2022年10月20日(木) |
今朝の朝焼けの様子を見、ああ季節は確実に冬に向かっているのだなと実感する。でもまだ大気はぬるく、少し気怠げ。ひとつ深呼吸をしシャッターを切る。定点観測。 この大気が、やがて凛と張り詰めて、もし爪で弾いたら音がしそうなほど張り詰めてきたら、私が待っていた真冬だ。しばらくベランダに立っているとつま先がじんとしてくる、あの真冬だ。私は今からその時が待ち遠しくてたまらない。
真冬が好きだ。冬、じゃない、真冬が。あの肌に沁みる冷たさが好きだ。大気が張り詰めた感じが好きだ。何もかもがぎゅっと、縮こまっている。でもその奥底に、マグマのように生気が息づいてる。それが最も感じられる季節が真冬だから。私は真冬が好きだ。
二か月ぶりに美容院に行く。こんなふうに「二か月に一度」美容院に行けるようになるまで、一体何年かかったろう。誰かが背後に立つ、それだけで戦慄した日々。そこから一歩一歩、少しずつだけれど歩き出してここまで来た。 腰まであった髪をざっくりおかっぱにしたい、と言ったら美容師さんが慌てる。私の髪の毛の質と量と、それから私がどれだけ手入れできないかを昏々と説かれ、私も苦笑する。結局、ぎりぎり結べる長さを残し、ざっくり切った。 なんて頭が軽いんだろう!そう思いながら自転車を漕ぐ帰り道、髪の毛の先がひょんひょんと風に飛ぶ。こんな感覚、どのくらいぶりだろう?と思ってちょっと笑う。こんなことに感動してる私は一体何者なんだと我ながら思う。 帰宅すると、家人に「何そのベリーショートは」とからかわれる。「いえ、これはミディアムロングだそうです」と言い返して私も笑ってしまう。残念ながら息子は私が髪を切ったことにさえ気づいてもらえず。まぁそんなもんか。 被害に遭ってから、化粧ができなくなって、香水だけでもとつけていたそれも徐々に徐々につけられなくなって、せめて髪の毛だけはと或る程度の長さを保ってきた。私にとって自分の性を主張できるのは、髪の毛、と、勝手に決めてかかっていた。髪を結うのも洗うのも乾かすのも、だから、あまり面倒じゃぁなかった。 だのになんで今更ここまで切ったのだろう。不思議だ。いや、他人から見たら大した違いはないのかもしれない。息子がまったく気づかない程だもの。きっと大したことじゃぁない。他人から見たら。
「二十代の群像」から「Sの肖像」を展示させてもらって、改めて、今三十になったばかりの彼らともう五十を越えた自分の、時間に対する感覚の差異を感じた。ああ、私はこんなにも長く生きてきてしまっているのだな、と、実感した。私は二十代三十代の自分の記憶をほぼ失っているけれども、でも、間違いなくそこを生き、ここまで歩いてきているのだ、とずっしり感じた。それはそのまま「私の残り時間」を私に意識させるものだった。 なるほど、私は今年五十二になり、じきに五十五にもなる。私が全力で撮影したり展示したりできるのも残り少ないに違いない。実際、四十後半から更年期障害のあれこれをたんまり味わっている自分だ。 そうか、もう私はそういうところを生きているのか。納得した。
私は家人と九つも歳が違う。九つといえばもう十違うに等しく、それは世代が違うとも言い換えることができる時間だ。私が更年期障害に苦しみ始めても、彼にはそれがよく分からない。私が老眼に悩み始め眼鏡を作りたいと言った時も、彼にはそれがあまり実感できない。当たり前だ、彼はそこを生きていない。
そういった、ここ何年かの体験を経て、私はようやく、納得できた。ああもう、私が自力で生きられる時間は、いわゆる「残り時間」と呼ばれるものに突入しているのだな、と。生まれてから何年生きた、よりも、死ぬ迄あと何年、と数える方が早い、というところまで私は生き延びているのだ、と。 ひとつ、またひとつ、自分の拘りを捨て去る時期なのだ、と。思った。
まだまだ、拘りを簡単には捨てられなくて、悩み込むことが多いのだけれど、でも、悩むだけ悩んだら、否、考えるだけ考えたら、もうそれも手放してしまおう。延々考え込んでしゃがみこんでいる時間はもう、あまり、ない。行動できるうちに、自分の生き方を全うできるうちにしっかり行為しておこう。 そんなことを、思ったら、髪の毛に対する拘りも、ちょっくら手放していいかな、と。いやまた伸ばすのだろうけれど、とりあえず今、切っておいていいかな、と。
そして今、珈琲が美味しい。夜が更けゆく。 |
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