2022年08月15日(月) |
昨夜、Aちゃんが釣ってきてお裾分けしてくれた鰤や鯖を捌いていたその最中に、蝶が羽化した。もちろん気づいたのは息子。母ちゃん!見て!翅拡げてる!ちゃんと翅が拡がってる! 二匹の蛹が羽化に失敗してしまった後だったから、息子のその声は半ばうわずっており。「もう逃がしてあげよう、籠から出してあげよう、ね?ね?!」とそれは悲鳴に近い声だった。 蛹の位置が悪くて、二匹とも翅が折れてしまった。そのせいで飛べないどころか体の位置を保つこともできず死んでしまった。そういうことがあり得るとは覚悟していたものの、それでも息子にはそれがたまらなく辛かったのだろう。翅を今目の前で拡げている子だけは、その子の命だけは絶対僕が守る、と、そんな決意が見てとれた。 籠の蓋を開けると途端に部屋の中に飛び出した子。でもまだ羽化したばかりのはず。実際不安定極まりない飛び方をしている。息子が慌てて虫捕り網を持ってきたので本棚の上に逃げ込んだ子を何とか捕らえ、急いでベランダに出す。何処がいいかな何処にする??息子の声は相変わらずうわずっている。私が、じゃあ一番手前の薔薇の樹にしよう、と薔薇の樹の枝に蝶をくっつける。蝶は必死に足を枝に絡ませ身体の位置を定める。 カラスアゲハと思っていたがよく調べたら、クロアゲハだった。後翅にオレンジ色の紋模様があるということはメスか。私があれやこれやぶつぶつ言っていると、息子が一言、どっちでもいいじゃん、ちゃんと翅拡がったんだもん、もうそれでいいじゃん、と鼻水を垂らしている。そうだね、ほんとに。ほんとにそうだ。うん。 写真を一枚、撮って、窓を閉めた。 朝見に行くとまだそこにアゲハ蝶はいて、息子はそれはそれで心配を始める。ちゃんと飛べるんだろうか、何処か傷ついてるんじゃなかろうか、大丈夫だろうか云々。まるではじめての赤子に戸惑っている父親のようだなと心の中苦笑する。私が洗濯物を干しにベランダに出ようとしたその瞬間。 飛んだ。飛び立った。 風に煽られるかのような姿で、ふわっと風に押され、その直後、風に向かっていくかのような態勢で飛んでいった。あっという間に見えなくなった。息子は、がんばってねー、とベランダから手を振っている。もうどこに飛んで行ったか分からないけれど、でもきっと、気持ちは届いたに違いない。 蝶よ、君の旅路は短いのか長いのか、そのどちらでもないのか私には分からない。どちらでもいい、どちらでもいいから、精一杯生きてくれ。命のバトンを繋いでゆけ。
午後、暇を持て余している息子と映画を観に行く。TANG。私は途中うとうとしてしまったのだけれど、息子は夢中になって観ていたようで、観終えた後、「ケンはタングのために、タングはケンのために」だったか、映画の中の台詞を好んで繰り返し唱えている。「こんな声色だったよね?」と首を傾げながら唱えるものだから、その仕草だけでタングに重なってかわゆく見える。
「母ちゃん、この蜜柑の芽、いつ大きくなる? いつ樹になる? 来年に間に合う?」。飛び立った蝶がメスだったことを知った息子が何度も私にそう訊いてくる。来年には間に合わんなあさすがに。植物が、とくにこういった子たちが太くたくましく育つには、何年か時間がかかるものなのだよ息子。私がそんなことをつらつらと応えると、息子が一言、大丈夫、絶対あの子は帰って来る、ここに帰って来るよ、と。そうか、だといいなぁ息子よ。 名無しの権兵衛たちのプランターに水をやりながら夕空を見やる。みなが南西の風に揺れている。樹たちの生きる速度と、蝶のそれと私たち人間のそれとは、まったくもって速度も何も異なっている。それでも。 名無しの権兵衛だろうと名がある子だろうと、自分のテンポで育ってくれればそれでいい。みんなそれぞれに、自分の速度、自分の術がきっとある。 |
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