ささやかな日々

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2022年09月24日(土) 
紫陽花の挿枝。何本やったのかもう忘れてしまっているのだけれど、無事育っているのは4本。うち1本はすでにかなり大きい。また、1本はすでに花をつけている。この花が何故か青ではなくピンク色で。あれ?あれれ?となっている。
私が頂戴して挿した枝はすべて青系の花を咲かせていた。白も1本あった。間違いなくピンクの花の枝は選んでいない。徐々にピンク色に花弁を染め始めている子を見つめながら、じっと考える。
要するに土が、我が家の土が、ピンク色を咲かせるのだな、と。そうしてちょっと調べてみたら、イマドキは「青い紫陽花の土」なるものが販売されていることを知る。吃驚した。そんなお手軽にできてしまうものなのか。
そういえば昔々、私が子供の頃、ピンク色の紫陽花の株の下には死体が埋まってる、なんて、まことしやかに云われていた。学校の帰り道に友人と紫陽花の花を見つけては、あそこ怪しくない?なんてふざけて言い合っていたことを思い出す。
残念ながら我家のプランターは死体を埋めるには小さすぎて、要するに埋まっていないのだけれど、それにしてもきれいにピンクになるものだな、と感心している。これはこれで悪くないかも、なんて思うくらい、鮮やかにピンクになり始めている。
しかし、だ。やっぱり私は青系白系が好きなのだ。そしてこの子を私がここに挿したのも、この子が深い青だったからで。
結局、私は通販サイトで「青い紫陽花の土」を購入した。本当なら、あれやこれや試行錯誤して、つまり苦労して、土を作り上げてやるのがいいんじゃないかななんて最初思ったのだが、要らぬ苦労をする必要はないよな、と、ようやっと思えるようになったらしい。ポチって、ちょっとの罪悪感を噛みしめながら、土が届くのを待っている。

それにしても、寝込んで以来、骨盤周りが痛む。身体をどちらかに傾けると途端に激痛が走るという具合。左肩も半端なく凝ってしまって、要するに、痛む。テニスボールでケアは欠かせない。その他、整骨院の先生から習ったストレッチも、せっせと為している。が、全然追いついていかない。痛みが止まらない。
今日ようやく整骨院の日で。「先生ごめんなさいー!」とのっけから頭を下げる。先生がにやりと笑って、どうしたんですかと訊いてくるので、かくかくしかじか、と説明する。そうして始まった今日の施術は、とにかく痛かった。次回はちょっと早めに来てね、それからもし途中で痛みが強くなったら電話ちょうだいね、と約束させられる。軸をいじったから、こちら側が筋肉痛になるかもしれないからね、とも。
この先生でよかった、とつくづく思う。

身体のことなんて。ずっと、どうでもよかった。むしろ、邪魔だった。こんな身体じゃなければ私はずっと生きるのが楽なんじゃないかと思ってるところさえあった。そのくらい、自分の身体が嫌いだった。
十代の中頃、母に「あんたは一体誰に似たんだか」と云われたことがある。母はスレンダーな美人だった。その母から私は産まれた筈なのに、私は骨太で筋肉もしっかりしていて、ようするにガタイがよかった。華奢で女性らしい母とはまったくの正反対のところにいた。正反対という自覚はちゃんとあった。でも、母に身体のことを揶揄されるのは、いつだって辛かった。母の言葉は、どんな時も容赦がなく、まるでアイスピックのように私に突き刺さって来る代物だった。好きでこんなふうになったわけじゃない。母の言葉をぐさぐさと受け止めながらいつも、そう思っていた。こんな身体、嫌いだ、とも。
二十代、被害に遭い、自分の身体は一層汚らわしい代物になった。私の解離が酷いのは、もともと自分の身体に執着がなさすぎるというのも影響してるんじゃないかと思えるくらい、私は自分の肉体という容れ物に嫌悪感以外ない。
でも、この、嫌悪感いっぱいの身体で私は妊娠出産した。切迫流産から始まり前置胎盤、早期陣痛などなど、異常続きの妊娠だったから、四六時中絶対安静で、妊婦を楽しむ隙間なんてこれっぽっちもなかった。こんな身体で新しい命を産んで、本当にいいのだろうか、と何度も思ったことを思い出す。怖かった。とにかく、怖かった。
我武者羅に子育てしてたから、三十代は身体のことなんて振り返る間もなかった。四十代、再婚し妊娠した、そこでようやく、自分の身体の頑丈さに足を止めた。そしてこの頃ようやっと、常に常にあった身体の痛みに、「痛い」とはっきり意思表示できるようになった。ここでSS先生と出会ったことも大きい。私の身体痛を見かねたSS先生が、毎週のように身体背面を中心に何十か所もブロック注射を打ってくれた。ああ、手当してくれるひとがいるのだ、と、その時ようやっと気づいた。テニスボールのケアを教えてくれたのもこのSS先生だ。
身体なんて。
私が自分の身体を好きになれる日は、来ないのかもしれない。でも、最近思うのだ。この頑丈な身体のおかげで、私はここまで生き延びて来れたのかもしれないな、と。好き、にはなれないけれど、この身体をちゃんとケアしてやらねばな、と思うことは、できるようになってきた。この頑丈な身体がなければ、ここまで生き延びて来れなかったかもということは、出会えないままで終わっていたかもしれないひとたちがいっぱいいるのだ、ともいえるわけで。ああ、ありがたいな、と思うのだ。

私たちはつい、心にばかり比重を置きがちだ。でも。その心の叫び痛みは、必ず身体の痛みに繋がっている。身体の異常にまず気づくこと。でも、これに気づくには、気づけるだけの余力がなければならないわけで。要するに、心と身体のバランス、というものが大事なのだ、と。どちらかだけ、じゃだめなのだな、と、知る。


浅岡忍 HOMEMAIL

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