ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年11月11日(金) 
数日前植えた球根が植えて二日もしないうちに芽を出してきた。どれだけ気が早いんだとちょっと笑ってしまった。春はまだまだ先だというのに。これから風に晒され雨に晒され、そうして春がやってきたら、大きな花を咲かすのだよ、と芽を撫でながら話しかける。植物は根で対話しているのだそうだ。遠い樹と樹がそうやって、対話する、と想像しただけでどきどきするのは私だけだろうか。一度その地に根をおろしてしまったら二度と自ら動くことはできない者同士、そんな対話の方法があるなんて。彼らから見たら人間の言葉というのはどんなふうに聞こえるのだろう。響いているのだろう。伝わっているのだろう。こんなちっぽけなことで悩んだり苦しんだりする人間は、彼らから見ればそれこそ、短期な奴らに思えるに違いない。もっとのんびり構えろよ、と。
すこんと抜けるような青空が広がる今日は通院日だった。朝一番に診察。主治医とぽつぽつ話をしていたら、主治医がにっこり笑って、それは他人の領分だから、あなたが背負う必要はないのよ、放っていいのよ、と言う。分かっている、頭では分かっている。それがうまくできない。「他人の責任まで負う必要はないの。それは私には関係ない、と思っていいのよ」。重ねて主治医が言う。
カウンセリングでは、食べることについてつらつらと。あなたそれ、本当においしいって感じて食べてる?と問われ、はたと立ち止まる。とりあえず穴を埋める為に食べてる気がする。私は本当においしいとは感じていない気がする。おいしいって何だ?と思ったら、頭が混乱してきた。主治医の言葉もカウンセラーの言葉も、ぶすぶすと刺さってくる。ひとつひとつ引っかかって来る。ひっかかるということは私もどこかで気にしていたことなんだと思う。ただあまり考えたくなかっただけで。
必死にカウンセラーに応えていたら、すっかり疲労してしまった。いや、悪い疲労ではないのだからいいのだけれど、自分を自分の言葉で語るという作業は、本当に、いつやっても疲れるものだ。そしてふと、対話している加害者のひとたちが自分語りがあまりできないことを思い出す。
彼らは、与えられた言葉は使えるのだけれど、自分の状態を自らの言葉で語ることが本当に下手だ。そもそも語るということが下手だ。どれだけ自分の認知の歪みを秘めて秘めてきたのかが痛いほど分かる。だからその、秘めてきたものを日に晒してやる必要があるのだと私は思う。
次のプログラムは26日。打ち合わせは15日。さて。次のテーマはどうしよう。

家人がパリに出掛けていって数日。私と息子は「父ちゃんが居ない時にできることをいっぱいしよう」と結構留守を楽しんでいる。この間はバターたっぷりつけて焼き芋を食べた。「こんなバター使ったら怒られるよね父ちゃんに!」と言いながら息子がはふはふと焼き芋をおいしそうに食べる。実に美味しそうに。こういうのが「美味しい」ということなのだろう、と私はそれを眺めながらぼんやり思う。
明日は明日で、S君の舞台を息子と友人らと観にゆく。ひとりで90分もの舞台を務めあげるのかと思うとそれだけでこっちの方がどぎまぎしてきてしまう。息子がどんな反応を見せるかも楽しみだったりする。以前彼の舞台を一緒に観に行った時、ひとり声をあげてけらけら笑っていた。

自分を自分の言葉でもって語ること。語るには自分の内奥と向き合わなければならない。当たり前だ。それがしんどいから、みんな目を逸らす。もしくは外皮だけを取り繕ってしまう。でもそれじゃぁ、やっぱり足りないのだ。ひとがひとであることの意味を、改めて顧みる。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加