葉はきっと、決まっている。私被害者だからしょうがないでしょ、だ。それは私加害者だからという言葉にも言えることだと私には思える。
被害者だからしょうがない、加害者だからしょうがない、と言ってしまったら、もう他人は何も言えない。口を挟む余地がないのだ、そこには。
そうなんだ、としか応えられない。

だからかもしれない。被害者だから/加害者だからという言葉に時々、どうしようもない傲慢さを感じてしまうのだ。被害者だから/加害者だからと言ってしまったら、そうじゃないひとが口を挟むことができなくなるわけで、それがわかっていてもなおその言葉を使うのは、どうしようもなく「逃げ」にならないか、と。
そう、思えてしまう。
私は被害者だ/私は加害者だと表明することによって、そのほかのことを受け付けない壁のようなものがそこに表出する気がしてならない。あなたが被害者だろうと加害者だろうとそれは私には関係はない、そうじゃなく、それ以前の、ひととしてどうなのかを問うているだけなのだよ君、と、敢えて突っ込みたくなることが、最近増えた。
私も意地が悪いな、と思う。
でも、そう、感じている。

JさんもSさんも、今はしっかり社会に関わって、それぞれに仕事をしながら、自分にできることを模索し、できることからひとつずつ実行していっている。そういうところ、すごいなと私は思っている。
だからこそ、加害者だからですよ、なんて言葉で片付けてほしくないと思ってしまうのだ。それは私の一方的な思いなのだけれども。

話は変わって。
父が、あの頑固親父が、86にしてスマホデビューしたらしい。数日前から何度も着信がある。何回かに一度かけ直すと「今練習中なんだ、申し訳ない」と。電話の出方にも四苦八苦しているらしい。隣にいたなら、手取り足取り教えてあげられるのだけれど。そう思いながら、「はいはい、わかった、じゃまたねー」と電話を切る。その繰り返し。スマホだけでなくLINEにもデビューしたらしい父の混乱ぶり、葛藤ぶりが目に見えるようだ。母が時々電話口で「しっかりしてよパパ」と言っているその声が聞こえてくるのが可笑しい。いやいや母よ、父はあなたよりずっと年上で、ここにきて新しいものにトライしているのだから、そう急かさなくてもいいのでは、と、私は思うのだが、まぁあのちゃきちゃきした母からしたら、頑固が売り物の父の様子はいらいらするに違いないとも納得する。
何はともあれ、ふたりが元気なら、それでよい。

カレンダーはいつの間にか残り一枚になっている。ついこの間今年が始まったと思ったのに。時が経つのは何てあっという間なんだろう。たまに呆然としてしまう。


浅岡忍 HOMEMAIL

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