2022年08月26日(金) |
とある監督の映画が上映中止(延期?)になったと知った。知人が予告編を作った映画で、上映直前であったものが、今の状況で上映することはよろしくないということで、決断されたという。あまりに見事にその決断がなされたので、それを知った時私は、正直に言うときょとんとしてしまって、実感がもてないくらいだった。 ああ、こんなことがあり得る世の中になったのか、と、その時改めて、思い知らされた気持ちがした。 呆然と、目の前で起こっている事達を改めて眺め、つくづく思った。最近の、性被害に対しての世間の有様に、私はきっとついていききれないのだ、と。私が被害に遭った頃とは全く、手のひらを返したかのような状況で、「これは何なの? 一体どうなっているの?」と、半ば驚いてしまっている、呆然としてしまっている自分がいることに改めて気づかされた。 大きな変化がおこる時、ひとはそんなふうに、呆然としてしまうことがあるのかもしれない。 予告編を作った知人が、「こうあるべき」と、「これは最良の判断」というような思いを書いていて、それにもまた、私はぼーっとしてしまった。ああ、この決断が最良の判断と言われるようなところまで、社会はようやっとたどり着いたのか、と。 本来、そうであるべきなのだと、そう思う。が、長いこと、そうじゃないところで生きて来てしまった私は、今の状況に半ば取り残されているのかもしれない。 そのことを、思い知る出来事だった。
と同時に強く思うのは、「正義」を掲げて声高に訴え出ることだけがいいことではない、とも。その声に圧し潰される声が必ずあることも、思うのだ。本来その、かそけき声をこそ丁寧に拾い上げることが大切なことであったはず。そのことを、忘れないようにしようと改めて思う。
通院日の今日、心底疲れた。考えなければならないことが目の前に山積みになっている気がした。途方に暮れたい自分がいた。でも、ここで途方に暮れていたらきっと、私は閉じてしまう。
何故、どうして、私が被害に遭った頃そうであってくれなかったのか、と、嘆いて悲鳴を上げたくなる自分もいるのだ。何故どうして、どうして、と。私のこの二十何年は決して、戻って来てくれはしないから。 でも、そんなふうに嘆きたいわけじゃないのだ。本当は喜びたい。ああ、ようやくここまできたのか、よかった、と、素直に呼吸できる心持ちであれたら。 だから今、ここで閉じるわけにはいかないのだ。荒ぶる心の扉をそのまま、何とか必死で抑えている。閉じてはならぬ、と。必死に保っている。 私は本来、心が広い人間なわけじゃない。とても狭い。許容量なんてたかが知れている。だからこそ。
今ここで閉じるわけには、いかないのだ。 |
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